貸本屋の坊ちゃんには裏の顔がある。~魂の蟲編~

森野あとり

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貸本屋炎上

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 ◇

「すっかり暗くなったわねえ。話し込んじゃってすまないね」

 伊勢屋の玄関先で女将が話を始めると、中々帰しちゃ貰えねえ。
 苦笑いを堪えながら、広げた本を背負子に積み上げる。

 外は黄昏時。
 できれば陽が落ちる前に帰りたかった。だが、新規開拓をしていたのだから仕方がねえな。それに女将の話好きはいつものことだ。

「いいえ、また明後日には伺います。あの子たち、もうすぐ稽古から帰って来るんですかね」

 暗い夜道を女の子たちだけで帰って来るのだろうかと、俺はいらぬ心配をする。むしろそろそろ御座敷の時間だろうに。

「暗くなったら男衆おとこしが迎えに行くから大丈夫だよ。それに豆千代の件もあったでしょ。だからね、うちは二日ほど休むつもりだと見番にも言ってあるから」

 ああ、そうか。結局、殺しの現場に居合わせちまったんだもんな。

「あんな事件に巻き込まれて気の毒に……」

 疑わしいとはわかっていても、やはり豆千代に同情してしまう。

「春木屋さんとは切れない縁があったのかねえ。守ってやれなくて」

 女将が目頭を押さえた。

「豆千代は元々、春木屋の禿かむろでねぇ、あの子が側で仕えていた花魁は春木屋でも上玉で、赤坂一だとうたわれた太夫たゆうだったんだよ。それなのに志士を名乗る侍に斬られちまってねえ。あの子はそれを間近で見てしまったらしいよ。それに斬ったお侍も捕まっちゃいないんだよ」

 その話に、俺は目を見張っちまった。

「えっ、それで、その斬られた花魁は……」
「うまく浪士をあしらえなかった太夫に春木屋さんは怒ってね、その亡骸なきがらろく供養くようもしてもらえなかったと、その頃の噂で聞いたよ。彼女を慕っていた豆千代もその後、随分ひどい扱いを受けたみたいでねぇ」

 豆千代の、想像以上に壮絶な過去に息を呑む。

「では、豆千代さんはミネさんや春木屋さんを恨んでいたとか……」
「そりゃあねえ、恨みも無いこた無いだろうけど、でも、あの二人が死んだこととは無関係だと思うよ。何しろ、あの頃の禿や娼妓たちは、みんな辛い目に遭っていたらしいからさ。おまけに志士を名乗る侍どもはさ、何でもかんでも『斬り捨て御免』が通用すると思い上がっていた時代だろ?」

 しかし、殺しの現場に居合わせたのは、いつも豆千代だと、坊ちゃんは言っていた。

「で、豆千代さんは今……」
「おや、半玉たちは揃って稽古に行かせたよ。豆千代も一緒に行くと言っていたけどねえ」

 さっきすれ違った顔を思い浮かべる。

(いや待て。あの中に豆千代さんはいなかった……ような……)

 途端、胸がざわついた。
 慌てて本をかき集め、玄関の外へ飛び出す。

 ――何かがおかしい。

 その、『何か』はすぐに分かった。煙たいような、焦げたような臭いが届いたのだ。
 ハッとして臭いの方を見ると煙が上がっているじゃねえか!

 あっちにはうちの店はあるんだ!!!

「坊ちゃん!」

 さっき背負ったばかりの背負子を下ろす。

「女将さん、これ、ちょいと預かってくれねえか。また取りに来るから」

 そう断るなり、身軽になった体で飛ぶように路地を駆け出す。

(なんで気付けなかった! なんで腹の虫はこんな時に限って教えてくれねえんだ)

 嫌な予感が今更のように津波となって襲い掛かって来る。
 たった五分もかからないはずの距離がもどかしい。
 角を曲がると、やはり火元は尾白屋うちであることが分かった。同じように臭いに気付いたご近所さんが外に出て騒いでいる。
 煙の出何処は店先じゃねえか。だから燭台なんぞあぶねえから使うなと言っていたのに! ああ、まだ火事と呼ぶほどに炎は上がっていねえ。
 裏の路地から長屋の脇を抜けて近道をする。裏木戸を蹴り開け、庭から土足で客間に上がった。
 ここまで火の手は迫っていねえ。

(店は燃えたっていい。坊ちゃんさえ無事ならば!)

 とにかく坊ちゃんを救い出すことだけを考え、台所にあった桶の水をかぶった。そしてそのまま作業部屋から店に抜ける。
 しかし、帳場机に坊ちゃんの姿がない。

「坊ちゃん! どこだ、坊ちゃん」

 目に飛び込んできたのは、炎の上がった錦絵や本の束。そこから広がった火は売り台に燃え移り、ちりちりと炎が脇の本棚へと蛇のように這って行く様だった。

「なんでこんなことに!」

 それを藤田が上着を脱いで火が広がらないよう、炎の行く手をバシバシと叩いて消していた。

「てっめえ! 来るのが遅えんだよ!」

 怒鳴られたが、口答えする余裕もない。更に何かを怒鳴られたが、火の勢いに押され聞き取れなかった。
 とにかく煙の中を見渡す。それは時間にして数秒。
 藤田との間に、さらに炎の壁が生まれ、その壁を隔てて本棚の前に坊ちゃんの姿を見つけた。なぜか体を起こし、苦悶の表情で咳込んでいる。
 なぜ火の中から逃げようとしないのか、その瞬間に理解した。
 坊ちゃんの顎までに切り揃えた髪を、修羅のような顔をした豆千代が握っていた。

「一緒に地獄へ行こう。ね、一人じゃ寂しいから」

 豆千代の声がはっきりと聞こえた。振り上げた手には鋭く尖った金物が見えた。

「そうはさせるか!」

 彼女がもう片方の手を振り下ろす前に、俺は炎の中に突っ込んだ。そのまま坊ちゃんの髪を握っていた方の腕を払う。

「ぐっ」
「三四郎!」

 鋭い痛みが腕まで届いた。
 けど、怯んでいる暇なぞねえ。
 豆千代を引きはがし、坊ちゃんを抱える。考える間などなかったんだ。
 短い悲鳴に振り返ると、豆千代が炎の中に投げ出されいた。彼女の手にしていたこうがいが宙を舞う。
 その中から藤田が素早く豆千代を引きずり出すのが見えて、ホッとした。

「ゲホ、ゲホゲホ」

 俺は煙を吸って咳込み続ける坊ちゃんを抱えると、そのまま書庫へ抜ける扉から裏庭の方へと逃れた。

「大丈夫ですかい」

 ようやく煙の薄い所に出られ、坊ちゃんの呼吸が落ち着いてきた。通り土間のすのこの上に座らせる。

「坊ちゃまー! 朔さまあぁぁぁ! 放してくださいまし、中に、中に、朔様が」

 庭の塀の向こうから、お絹さんの声が届いた。それを聞いた坊ちゃんは、ふっと笑みをこぼし言った。

「心配してはいなかった。お前が間に合うことを信じていたからね」

 その言葉に胸が詰まった。

「店はもういい。一緒に逃げよう。絹が待っている。火消しもすぐ来るだろう」

 坊ちゃんに手を引かれ、目を丸くする。咄嗟に、それは嫌だと思った。

「まだ火は小さいんだ。坊ちゃんは裏から出て安全な場所まで逃げてください。俺は諦めねえから」

 そう言い残すと、再び火の手の上がる店の方へと戻って行った。

 すでに近所の男たちもやって来て、壁際の本棚を倒し、水を掛けていた。俺も自分の羽織を脱いで火を消そうと躍起になって、燃え続ける本たちを叩きまくった。
 傷を受けた肩が悲鳴を上げているのだろうが、頭に血が上ってしまって既に痛みも感じなかった。

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