貸本屋の坊ちゃんには裏の顔がある。~魂の蟲編~

森野あとり

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追跡

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 豆千代を乗せた人力車は、外濠そとぼりに沿った甲州街道を走り抜け、新橋の鉄道駅の前まで行った。

 陸奥松平家の上屋敷跡が鉄道駅となってしまったように、この辺りの武家屋敷は千坪二十五円という、幕府の頃では考えられないほどの安値で売払われ、今では跡形なく市街地へと変貌を遂げている。
 中には屋敷をそのまま利用した休息所や料理茶屋(料亭)もあり、その新しく生まれ変わった屋敷の一つに豆千代と男が入って行った。その姿を見届けると、藤田は門前の男に自分の名を名乗った。すんなりと許可を得られたのか、続いて俺たちも門をくぐる。

 門の中に足を踏み入れると、幻想的な灯りが目に入った。庭のあちらこちらに洋物の花や細工された菊が植えられ、それを魅せるように高低差を付けた灯りが揺らめいている。もうすぐ訪れる冬までのわずかな期間を惜しむように秋の花が咲き競っていた。

「ずいぶんと豪勢な料理茶屋だな」

 菱屋とはまた違うおもむきだが、それよりももっと敷居が高いことは一目瞭然だ。だが、藤田は見慣れているのだろうか。それほど驚きもせず、玉砂利の道をサクサクと進む。

「ここは通称、花屋敷茶屋と呼ばれ、ただ庭を見物するだけに入ることもできる。評判は聞くが、実際に入ったのは初めてだがな」

 なるほど。俺たちのほかにも、庭を散策する人影がちらほらと見えた。

「この奥の座敷では泊りができるはずだ。政府の高官どもが女連れで良く使うらしい」

 つまり、高級休息所ってことだ。ま、俺なんぞ一生、泊まることなど無いだろうが……

 庭から逸れ、建物の玄関をくぐる。広く立派な式台が、武家屋敷だった名残りを感じさせる。玄関の間には大きな唐模様の花器が置かれ、見事な花が活けられている。美しい芸者をはべらせ談笑する客人を見ると、確かに藤田の言うように、政府の役人や財界の大物たちだった。

 この華やかな雰囲気に不似合いな背負子を下ろすと、坊ちゃんを自分の腕に抱えた。
 と、すぐに藤田の姿を認めた店の男が駆け寄ってきた。

「巡査殿、どういう御用でございましょうか」

 だが藤田は質問には答えず、己の要件を突き付けた。

「亭主を呼べ」

 可哀そうに、横柄な態度の上、威圧する目で睨まれた男は、おろおろするばかりである。しどろもどろに、亭主が今多忙だというような言い訳をする。それを藤田は聞き終える前に両断した。

「今夜は御用改めに来た。とある事件の罪人を追っている。見張りのための部屋を貸せと伝えろ」

 言い放つや否や、サーベルを差したまま長靴を脱ぎ式台を上がった。
 勝手に上がられ困惑している男に、坊ちゃんが借りたい部屋の条件を付けた。

「できればさっき入っていった伊勢屋の半玉、彼女が向かう部屋の隣を借りたいんだけど」

 突如、藤田の前に滑り込むような形で女が立ちふさがった。
 色柄は地味だが明らかに上等の絹の着物をかっちりと着こなした姿から、この茶屋の女将だとわかる。

「いきなり、何をおっしゃるんですか。罪人なわけございませんよ。あの部屋の客は、桐畑の菱屋さんからの紹介で回されたお客様でございますから。当店では身元の不確かな御客人はご利用をお断りしておりますの」
「菱屋さんが紹介したからって、まともなお客とは限らないでしょ」

 坊ちゃんの意地悪な返しに、女将はつんと澄まして、さらりと客の身元をばらした。

「いいえ、春木屋の御亭主はわたくしもよく存じておりますのよ」

 なんと! 豆千代の客は、おミネがいた置屋の亭主だった。
 驚いたのは俺だけではなかった。藤田もまた、目を見開いている。

(なんで春木屋が豆千代を……しかも自分の片腕が死んですぐだというのに、ふつう女遊びなんぞするか? それもなんで半玉なんぞと……)

 どうも、この奇妙な組み合わせに釈然としねえ。だが、坊ちゃんは予想通りだったのか、平然としてやがる。

(ああ、そうか)
 
 坊ちゃんは伊勢屋の女将の予約帳を見たんだったな。すでに豆千代の相手を知っていて、だからこんな所まで追ってきたのだ。

 俺の腕から体を乗り出し、女将に向いてしらっとした顔で囁く。

「当然、僕は御客人の身元も承知していますよ。ですが、捕らえるのはその方ではありませんから、ご安心なすってください」

 女将は周りの客の目を気にしてか、身を低くして小声で訴えてきた。

「いったい、何の捕り物をなさろうってのですか。ついさっきも四谷交番の巡査長が同じようなことを言って座敷に上がっていきましたよ。こっちは迷惑ったらありゃしない」

 女将の訴えに、俺たちは顔を見合わせた。

 いや、だって、おかしいじゃねえか! これは坊ちゃんが思いついた捕り物なんだぞ。
 藤田以外の巡査や警部はこのことを知る由もないはずだ。いったい誰が先回りしたってんだ。
 藤田の炯眼けいがんがさらに険しくなった。

「おい、女将。さっきとはいつのことだ」
「ほんの十五分ほど前でございますよ。伊勢屋さんの半玉が到着する少し前です。言っておきますけど、うちがそこいらの休息所とは違うことは御存じでしょうね。政府のお偉い方が大勢利用なすっているのです。抜き打ちの御用改めだとか、そういう大昔のような真似ごとはよして下さいまし」

 さすがだな。
 強気な態度はいかにも江戸前気質の女そのものだ。引き眉に鉄漿かね(お歯黒)の女将が顎を上げると、強面の藤田よりも迫力があらぁ。
 藤田がため息を逃がしながら低い声を発する。

「とまれ、黙って部屋だけ空ければよい」
「あいにく満室でございます。ああ、では先程入って行かれた巡査長と同じ部屋でよろしゅござんすね」

 女将が嫌味たっぷりの対応をすると、坊ちゃんが邪悪そうな笑みを浮かべた。

「むしろ願ったりかなったりだ。僕らよりも先に事件を嗅ぎつけた巡査長とやらを拝んでやる」

 敵意むき出しの女将に案内され、俺たちも回廊の先へと行く。
 俺のはまだ止まねえ。
 いったい何が起こるのかと警戒しつつ、美しい庭園に沿って続く廊下の先を睨む。

 豆千代が入った部屋は一階の最奥にあるようで二度も角を曲がった。その二度目の角を曲がった時、この雅な宿にはふさわしくない大きな音が響いた。

「な、なにごとなの」

 まるで何かが倒れて壊れたような物音に、先を歩いていた女将の足が一瞬止まった。
 女将のおびえた声と重なるように、襖が倒れて建具にでもぶつかったような騒音が続く。

「もしや!」

 遅かったのか――と思うより前に、藤田がその場を駆け出していた。


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