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第二話 因縁
偽装心中
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その日は小雨だった。すっかり梅雨に入った空は、降ったりやんだり。はっきりしない空模様に、筑土明神の参拝者もまばらである。
しっとり濡れた石灯籠を背に、着流し姿の宗次郎は石段の方を睨んでいた。髪も総髪のままであるが、たぼを作って結い上げていた。
この間からの張り込みで、乙八と旭屋の若旦那は、ほぼ三日に一度の割合で逢引きしていることを確認していた。そして昨日は午後から夕刻まで色茶屋に入り浸っている。だから、本来なら今日、乙八とは会わないはずなのだ。
(それでもあいつは来る)
――筑土明神奥、乙八、巳
そう書いた紙を今朝、若旦那に渡すよう旭屋の小僧に遣いをやらせた。
そろそろ昼四ツ(巳の刻)の鐘が聞こえる。その鐘が鳴りやまないうちに、茶色い番傘が視界に入った。
(ほら来た)
からころと下駄の音をさせ、嬉しそうに傘までさして、足場の悪い石畳を着物の裾をからげて駆けて来る。
そしてがっかりするのだ。待っていたのが乙八じゃないから……
旭屋の息子は、不機嫌と不信感を露わに、宗次郎に向かって言った。
「誰、あんた」
「俺? 乙八の良い人だよ」
自分で言っておいて虫唾が走った。
「はあ? 何言ってやがる」
宗次郎の嘘にまんまと引っかかった旭屋の息子は、まるで食ってかかりそうな勢いで近寄ってきた。
宗次郎はさらに、薄く紅を引いたような己の赤い下唇に、人差し指を添えて、きゅっと口角を上げた。
「最近、あいつがつれなくってさ。そろそろ目障りなあんたに消えてもらおうかなって」
雲雀から教わった下手な演技の、ただそれだけの仕種に翻弄され、表情を変える男が少々憐れだと思う。だがお美津を、こいつらは同じように騙したのだ。それを思うと、地獄に落ちやがれ、と願わずにいられない。
怒りで顔を真っ赤にした男が、傘を投げ捨て宗次郎の胸倉をつかんだ。
「こ、んの、てめえ……俺を騙して呼び出しやがったな」
お上品そうに見えたものの、所詮、江戸っ子だ。気が荒い。怒りを耐え切れない様子でギリリと奥歯を鳴らし、宗次郎を睨みつける。
――「いいですか。宗次郎さんは、そのお顔を上手に使わない手はないんですよ」
雲雀に言われた。敵に上手く喋らせるためにも、表情や仕種を工夫するのだと助言されたのだ。
――「宗次郎さん自身がご自分の顔を好きとか嫌いとか、そんなことどうでも良いのです。自分のお顔や体が相手にどう映っているのか、ご自分がよくお判りでしょう。それも武器とするのです」
さらに煽るように宗次郎は目を細め、ゆっくりと口角を引いた。
「だったら何? お美津さんの次は俺を殺すかい」
冷静を装って見上げると、怒りに歪んだ顔から血の気が引いて行くのがありありとわかった。
「残念だけどさ、次はあんたの番。邪魔者は俺じゃなくて、あんた。乙八が好きなのは、この俺だ。だいたいあんた、あの文の字が乙八の手じゃないことにも気付けなかったじゃないか」
追い打ちをかけるように挑発すると、思い切り押されて、石灯籠に押し付けられた。
「っざけんな! 乙八は俺のもんだ。てめえみてえなガキにあいつを囲えるかってんだ」
首を捩じ上げるように、着物の衿を締め上げて来る。
「おめえも、あの女同様、消えちまいな」
八幡宮の奥の杜に入って来る人などわずかだ。ましてやこんな雨の日に、縁結びの噂にあやかってお参りに来る娘もいやしない。都合の良いことに、辺りはぼんやりと靄がかかったように、うっすら白く煙ってきた。だから気が大きくなっているのだろう。殺す勢いで力を加えて来た。
なまっちろく見える割には力が強い。首根っこを押さえられ血の道が狭くなったのか、唇に痺れを感じ始めた。
「へっ、こう見えても船宿の後継ぎだぜ。舟の扱いぐれえは雇いの船頭らにも負けてねえ。おめえの首をへし折るくれえの腕っぷしはあるんだよ」
もう一方の手が、宗次郎の首に回る。それでも宗次郎は抵抗しなかった。声を振り絞って引導を渡すひと言を告げた。
「そう、だから自分で屋形船を操って、お美津さんを拾ったんだね。日本橋で」
「な、なんで、それを」
「ぐっ」
怒りの中、わずかに差した怯えのせいで、首を締めつける力がさらに強くなる。宗次郎が耐え切れず顔を歪ませた時だった。
「おい! そこまでだ!」
背後からの怒号と足音に、旭屋の息子が慌てて振り返る。
「遅いよ……」
ケホッと一つ咳込んで、宗次郎は文句を言うと衿を正した。
木陰に隠れていた岡っ引きとその手下が現れ、あっという間もなく、旭屋の息子は押さえられた。
遅れて祠の陰から嶋田が姿を見せた。
「ああ、すまねえ。お美津さんの殺しを吐くかどうかなってぇ、待っていたんでさ」
「そんなの、奉行所で拷問でも何でもすりゃいいじゃないか」
悪びれもしない嶋田に宗次郎が文句を返すと、旭屋の息子が吠えた。
「なんでぃ! 茶番かよ! てめえら、この俺をおちょくりやがったな!」
暴れるのを、岡っ引きが十手で羽交い締めにする。
「喚くな! 後は番所で洗いざらい喋ればよい」
喚くなと言われてもなお、悪態を吠え続ける若旦那は、嶋田の手で縄をかけられ連行されて行った。
「さて……」
喧騒が去ると、宗次郎は嶋田らとは別に、八幡前町の中を抜け、〈くめや〉へと向かった。
この喧騒を、あいつが黙って見ているはずがない。だから急がねばと、着物の裾をからげて走る。
今はそいつの気配を察することはできない。だが、あいつなら気配を消すことくらい造作ないことだ。
北町奉行の同心嶋田には、旭屋の息子の証言を取って、それから乙八をしょっ引いた方が確実だ――と話しておいたが、それはあくまでも色恋、艶事の拗れからお美津を消したのだという、乙八首謀者前提での話だ。
宗次郎の頭の中では、別の筋書きができていた。
雨に半分濡れた〈くめや〉の暖簾をくぐる。
息を切らせながら問う。
「乙八、いますか」
乙八があいつと繋がっているという確証などない。ただ単に宗次郎の勘だった。たった一言発した言葉から持ってしまった疑念にすぎない。それでも確信していた。
「乙八! 乙八や!」
店の亭主が階下から大声で呼ぶ。
「早く降りてきな、お客さんだよ!」
しかし、何度呼んでも乙八は来なかった。
「おかしいねえ。賭場に行った様子もなかったんだけどねえ」
首を傾げる亭主だったが、宗次郎は嫌な予感を拭えず、その場で草履を脱ぎ捨てる。
「あ、ちょいと兄さん、困るよ、勝手に」
追いかけて来る亭主と共に、乙八の部屋の襖を開けた。隣の部屋からは、何事かと、別の若衆髷の少年が、襖を開けて首を出している。
「乙八!」
叫んだのは亭主の方だった。
(遅かった!)
仰向きで口から血の色の泡を流して横たわる乙八を跨ぎ、開いてあった窓の外を見るが、そこには何もいない。
「ごふっ」
背後で乙八の咳が聞こえた。生きているのだ。
亭主が乙八の体を起こす。
「乙八! おまいさん、誰にやられたんだい」
宗次郎がその首の後に、三角の針が刺さっているのを見つけた。慎重に抜き取る。
「毒針だ。吹き矢……忍びの者か……」
乙八が弱々しく咳ながら何かを言おうとしている。
「おい、やったのは九鬼丸か」
乙八に聞こえるように耳の側で言った。だが、乙八はわずかに首を横に振った。
そして震える唇で言葉を絞り出した。
「く、くき、じゃ、ない、あい……つが、お、おれを、うら、ぎ、る、もん、か……く、き、じゃ」
訳を分かっていない亭主がおろおろと、空いた方の手を乙八の頭と首元を無意味に行ったり来たりさせながら問い返す。
「いったい、あんたは何言ってんだい!?」
乙八の、濁ってほとんど見えなくなってしまっているだろう目から、涙が零れだした。
「お、れが……わ……かっ……ん、だ……」
言葉は途切れ途切れで、ほぼ聞き取れない。直後、一層激しく咳込んだと思うと、白目を剥いてぐったりとした。
「乙八っ! しっかりおし! 乙八!」
亭主が衿元を掴んで揺さぶる。
「乙八!乙八!」
宗次郎は、陰間茶屋の亭主に抱きかかえられる乙八を残したまま部屋を出た。
しっとり濡れた石灯籠を背に、着流し姿の宗次郎は石段の方を睨んでいた。髪も総髪のままであるが、たぼを作って結い上げていた。
この間からの張り込みで、乙八と旭屋の若旦那は、ほぼ三日に一度の割合で逢引きしていることを確認していた。そして昨日は午後から夕刻まで色茶屋に入り浸っている。だから、本来なら今日、乙八とは会わないはずなのだ。
(それでもあいつは来る)
――筑土明神奥、乙八、巳
そう書いた紙を今朝、若旦那に渡すよう旭屋の小僧に遣いをやらせた。
そろそろ昼四ツ(巳の刻)の鐘が聞こえる。その鐘が鳴りやまないうちに、茶色い番傘が視界に入った。
(ほら来た)
からころと下駄の音をさせ、嬉しそうに傘までさして、足場の悪い石畳を着物の裾をからげて駆けて来る。
そしてがっかりするのだ。待っていたのが乙八じゃないから……
旭屋の息子は、不機嫌と不信感を露わに、宗次郎に向かって言った。
「誰、あんた」
「俺? 乙八の良い人だよ」
自分で言っておいて虫唾が走った。
「はあ? 何言ってやがる」
宗次郎の嘘にまんまと引っかかった旭屋の息子は、まるで食ってかかりそうな勢いで近寄ってきた。
宗次郎はさらに、薄く紅を引いたような己の赤い下唇に、人差し指を添えて、きゅっと口角を上げた。
「最近、あいつがつれなくってさ。そろそろ目障りなあんたに消えてもらおうかなって」
雲雀から教わった下手な演技の、ただそれだけの仕種に翻弄され、表情を変える男が少々憐れだと思う。だがお美津を、こいつらは同じように騙したのだ。それを思うと、地獄に落ちやがれ、と願わずにいられない。
怒りで顔を真っ赤にした男が、傘を投げ捨て宗次郎の胸倉をつかんだ。
「こ、んの、てめえ……俺を騙して呼び出しやがったな」
お上品そうに見えたものの、所詮、江戸っ子だ。気が荒い。怒りを耐え切れない様子でギリリと奥歯を鳴らし、宗次郎を睨みつける。
――「いいですか。宗次郎さんは、そのお顔を上手に使わない手はないんですよ」
雲雀に言われた。敵に上手く喋らせるためにも、表情や仕種を工夫するのだと助言されたのだ。
――「宗次郎さん自身がご自分の顔を好きとか嫌いとか、そんなことどうでも良いのです。自分のお顔や体が相手にどう映っているのか、ご自分がよくお判りでしょう。それも武器とするのです」
さらに煽るように宗次郎は目を細め、ゆっくりと口角を引いた。
「だったら何? お美津さんの次は俺を殺すかい」
冷静を装って見上げると、怒りに歪んだ顔から血の気が引いて行くのがありありとわかった。
「残念だけどさ、次はあんたの番。邪魔者は俺じゃなくて、あんた。乙八が好きなのは、この俺だ。だいたいあんた、あの文の字が乙八の手じゃないことにも気付けなかったじゃないか」
追い打ちをかけるように挑発すると、思い切り押されて、石灯籠に押し付けられた。
「っざけんな! 乙八は俺のもんだ。てめえみてえなガキにあいつを囲えるかってんだ」
首を捩じ上げるように、着物の衿を締め上げて来る。
「おめえも、あの女同様、消えちまいな」
八幡宮の奥の杜に入って来る人などわずかだ。ましてやこんな雨の日に、縁結びの噂にあやかってお参りに来る娘もいやしない。都合の良いことに、辺りはぼんやりと靄がかかったように、うっすら白く煙ってきた。だから気が大きくなっているのだろう。殺す勢いで力を加えて来た。
なまっちろく見える割には力が強い。首根っこを押さえられ血の道が狭くなったのか、唇に痺れを感じ始めた。
「へっ、こう見えても船宿の後継ぎだぜ。舟の扱いぐれえは雇いの船頭らにも負けてねえ。おめえの首をへし折るくれえの腕っぷしはあるんだよ」
もう一方の手が、宗次郎の首に回る。それでも宗次郎は抵抗しなかった。声を振り絞って引導を渡すひと言を告げた。
「そう、だから自分で屋形船を操って、お美津さんを拾ったんだね。日本橋で」
「な、なんで、それを」
「ぐっ」
怒りの中、わずかに差した怯えのせいで、首を締めつける力がさらに強くなる。宗次郎が耐え切れず顔を歪ませた時だった。
「おい! そこまでだ!」
背後からの怒号と足音に、旭屋の息子が慌てて振り返る。
「遅いよ……」
ケホッと一つ咳込んで、宗次郎は文句を言うと衿を正した。
木陰に隠れていた岡っ引きとその手下が現れ、あっという間もなく、旭屋の息子は押さえられた。
遅れて祠の陰から嶋田が姿を見せた。
「ああ、すまねえ。お美津さんの殺しを吐くかどうかなってぇ、待っていたんでさ」
「そんなの、奉行所で拷問でも何でもすりゃいいじゃないか」
悪びれもしない嶋田に宗次郎が文句を返すと、旭屋の息子が吠えた。
「なんでぃ! 茶番かよ! てめえら、この俺をおちょくりやがったな!」
暴れるのを、岡っ引きが十手で羽交い締めにする。
「喚くな! 後は番所で洗いざらい喋ればよい」
喚くなと言われてもなお、悪態を吠え続ける若旦那は、嶋田の手で縄をかけられ連行されて行った。
「さて……」
喧騒が去ると、宗次郎は嶋田らとは別に、八幡前町の中を抜け、〈くめや〉へと向かった。
この喧騒を、あいつが黙って見ているはずがない。だから急がねばと、着物の裾をからげて走る。
今はそいつの気配を察することはできない。だが、あいつなら気配を消すことくらい造作ないことだ。
北町奉行の同心嶋田には、旭屋の息子の証言を取って、それから乙八をしょっ引いた方が確実だ――と話しておいたが、それはあくまでも色恋、艶事の拗れからお美津を消したのだという、乙八首謀者前提での話だ。
宗次郎の頭の中では、別の筋書きができていた。
雨に半分濡れた〈くめや〉の暖簾をくぐる。
息を切らせながら問う。
「乙八、いますか」
乙八があいつと繋がっているという確証などない。ただ単に宗次郎の勘だった。たった一言発した言葉から持ってしまった疑念にすぎない。それでも確信していた。
「乙八! 乙八や!」
店の亭主が階下から大声で呼ぶ。
「早く降りてきな、お客さんだよ!」
しかし、何度呼んでも乙八は来なかった。
「おかしいねえ。賭場に行った様子もなかったんだけどねえ」
首を傾げる亭主だったが、宗次郎は嫌な予感を拭えず、その場で草履を脱ぎ捨てる。
「あ、ちょいと兄さん、困るよ、勝手に」
追いかけて来る亭主と共に、乙八の部屋の襖を開けた。隣の部屋からは、何事かと、別の若衆髷の少年が、襖を開けて首を出している。
「乙八!」
叫んだのは亭主の方だった。
(遅かった!)
仰向きで口から血の色の泡を流して横たわる乙八を跨ぎ、開いてあった窓の外を見るが、そこには何もいない。
「ごふっ」
背後で乙八の咳が聞こえた。生きているのだ。
亭主が乙八の体を起こす。
「乙八! おまいさん、誰にやられたんだい」
宗次郎がその首の後に、三角の針が刺さっているのを見つけた。慎重に抜き取る。
「毒針だ。吹き矢……忍びの者か……」
乙八が弱々しく咳ながら何かを言おうとしている。
「おい、やったのは九鬼丸か」
乙八に聞こえるように耳の側で言った。だが、乙八はわずかに首を横に振った。
そして震える唇で言葉を絞り出した。
「く、くき、じゃ、ない、あい……つが、お、おれを、うら、ぎ、る、もん、か……く、き、じゃ」
訳を分かっていない亭主がおろおろと、空いた方の手を乙八の頭と首元を無意味に行ったり来たりさせながら問い返す。
「いったい、あんたは何言ってんだい!?」
乙八の、濁ってほとんど見えなくなってしまっているだろう目から、涙が零れだした。
「お、れが……わ……かっ……ん、だ……」
言葉は途切れ途切れで、ほぼ聞き取れない。直後、一層激しく咳込んだと思うと、白目を剥いてぐったりとした。
「乙八っ! しっかりおし! 乙八!」
亭主が衿元を掴んで揺さぶる。
「乙八!乙八!」
宗次郎は、陰間茶屋の亭主に抱きかかえられる乙八を残したまま部屋を出た。
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