貸本屋の坊ちゃんには裏の顔がある。~魂の蟲編~

森野あとり

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伊勢屋さんの予約台帳

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 さっきまで本を載せていた背負子に坊ちゃんを乗せて、藤田と共に我が家の通用口の木戸の内側で待機していた。

 小雪しょうせつを過ぎ、路地に植わった小さな山茶花さざんかの木が花を付けていた。すっかり陽の落ちた道には辻灯籠つじどうろうが灯り始めた。ますます日が短くなったことを肌で感じる。
 しばらくして、さざめくような華やかな笑い声が近付いてきた。
 通りを隔てた各芸者置屋から、芸者や半玉らが出て来たのだ。
 からころと軽やかな下駄の音に交じっておこぼの足音が混ざる。ひときわ艶のある声は伊勢屋の珠緒さんだ。

(御座敷に出るようになったんだな……)

 『小林殺しの犯人が自殺』という見解は、正式な裁きも結果の公表もないまま噂だけが独り歩きし、この界隈の誰もが安堵を覚えていた。その後の調べで小林とおミネの間には金銭の貸し借りがあったらしい――という余計な情報まで出回っていたのだから、警視庁がおミネと小林の関係を調べ終えるより先に、すっかり事件解決といった雰囲気が花街周辺には漂っていた。

 だからこそ珠緒さんも御座敷に上がる気になったのだろう。
 彼女らが通り過ぎたことを確認してから、俺たちは木戸を開けて通りに出た。
 五丁目の茶屋や貸座敷に向かう芸者らは通りを右に、桐畑の座敷に向かう芸者たちは、並んだ迎えの人力車に乗り込んだ。

 俺たちは人力車を追う。

「もともと春木屋さんは吉原で妓楼(遊郭)をしていたんだよ」

 菱屋の向かいにある待合茶屋にて、伊勢屋の芸者や半玉が菱屋へ入って行く様子を見張りながら、坊ちゃんが説明する。
 夜の菱屋は昼間とは全然違う顔である。
 暗闇から照らし出された楼閣に、美しい芸者たちが吸い込まれて行く様子は、まるで江戸の頃の吉原遊郭を思わせる。

「維新前に火事で焼け出され、桐畑で仮宅をかまえていたんだけれど、結局そのまま吉原には戻らず、ここで娼妓置屋として店を続けることを選んだのさ。その時、暖簾分けして貸座敷を立ち上げたのが、当時の春木屋の番頭。それが菱屋の亭主なんだ」
「それは知らなかったな」

 藤田が感心したように言った。

 つまり、菱屋と春木屋は兄弟のようなものだったということだ。
 ふと、俺は既視感を感じた。この話……いったいどこで聞いた話だったか……。
 先に人力車を降りた半玉たちの中に、豆千代の顔もあった。
 辻行燈に加え、門前の掛行灯かけあんどんが彼女らの白い顔を照らし上げ、色っぽい白粉の匂いがここまで漂ってくるようだ。

「今夜、田町の見番を通して菱屋さんから注文のあった芸妓以外に、照珠てるたまさんは五丁目の常盤屋ときわやで贔屓にしてもらっている役人のお相手。地方じかたの小紫さんは菱屋で新町若旦連しんまちわかだんれんの寄合に。そして豆千代も一旦菱屋へ」

 坊ちゃんの説明に目を見張った。

「そんなこと、どうやって調べたんですかい」

 坊ちゃんが顎を上げて俺の顔を見た。

「伊勢屋さんの予約台帳だよ」

 得意気な鼻の孔を見せつけられ、さっき坊ちゃんを信用しないような台詞を吐いたことを後悔して凹んだ。
 そんな俺の心の中なんぞ、見え見えなんだろうよ。得意気な解説はまだまだ続く。

「例えば今夜の寄合。新町の若旦連がわざわざ赤坂の芸者目当てに遊びに来ている。新橋がすぐ近くにあると言うのにさ。だって新橋の芸者といえば一等格だろ。比べて赤坂の遊女や芸者はというと、今でこそ人気が出て来たと言っても、江戸の頃は新町のに比べ『麦飯』と呼ばれたくらいの格下だ。おおよそ、安く遊べるもんだから、わざわざ赤坂まで来たんだろうさ。だから若旦連の寄合の際には、必ず地方に三味線名人の小紫さんを使うと決めているんだよ。なにしろ芸事に関しては、新橋芸者に負けたくないからね。あと、照珠さんの贔屓客は、そろそろ彼女を落籍らくせきしたいと願っている。だから密会ってことで直接伊勢屋さんに頼んで照珠さんを誘った」

 藤田も呆れている。

「おい、伊勢屋に間者かんじゃ(スパイ)でもいるのか」
「言っただろ、予約台帳だと。そういう特別な客が分かるようにした予約帳が、この間僕が失せ物探しの依頼を受けて探し出した、あの〈証文箱〉に入っていたんだよ。そして殺された小林さんも特別な注文のある面倒な客だった」

 ここで小林の名前が出るのかよ! もしや、小林も春木屋のやり手も伊勢屋の予約台帳で繋がっていたというのか?

「春木屋のやり手婆はどうだ。あの女は伊勢屋の客ではないだろう。むしろ商売敵じゃねえか」
「まあ、それについては、今夜の結果次第で話すよ。憶測の段階で口にすると、真実を見誤ってしまうだろ」

 坊ちゃんの皮肉に、藤田が舌打ちをする。

 おっと、いよいよ遊女らのお出ましだ。
 派手な帯を前で結び、重そうな打掛を着た遊女らが幼い禿かむろを供にして、しゃなりしゃなりと歩いて来た。物腰すべてにおいて、芸者の持つ色気とは全く違うなまめかしさが漂っている。

「あれ?」

 そのなまめかしい後ろ姿と入れ替わるように、見覚えのある半玉が大暖簾をかかげた門の隣の通用口をくぐって出て来た。

「豆千代さんだ」

 唐突にさっきの春木屋の話が頭に過る。

(そうだ、珠緒さんが話していた……)

 豆千代は吉原で産まれたのだと。吉原で焼け出され、桐畑で仮宅をしていた妓楼で育ち、そこを逃げ出したのだと……。
 腹の虫が何かを報せようとしていることに気付いたが、なぜかそれを払いたくなって、頭を左右に振った。
 豆千代は菱屋の男衆を伴い、店の門から少し離れて停まっていた人力車に乗り込んだ。
 まるでそれを待っていたかのように坊ちゃんが藤田に眼で合図するとすぐさま藤田が立ち上がる。慌てて俺も立ち上がり、坊ちゃんを背負子に乗せた。
 人力車が辻行燈の前を通り過ぎる。

「後をつけるんですかい」

 答える代わりに、藤田がさっそく人力車の後を追い始めた。
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