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1巻

1-2

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 そこでシャニは「男に興味のない男」を味方につけた。ダグラスとの決闘もその一環だ。彼は幼いながらに「女好き」で有名だった。ダグラスはシャニを「強い男」として敬愛してくれたが、それが性欲に変わることは一度もなかった。
 その他にも、できるだけ高潔で、たくましく、味方が多く、男たちに慕われている将校の派閥に属するようにもしていた。彼や彼の仲間とともにいると、まったく……ということはないが、手を出そうとしてくる男は目に見えて減った。それは海軍で生きていくための、シャニなりの処世術であった。

「でもせっかく守ったその処女を、狼なんぞに散らされるとは……お気の毒様だな」

 男の、あからさまに馬鹿にした言葉に、シャニは唇を引き結んだ。
 なんと反論しようと、貢物であることに変わりはない。

「俺は、俺の務めを果たすだけだ」

 それだけ言って立ち上がると、男が少しだけ目を大きくして、次いで細めた。

「本当は、自分のこと『俺』って言うわけだ。実に男らしいねぇ」

 気持ちの揺れが一人称に出てしまった。シャニはなにも言わずに男をにらみつける。

「はっ、だがよかったな。……あんたは、尻を掘られる前に死ぬ」

 突然、がらりと声の調子を変えて、男がシャニの目を見返す。たとえ身分は低いとはいえ、王子であるシャニに「死ぬ」などと言うなんて、死罪ものだ。
 シャニは素早く周りに視線を送る。が、他の護衛たちは馬の世話に行っているらしく、誰も見当たらない。どうやら目の前の男がシャニの見張り役らしい。

「なぜ、俺が死ぬ」
「そりゃあ、ザノゥサをあなどったからだ。あんたじゃなくて、あんたの父親がね。その代償に、きっとあんたは殺される」

 ザノゥサ、という言葉にシャニは目を細める。男は淡々と言葉を続けた。

「ザノゥサはただの狼じゃない。賢く、強く、そして誇り高い。自分たちがあなどられたことを、決して許しはしない」

 男はひと言ひと言区切るようにそう言って、薄ら笑いを引っ込めた。

「あんたがどんなに美しかろうと、男は男だ。ザノゥサが求めたのは嫁。子をはらめる女だ。約束をたがえたユーディスティを、ザノゥサは許さない。ユーディスティの守護はなくなり、数年後には地図から消えている」

 シャニは視線を逸らせず、男を見つめるしかなかった。
 嘘偽りを言っているようには見えないし、シャニを馬鹿にしようという意思も、もう感じられない。彼は本気で、ザノゥサを恐れている。

「君は、ザノゥサを知っているのか?」

 シャニは改めて男を見る。上から下まで護衛の服を着た彼に、目立った特徴はない。

「俺はここからもっと北に登った里の出だ。ザノゥサのことなら青鷺城で波の音を聞いてるだけの連中よりよく知ってるぜ」
「ここより北……、デレクの里だな。名は?」

 頭の中で地図を広げて里の名前を告げると、男は感心したように短い口笛を吹いた。しかし一瞬の後には薄ら笑いを取り戻す。

「イーサン。イーサン・ナッシュだ」
「なるほど、デレクの出だから護衛に選ばれたんだな」
「あぁ。数年に一度、貢物を捧げる時にだけ駆り出されるんだ。海の男たちは山の歩き方を知らないからな」

 肩をすくめるイーサンに、シャニは「だろうな」と内心で同意する。実際シャニは、雪山を歩くのに靴を替えることすら知らなかった。
 おそらくこうやってザノゥサへの貢物を贈る際だけ、山間部出身の者が護衛兼道案内として選ばれるのであろう。

「イーサン・ナッシュ、君の忠告はしかと胸に刻んだ」

 頭の中に、雪山に立つ狼の群れを思い描く。
 イーサンの話が本当であれば、彼らは間違いなく山脈で他国の侵攻をはばんでいた。

「忠告というか、事実だ。多分山に近い俺の里が一番に他国の奴らに略奪され、燃やされるだろうからな。ま、恨み言だ」

 なるほど、とシャニはうなずく。
 イーサンは姫を送ってほしかったのだ。ザノゥサの力を信じる彼だからこそ。そしておそらく、シャニを恨んでいる。「自分ではなく姫を送ったほうがいい」と強く抵抗しなかったシャニを。

「逃げろよ」
「なに?」
「あんたがここで逃げ出せば、王は姫を贈るかもしれない」

 イーサンは真剣な目をしていた。その奥には、怯えとこんがんが見え隠れしている。シャニは瞬きもせずに彼のその目を見つめ返してから、ふ、と顔を逸らした。

「それはない」

 シャニははっきりと首を振った。すでにザノゥサをあなどった王が、彼らに姫を渡すことは絶対にない。それだけは断言できた。たとえここで王都に取って返して「ザノゥサへの礼を欠いてはならない」「彼らが山脈を通る他国の兵を見過ごせば、ユーディスティは背中から討たれる」と進言したところで、鼻で笑われるだけだろう。
 シャニの答えを聞いたイーサンは、舌打ちをして地面を蹴った。
 彼もまた、故郷を、そしてユーディスティを守りたいと思っているのだ。シャニはちらりと彼に視線をやってから、真っ直ぐに前を見た。

「しかし、君の言うことはわかった」

 ザノゥサが約束をにして山脈を通る他国の軍を見逃したら、ユーディスティはあっという間に乗っ取られてしまう。
 シャニの脳裏に、青鷺城の、小さな一室に住まう女性の顔が浮かぶ。いつだって夢見るように窓辺にたたずみ、ただただ自分を幸せにしてくれる男の訪れを待つ美しい女……ジャクリーン。
 彼女から愛を得ることはできなかったが、シャニのほうは報われない愛をずっと抱いている。もはや、呪いのようなものかもしれない。
 彼女にだけは、いつでも夢を見ていてほしい。柔らかなドレスに身を包み、いい匂いをさせ、ふわふわと微笑んで。
 イーサンと同じように、シャニにも守りたいものがある。

「ザノゥサにふさわしい嫁であればいいんだろう」

 シャニは真っ直ぐに前を向いた。
 視線の先には、白い雪に覆われた山々が、神々の椅子のようにそびえ立っている。

「私が」

 ザノゥサが嫁を求めたのなら、「そう」あればいい。彼らの求めるものになろう。
 男であることはくつがえせないが、男でも嫁にはなれるかもしれない。
「正気か」と鼻で笑うイーサンの声を背中に受けながら、シャニはたしかな足取りで前に歩き出した。


   *


 当たり前だが、山を登れば登るほど雪は深くなり、そして気温は下がっていく。
 幸いにして天候には恵まれたため、馬は進められた。最北の里デレク出身のイーサンの先導のもと、シャニたちは頼りない足つきでどうにか「約束の丘」へ向かった。
「約束の丘」とは、ユーディスティの初代国王と当時のザノゥサの長が約束を交わした場所だ。ここで、ザノゥサは山を越えて迫りくるきょうの排除を、そしてユーディスティはその行いにふさわしい報酬を、それぞれ与えんと誓い合った。

「はぁ」

 白い煙のような息を吐いて、シャニは雪原の中の、その大きなくぼみのような場所を眺めた。

「ここでいいのか?」

 リーダー格の護衛が、づなを引いて馬を止めたイーサンに声をかける。

「あぁ、ここが『約束の丘』だ」
「しかし、狼どもはいないようだが……」

 きょろ、とあたりをうかがうように首を巡らせた護衛を、イーサンが鼻で笑った。

「もうずっといるさ。山に入った瞬間から、俺たちはずっと見張られている」
「は?」

 ぽかんと間抜けな顔をする護衛と同じように、シャニもまた内心で驚く。そして、忙しく周囲へ視線をやった。
 と、その時。
 くぼんだ大地のその上、ぐるりと囲む切り立った雪原の縁の向こうから、ヌッ……と音もなく「なにか」が現れた。

「ひっ!」

 馬が怯えたようにいななき、各々それをなだめる。シャニも「どう、どう」と馬の顔を撫でながら、視線だけは上に向ける。

(狼だ)

 は、は、と白い呼気が短く途切れないことで、シャニは自分の息が上がっていることに気がついた。
 くぼんだ土地をぐるりと囲むように、何頭もの狼がその姿を現した。色は、灰色や黒が多いだろうか……皆それぞれ、シャニたち一行を見下ろしている。間抜けにあごを上げたまま、右へ、そして左へ視線を走らせる。こんなにも多くの狼を一度に見たのは初めてだった。ずらりと並んだ獣の姿は壮観であり、また、どうしようもない恐れを抱かせる。

(長は……、彼か?)

 その中でも、ひときわ目立つ狼がいた。白銀の毛に、淡い金色の毛が混じっている。光の具合か、艶々つやつやと発光しているようにすら見えるその毛並みを、目を細めて見やる。向かって右手には黒い毛の、左手には淡い灰色の毛の狼が控えており、堂々たる風格でシャニたちを見下ろしていた。

「我が友ザノゥサの狼たちよ」

 護衛の先頭に立つ男が、馬から降りて狼たちを見上げる。たくわえたひげには氷の粒が見える。はぁ、と白い息を立ち上らせながら、男は続けた。

「我らはユーディスティの使者である。約束の品の献上に参った」

 男の合図で、馬に引かせていた荷物が次々に雪原へ下ろされる。そして、シャニも腰の紐を引かれた。シャニは馬を降りて、荷物の横に立つ。ユーディスティの男たちはちらちらと互いに視線を合わせながら、シャニから離れていった。
 男たちが距離を取ったのを確認してから、狼がザザザ……と雪を跳ねさせながら下りてきた。
 シャニはなにも言わず、その場に立ちすくむ。ここに来る直前、頭に布を被された。ちらりと覗く顔だけなら、ほんの一瞬なら男女の区別がつかないかもしれない。なにしろシャニはジャクリーン譲りの美貌だ。しかしそんなもの、その場しのぎにすぎない。シャニの体はどう見ても男のそれだ。

(しかし狼に、人間の雄雌が見た目でわかるのか?)

 疑問に思いながら、シャニはそれでもできる限り胸を張った。今さら自身が男である事実は変えられない。

(もし拒否されたとしても、どうにかすがるしかない。幸いにして人間の言葉はわかるようだから……)

 ――ドッ。
 思考の途中で、体に重みを感じた。
 次の瞬間、目に入ったのは灰色の空であった。重そうな雲が垂れ下がり、隙間からかろうじて青い空が覗いている。しかしそれも、すぐにさえぎられた。牙を剥き出しにした、狼の顔で。

「グゥゥウウ」
「は……っ」

 地を揺らすような低い唸り声が、シャニのの毛をゾワッと総毛立たせる。空気に保有できなくて細かな水滴となった白い息が、狼の毛を撫でるように立ち上っていた。
 シャニは音もなく飛び掛かってきた狼に、押し倒されていた。

「はっ、……はっ!」

 声が出ない。漏れるのは情けなく震える息だけだ。金眼が射抜くようにシャニを見ている。シャニを押し倒しているのは、長の横に控えていた灰色の狼のうちの一頭だった。かくするように何度も低く唸っては、時折弾けるように「ウォウッ」と鳴く。シャニは目を逸らすこともできず、自身の上で陣取る狼の顔を見つめていた。

「うわぁあっ!」
「ギャアッ!」

 男たちの悲鳴、そして馬のいななきが聞こえて、体を押さえつけられたまま、視線だけでそちらを見る。狼のうちの一頭が、シャニの乗っていた馬の喉元に飛び掛かっていた。
 馬は高く前脚を上げ、あっという間に地面に倒れ伏す。それを見た男たちは自身の馬に乗ったままづなを引くが、みるみるうちに狼に囲まれて、悲鳴を上げていた。連鎖するように次々と居並んだ狼がほうこうし、怯えた馬が暴れるように走り回る。一瞬だけ、イーサンの横顔が見えたような気がしたが、馬や狼の足で巻き上げられた雪にはばまれ、それも見えなくなった。
 男や馬たちは狼に追い立てられ、転がるように雪山の斜面を下りていく。狼たちは本気で食い殺す気はないのだろう。ただかくするように何頭かが並走して吠えているのが遠くに見えた。

「グガゥッ!」

 注意を逸らしたことをとがめるように、頭に被せられた布を牙で噛まれて引き剥がされる。狼が強く振ったせいで、頭がぐらぐら揺れてとっに焦点が定まらない。冷たい風に布がはためき、端から飛んでいく。

「ぐっ……」

 うめきながら顔を上げる。白い世界の中、何頭もの狼がシャニを見下ろしているのが見えた。視界の端に、首から血を流す馬を映しながら、シャニは目の前の狼を見る。
 自分を押さえつける狼ではなく、その先にいる、白銀の狼を。
 彼はジッとシャニを見ていた。
 ザノゥサの反応を見るに、シャニが男ということはあっさりと露見してしまったのだろう。そしてそれは、狼たちを大いに怒らせた。シャニの乗ってきた馬は殺され、貢物を持ってきた男たちは追いやられた。殺しはしていないと思うが、どうなったかシャニにはわからない。

「ザノゥサの、長」

 銀白に金の毛を持つ狼。おそらく彼がこの群れの長であり、そして、シャニをめとるはずの長だ。押さえる布のなくなったシャニの亜麻色の髪が、風に巻き上げられる。目の前の狼は、噛み殺さんとばかりにシャニの首筋の付近に口を持ってきている。彼が低く唸る音が、喉のあたりから伝わってきそうな、そんな距離だ。
 しかしシャニは、たなびく髪の隙間から真っ直ぐに長だけを見つめていた。

「我が君、我が海照らす灯よ」

 荒い息の合間、シャニは寒さに震える声で長に向かって「我が海照らす灯」と呼びかけた。
 海照らす灯、とは海の国ユーディスティにおいて「なにより大事なもの」という意味を持ち、転じて夫や妻を指す言葉となった。暗い海を行く船において、一筋の灯りはなにものにも代えがたい救いだからだ。
 つまり、自身は長の夫であり妻である、とシャニは主張したのだ。人間の言葉を理解するザノゥサには、きっと意味が伝わるだろうと希望を込めて。
 長はぴくりと耳を跳ねさせただけで、なにも言わなかった。シャニに覆いかぶさる灰色の狼が「ふざけたことをっ」とでも言うようにさらに唸り声を低くして、シャニと鼻先を突き合わせた。湿ったその感触に、シャニは眉をひそめる。
 緊迫した空気の中、長がひと声鳴いた。低く、しかしよく通るその声を聞き、狼たちが耳を立てる。そして、シャニの上から灰色の狼が退いた。
 ほ、と息を吐いて、シャニは用心しながら身を起こした。右を見れば、鮮血を流しながら倒れた馬がいる。自身もそうなるかもしれなかったことに気づき、ゾッとしながら長に視線を移した。

(貢物として、認められた……のか?)

 押さえつけられたことで乱れた防寒具を整えながらも、シャニは長から目を離さない。注意深く、その行動を見守った。
 長はあごをしゃくるようにして指示を出し、従順な狼たちはユーディスティからの貢物の紐をくわえて荷を運ぶ。仕留められた馬もまた、呆気なく引かれていった。雪の上に残る血の跡すら、狼たちは後脚で消していく。

(なにを)

 一瞬、ほんの一瞬だけ長と視線が交錯したような気がしたが……それだけだった。長はあっという間に身をひるがえし、同じく狼たちもそれぞれの役割を果たしながら小高い山の向こうに消えていく。
 はっ、と我に返った時にはすでに遅かった。

「待て……」

 よろめきながら立ち上がるも、狼たちはそんな呼びかけなど聞こえないかのように駆けていく。一番近くにいた灰色の狼は、シャニに向かって後脚で雪を蹴りつけてきた。

「うっ!」

 思わず両手を顔の前で腕を交差させる。次に目を開けた時には、視界から灰色の狼すら消え失せていた。

「……待ってくれ!」

 残されたのは、シャニと……宝箱たったひとつだった。まるで「必要ない」とばかりに打ち捨てられて、シャニは二、三歩前に進んで、足を雪に取られてその場で転んだ。海の上では、どんなに船が揺れようと無様に転ぶことはなかった。しかし、雪は別だ。歩くことすらままならない。

「はっ、は、……はぁ」

 腕を雪の中に置いたまま顔を上げる。
 右を見ても、左を見ても、あたり一面雪に覆われている。狼も見当たらないし、それより前に逃げた護衛たちの姿もない。もしかしたら、斜面を転がり続ければふもとに着けるかもしれない。
 シャニは山を見上げ、斜面の下を見下ろして、そしてもう一度、狼たちが消えていった方向を見やった。

(駄目だ)

 シャニはのろのろと立ち上がって、溜め息をつく。山を下りられる可能性があろうとも、ここで逃げ帰るわけにはいかない。
 逃げたらその時点で、シャニは貢物ではなくなってしまう。すでにかなりザノゥサを怒らせているようだが、シャニはまだ生きている。生きていれば、なにかしら挽回できる機会が巡ってくるはずだ。

(生きてさえ、いれば)

 先ほど馬の血の跡を消していた行動から見るに、ザノゥサは用心深い。たとえシャニを「このままここでのたれ死ねばいい」と見捨てたとしても、死体をそのままにはするまい。きっと数日後には死んだことの確認、そして死体の処理に現れるはずだ。

「はぁ」

 見渡す限りなにもない雪原だが、狼たちが生きていけるだけの食糧はある。この山のどこかに生き物はいるのだ。
 シャニは空を見上げて太陽の向きを確認する。まずは日が傾く前に、吹きさらしでない、身を置ける場所を確保すべきだ。
 シャニはしばし空を見上げ、込み上げてくるものをすべてのみ込んでから、ゆっくりと歩き出した。



   三


 雪山に捨て置かれてしまったが、運がよかったことがみっつある。
 まずひとつ目は、「約束の丘」からほど近い場所に洞穴を見つけたことだ。
 かなり奥まった造りになっているそこは、雪をしのぐことができた。もしかするとそこは先人たちが掘った人工的な洞穴かもしれない……とシャニは考えた。天然のものにしては奥に行くほどやけに天井が高くなっていたからだ。まったく、というわけではないが、寒さをしのぎやすく火も焚きやすい。人がいた痕跡は見つけられなかったが、とにかくシャニはそこに自身と、そしてひと箱だけ残された貢物の箱を担ぎ込んだ。
 ふたつ目の幸運は、その箱だ。
 中には金銀で宝飾された武器が入っていた。もちろん実用品ではなく飾り武器でしかない……が、使えないことはない。シャニはその中にあった斧で生木の枝を折って焚き木にした。雪で濡れた枝は火がつかないが、生木は別だ。特に油分を多く含む種類の木であれば濡れていても燃える。
 洞穴の中は人間が三、四人入れそうなほどの広さがあった。火を焚き、入り口に布を垂らしてはみたが、寒さがすべて防げるわけではない。
 防寒具の中に着込んだ服まで湿っていると、火がなければひと晩と経たずに凍りついて凍死してしまう。シャニは濡れた服をできるだけ優先して乾かし、また、拾ってきた枝葉も乾燥させるように努めた。飲み水は雪をしゃふつすればいくらでもできる。とりあえず、しばし命を繋ぐだけの準備は整えた。

(海の上でも、水はなにより大事だったな)

 あれだけ水に囲まれた海の上でも、飲み水がなければ生きていけない。飲み水の確保は航海において最も重要な事柄のひとつであった。
 金の皿の上でふつふつと沸き出した湯を見つめながら、シャニは海での出来事を思い出す。しかし今はもう、そのなにもかもが遠い。
 心に浮かんだ虚しさを打ち消すように、シャニは手元の弓矢に意識を向けた。この弓矢が、今のシャニの生命線なのだから。

(あと少し削っておくか)

 みっつ目の幸運は、箱の底に金色の弓と数本の矢が入っていたことだ。
 シャニは弓の名手であった。船における戦闘でも、その腕で何度も危地を逃れてきた。

「ふっ」

 やじりに溜まった削りかすを息で払い、細く鋭く整えていく。細くとも、獲物の心臓を貫く自信があった。何度も何度もナイフでやじりを磨くように削る。

(まさかこんなところで弓の腕が役立つとはな)

 シャニが弓矢を初めて手にしたのは、七歳の時だった。
 王の息子たちで弓の腕を競い合う小さな遠的大会に参加することを許されるのが、その歳だったからだ。
 その頃には、シャニは自身の立場というものをよく理解していた。なにしろ黙っていても周りが教えてくれるからだ。特に正妃の息子たちは「顔だけで選ばれた頭が足りない女の子ども」「身分もない恥知らずの子ども」「お前なんて畜生と同じだ」と、からかうようにシャニを馬鹿にした。
 子どもというのは、身近な大人の言っていることを真似する。誰が彼らの前でそれを言っていたのか、今ならばわかる……が、当時はただ悔しくて、苦しくて、「どうして自分ばかりがこうも責められるのか」とただただ悲しくて仕方なかった。
 だからこそ、シャニは兄弟での大会に全力を注いで臨んだ。馬鹿にされた王子である自分が優勝をかっさらい、ひと泡吹かせてやろう……と、そう考えたのだ。
 最初は弓を前に飛ばすこともできなかったが、それでも諦めなかった。誰も教えてなんてくれないので、たった一人で黙々と練習にはげんだ。豆ができて潰れて、手や指が血だらけになっても。それでもシャニは弓の練習をやめなかった。
 自身が勝った時の、兄弟の驚き悔しがる顔が見たくて。そして喜ぶ母の顔を見たくて。
 結果、シャニは最年少ながら優勝した。兄弟の中で誰よりも遠くの的を正確に射ることができたのだ。
 しかし待っていたのは、兄弟の「ズルだ! お前が勝てるはずがない! 弓に細工でもしたんだろう!」というとうと、父の興醒めしたような顔。そして一番見てほしかった母は「私、こういう野蛮な催しに興味ないのよね」とすでに席を立っていて、笑顔どころか顔を見ることすらかなわなかった。
 シャニは誰に褒められることもないまま、むしろ「優勝をもぎ取るためにズルをはかった」として優勝の証である盾も取り上げられた。
 翌年、シャニは与えられた他の兄弟よりざつな弓で、それでもまた優勝を果たした。それ以降、ユーディスティ王家の王子たちによる遠的大会は中止となった。その理由は「どうしても『ズル』をやめない者がいたから」だ。
 結局、優勝の証がシャニの手に入ることはなかったし、兄弟に「凄い」と言われることも、父に「よくやった」と認められることも、母に「頑張ったわね」と褒められることもなかった。残ったのは、毎日の練習でつちかった弓の技術だけだ。
 大会がなくなっても、シャニは弓の練習を続けた。身につけたその技術だけは自分の期待を裏切らないと知ったからだ。
 そうしてシャニはいつしか「ユーディスティ海軍一の弓の名手」と言われるまでになった。数々の大会で賞を獲り、武功を立てて、賞賛されて……

(けれど、俺が本当に欲しかったのは)

 ぱち、と木がぜる音を聞いて、シャニは自分の手が止まっていたことに気づく。せっかく二カ月かけて綺麗に仕上げられた指先だったが、すっかり汚れて擦り傷だらけになってしまった。まぁザノゥサの狼が、今さらこの指先を気にかけることはないと思うが。
 シャニは汚れた手を開いて、じっとそこを見下ろす。シャニが欲しいものはいつだってその手に掴むことはできず、すり抜けて落ちていく。
 シャニが欲しかったのはあの時取り上げられた小さな盾と、母の笑顔だ。だがそれは、もう一生手に入らない。

(……ならば)

 望むものが手に入らないのであれば、せめて手の中にあるものを離さないようにしなければならない。
 望んだわけではないが、シャニはザノゥサへの貢物となった。案の定、彼らの怒りに触れてしまったようだが、あぁ無念、とただ諦めて死を待つだけの存在にはなれない。

(きっとまた、彼らと接触する機会はあるはずだ)

 一人雪山に捨て置かれても、シャニは諦めない。みっともなくとも、情けなくとも、自分の役目を果たさねばならぬ。

(生きていれば、道は開ける)

 胸の中の夜空に一等輝く星のように、母の美しい顔を思い浮かべる。それだけでわずかながら体が温まるような心地がした。
 結局、母しか寄る辺のない自分が悲しくもあったが、実際シャニにはそれしかないのだ。ただ、それしか……


   *


 石壁につけた四本の縦線と一本の横線を引いて日数を数えていく。
 雪は降ったりやんだり、時に吹雪ふぶいたりを繰り返していた。しかしたとえ晴れ間が覗こうと、雪が溶けきることは決してない。
 シャニは兎や鹿を狩って、どうにか生き延びていた。慣れぬ雪の上での行射であったが、ふんばりどころを間違えなければ問題はなかった。寒さで手がかじかむのだけはいただけなかったが。
 外に出るのは狩りと焚き木の材料集めの時だけにして、後は体力を消耗しないように気をつけた。雪がひどくなって洞穴にこもることになったら、それらの確保もままならない。ただ黙々と、命を繋ぐためのものだけを集め続けた。
 幸いにして、山を少し下ったところに川が流れており、獣たちがそこを水飲み場としているようだった。おかげで狩りはうまくいったが、何度も繰り返すと彼らも警戒する。あまり狩場を絞りすぎないように、そして無闇に殺さないように気をつけながら、シャニは淡々と日々を過ごした。


 それは、シャニが雪山に捨て置かれてから十日経った日のことだった。
 その日もまた、シャニはいつも通り必要最低限の行動を雪山でこなしてから、日が高いうちに洞穴に戻り、雪を掘って手に入れた野草や木の実を処理していた。肉を食うだけでは、人間は生きていけないからだ。
 処理を終えて沸かした湯に浸した布で汚れた体を拭って、草木を敷いた寝床に身を横たえたその時……、洞穴の入り口のほうから冷気を感じた。
 なにかが、入り口にかけた布を揺らしたのだ。
 とっに絶えず身につけているナイフを構えて起き上がった……が、やがてそれを体の脇に下ろした。
 ひたひたと静かな足音を立てて現れたのが、二頭の狼だったからだ。

(ザノゥサの、……長!)

 二頭のうちの一頭は、ザノゥサの長だった。十日前に見た時と同じ、白銀の豊かな毛をなびかせてシャニを見つめている。その後ろには、黒々とした毛を持つ狼がいた。長に負けず劣らずの巨体を見るに、おそらくは雄だろう。
 じ、と長の金色の瞳を見つめると、なぜか彼はふいと目を逸らした。どこか気まずげにも見えるその仕草を不思議に思ったが、シャニはそれを問える立場にない。
 シャニはためらうことなくその場に片膝をつき、頭を垂れた。

「久しくございます、我が君」

 そう呼びかけると、目を逸らしていた長がバッと顔をシャニに向けた。グゥウとかくするような唸り声も聞こえたが、あえて無視をする。


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今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜

飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。 でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。 しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。 秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。 美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。 秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。

転生令息は冒険者を目指す!?

葛城 惶
BL
ある時、日本に大規模災害が発生した。  救助活動中に取り残された少女を助けた自衛官、天海隆司は直後に土砂の崩落に巻き込まれ、意識を失う。  再び目を開けた時、彼は全く知らない世界に転生していた。  異世界で美貌の貴族令息に転生した脳筋の元自衛官は憧れの冒険者になれるのか?!  とってもお馬鹿なコメディです(;^_^A

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