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第一話 吉宗の隠密

出逢い

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「鳥を追うんとは、ちゃう(違う)ようでございまするな」

 明朝、明け六ツ前に店を出ようとした宗次郎は、背中から声をかけられ足を止めた。紀伊国屋きのくにやの亭主、吉兵衛だ。
 この家を紹介したのは杢右衛門もくうえもんだが、宗次郎が将軍の隠密という御公儀に就いているということを、この亭主が知っているかどうかまではわからなかった。

「すんません。しばらく鳥刺しをさぼります」

 なので、仕事をさぼることを素直に詫びた。

「ほうですか。雲行きが怪しいさかい、十分気ぃ付けて参りよし」

 しかし、やはり事情を承知しているのか、にこやかな顔を崩さず柔らかな物腰で送り出してくれる吉兵衛に、宗次郎も笑顔で応えた。

 宗次郎の向かう先は早稲田とその周辺である。
 鷹狩の地は江戸より五里四方とされているが、御府内(江戸市域)の外にあったわけではない。江戸城外堀より外であれば、御府内にも多くの村が御拳場おこぶしばに組み込まれていた。
 ちなみに将軍が御鷹狩で仕留めた獲物は、大名などに下賜かしする、または料理して餐応きょうおうするのが習わしであるが、下賜される量や順番の差異で、身分の上下や将軍からの信頼度などが知れたという。
 その獲物として求められるのが大型の水鳥であり、代表格が鶴や白鳥であった。そもそも野生の鷹が自分の体より大きい鳥を狙うことはまずない。飼育され訓練された鷹だからこそ、捉えることができる――そこに鷹狩の意味を見出していた。
 だが既に吉宗の時代の江戸では、鶴や白鳥の居つきがよくなかった。江戸の郊外であっても、鷹狩に適した自然環境とは言い難かった。
 そこで大型の水鳥の居つきを良くするために、御拳場近隣や水場での狩猟には厳しい制限を設け、鳥見役所によって監視するという理由付けがなされた。さらに鳥の商売は町奉行による許可制となった。
 この時点で江戸中の鳥問屋は、たったの十軒、鳥請負というけおいを許されていた卸商人は七名のみである。そして雇い入れる鳥刺しの餌差札も数が決められていたのである。

 そんな中、上様直々に商いを許された紀伊国屋である。亭主の吉兵衛もただ者ではないのだろうと、宗次郎も勘付いている。
 後退して広くなった月代さかやきに細いまげの一見冴えない中年男であるが、すべてを見通しているような腹の座った雰囲気が、義父の宮井杢右衛門もくうえもんと似ていた。


 ◇

 鳥見殺しがあったという早稲田村は、のどかな百姓町である。
 水稲荷や宝泉寺のある富士塚といった広大な寺社のもりを背に、農村の向こうには、神田上水に向かって田園地帯が続く。
 それにしても……

「広すぎやろ」

 うんざりして独り言をこぼした。
 目の前に広がるのは、田圃たんぼ、田圃、どこまでも続く田圃と畑。湿田の間をつばめが飛び交い、サギが白い翼を広げている。
 宗次郎はあぜ道を歩きながら、鷹狩の光景を空想していた。

 ――例えばこの先の溜池にはかもがいる。田圃に苗が植わる頃にはばんもやって来る。そしたらあの雑木林の陰からハヤブサを飛ばして、上空を旋回させ……

 空想をしていたその視線の先には、独りの百姓がいた。かまを振り上げ、「しっし、あっち行け」とわめいている。
 牛蒡ごぼうの青々と茂った大きな葉が揺れていた。

きじの親子や)

 案の定、二羽のひなを連れた雌の雉が草陰から飛び出してきた。
 この村が御拳場であるということは、鳥の捕獲はおろか、害鳥の駆除も禁じられている。かといって案山子かかしを立てることも鳥の居つきが悪くなるからと許されない。御拳場に定められた村の百姓たちは、そのためにいらぬ苦労を強いられていた。
 それを理解しているからこそ、御先手組おさきてぐみも鳥見役人を殺した人物像が絞りにくいのだ。将軍がどれほどの理想を掲げ御鷹狩を推し進めたとして、村人たちに鷹狩の評判が良くないのは事実であった。
 雉を眺めていたら、雉を追っていた百姓と目が合った。百姓は、のんびりと歩く宗次郎のことをしばし目で追って来たが、そのうち興味を失ったように、再び野良仕事に戻った。

(目立つんかな)と、自分の着物を見下ろす。

 さすがに餌差えさしの格好でうろつくのは相手が警戒するだろうと、遊び人風を装ってみたつもりであるが、郊外の田圃の真ん中に、村人でもない人間が独りで歩いているとやはり目を引くようだ。

(なるほどなあ……侍やったらもっと目立ったはずや)

 それなのに調べに何の進展もないということは、それらしい浪人や無頼漢の目撃が無いという証拠。そのうち得た手がかりが、
「怪しい餌差……か」

 意外とその線は外れてなさそうだと、広がる田園の風景を見ながら思った。

 それから四日。
 風格好を変え、道順も変え、早稲田から馬場下、高田、江戸川沿いと歩き回ってみたが、村垣の言うような怪しい餌差に出くわすことはなかった。
 *高田富士の濃い緑を眺め、呟く。

「この辺に戻って来るっちゃあ限らんよなあ」
 
 むしろ同じところに留まっている方が珍しい。本来の餌差えさしならば、雀に警戒されぬよう、毎日場所を変えて狩るのが普通だ。うっそうとした水稲荷の杜の陰などもくまなく歩きまわってみたが、怪しいと思われる隠れ家的な小屋も、餌差に関係しそうな人物も発見できずにいた。
 前日には『怪しい餌差』の話を提供したという馬場丁の老人を訪ねてみたが、村垣から聞いたこと以上の話は聞けなかった。

 ――「遠目でわからねえしよう、それにこの辺りで敢えて鳥を獲るってえことは、御公儀ごこうぎの餌差と思うじゃねえか」

 爺さんの言うことはもっともだ。禁じられた場所での鳥刺しなど、町方の雇われ餌差なら、まずやるべきことではない。見つかったら厳罰。当然餌差札もはく奪されるからだ。

 ――「おかしいと思ったのはその後じゃ。見廻りのお役人が歩いてきてなあ。んだが、姿を見た途端、慌てて引き上げたんでさ。それで、こいつぁ、まともな餌差じゃねえやってえ、思ったんじゃ」

 それは確かに怪しい――そう思うが、このままこの辺りを歩き回ったところで、何の手がかりもつかめないような気がして来た。
 
 石切橋を渡ったところで、道の左右のどちらに向かうかしばらく迷っていたのだが、思い立って、神田川沿いの道を城に向かって歩き出した。
 ずいぶん夜明けが早くなったと、水面の色の変化を見ながらヒヨドリの声を聞いていた。しばらく川風を感じながら歩いていたが、明け六ツの鐘が響く頃には、どんどんの音が聞こえて来た。
 牛込御門の北側、江戸城の外堀にぶつかるせきの辺りは、堰から流れ落ちる水の音から『牛込どんどん』などと呼ばれている。
 どんど橋とも呼ばれている船河原橋に差し掛かった時、宗次郎の耳に男の叫び声が届いた。
 川下の方角である。
 とっさに橋を渡り切り、声の聞こえた川岸へと走る。

「おおっとすまねえ!」

 慌てていたせいで、同じように声を聞いて駆け付けたであろう男とぶつかってしまった。体格の良い若い侍である。

「いや、こちらこそ」

 お互い、詫びもそこそこに、声の上がった方を見ると、すでに人垣ができ始めていた。

「人が流れてきてよう」

 船頭が舟の下を指している。

「女じゃねえか」

 さっき宗次郎にぶつかった若侍が、船着場へ飛び降りた。宗次郎もそれに続く。

 宗次郎の目に映ったのは、濡れそぼった紅い花だった。
 ハッとして目を凝らすと、それは女ものの着物で、船着き場の柱に引っかかり、流れに浮き沈みしながら揺れていた。


ーーーーーーーーーーーー

*高田富士――日本最古の冨士塚(富士山信仰のための塚)。富士講を幕府が取り締まったこともあり、富士登山が叶わぬ人のため、江戸各地に富士山を模した塚が造られたそうです。高田富士は現早稲田大学キャンパス9号棟の場所にあったらしいのですが、大学が建てられた昭和三十八年ころ、潰され、水稲荷と共に西早稲田三丁目(甘泉園公園横)に移築されています。
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