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五
宿換え
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夜更かしとは、油や蝋燭に余裕がある贅沢者のすることで、この辺りの住民には無駄に使える灯りなどあるはずもなく、陽が落ちると鮫河橋界隈は、あっというまに夜へと飲み込まれていった。
群青に光る夜空を背景に、密集するあばら家が黒い影絵のように浮かぶ。その闇色の迷路を駆け抜ける足音。さらに今度はカツカツと複数の硬質な靴音が追いかけた。
「回り込め」
「はっ」
声は的確に味方の巡査の耳に届いたようで、部下は命令に従って路地裏に回った。
指示をした警官はそのまま狭い路地裏に入り、あばら家の背後に続く坂を足早に上った。上りきる前に、逃げていた男が目の前に飛び出した。狙い通りである。
「神妙にしろ!」
反対側には側溝をのぞむ崖があり、そこへ逃げられては敵わぬと、つい時代がかった決め台詞を吐いた。
「あほうが」
袴姿の男が鼻で嗤うと、ずいと自ら近寄って来た。
至近距離に近付いた男と目が合う。
闇夜ではなかった。月はまだ見当たらぬが薄雲に覆われた空はそれなりに明るく、男の顔が思ったよりも明瞭に見えた。
目が赤い――それすらもはっきりと分かる。
男の手が伸びた。
突如、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなり、腰に震えが来た。
「やめ……ろ……」
右手はサーベルの柄に触れているにもかかわらず、まるで蝋人形のごとく動けない。
(なぜだ)
自分の置かれた状態がよくわからず動揺するが、それでも男の顔から目が離せなかった。それが恐怖のせいだと自覚した時には、すでに蟲の標的から逃れられる状況ではなくなっていた。
がばりと顎が外れそうなほどに開いた口から覗いていたのは、ムカデやスズメバチを思わせる大顎を持つ蟲だった。
なぜそんなものが口の中にいるのか理解できないが、明らかに舌が隠れるほどの巨大な蟲が顔を出している。棘のある不気味な足がうごめき、長い触角が辺りを探るように左右上下と揺れている。その蟲は明らか、己を狙っているのだ。
見開かれた目には恐怖から来る涙が滲んだ。それを情けないだとか恥だと思う余裕すらない程の慄きに全身が覆われた。
「い、いやだ、やめで」
ようやく振り絞った命乞いもむなしく、男の口から飛び出した蟲が己の顔に取り憑いた。そして、見開いていた目玉に爪を引っかけると、こじ開けるようにしてその隙間に体を滑り込ませていく。
目の幅よりも大きく見えるほどの蟲が、よくもこんな狭い隙間に入り込めるものだと、何も知らない人が見たら思うだろうが、その光景を見ていたのは、まるで傀儡のように立ちすくむ袴の男――三井丑之助だけであった。
三井の口から飛び出た銀色の鱗に覆われた蟲は、最後に長い尾を揺らすと、目玉と下瞼の隙間から静かに消えていった。
群青に光る夜空を背景に、密集するあばら家が黒い影絵のように浮かぶ。その闇色の迷路を駆け抜ける足音。さらに今度はカツカツと複数の硬質な靴音が追いかけた。
「回り込め」
「はっ」
声は的確に味方の巡査の耳に届いたようで、部下は命令に従って路地裏に回った。
指示をした警官はそのまま狭い路地裏に入り、あばら家の背後に続く坂を足早に上った。上りきる前に、逃げていた男が目の前に飛び出した。狙い通りである。
「神妙にしろ!」
反対側には側溝をのぞむ崖があり、そこへ逃げられては敵わぬと、つい時代がかった決め台詞を吐いた。
「あほうが」
袴姿の男が鼻で嗤うと、ずいと自ら近寄って来た。
至近距離に近付いた男と目が合う。
闇夜ではなかった。月はまだ見当たらぬが薄雲に覆われた空はそれなりに明るく、男の顔が思ったよりも明瞭に見えた。
目が赤い――それすらもはっきりと分かる。
男の手が伸びた。
突如、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなり、腰に震えが来た。
「やめ……ろ……」
右手はサーベルの柄に触れているにもかかわらず、まるで蝋人形のごとく動けない。
(なぜだ)
自分の置かれた状態がよくわからず動揺するが、それでも男の顔から目が離せなかった。それが恐怖のせいだと自覚した時には、すでに蟲の標的から逃れられる状況ではなくなっていた。
がばりと顎が外れそうなほどに開いた口から覗いていたのは、ムカデやスズメバチを思わせる大顎を持つ蟲だった。
なぜそんなものが口の中にいるのか理解できないが、明らかに舌が隠れるほどの巨大な蟲が顔を出している。棘のある不気味な足がうごめき、長い触角が辺りを探るように左右上下と揺れている。その蟲は明らか、己を狙っているのだ。
見開かれた目には恐怖から来る涙が滲んだ。それを情けないだとか恥だと思う余裕すらない程の慄きに全身が覆われた。
「い、いやだ、やめで」
ようやく振り絞った命乞いもむなしく、男の口から飛び出した蟲が己の顔に取り憑いた。そして、見開いていた目玉に爪を引っかけると、こじ開けるようにしてその隙間に体を滑り込ませていく。
目の幅よりも大きく見えるほどの蟲が、よくもこんな狭い隙間に入り込めるものだと、何も知らない人が見たら思うだろうが、その光景を見ていたのは、まるで傀儡のように立ちすくむ袴の男――三井丑之助だけであった。
三井の口から飛び出た銀色の鱗に覆われた蟲は、最後に長い尾を揺らすと、目玉と下瞼の隙間から静かに消えていった。
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