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疑惑

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 侍から貸本屋へと鞍替えして丸三年。根っからの商売人と成り下がってしまった俺は、菱屋の亭主をあんな風に怒らせてしまったことが、気がかりで仕方がなかった。
 そろそろあそこの離れにも顔を出さきゃならないってのに。前回貸し出した本の貸出期限も迫っているんだがなあ。
 優しくておとなしい雰囲気のお内儀さんを思い浮かべながら、坊ちゃんに尋ねる。

「あんな風に菱屋さんを怒らせて良かったんですかい」

 菱屋は上得意というわけではないが、菱屋を使っている娼妓屋や芸者置屋は上得意の客である。桐畑の通りでもよく本の貸し出しをしているんだよ。あの界隈で嫌な噂など立てられなければよいが……

「別にいいよ。僕は正しいことを言っただけだ」

 正しいことを全部口に出すことが最善とは限らない――道場で俺が習ったことの一つだ。
 武家という身分の分別が顕著な世界で上手に生きていくには、辛抱することも長いものに巻かれることも、必要不可欠な技術だと思えばいい。
 貧乏御家人の次男坊で、武士としての躾のなっていない俺は、喧嘩っ早い性格だった。そんな俺に道場主が説いた時の言葉だ。
 相手は武士ではないが、商売でも同じことが言えるぞ、坊ちゃん。
 だが、したり顔で解説する坊ちゃんには、俺の心のつぶやきなど知る由もない。

「だいたい、どう考えても小林さんを殺すことなど、おミネさんには難しいと思うんだ。だからこそ疑われはしたものの、それ以上の調べはされなかったんだろ。それが今さら、あの厠で首をくくっていたってだけで、小林さん殺しの疑いがほぼ決定したかのような扱いになった。まるで菱屋さんがそう導こうとしたようじゃないか」

 確かにあの態度からは、おミネさんを下手人だと決めつけているように感じられた。しかし、そうだとしても、菱屋の言い分もわかりすぎるほど理解できる。
 自分の店が殺人の舞台だなんて、誰だって嫌にちげえねえ。

「だとしても、自死の見込みが強い死に方というか、状況だというのに……なにも殺人だなんて断言することはなかったでしょうが。菱屋さんにしてみりゃあ、こんな事件、さっさと解決してもらいたいと思うのは当然じゃあねえっすか」

 あの旦那の態度にはそれが見え見えだった。
 坊ちゃんが片眉を上げた。

「僕が気にかかっているのはね、かんざしだよ。厠から引き上げたかんざし。あれ、わざと落とされていたんじゃないかって、前に言ったこと、憶えているか」

 ぽんぽんと話題の矛先が変わる。けれど、坊ちゃんの頭の中では既に何か答えが見えているのだろうな。
 俺はすっかりそんなこと忘れていたが。

「そういやあ、そんなことも言ってましたね」
「あの時、おミネさんが銀細工のかんざしを挿していることを言っていたのも、菱屋さんだよ」

 そこまでは憶えていなかった。

「三四郎、お前は菱屋さんが今日言っていた『小林さんとミネさんが言い争っていた』というのは本当だと思うか」
「え、まあ、菱屋さんが嘘をつく理由などないでしょうし」
「僕にはね、むしろ菱屋さんは、積極的におミネさんを小林さん殺しの下手人に仕立てたようとしているんじゃないか……とさえ思えるんだよ」
「そんな……」

 何のために?

「そう考えるとさ、あの日……僕がかんざしを借りて片山巡査と菱屋の厠を再検分した日、菱屋さんは僕に神通力でもって、かんざしの持ち主を当てさせておミネさんにたどり着くことを期待していたんじゃないかと思えるんだ。それなのに僕は持ち主を断定できなかったし、下手人も探し当てられなかった」

 確かにあの時の坊ちゃんは、どこか曖昧な態度を取っていた。
「まあ、神通力なんて、そんな都合の良い万能の力じゃないんだから当たり前のことだけれど。おまけに僕自身が、あのかんざしが凶器だとは考えていなかったから、なおさら下手人にたどり着けなかった。つまり、菱屋さんの思い通りには進まなかったということだ」
「でも、それじゃ、まるで菱屋の御亭主が……」

 考えたくはないが、坊ちゃんの言い方だと、菱屋が何もかも仕組んだように聞こえちまう。考えようによっては、殺しの下手人をすでに知っているような……
 俺が敢えて口にしなかった考えは、またもや坊ちゃんに見透かされていた。

「まさか、そこまで決めつけてはいない。菱屋さんが何かを知っているには違いないが、どこまで関わっているのかまでは、僕にだってわかってはいない」

 俺たちがそんな風に推測していることを、菱屋は勘付いているのだろうか。あるいは警視庁は……

「いやそれでもね、坊ちゃん、おミネさんが殺したと仮定したら、かんざしを手掛かりにされて、いよいよ逃れられないと悟った末、首を吊ったという結末になりやしませんか」

 俺にはそれが、一番合点の行く顛末だとさえ思えるのだが。

「きれいすぎる。あまりにも都合がよすぎだ。それに本当にそうだとしたら、あのかんざしにはそれなりの念が遺っていて、僕にも何かが見えたはずだ。だがさっき見たおミネさんのむくろには、あの時のかんざしと同じ色が見えなかった。それどころか、小林さんの遺体に残っていた念と同じ色を感じたんだ」
「小林の……」
「ああ。確かに雪隠せっちんに落ちていたかんざしはおミネさんの物かもしれない。でも、その間にが挟まっているんだよ」

 つまりこうだ。坊ちゃんは『おミネは小林を殺してはいないし、おミネも誰か別人に殺された』ということを言っているのだ。
 しかも、
「坊ちゃんは、おミネさんを殺った奴と小林さんを殺した奴が同じ人間だと言いたいんですかい」

 しかしその質問には答えてくれなかった。

「……。あ、そうそう、今から僕は伊勢屋さんへ行くから。しばらく店番を頼む」

 かわりに店番を言いつけられた。

「おひとりで行くつもりで」

 俺の眉間にぐっと力が入ってしまった。

「ちょっと確かめたいことがあってね。女将さんに会うだけだから心配ない。たまには自分の脚で外を歩かないと、左の脚まで腐っちまう。引き留めたって無駄だ」

 くそっ。小言を言う前に釘を刺された。

 確かに伊勢屋は通りを一本、向こうの辻を曲がってすぐにはちげえねえが。

「子供の脚でも五分とかからない距離だよ」――そう言って坊ちゃんは二本の松葉杖を交互に突きながら、ひょこひょこと歩いて行ってしまった。


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