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八
side朔太郎――豆千代のついた嘘
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「陽が短くなりましたわねぇ」
お絹が手持ちの燭台に火を灯しに来た。
まだ四時だというのに、店の奥はほの暗い。燭台に灯が灯ると、余計に暗さが際立つような気がする。
朔太郎は腰を上げ、長時間座りっぱなしで痛む尻を拳でトントンと叩いた。
右の脚は感覚がないくせに、尻は左右同じように痛みを感じる。この痛みの先のどこかで、感覚を司る糸が千切れているのだろうと、動かない足先を忌々しく眺めた。
「夕飯は芋と大根を炊きました。おみおつけは温め直してくださいまし。それにしても三四郎さん、遅いですわね」
店閉めは五時だが、日が暮れるのが早くなった今は、四時半までに店の戸を半分閉めてしまう。
お絹が店先に出て、戸を操りながら空を見上げた。
「空が随分、気味の悪い色ですこと。景色全体が黄朽ち葉のように染まっております」
「そうだね、きっとどこかで雨が降っているんだろう」
開け放たれた店の外はまるで、別世界のように黄色い。
お絹は正面だけを残して、両脇の雨戸をはめ込んだ。それから店頭に飾っていた投げ入れ花の瓶を回収した。
花瓶を持ち上げると、活けてあった山茶花が花びらを散らし、台の上とたたきに赤い彩を添えた。
膝を折ったお絹を朔太郎が止めた。
「いいよ、そのままで。風流だ。片づけは三四郎にさせるから」
お絹は「まあ」と呆れ声をあげながら、「でも確かに美しゅうございますわね」と楽しそうに笑った。
「お絹さん、今日は早めに上がってくれていいよ。この辺りにも雨が降って来ないうちに」
こういう時、察しのよい彼女は、『いえ、まだ居りますとも』などとは言わず、素直に朔太郎の言うことを聞き入れてくれる。朔太郎がいつもと違うことを頼んだり勧めたりする時は、大抵なにか企んでいる時だとわかっているようである。
朔太郎はお絹が長屋に帰るのを見届けると、燭台の灯の下でもう一度手紙に目を通した。
それは朔太郎が藤田に頼んで、本庁からくすねて来てもらった調書である。手に入れた調書は、かなり急いで作成されたことが文字からうかがえる。慌ててしたためた文字は仮名や当て字が多く、右に流れ、やや乱雑で読みにくかった。
「あのぉ」
店の入り口から控えめな声がした。
「まだやっていますか」
黄色に照らされた通りから、豆千代が店の中を覗き込んだ。
戸の隙間からわずかな風が入り、たたきの上に散っていた赤い花びらがほんの少しばらけた。
「ああ、どうぞ。でも三四郎が伊勢屋さんに立ち寄るはずなんだけどなあ。入れ違ったのかな」
「そうなんですね。うち、稽古の帰りだから」
昨日のことを問い質す素振りは見せないでおいた。そして、豆千代の方も何事もなかったように、まるで素知らぬ顔で店頭に並んだ新刊の本を眺めている。
だが稽古の帰りという割には、手荷物もなく身軽な恰好である。それを朔太郎が見逃すはずはない。
しかも店の中央に並べられた絵草紙や錦絵を物色するというよりも只々眺めているだけだ。
朔太郎が帳簿机の前に座ったまま声をかけた。
「魯文先生の新刊が入っているよ。左側に積んである本がそうだ。新聞屋で仕入れた最新の錦絵版は三四郎が伊勢屋さんに持って行っていると思うが」
朔太郎のおすすめに、豆千代は首を振って、
「ううん、うち、まだ楷書の仮名しか読めないから」と言いつつ、心中物の錦絵新聞を手に取った。
「……嘘だね」
「えっ」
ぼそりと落とされた朔太郎の台詞は、たった一言であったが、鋭い棘を隠し持っていて、豆千代は弾かれたように顔を上げた。
「君、崩し文字に漢字だって読めるじゃないか」
「どうして? どうしてそんなことを言うの。うち、ほんとに馬鹿だからわからないのに、時々朔太郎さんは意地の悪い言い方をするのね」
訴えかけるような瞳は、潤んで揺れながら朔太郎を責める。だが、そんないじらしい仕草も朔太郎には意味がなかった。
「君はちゃんと漢字が読めるよ。君に読み書きを教えた人がいたからね。君は皆が思っているほど馬鹿でもないし可哀そうでもない」
けんもほろろに否定され、豆千代が下唇を噛んだ。
「だって、ちゃあんと予約台帳に記していた名前が読めただろう? あの小林って車夫は、最近では珠緒さんではなく君を指名していたようじゃないか。小林が次にいつ指名してくれるのか、証文箱の中に入っていた予約台帳を読んで知った上で、殺す機会を狙っていたんじゃないのかい」
徐々に暗くなる店の中で、朔太郎は口角を上げる自分の表情を見せつけるように、燭台の灯に近づいた。手元の調書にもう一度目を落とす。
豆千代が手にしていた錦絵新聞を台の上に戻した。
「説明が必要かな?」
目を細めて豆千代を挑発する。
「ええ、お願いします」
震える声で答える。まだ、彼女の化けの皮は剥がれていないらしい。
朔太郎は頬杖をついて、けだるそうに話し始めた。
「少し前、伊勢屋さんが失せ物探しの依頼をした証文箱には、特別な客から指名を受けた予約を綴った予約台帳が入っていたんだよ。君はそれを盗み見て、でも仕舞う場所を間違ってしまったんだね。普通に見番から届いた綴りを仕舞う棚へ一緒に片付けてしまった」
「それも神通力ですか」
「いや、ただの推測だ。でもここからは推論じゃない。警部補に頼んで手に入れた調書に基づいて話そう」
手に持っていた紙を畳の上に広げ、豆千代の目の届く位置まですべらせた。
「雪隠で殺された小林さん……いや、河村重雄はね、昔、まだ明治になって間もない頃、春木屋の太夫を斬り殺していたというものだ」
豆千代の目が大きく見開かれた。
「そ、それがどうかしたの、うちとは関係ないじゃない」
「いや、君もその場にいたはずだよ。まだ禿だったと思うけどね」
お絹が手持ちの燭台に火を灯しに来た。
まだ四時だというのに、店の奥はほの暗い。燭台に灯が灯ると、余計に暗さが際立つような気がする。
朔太郎は腰を上げ、長時間座りっぱなしで痛む尻を拳でトントンと叩いた。
右の脚は感覚がないくせに、尻は左右同じように痛みを感じる。この痛みの先のどこかで、感覚を司る糸が千切れているのだろうと、動かない足先を忌々しく眺めた。
「夕飯は芋と大根を炊きました。おみおつけは温め直してくださいまし。それにしても三四郎さん、遅いですわね」
店閉めは五時だが、日が暮れるのが早くなった今は、四時半までに店の戸を半分閉めてしまう。
お絹が店先に出て、戸を操りながら空を見上げた。
「空が随分、気味の悪い色ですこと。景色全体が黄朽ち葉のように染まっております」
「そうだね、きっとどこかで雨が降っているんだろう」
開け放たれた店の外はまるで、別世界のように黄色い。
お絹は正面だけを残して、両脇の雨戸をはめ込んだ。それから店頭に飾っていた投げ入れ花の瓶を回収した。
花瓶を持ち上げると、活けてあった山茶花が花びらを散らし、台の上とたたきに赤い彩を添えた。
膝を折ったお絹を朔太郎が止めた。
「いいよ、そのままで。風流だ。片づけは三四郎にさせるから」
お絹は「まあ」と呆れ声をあげながら、「でも確かに美しゅうございますわね」と楽しそうに笑った。
「お絹さん、今日は早めに上がってくれていいよ。この辺りにも雨が降って来ないうちに」
こういう時、察しのよい彼女は、『いえ、まだ居りますとも』などとは言わず、素直に朔太郎の言うことを聞き入れてくれる。朔太郎がいつもと違うことを頼んだり勧めたりする時は、大抵なにか企んでいる時だとわかっているようである。
朔太郎はお絹が長屋に帰るのを見届けると、燭台の灯の下でもう一度手紙に目を通した。
それは朔太郎が藤田に頼んで、本庁からくすねて来てもらった調書である。手に入れた調書は、かなり急いで作成されたことが文字からうかがえる。慌ててしたためた文字は仮名や当て字が多く、右に流れ、やや乱雑で読みにくかった。
「あのぉ」
店の入り口から控えめな声がした。
「まだやっていますか」
黄色に照らされた通りから、豆千代が店の中を覗き込んだ。
戸の隙間からわずかな風が入り、たたきの上に散っていた赤い花びらがほんの少しばらけた。
「ああ、どうぞ。でも三四郎が伊勢屋さんに立ち寄るはずなんだけどなあ。入れ違ったのかな」
「そうなんですね。うち、稽古の帰りだから」
昨日のことを問い質す素振りは見せないでおいた。そして、豆千代の方も何事もなかったように、まるで素知らぬ顔で店頭に並んだ新刊の本を眺めている。
だが稽古の帰りという割には、手荷物もなく身軽な恰好である。それを朔太郎が見逃すはずはない。
しかも店の中央に並べられた絵草紙や錦絵を物色するというよりも只々眺めているだけだ。
朔太郎が帳簿机の前に座ったまま声をかけた。
「魯文先生の新刊が入っているよ。左側に積んである本がそうだ。新聞屋で仕入れた最新の錦絵版は三四郎が伊勢屋さんに持って行っていると思うが」
朔太郎のおすすめに、豆千代は首を振って、
「ううん、うち、まだ楷書の仮名しか読めないから」と言いつつ、心中物の錦絵新聞を手に取った。
「……嘘だね」
「えっ」
ぼそりと落とされた朔太郎の台詞は、たった一言であったが、鋭い棘を隠し持っていて、豆千代は弾かれたように顔を上げた。
「君、崩し文字に漢字だって読めるじゃないか」
「どうして? どうしてそんなことを言うの。うち、ほんとに馬鹿だからわからないのに、時々朔太郎さんは意地の悪い言い方をするのね」
訴えかけるような瞳は、潤んで揺れながら朔太郎を責める。だが、そんないじらしい仕草も朔太郎には意味がなかった。
「君はちゃんと漢字が読めるよ。君に読み書きを教えた人がいたからね。君は皆が思っているほど馬鹿でもないし可哀そうでもない」
けんもほろろに否定され、豆千代が下唇を噛んだ。
「だって、ちゃあんと予約台帳に記していた名前が読めただろう? あの小林って車夫は、最近では珠緒さんではなく君を指名していたようじゃないか。小林が次にいつ指名してくれるのか、証文箱の中に入っていた予約台帳を読んで知った上で、殺す機会を狙っていたんじゃないのかい」
徐々に暗くなる店の中で、朔太郎は口角を上げる自分の表情を見せつけるように、燭台の灯に近づいた。手元の調書にもう一度目を落とす。
豆千代が手にしていた錦絵新聞を台の上に戻した。
「説明が必要かな?」
目を細めて豆千代を挑発する。
「ええ、お願いします」
震える声で答える。まだ、彼女の化けの皮は剥がれていないらしい。
朔太郎は頬杖をついて、けだるそうに話し始めた。
「少し前、伊勢屋さんが失せ物探しの依頼をした証文箱には、特別な客から指名を受けた予約を綴った予約台帳が入っていたんだよ。君はそれを盗み見て、でも仕舞う場所を間違ってしまったんだね。普通に見番から届いた綴りを仕舞う棚へ一緒に片付けてしまった」
「それも神通力ですか」
「いや、ただの推測だ。でもここからは推論じゃない。警部補に頼んで手に入れた調書に基づいて話そう」
手に持っていた紙を畳の上に広げ、豆千代の目の届く位置まですべらせた。
「雪隠で殺された小林さん……いや、河村重雄はね、昔、まだ明治になって間もない頃、春木屋の太夫を斬り殺していたというものだ」
豆千代の目が大きく見開かれた。
「そ、それがどうかしたの、うちとは関係ないじゃない」
「いや、君もその場にいたはずだよ。まだ禿だったと思うけどね」
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