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七
警視庁
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春木屋の死体検視が終わり、巡査らが各々聞き込みで散ってしまった部屋は、再び静寂に包まれた。
独り残された部屋で、何も考えられず放心していた。
「おい、お前の主人はどうした」
藤田の鋭い視線がうっとおしい。
不機嫌極まりない態度にもうんざりした。結局、事件を未然に防げなかったことに腹を立てているのだろうがな、しかし、佐々木を逃がしてしまったのは、てめえの怠慢だろうか。
「まさか、あんたでも逃がすのだな」
藤田の問いには答えず、嫌味を放った。
言ったそばから藤田がぼやく。
「いま少し、蟲について詳しく聞きたかったのだがな……」
まったく話がかみ合っていねえ。
大きなため息が出た。
結局、坊ちゃんは事件を中途半端に残して、独りで立ち去ったのだ。狡い――と思ったが、怒らせてしまったのはこの俺だ。
「坊ちゃんなら独りで帰ったよ」
「ほぉ」と、顎に手をやり、藤田が舐めるように俺を見た。
「で、斬られた傷はどうだ」
着物をめくって確認すると、意外にも出血が多く、脚は血まみれだ。太腿の切傷は、横方向に切れると傷口が上下に引っぱられ広がってしまうため、傷口が閉じないからだ。それでも血は止まり、傷口と流れた血は生乾きになってる。血が止まっているなら問題ない。
「まあ、かすめただけだ。縛っておけばすぐに傷口もふさがるだろうよ。歩くには問題ない」
懐に入れていた手拭いを、傷の上からきつく縛っておいた。
「なら、お前でもいい。知っていることを教えてもらおう。お前の御主人と蟲のことを」
ついて来い――と、指で命令される。
どうせこのまま帰っても気まずいだけだ。俺は藤田の言う『任意の同行』に付き合うことにした。ついでに佐々木を逃がした文句も言いたかった。
堀を渡り、連れて来られたのは、警視庁の庁舎であった。
まるで知らぬ街に来てしまったような感覚になる。俺はこんな街を知らない。ここは江戸じゃない。ここは〈東京府〉という新しい都市だとわかり切っているが、どうしても馴染めねえ……
丸の内にあった大名小路は、幕府解体後しばらく、主を失った屋敷が朽ち果て無残な姿をさらしていたと聞くが、生まれかわった大名小路には、もう昔の風情は皆無だ。
今はいずれも明治政府軍により買い上げられ、軍の兵舎や各省庁として生まれ変わっている。
(ここが警視庁……たしかここは、津山様の……)
掛けられた胡散臭い看板を一瞥する。
この東京警視庁も然り。元は津山藩邸であった御殿も、無粋な手が加えられ、殺風景な詰所へと変貌していた。
土足のまま窓のない三畳ほどの小部屋に案内される。
「俺は全然かまわんが、豆千代もこんな冷たい部屋に押し込まれたとすりゃあ、可哀そうだ」
畳のない板の間に西洋風の椅子と脚の長い簡素な机が置かれ、奥側の椅子に座るよう促された。俺の嫌味を無視した藤田が、向かい合うように腰を掛ける。
「そんなことより、てめえの主人はなんで帰っちまった。まだ事件は終わってもいねえのによ」
伝法な物言いで不服を言われたが、まさか俺が坊ちゃんを怒らせてしまったからだとは言いにくい。
「わかんねえよ。急にへそを曲げちまった」とごまかす。
藤田が目を細めたところを見るに、この嘘はうまくいかなかったようだ。
「まあいい」
藤田が両手を机の上で組み、俺の目を見据えた。
「これだけは言っておく。てめえの主人が正しかった」
今更、何が正しいと判断することがある。殺しの予告か? それとも……
「確かにあいつは佐々木じゃねえ。俺を『はじめ』と呼ぶ奴なんぞ、そうそういねえからな」
斎藤一――新選組が京で活躍していたころに藤田が名乗っていた名前。
「ここの人間で、俺が新選組の斎藤組長であったことを知っているのは上層でも一部の人間くれえだ。ついでに言うと、新選組の同志でも俺のことを『はじめ』とは呼ばん。そんな呼び方をしたのは、近藤先生と土方副長、組長連中では沖田と原田、伍長ではあいつ……大石くれえだった。まさか毛利家家臣でしかも江戸詰めだった佐々木が、京での俺を知っていたとは思えねえ」
その告白に二の腕の肌が粟だつ。
蟲の存在を信じていなかったわけではない。俺も蟲を見たことがあるのだから。だが、藤田の証言通りだとすると、大石鍬次郎という既に死んでいるはずの人間が、今も他人の体を使って生きているということになる。
「なあ、藤田さんよ。あんたが認めたように、あの佐々木という巡査が大石の蟲によって体を乗っ取られているのだとしたら、大石はまた別の宿を探して生き延びることができると言うことじゃねえか……え? そうだろ」
話しているうちに沸々と怒りが沸いてきた。
「なんで、なんで失敗しやがった。なんで殺せなかった!」
大石の蟲が出て行った三井丑之助は、まるで廃人だというじゃねえか。坊ちゃんが言うように、他人の蟲に取り憑かれた体が、その蟲が出て行った後は、死ぬか廃人と化すだけだとすれば……つまり、大石が宿主を替え渡り歩くたび、犠牲者が出ると言うことだろうが!
藤田が歯ぎしりをしたまま黙り込んだ。
「あんたはどこかで、佐々木だと言う懸念を消せなかったんだろうよ。だから剣先が鈍ったんじゃあねえのかよ」
硬く目を瞑ると、鼻から大きく息を吐き出した。だが、藤田に投げた悪態は、己自身への問いかけも同然だと、思い至る。
藤田が苦々しい顔で口を開いた。
「蟲の……佐々木の魂をぶんどった蟲の正体を知っているのは、俺たち三人だけだ。ほかの警官にすりゃあ、ただ佐々木が乱心しただけにしか思わん。そもそも、てめえの主人はどうやってそれを見分けている。あいつはいったい何者なんだ。陰陽師だか呪術師だか知らねえが、そもそもあいつの御先祖はそれの側用人だという話じゃねえか。未だ、蟲だの神通力だの、俺には認めがたい。ただの側用人の子孫であるあいつには、本当に蟲を見分ける力があると、お前は信じるのか」
ほらな。やはりそれが本音だろうよ。
独り残された部屋で、何も考えられず放心していた。
「おい、お前の主人はどうした」
藤田の鋭い視線がうっとおしい。
不機嫌極まりない態度にもうんざりした。結局、事件を未然に防げなかったことに腹を立てているのだろうがな、しかし、佐々木を逃がしてしまったのは、てめえの怠慢だろうか。
「まさか、あんたでも逃がすのだな」
藤田の問いには答えず、嫌味を放った。
言ったそばから藤田がぼやく。
「いま少し、蟲について詳しく聞きたかったのだがな……」
まったく話がかみ合っていねえ。
大きなため息が出た。
結局、坊ちゃんは事件を中途半端に残して、独りで立ち去ったのだ。狡い――と思ったが、怒らせてしまったのはこの俺だ。
「坊ちゃんなら独りで帰ったよ」
「ほぉ」と、顎に手をやり、藤田が舐めるように俺を見た。
「で、斬られた傷はどうだ」
着物をめくって確認すると、意外にも出血が多く、脚は血まみれだ。太腿の切傷は、横方向に切れると傷口が上下に引っぱられ広がってしまうため、傷口が閉じないからだ。それでも血は止まり、傷口と流れた血は生乾きになってる。血が止まっているなら問題ない。
「まあ、かすめただけだ。縛っておけばすぐに傷口もふさがるだろうよ。歩くには問題ない」
懐に入れていた手拭いを、傷の上からきつく縛っておいた。
「なら、お前でもいい。知っていることを教えてもらおう。お前の御主人と蟲のことを」
ついて来い――と、指で命令される。
どうせこのまま帰っても気まずいだけだ。俺は藤田の言う『任意の同行』に付き合うことにした。ついでに佐々木を逃がした文句も言いたかった。
堀を渡り、連れて来られたのは、警視庁の庁舎であった。
まるで知らぬ街に来てしまったような感覚になる。俺はこんな街を知らない。ここは江戸じゃない。ここは〈東京府〉という新しい都市だとわかり切っているが、どうしても馴染めねえ……
丸の内にあった大名小路は、幕府解体後しばらく、主を失った屋敷が朽ち果て無残な姿をさらしていたと聞くが、生まれかわった大名小路には、もう昔の風情は皆無だ。
今はいずれも明治政府軍により買い上げられ、軍の兵舎や各省庁として生まれ変わっている。
(ここが警視庁……たしかここは、津山様の……)
掛けられた胡散臭い看板を一瞥する。
この東京警視庁も然り。元は津山藩邸であった御殿も、無粋な手が加えられ、殺風景な詰所へと変貌していた。
土足のまま窓のない三畳ほどの小部屋に案内される。
「俺は全然かまわんが、豆千代もこんな冷たい部屋に押し込まれたとすりゃあ、可哀そうだ」
畳のない板の間に西洋風の椅子と脚の長い簡素な机が置かれ、奥側の椅子に座るよう促された。俺の嫌味を無視した藤田が、向かい合うように腰を掛ける。
「そんなことより、てめえの主人はなんで帰っちまった。まだ事件は終わってもいねえのによ」
伝法な物言いで不服を言われたが、まさか俺が坊ちゃんを怒らせてしまったからだとは言いにくい。
「わかんねえよ。急にへそを曲げちまった」とごまかす。
藤田が目を細めたところを見るに、この嘘はうまくいかなかったようだ。
「まあいい」
藤田が両手を机の上で組み、俺の目を見据えた。
「これだけは言っておく。てめえの主人が正しかった」
今更、何が正しいと判断することがある。殺しの予告か? それとも……
「確かにあいつは佐々木じゃねえ。俺を『はじめ』と呼ぶ奴なんぞ、そうそういねえからな」
斎藤一――新選組が京で活躍していたころに藤田が名乗っていた名前。
「ここの人間で、俺が新選組の斎藤組長であったことを知っているのは上層でも一部の人間くれえだ。ついでに言うと、新選組の同志でも俺のことを『はじめ』とは呼ばん。そんな呼び方をしたのは、近藤先生と土方副長、組長連中では沖田と原田、伍長ではあいつ……大石くれえだった。まさか毛利家家臣でしかも江戸詰めだった佐々木が、京での俺を知っていたとは思えねえ」
その告白に二の腕の肌が粟だつ。
蟲の存在を信じていなかったわけではない。俺も蟲を見たことがあるのだから。だが、藤田の証言通りだとすると、大石鍬次郎という既に死んでいるはずの人間が、今も他人の体を使って生きているということになる。
「なあ、藤田さんよ。あんたが認めたように、あの佐々木という巡査が大石の蟲によって体を乗っ取られているのだとしたら、大石はまた別の宿を探して生き延びることができると言うことじゃねえか……え? そうだろ」
話しているうちに沸々と怒りが沸いてきた。
「なんで、なんで失敗しやがった。なんで殺せなかった!」
大石の蟲が出て行った三井丑之助は、まるで廃人だというじゃねえか。坊ちゃんが言うように、他人の蟲に取り憑かれた体が、その蟲が出て行った後は、死ぬか廃人と化すだけだとすれば……つまり、大石が宿主を替え渡り歩くたび、犠牲者が出ると言うことだろうが!
藤田が歯ぎしりをしたまま黙り込んだ。
「あんたはどこかで、佐々木だと言う懸念を消せなかったんだろうよ。だから剣先が鈍ったんじゃあねえのかよ」
硬く目を瞑ると、鼻から大きく息を吐き出した。だが、藤田に投げた悪態は、己自身への問いかけも同然だと、思い至る。
藤田が苦々しい顔で口を開いた。
「蟲の……佐々木の魂をぶんどった蟲の正体を知っているのは、俺たち三人だけだ。ほかの警官にすりゃあ、ただ佐々木が乱心しただけにしか思わん。そもそも、てめえの主人はどうやってそれを見分けている。あいつはいったい何者なんだ。陰陽師だか呪術師だか知らねえが、そもそもあいつの御先祖はそれの側用人だという話じゃねえか。未だ、蟲だの神通力だの、俺には認めがたい。ただの側用人の子孫であるあいつには、本当に蟲を見分ける力があると、お前は信じるのか」
ほらな。やはりそれが本音だろうよ。
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