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キスをした
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京都市の阪急三条河原町駅から徒歩で5分程度の距離にある、ライブハウス「飛翔」。ここは鴨川の川沿いに立つ小さなバーで、ステージを若きアマチュアミュージシャンに開放していた。
今も歌手を夢見るバンドマンが集い、夜毎ライブが繰り広げられている。店内は狭く、カウンターに確か7、8席あり、テーブル席は4つか5つくらいだった。
立ち見できるスペースもあり、マックスで40人しか収容できない小さな店だ。店内は安っぽい照明が当たるステージ以外は暗く、客同士の喧嘩もよく起こった。警察の取り調べの中で歌っていたこともある。
俺とユウタ、アツシの三人は、だいたい毎週水曜日の夜、ここで1時間程のライブをしていた。
抗いの誓いを立てて 拳を振り上げろ
偽りの自分のままじゃ 何も見つからない
一握りのレジスタンス それは裸になること
街の真ん中で ストリップ・ダンス
見るがいい これが本当の俺の姿
ステージ上で、サビになると俺のボーカルに、ユウタが3度高音のバック・ボーカルを被せてハモってくる。心地良い瞬間だ。
音楽性だけで見るとマスターベーションに近い、幼稚なパンクの曲ばかり。
当時オリジナルの持ち歌は、10曲くらいだった。
俺が作詞をし、ユウタが作曲をする。ライブハウス「飛翔」で俺たちのバンドは人気のない部類に入ったが、それでも数人だけの固定ファンがいた。
サビのパートを歌い終えると、俺のギター・ソロになる。得意のチョーキングとミュートを繰り返していると、店員の制止を振り切って強引に店内に入ろうとする子どもが見えた。
まさか。
そう、そのまさか。
ミカだった。
この夜も募金活動をした後なのか、黄色い蛍光色のジャンパーを着ている。下は短いスカート。髪を結っていなかったので、大人っぽく見え、別人のようだ。
本当に来るとは。やっぱりこいつの頭はどうにかしてる。チケットを渡していたが、当然ここはバーだから、親同伴でなきゃ子どもは入れない。
小学生には場違いだし、たった一人でここに足を運ぶなどあまりにも無謀だ。ミカは俺を指差して、店員に何かを訴えている。
1曲目を歌い終えると、ライブの途中にもかかわらず店員がステージにいる俺に駆け寄って話し掛けてきた。
「あの女の子が、タケシ君の妹だから入れて欲しいって言ってるんだけど。タケシ君って妹いないんじゃなかったっけ?」
突然ステージがブレイクしたので、会場はざわついてきた。
「よう! タケシのカノジョじゃん!」
アツシがミカの姿を見てマイクで叫び、嬉しそうにドラムを叩き始めた。そしてそのまま2曲目のイントロとなるドラム・ソロへと強引に入る。
もうあと16小節後に、俺は歌い出さなければならない。
店員はアツシの「カノジョ」という言葉を聞いてますます誤解してしまった。本当に俺の妹かどうか確かめようともせず、店の入り口に立っているミカの腕を掴んで追い出そうとしている。
ミカがステージにいる俺の方を見て、必死に目で懇願している。子どもなりの一途な想いが、今、大人につぶされようとしていた。
あんなに憎かったはずなのに、淋しそうな目をしているミカを見ると、俺は見捨てることができなかった。
「入れてやれよ。その子は、俺の義理の妹だ! 俺の親は子連れ同士で再婚してるから、兄弟姉妹の関係がややこしいんだよ。いいだろ!」
俺はステージでMCをするように、マイクで店員に叫んだ。
「オウ・イエー! そうだ、ロックなタケシの妹だぜ!」
アツシはドラムを叩きながら叫び、客をのせようとする。歓声が会場から沸き上がった。
「ようこそ! タケシィズ・シスター」
訳の分かっていないユウタまでが、ただノリにまかせて叫ぶと、会場の客は手拍子でミカを最前列へ迎え入れようとする。かわいい、と次々に会場の奴らは声を上げ、歩いてきたミカの頭をなでた。
店員は、ミカが俺の義理の妹だっていうのは嘘と分かっているようだが、会場の雰囲気に呑まれて追い返す訳にはいかなくなった。
店員の束縛から解放されて店内に入って来たミカは嬉しそうな顔をしていた。ミカが大きな右目をウインクする。俺は軽く苦笑いを浮かべて、歌い出した。
店内には20人から30人くらいの客がいたが、最前列のテーブルの中央に座ったミカだけが、常に気になる。
ミカの視線は、ステージに立つ俺たち三人を吸い込んでしまいそうな、強烈なものだった。
ピュアな目をしている。
汚れ澱んだ大人たちが集うバーの中で、たった一人、ミカだけは透き通るように美しい。そして気がつくと、俺は客のためではなく、ただミカのためにステージで声をからして唄っていた。
この日のライブは、自分でも信じられないくらいに、調子がよかった。声も、ギターも魂が乗り移ったかのように迫力があったし、会場の客からも盛大な拍手が起こった。
充実感で満たされる。
……これが、本当の唄う喜びなのか?
初めての感覚だ。
きっと、たった一人でも、必死になって俺たちのライブを見に来てくれたミカの存在があったからだ。
俺の歌から目を反らさずにミカは受け止めてくれる。曲が終わるたび、ミカが笑顔で拍手してくれるのが、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
ミカが、俺に自信をくれた。
この夜、俺の眠っていた潜在的な能力をミカが呼び覚ましてくれたんだ。
喝采を浴びて1時間のステージを終え、楽器の撤収に取りかかっていると、ミカが勝手にステージに上がってきた。
何をする気だ。
……ウソだろ、本気か?
ミカは俺に抱きつき、頬にキスをする。
「自信を持ったタケシは最高! 輝いてる。こんないい男、なかなかいないよ」
ミカは俺の耳元で言う。会場の客が冷やかすから恥ずかしかったが、俺は幸せだった。
ミカのことを子どもだとしか見ていなかったオレだが、抱き締められると、女だと意識してしまう。ミカのふくよかな頬の感触が気持ち良い。
ユウタは小学生と抱き合う俺を驚いた目で見て、立ち尽くしていた。アツシはドラムのスティックで俺の背中を突いて、にやにやしている。
この瞬間から、俺はこの勝利の女神に恋をした。
ただ小学生だから、普通の女を欲するような恋とはちょっと種類が違うかもしれないが。でも年齢なんて関係ないだろう。
「おい、タケシの妹。最後に一曲歌えよ」
客の酔いどれた客の一人が言った。すると会場全体に拍手が起こり、ミカに歌わせようとした。いくら何でもそれは無茶だ。それに、ミカを大衆に晒したくない。
「すいませんが、もう持ち時間が終わりなので」
俺がマイクで会場の客に断ろうとすると、店員が5分間だけなら良いぞ、と後方のカウンターから叫んだ。もう会場の期待にストップをかけることができなくなった。
ミカは、緊張の面持ちなど全まったくなく、自分から進んでボーカル・マイクの前に立った。そして客に手を振って、熱気をさらに煽る。ユウタとアツシ、俺はどうして良いのか分からなかった。
「マザー・テレサのように、私は祈ります。この世に自分が愛されていないだとか、必要とされていない、って思う哀しい人がいなくなりますように」
ミカは静かに語り、右手でクロスを切った。会場は急に静まり返り、ミカは透き通る声で歌い出す。
『アメージング・グレイス』だ。
ミカは男に比べて背が低いから、マイクの前で背伸びして、バランスを取りながら声を発する。口を大きく開けて手を広げて女神のごとく歌うミカの声は、祈りそのもののように感じた。
綺麗な高い声だ。誰もが、ミカの歌う汚れなき世界観に惹きこまれ、心を洗浄していく。
アツシは、急いでドラム・セットのある場所へ戻り、ミカの声に合わせて、リズムをアドリブで刻みだした。それを見たユウタもベースのシールドをアンプに差し戻し、ミカの声のキーに合わせてベース音を弾く。
ハ長調。キーはCか。
ミカの歌に先導されて、俺もギターで伴奏する。気がつけば、ジャム・セッションのような感覚で、即興の『アメージング・グレイス』の演奏ができ上がった。ミカもバンドのメンバーを見ながら、リズムを確認し合わせている。
客は黙り込んだ。そしてステージの女神を、じっと見つめている。
いつも騒がしいバーは、この静かな歌で一つになり、全世界へ愛のメッセージを投げ掛けているかのようだ。
ミカの美しい声が会場を超え、宇宙へと響き渡る。
考えてみれば、この時が一番幸せだったのかもしれない。
もうあんな輝いた時間を人生の中で過ごすことはないのだろう。
ちっぽけなバーだったが、そこにはピュアな音楽があった。支えてくれるバンドの仲間と客がいた。そしてミカ。俺の心の中に生き続ける女神だ。
ライブが終わった後、京都駅でユウタ、アツシと別れ、俺は帰る方向が同じミカを家まで送ることにした。滋賀県にあるJR大津駅で電車を降り、琵琶湖岸まで歩く。
この時、ミカは「スタジオ161」のすぐ近くにある教会の孤児院に住んでいることを教えてくれた。
もう時間は、深夜の11時を過ぎていた。
「なあ、この前、募金箱を叩きつけて悪かったよ。ごめん」
夜道を歩きながら、ミカに謝る。
あの時、俺はつくづく愚かな人間だと思った。ただ、そんな愚かな俺を見捨てなかったミカが、不思議だった。
「もう、いいよ」
ミカは、全然気にしていないようだ。
ステージでのキスを思い出した。まだミカの唇の感触が俺の頬に残っている。そして抱き締められた感触も。
夜風に前髪が揺れるミカを見て、かわいい、と思った。ミカは小学生で、子どもだって分かっちゃいるんだが、……トキめいてしまう。
「どうして、飛翔に来たんだよ?」
わざわざ俺に会うために、危険なリスクを犯してまでライブハウスに来たミカの真意を俺は知りたかった。
「だってタケシって放って置けないんだもん」
……これじゃ、どっちが年上か分からない。
心配だから、来ただけのようだ。小学生のミカが、ずいぶん歳上の俺を恋愛対象として見ているはずはない。それが明確に分かると、やっぱり落胆してしまう。
波の音が聞こえた。
月明かりが、琵琶湖の湖面に光を反射させている。雲一つない、美しい夜。ミカと別れたくなかった。こうして、二人きりでどこか遠くに逃げ出したい。
「あそこの小さな教会が私の家」
夜だったのでミカは、小声で俺に話し掛け、教会を指差した。
アメリカ人牧師が運営するプロテスタントの教会。その隣に、私立の孤児院がある。
赤ん坊の時、ミカはこの孤児院の前に捨てられていたらしい。神父の献身的な教育により、ミカは、魅力ある「ミカ」になった。
「連絡一つ入れずにこんな時間まで遊んでたんだから、きっと神父さんが怒ってんじゃない?」
警察に捜索願いが出されていないか、急に心配になる。
「大丈夫だよ」
ミカはケロリとした表情で言う。教会の人たちに心配をかけていることに全然罪悪感がないようだった。
「ミカってやっぱり無謀だ」
「男のくせに、度胸ないね」
この期に及んで、ミカは笑っている。
「神父さんに悪いって思わないのかよ? しかも俺と二人でいると知ったら、それこそ不純だって、誤解されるぞ」
「大丈夫だって。私のことを信じてくれているもん。それにさ、募金活動をする日は、いつもこれくらい遅くなるのってザラだよ」
「そうなのか?」
「うん」
「でも、18歳未満の子が一人で夜に街をうろつくのは、本当は駄目なんだぞ」
大人っぽく俺はミカに諭そうとした。
「世界の人々に尽くそうとする尊い気持ちに、時間っていうルールは通用しないの」
やっぱりミカは強情だ。
さすがにこんな時間だから、教会の門は閉まっていて、大きな鍵がかかっている。ミカは門の柵に足をかけよじ登り、あっという間に教会の敷地内に入った。俺は誰も見ていないか、周りをキョロキョロしてしまう。
「ねえ、毎週日曜日の午前中、ここでミサがあるの。来週来ない?」
門を挟んで、対面からミカが俺を誘ってきた。
「え? 俺は……」
「待ってるから」
ミカにまた会えるのは嬉しかったが、教会のミサとはいかがなものか。
俺には教会という神聖な場所が似合わない気がしたので他の場所で会おう、と言おうとしたが、ミカは俺の返事を聞こうともせずに孤児院へ帰っていく。
「待てよ。いくらなんでも教会って……」
「しっ。うるさい」
俺が大声を出したので、ミカは立ち止まって振り向いた。
「だから、他の場所でさ……」
「待ってるから。朝8時ね。今夜、楽しかった。バイバイ」
ミカが強引に押し切る。そして、ミカは目の前からいなくなった。
やっぱり、わがままな奴だ。
俺はため息を一つついて、教会に背を向け自宅に向かって歩き出した。
あの夜は、美しかった。我が人生の中でたった一度きりの美しい夜だった。
今も歌手を夢見るバンドマンが集い、夜毎ライブが繰り広げられている。店内は狭く、カウンターに確か7、8席あり、テーブル席は4つか5つくらいだった。
立ち見できるスペースもあり、マックスで40人しか収容できない小さな店だ。店内は安っぽい照明が当たるステージ以外は暗く、客同士の喧嘩もよく起こった。警察の取り調べの中で歌っていたこともある。
俺とユウタ、アツシの三人は、だいたい毎週水曜日の夜、ここで1時間程のライブをしていた。
抗いの誓いを立てて 拳を振り上げろ
偽りの自分のままじゃ 何も見つからない
一握りのレジスタンス それは裸になること
街の真ん中で ストリップ・ダンス
見るがいい これが本当の俺の姿
ステージ上で、サビになると俺のボーカルに、ユウタが3度高音のバック・ボーカルを被せてハモってくる。心地良い瞬間だ。
音楽性だけで見るとマスターベーションに近い、幼稚なパンクの曲ばかり。
当時オリジナルの持ち歌は、10曲くらいだった。
俺が作詞をし、ユウタが作曲をする。ライブハウス「飛翔」で俺たちのバンドは人気のない部類に入ったが、それでも数人だけの固定ファンがいた。
サビのパートを歌い終えると、俺のギター・ソロになる。得意のチョーキングとミュートを繰り返していると、店員の制止を振り切って強引に店内に入ろうとする子どもが見えた。
まさか。
そう、そのまさか。
ミカだった。
この夜も募金活動をした後なのか、黄色い蛍光色のジャンパーを着ている。下は短いスカート。髪を結っていなかったので、大人っぽく見え、別人のようだ。
本当に来るとは。やっぱりこいつの頭はどうにかしてる。チケットを渡していたが、当然ここはバーだから、親同伴でなきゃ子どもは入れない。
小学生には場違いだし、たった一人でここに足を運ぶなどあまりにも無謀だ。ミカは俺を指差して、店員に何かを訴えている。
1曲目を歌い終えると、ライブの途中にもかかわらず店員がステージにいる俺に駆け寄って話し掛けてきた。
「あの女の子が、タケシ君の妹だから入れて欲しいって言ってるんだけど。タケシ君って妹いないんじゃなかったっけ?」
突然ステージがブレイクしたので、会場はざわついてきた。
「よう! タケシのカノジョじゃん!」
アツシがミカの姿を見てマイクで叫び、嬉しそうにドラムを叩き始めた。そしてそのまま2曲目のイントロとなるドラム・ソロへと強引に入る。
もうあと16小節後に、俺は歌い出さなければならない。
店員はアツシの「カノジョ」という言葉を聞いてますます誤解してしまった。本当に俺の妹かどうか確かめようともせず、店の入り口に立っているミカの腕を掴んで追い出そうとしている。
ミカがステージにいる俺の方を見て、必死に目で懇願している。子どもなりの一途な想いが、今、大人につぶされようとしていた。
あんなに憎かったはずなのに、淋しそうな目をしているミカを見ると、俺は見捨てることができなかった。
「入れてやれよ。その子は、俺の義理の妹だ! 俺の親は子連れ同士で再婚してるから、兄弟姉妹の関係がややこしいんだよ。いいだろ!」
俺はステージでMCをするように、マイクで店員に叫んだ。
「オウ・イエー! そうだ、ロックなタケシの妹だぜ!」
アツシはドラムを叩きながら叫び、客をのせようとする。歓声が会場から沸き上がった。
「ようこそ! タケシィズ・シスター」
訳の分かっていないユウタまでが、ただノリにまかせて叫ぶと、会場の客は手拍子でミカを最前列へ迎え入れようとする。かわいい、と次々に会場の奴らは声を上げ、歩いてきたミカの頭をなでた。
店員は、ミカが俺の義理の妹だっていうのは嘘と分かっているようだが、会場の雰囲気に呑まれて追い返す訳にはいかなくなった。
店員の束縛から解放されて店内に入って来たミカは嬉しそうな顔をしていた。ミカが大きな右目をウインクする。俺は軽く苦笑いを浮かべて、歌い出した。
店内には20人から30人くらいの客がいたが、最前列のテーブルの中央に座ったミカだけが、常に気になる。
ミカの視線は、ステージに立つ俺たち三人を吸い込んでしまいそうな、強烈なものだった。
ピュアな目をしている。
汚れ澱んだ大人たちが集うバーの中で、たった一人、ミカだけは透き通るように美しい。そして気がつくと、俺は客のためではなく、ただミカのためにステージで声をからして唄っていた。
この日のライブは、自分でも信じられないくらいに、調子がよかった。声も、ギターも魂が乗り移ったかのように迫力があったし、会場の客からも盛大な拍手が起こった。
充実感で満たされる。
……これが、本当の唄う喜びなのか?
初めての感覚だ。
きっと、たった一人でも、必死になって俺たちのライブを見に来てくれたミカの存在があったからだ。
俺の歌から目を反らさずにミカは受け止めてくれる。曲が終わるたび、ミカが笑顔で拍手してくれるのが、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
ミカが、俺に自信をくれた。
この夜、俺の眠っていた潜在的な能力をミカが呼び覚ましてくれたんだ。
喝采を浴びて1時間のステージを終え、楽器の撤収に取りかかっていると、ミカが勝手にステージに上がってきた。
何をする気だ。
……ウソだろ、本気か?
ミカは俺に抱きつき、頬にキスをする。
「自信を持ったタケシは最高! 輝いてる。こんないい男、なかなかいないよ」
ミカは俺の耳元で言う。会場の客が冷やかすから恥ずかしかったが、俺は幸せだった。
ミカのことを子どもだとしか見ていなかったオレだが、抱き締められると、女だと意識してしまう。ミカのふくよかな頬の感触が気持ち良い。
ユウタは小学生と抱き合う俺を驚いた目で見て、立ち尽くしていた。アツシはドラムのスティックで俺の背中を突いて、にやにやしている。
この瞬間から、俺はこの勝利の女神に恋をした。
ただ小学生だから、普通の女を欲するような恋とはちょっと種類が違うかもしれないが。でも年齢なんて関係ないだろう。
「おい、タケシの妹。最後に一曲歌えよ」
客の酔いどれた客の一人が言った。すると会場全体に拍手が起こり、ミカに歌わせようとした。いくら何でもそれは無茶だ。それに、ミカを大衆に晒したくない。
「すいませんが、もう持ち時間が終わりなので」
俺がマイクで会場の客に断ろうとすると、店員が5分間だけなら良いぞ、と後方のカウンターから叫んだ。もう会場の期待にストップをかけることができなくなった。
ミカは、緊張の面持ちなど全まったくなく、自分から進んでボーカル・マイクの前に立った。そして客に手を振って、熱気をさらに煽る。ユウタとアツシ、俺はどうして良いのか分からなかった。
「マザー・テレサのように、私は祈ります。この世に自分が愛されていないだとか、必要とされていない、って思う哀しい人がいなくなりますように」
ミカは静かに語り、右手でクロスを切った。会場は急に静まり返り、ミカは透き通る声で歌い出す。
『アメージング・グレイス』だ。
ミカは男に比べて背が低いから、マイクの前で背伸びして、バランスを取りながら声を発する。口を大きく開けて手を広げて女神のごとく歌うミカの声は、祈りそのもののように感じた。
綺麗な高い声だ。誰もが、ミカの歌う汚れなき世界観に惹きこまれ、心を洗浄していく。
アツシは、急いでドラム・セットのある場所へ戻り、ミカの声に合わせて、リズムをアドリブで刻みだした。それを見たユウタもベースのシールドをアンプに差し戻し、ミカの声のキーに合わせてベース音を弾く。
ハ長調。キーはCか。
ミカの歌に先導されて、俺もギターで伴奏する。気がつけば、ジャム・セッションのような感覚で、即興の『アメージング・グレイス』の演奏ができ上がった。ミカもバンドのメンバーを見ながら、リズムを確認し合わせている。
客は黙り込んだ。そしてステージの女神を、じっと見つめている。
いつも騒がしいバーは、この静かな歌で一つになり、全世界へ愛のメッセージを投げ掛けているかのようだ。
ミカの美しい声が会場を超え、宇宙へと響き渡る。
考えてみれば、この時が一番幸せだったのかもしれない。
もうあんな輝いた時間を人生の中で過ごすことはないのだろう。
ちっぽけなバーだったが、そこにはピュアな音楽があった。支えてくれるバンドの仲間と客がいた。そしてミカ。俺の心の中に生き続ける女神だ。
ライブが終わった後、京都駅でユウタ、アツシと別れ、俺は帰る方向が同じミカを家まで送ることにした。滋賀県にあるJR大津駅で電車を降り、琵琶湖岸まで歩く。
この時、ミカは「スタジオ161」のすぐ近くにある教会の孤児院に住んでいることを教えてくれた。
もう時間は、深夜の11時を過ぎていた。
「なあ、この前、募金箱を叩きつけて悪かったよ。ごめん」
夜道を歩きながら、ミカに謝る。
あの時、俺はつくづく愚かな人間だと思った。ただ、そんな愚かな俺を見捨てなかったミカが、不思議だった。
「もう、いいよ」
ミカは、全然気にしていないようだ。
ステージでのキスを思い出した。まだミカの唇の感触が俺の頬に残っている。そして抱き締められた感触も。
夜風に前髪が揺れるミカを見て、かわいい、と思った。ミカは小学生で、子どもだって分かっちゃいるんだが、……トキめいてしまう。
「どうして、飛翔に来たんだよ?」
わざわざ俺に会うために、危険なリスクを犯してまでライブハウスに来たミカの真意を俺は知りたかった。
「だってタケシって放って置けないんだもん」
……これじゃ、どっちが年上か分からない。
心配だから、来ただけのようだ。小学生のミカが、ずいぶん歳上の俺を恋愛対象として見ているはずはない。それが明確に分かると、やっぱり落胆してしまう。
波の音が聞こえた。
月明かりが、琵琶湖の湖面に光を反射させている。雲一つない、美しい夜。ミカと別れたくなかった。こうして、二人きりでどこか遠くに逃げ出したい。
「あそこの小さな教会が私の家」
夜だったのでミカは、小声で俺に話し掛け、教会を指差した。
アメリカ人牧師が運営するプロテスタントの教会。その隣に、私立の孤児院がある。
赤ん坊の時、ミカはこの孤児院の前に捨てられていたらしい。神父の献身的な教育により、ミカは、魅力ある「ミカ」になった。
「連絡一つ入れずにこんな時間まで遊んでたんだから、きっと神父さんが怒ってんじゃない?」
警察に捜索願いが出されていないか、急に心配になる。
「大丈夫だよ」
ミカはケロリとした表情で言う。教会の人たちに心配をかけていることに全然罪悪感がないようだった。
「ミカってやっぱり無謀だ」
「男のくせに、度胸ないね」
この期に及んで、ミカは笑っている。
「神父さんに悪いって思わないのかよ? しかも俺と二人でいると知ったら、それこそ不純だって、誤解されるぞ」
「大丈夫だって。私のことを信じてくれているもん。それにさ、募金活動をする日は、いつもこれくらい遅くなるのってザラだよ」
「そうなのか?」
「うん」
「でも、18歳未満の子が一人で夜に街をうろつくのは、本当は駄目なんだぞ」
大人っぽく俺はミカに諭そうとした。
「世界の人々に尽くそうとする尊い気持ちに、時間っていうルールは通用しないの」
やっぱりミカは強情だ。
さすがにこんな時間だから、教会の門は閉まっていて、大きな鍵がかかっている。ミカは門の柵に足をかけよじ登り、あっという間に教会の敷地内に入った。俺は誰も見ていないか、周りをキョロキョロしてしまう。
「ねえ、毎週日曜日の午前中、ここでミサがあるの。来週来ない?」
門を挟んで、対面からミカが俺を誘ってきた。
「え? 俺は……」
「待ってるから」
ミカにまた会えるのは嬉しかったが、教会のミサとはいかがなものか。
俺には教会という神聖な場所が似合わない気がしたので他の場所で会おう、と言おうとしたが、ミカは俺の返事を聞こうともせずに孤児院へ帰っていく。
「待てよ。いくらなんでも教会って……」
「しっ。うるさい」
俺が大声を出したので、ミカは立ち止まって振り向いた。
「だから、他の場所でさ……」
「待ってるから。朝8時ね。今夜、楽しかった。バイバイ」
ミカが強引に押し切る。そして、ミカは目の前からいなくなった。
やっぱり、わがままな奴だ。
俺はため息を一つついて、教会に背を向け自宅に向かって歩き出した。
あの夜は、美しかった。我が人生の中でたった一度きりの美しい夜だった。
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