上 下
26 / 49

それぞれの生い立ち

しおりを挟む
 冷えると思ったら、今朝は霜が降りていた。
 こんな朝には、お絹さんの作ってくれた温かい豆腐の味噌汁が五臓六腑にしみて、実に幸せな気分になる。そのささやかな幸せをかみしめている最中、坊ちゃんが何気なくつぶやいた。

「また殺しが起きる予感がする」
「坊ちゃん、予感はかまいませんが、ご飯中は止めておくんなせえ」

 幸せな気分が台無しじゃねえか。
 睨んで見せたが、意に介さずってなもんだ。
 
「今日の客廻りは午前中に済ませておくように。昼飯は菱屋へ行こう。菱屋に部屋を取っておくよう、お絹に手配させておく。一時半だよ」

 まったく、俺の苦言など、虫の羽音程度のもんなんだろうよ。

「あのね、そんな金、何処から湧いてくるとお思いですかい」

 それでなくとも辻斬りの件や菱屋の殺しの件で出かけていたせいで、外回りの商いが減っているというのに。そもそも菱屋で出される割烹料理なんぞ、庶民には敷居が高すぎるってもんだ。

「だいじょうぶ。この間藤田さんが置いて行った一円がある。これで座敷を借りて〈鳥なか〉から鳥鍋を運ばせるんだ」
「足りなくても知りませんからね」
「もしかしたら払わずに済むかもしれないよ」

 悪い顔で茶をすする坊ちゃんに、その真意を問い詰めようとしたが、さっさと仕事に出るよう促されてしまった。

 今日は五丁目の芸者置屋を一軒ずつ回る。
 だが伊勢屋に顔を出した時、間が悪かったのか芸者や半玉たちは稽古に出かけていて、女中と男衆しかいなかった。
 そんな中、久しぶりに珠緒さんが顔を出した。

 まだ顔色は良くねえような。

「大丈夫ですか。ずっとせっていると伺ったのですが」

 珠緒さんはけだるそうに肩で息を吐いた。

「石川様を斬ったという男が捕まったって、読売が売られていたらしいからさ。そろそろ御座敷には出てほしいって、女将さんには言われているんだけれどねぇ」

 新聞が登場して、しばらく経つが、やはり地元の事件や流言などの報道には読売――いわゆる瓦版の方が庶民には馴染みがある。三井が捕まって間もなく、その読売は四谷、新宿、赤坂界隈で売られていた。

 ――『維新ノ亡霊捕縛』

 という煽情的な見出しのせいで飛ぶように売れていた。もちろん、俺も買った。

「だって、まだ小林様を殺した下手人は行方知れずじゃないか。捕まったのは辻斬りの男ってだけで、菱屋さんの殺しについては書かれていなかったんだよ」
「確かにそうですね」
 
 薩摩の巡査殺しに始まった三件の辻斬りについては三井の犯行だと裏付けられたようだが、菱屋で起こった殺しに関しては何も解決していない。しかも、三井の体は捕まったものの、殺しをしたであろうは逃げてしまったのだから、一連の事件は解決などしていないも同然だ。

「でもねぇ、現場に居合わせてしまった豆千代が、弱音を吐かずに頑張っているのを見たらさ、あたしも御座敷に出なきゃとは思うんだよ。だけどさ、どうしても気鬱がここまでせり上がって来ちまってねえ……ほんと、豆千代はえらい娘だよ……」

 話しながら己の喉元を擦る。
 俺は諺の滑稽本を貸してあげた時の豆千代の屈託ない笑顔を思い返した。

「あの子も苦労人なんでしょうね」

 あの笑顔の陰には、いくつもの苦労が隠されているように思えてならない。

「そうだねぇ」と、珠緒さんは遠くを見るような目をした。

「あの子はさ、元々吉原の生まれなんだよ。桐畑にね、御一新前に火事で焼け出されて仮宅をしていた妓楼があってね、どうやらそこから逃げだしたのを、うちの女将さんが縁あって拾ってあげたらしいんだよ」

 ――遊郭で生まれた女児は、母親から引き離され禿かむろとして育てられる。しかし、三年前の明治五年に芸娼妓解放令が敷かれ、遊女らは年季奉公から解放された。これにより娼妓は自由職業となったのだ。手に技を持つ遊女らの中には芸者に転身する者もいたが、幼い禿らに選ぶ道などなく、多くは置屋や妓楼に留まったと言われる。

「禿時代によほど辛い目にあってきたんだろうねぇ。はじめのころは愛想笑いもへたくそでさ。遊郭で生まれたおなごなんてね、親の愛情など知らないもんだからさ、ふつうなら身近にいる人間に懐くもんだけどね。あの子はいつも遠慮がちで、いつも何かに怯えていたよ」

 珠緒さんが話す豆千代の過去は、ひどく不幸に感じた。今ではすっかり愛らしい笑顔が板についているが。

「ああ、そうだ。この間借りた本、もう少し延長してもいいかい」

 豆千代はあの諺の本がすっかり気に入ったらしい。

「暇があると、読み聞かせをねだるんだよ。でもね、いつも遠慮ばかりしているあの子がさ、お腹を抱えて笑っているのを見ているとさ、あたしも元気になれそうな気がしてね」

 珠緒さんがどこか哀しさを含んだ笑顔を見せた。

 伊勢屋を後にしてからも、豆千代の話が頭を離れねえ。
 ああ、ガキの頃を思い出しちまった……
 俺んちも酷かったからなあ。

 坊ちゃんの家にしたって直参旗本の家柄とはいえ、とりたてて裕福だったわけではない。二百俵七人扶持。下級旗本の暮らしは決して楽ではない。
 だが俺の実家の貧乏具合ときたら、そんな生半可なものではなかった。
 俺んちは貧困を絵に描いたような足軽御家人で、しかも親は無役であった。安酒に溺れる父と、内職と家計のやりくりに忙しい母。いつも「早く死にたい」とぼやく意地悪な祖母。その家の三男坊だった俺はいつも腹を空かせていた記憶しかない。
 長兄は惨めな家の跡取りが決められた人生に投げやりで、次兄はすでによくないごろつきの友人らと家を出て行方知れず。あいつらのようにはなりたくないと、剣術の稽古にだけは欠かさず通っていたのだが、貧しさ故、それすら辞めさせられそうになったところを酒井殿が拾ってくださった。
 剣術の素質を認められ、酒井家主君の小姓見習いとして仕えるようになったのは、俺が十の時。子供の居ない酒井氏は養子にと言ってくれるほどかわいがってくれたのだが、その話が具体的な形になろうとした矢先、奥方が身籠り、坊ちゃんが産まれたんだ。
 それでも養子の話を受けてほしいと言ってくれて、有難かったよなあ……

 けどなあ、自身の身分の低さを思うといたたまれなかったんだよ。結局、俺が自ら固辞したんだ。
 今も後悔などしていないさ。
 生まれて来た坊ちゃんがすぐに歩けなくなっちまった時には、「あの時、養子の話を受けるべきだった」などと心無いことを口にする家臣もいたが、酒井殿は養子の話を蒸し返すことなく、障害のある我が子を迷わず跡取りに定めた。もちろん、それは酒井氏の役が文官であったからの決意で、酒井家が武官の家柄であったなら、きっと俺が養子になっていただろうよ。
 だとしても、変わらずかわいがってくれた主君を、俺は本当の父以上に慕っていた。そして歩けない朔真さくまのことも、心から愛していた。

 己の過去を振り返った時、何とも言えない小さな痛みにも似た感覚が胸の柔らかい部分を締め付けるんだ。
 慕い、愛し、そしてその情に応えてもらえる。それは紛れもない幸福の形だと感じている。
 だから、幼いころの惨めな生活を忘れたというわけではないが、あの時舐めた苦汁は全部報われたとさえ思えるのだ。

(豆千代も幸せを掴めるといいな。)

 幕府解体の動乱に飲み込まれ、様々なものを失ってしまったが、それでも今の自分の生活は悪くはない。
 俺は薄幸の少女の幸せを願わずにはおれなかった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

時雨太夫

歴史・時代
江戸・吉原。 大見世喜瀬屋の太夫時雨が自分の見世が巻き込まれた事件を解決する物語です。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

鎮魂の絵師

霞花怜
歴史・時代
絵師・栄松斎長喜は、蔦屋重三郎が営む耕書堂に居住する絵師だ。ある春の日に、斎藤十郎兵衛と名乗る男が連れてきた「喜乃」という名の少女とで出会う。五歳の娘とは思えぬ美貌を持ちながら、周囲の人間に異常な敵愾心を抱く喜乃に興味を引かれる。耕書堂に居住で丁稚を始めた喜乃に懐かれ、共に過ごすようになる。長喜の真似をして絵を描き始めた喜乃に、自分の師匠である鳥山石燕を紹介する長喜。石燕の暮らす吾柳庵には、二人の妖怪が居住し、石燕の世話をしていた。妖怪とも仲良くなり、石燕の指導の下、絵の才覚を現していく喜乃。「絵師にはしてやれねぇ」という蔦重の真意がわからぬまま、喜乃を見守り続ける。ある日、喜乃にずっとついて回る黒い影に気が付いて、嫌な予感を覚える長喜。どう考えても訳ありな身の上である喜乃を気に掛ける長喜に「深入りするな」と忠言する京伝。様々な人々に囲まれながらも、どこか独りぼっちな喜乃を長喜は放っておけなかった。娘を育てるような気持で喜乃に接する長喜だが、師匠の石燕もまた、孫に接するように喜乃に接する。そんなある日、石燕から「俺の似絵を描いてくれ」と頼まれる。長喜が書いた似絵は、魂を冥府に誘う道標になる。それを知る石燕からの依頼であった。 【カクヨム・小説家になろう・アルファポリスに同作品掲載中】 ※各話の最後に小噺を載せているのはアルファポリスさんだけです。(カクヨムは第1章だけ載ってますが需要ないのでやめました)

壬生狼の戦姫

天羽ヒフミ
歴史・時代
──曰く、新撰組には「壬生狼の戦姫」と言われるほどの強い女性がいたと言う。 土方歳三には最期まで想いを告げられなかった許嫁がいた。名を君菊。幼馴染であり、歳三の良き理解者であった。だが彼女は喧嘩がとんでもなく強く美しい女性だった。そんな彼女にはある秘密があって──? 激動の時代、誠を貫いた新撰組の歴史と土方歳三の愛と人生、そして君菊の人生を描いたおはなし。 参考・引用文献 土方歳三 新撰組の組織者<増補新版>新撰組結成150年 図説 新撰組 横田淳 新撰組・池田屋事件顛末記 冨成博

北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗
歴史・時代
 タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。  幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。  根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。  前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

新選組の漢達

宵月葵
歴史・時代
     オトコマエな新選組の漢たちでお魅せしましょう。 新選組好きさんに贈る、一話完結の短篇集。 別途連載中のジャンル混合型長編小説『碧恋の詠―貴方さえ護れるのなら、許されなくても浅はかに。』から、 歴史小説の要素のみを幾つか抽出したスピンオフ的短篇小説です。もちろん、本編をお読みいただいている必要はありません。 恋愛等の他要素は無くていいから新選組の歴史小説が読みたい、そんな方向けに書き直した短篇集です。 (ちなみに、一話完結ですが流れは作ってあります) 楽しんでいただけますように。       ★ 本小説では…のかわりに・を好んで使用しております ―もその場に応じ個数を変えて並べてます  

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

よあけまえのキミへ

三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。 落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。 広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。 京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。

処理中です...