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第二話 因縁
掴めない雲
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久しぶりに小栗組御鷹屋敷の宮井家に泊まった明くる朝、少し寝坊をした。
外がやたらと明るいことに気付いた宗次郎は、飛び起きて、鷹部屋で大鷹の様子を見ていた杢右衛門に挨拶を済ましてから、小日向に向かったのだが、久しぶりに〈とらや〉へ寄ろうと思いつき、小川を渡った。
休処と書かれた旗が初夏の風に揺れている。風に乗って聞こえたのは、おふみの声だった。
「あーっ、宮井さんだ!」
「おう、宗次郎。久しぶりだな」
とらやでは相変わらず、おふみが愛想を振りまいていて、そして変わらず半平太がさぼっていた。
「どうしていたんだ。鷹部屋を出てから」
「んー、小日向にある同郷の鳥屋で鳥刺しの手伝いをしています」
「そうか。やっぱり御上は町人の鳥請負を増やすつもりなのか」
縁台に座った半平太が饅頭をかじりながら、宗次郎を見上げた。
半平太が危惧するのも無理はなかった。このところ、町方の餌差の割合が増えていた。一方、公儀餌差の増員は止まったままである。
「かも知れませんね。御公儀の餌差だけじゃ御鷹の餌は足りないし、何より町人から買った方が、役人を増やすよりも安くつくでしょう」
町人には仕事が増えるし、幕府は出費が少なくなる。どう転んだとて、幕府が餌差役人を抱えることに利はないと思える。
「まさか、餌差役人を廃止とか言い出すんじゃねえだろうな。ちぇっ、また無役に戻れってのかよ」
「うぐっ」
不貞腐れた半平太に、かじりかけの饅頭を口に突っ込まれた。
饅頭を咀嚼しながら答える。
「そういうわけじゃないと思いますよ。ただ、これ以上餌差役人を増やすよりか、鳥刺しの技に長けた町人餌差を増やした方が、手っ取り早いこともありますからね。けど、どちらか一方だけに頼ってしまうと……」
「どうだってんだ」
半平太の催促に、宗次郎が答えようとした時、おふみがお茶を運んできた。
「宮井さんもどうぞ。あらら、斎藤さん、怖いお顔だこと」
不機嫌極まりない半平太を見て、おふみがわざとらしく怖がって見せた。
「だってよ、また無役の小普請なんぞになっちまったら、いつまでたってもおふみちゃんを口説けねえ」
冗談とも本気とも取れる半平太の言い分を、おふみはさらりと笑顔でかわす。
「あらまあ、またそんなお戯れを」
「戯れなんかじゃねえよ。俺ぁ、本気だぜ」
半平太がムキになる。すっかりさっきまでの話題を忘れてしまったのか、宗次郎の横で熱心におふみを口説き出した。
「本気の本気だからよ。今からまた仕事に励んでくらぁ」
半平太が腰を上げると、おふみが笑顔で送り出した。
「はーい、いってらっしゃい。いっぱい獲れるといいね」
さっきの会話の答を半平太が知る必要はないと、宗次郎は思う。
武士の癖に半平太は純真だ。汚れも知らず狡さも持っていない。何のてらいもなく歯を見せて笑う。真面目に茶店の娘を嫁にしようと考えている。
だが武家社会は建前としがらみの世界だ。正しいことを正しくしているだけでは出世できない。
――「どうだってんだ」
答えを聞かずに行ってしまった後ろ姿に答えた。
「どちらか一方だけに頼っちまうと、不義理が生まれるのさ」
あの鳥見殺しも闇餌差も、不義理不正がこじれた結末に間違いない。
「何か言った?」
「いや」
振り返ったおふみの明るい笑顔に、半平太の白い歯が重なり、心がきゅっと締め付けられる。
己にはこの二人のような可愛いやり取りができる恋などできないことを知っている。
ささやかな幸せは、あの空の雲のように遠く掴めないものなのだ。
◇
結局、まっすぐ紀伊国屋には戻らなかった。何となく、求馬を思い出していた。もちろん逢えるとは限らないのだが、珍しく人恋しい気分だった。
そのまま城に向かって歩き、橋を渡って揚場河岸まで来た。
(たしか『角吉』やったっけ)
うろ覚えの記憶を頼りに揚場町の煮売り屋を探しながら歩いたが、牛込門まで来てしまった。行き過ぎたことに気付いて引き返そうとしたところで、喧騒が耳に入る。
喧嘩騒ぎのようだ。
人だかりに近づいて覗き見ると、神楽坂の真ん中で、三人組の侍が商人らしき男を囲んでいた。
この間の身投げと言い、この辺りはそれほど物騒な町だっただろうかと、野次馬を横目に通り過ぎようとした時……
「あいや、待たれぃ!」
誰かが仲裁に入った。いや、誰かではない。聞き覚えのある声に驚いて、宗次郎は足を止めた。
(おいおい、いけんのかよ)
矢鱈縞の着流しを着こなした勇み肌は、まぎれもなく求馬である。
求馬は芝居がかった声で、無謀にも三人のうちの一番大柄で人相の悪い男の前に立ちはだかって、見得を切っていた。
「素浪人とて武士の端くれであろう。武士は弱い物を虐めてはいかん」
「そうだそうだ!」
どこからか賛同の野次まで飛んだ。
馬鹿にされたと感じたのか、大男が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「じゃかあしい! 誰が素浪人だ、無礼者!!」
「あ」
宗次郎の口が「あ」の形に開いたまま、激しくため息を漏らす。
求馬は男に衿を掴まれるや、簡単に突き飛ばされてしまった。みっともなく尻を突き、そこへ子分らしき侍の蹴りまで入る。
(ほれ見たことか)と、すかさず助太刀しようと宗次郎が駆け寄る間にも、求馬はなおも食らいついて、這いつくばったまま男の足首を掴んでいた。
(あほが、なにしちゃある!)
「てっめえ、舐めやがって」
求馬に足首を掴まれ、転びそうになった男が逆上した。
野次馬の中から悲鳴が上がるのとほぼ同時だった。
「いい加減にしなよ、おっさん」
刀を振り下ろそうとした男の手首に、宗次郎の手刀が命中した。
外がやたらと明るいことに気付いた宗次郎は、飛び起きて、鷹部屋で大鷹の様子を見ていた杢右衛門に挨拶を済ましてから、小日向に向かったのだが、久しぶりに〈とらや〉へ寄ろうと思いつき、小川を渡った。
休処と書かれた旗が初夏の風に揺れている。風に乗って聞こえたのは、おふみの声だった。
「あーっ、宮井さんだ!」
「おう、宗次郎。久しぶりだな」
とらやでは相変わらず、おふみが愛想を振りまいていて、そして変わらず半平太がさぼっていた。
「どうしていたんだ。鷹部屋を出てから」
「んー、小日向にある同郷の鳥屋で鳥刺しの手伝いをしています」
「そうか。やっぱり御上は町人の鳥請負を増やすつもりなのか」
縁台に座った半平太が饅頭をかじりながら、宗次郎を見上げた。
半平太が危惧するのも無理はなかった。このところ、町方の餌差の割合が増えていた。一方、公儀餌差の増員は止まったままである。
「かも知れませんね。御公儀の餌差だけじゃ御鷹の餌は足りないし、何より町人から買った方が、役人を増やすよりも安くつくでしょう」
町人には仕事が増えるし、幕府は出費が少なくなる。どう転んだとて、幕府が餌差役人を抱えることに利はないと思える。
「まさか、餌差役人を廃止とか言い出すんじゃねえだろうな。ちぇっ、また無役に戻れってのかよ」
「うぐっ」
不貞腐れた半平太に、かじりかけの饅頭を口に突っ込まれた。
饅頭を咀嚼しながら答える。
「そういうわけじゃないと思いますよ。ただ、これ以上餌差役人を増やすよりか、鳥刺しの技に長けた町人餌差を増やした方が、手っ取り早いこともありますからね。けど、どちらか一方だけに頼ってしまうと……」
「どうだってんだ」
半平太の催促に、宗次郎が答えようとした時、おふみがお茶を運んできた。
「宮井さんもどうぞ。あらら、斎藤さん、怖いお顔だこと」
不機嫌極まりない半平太を見て、おふみがわざとらしく怖がって見せた。
「だってよ、また無役の小普請なんぞになっちまったら、いつまでたってもおふみちゃんを口説けねえ」
冗談とも本気とも取れる半平太の言い分を、おふみはさらりと笑顔でかわす。
「あらまあ、またそんなお戯れを」
「戯れなんかじゃねえよ。俺ぁ、本気だぜ」
半平太がムキになる。すっかりさっきまでの話題を忘れてしまったのか、宗次郎の横で熱心におふみを口説き出した。
「本気の本気だからよ。今からまた仕事に励んでくらぁ」
半平太が腰を上げると、おふみが笑顔で送り出した。
「はーい、いってらっしゃい。いっぱい獲れるといいね」
さっきの会話の答を半平太が知る必要はないと、宗次郎は思う。
武士の癖に半平太は純真だ。汚れも知らず狡さも持っていない。何のてらいもなく歯を見せて笑う。真面目に茶店の娘を嫁にしようと考えている。
だが武家社会は建前としがらみの世界だ。正しいことを正しくしているだけでは出世できない。
――「どうだってんだ」
答えを聞かずに行ってしまった後ろ姿に答えた。
「どちらか一方だけに頼っちまうと、不義理が生まれるのさ」
あの鳥見殺しも闇餌差も、不義理不正がこじれた結末に間違いない。
「何か言った?」
「いや」
振り返ったおふみの明るい笑顔に、半平太の白い歯が重なり、心がきゅっと締め付けられる。
己にはこの二人のような可愛いやり取りができる恋などできないことを知っている。
ささやかな幸せは、あの空の雲のように遠く掴めないものなのだ。
◇
結局、まっすぐ紀伊国屋には戻らなかった。何となく、求馬を思い出していた。もちろん逢えるとは限らないのだが、珍しく人恋しい気分だった。
そのまま城に向かって歩き、橋を渡って揚場河岸まで来た。
(たしか『角吉』やったっけ)
うろ覚えの記憶を頼りに揚場町の煮売り屋を探しながら歩いたが、牛込門まで来てしまった。行き過ぎたことに気付いて引き返そうとしたところで、喧騒が耳に入る。
喧嘩騒ぎのようだ。
人だかりに近づいて覗き見ると、神楽坂の真ん中で、三人組の侍が商人らしき男を囲んでいた。
この間の身投げと言い、この辺りはそれほど物騒な町だっただろうかと、野次馬を横目に通り過ぎようとした時……
「あいや、待たれぃ!」
誰かが仲裁に入った。いや、誰かではない。聞き覚えのある声に驚いて、宗次郎は足を止めた。
(おいおい、いけんのかよ)
矢鱈縞の着流しを着こなした勇み肌は、まぎれもなく求馬である。
求馬は芝居がかった声で、無謀にも三人のうちの一番大柄で人相の悪い男の前に立ちはだかって、見得を切っていた。
「素浪人とて武士の端くれであろう。武士は弱い物を虐めてはいかん」
「そうだそうだ!」
どこからか賛同の野次まで飛んだ。
馬鹿にされたと感じたのか、大男が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「じゃかあしい! 誰が素浪人だ、無礼者!!」
「あ」
宗次郎の口が「あ」の形に開いたまま、激しくため息を漏らす。
求馬は男に衿を掴まれるや、簡単に突き飛ばされてしまった。みっともなく尻を突き、そこへ子分らしき侍の蹴りまで入る。
(ほれ見たことか)と、すかさず助太刀しようと宗次郎が駆け寄る間にも、求馬はなおも食らいついて、這いつくばったまま男の足首を掴んでいた。
(あほが、なにしちゃある!)
「てっめえ、舐めやがって」
求馬に足首を掴まれ、転びそうになった男が逆上した。
野次馬の中から悲鳴が上がるのとほぼ同時だった。
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