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四
三四郎の気苦労
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夕刻、俺が行商から帰ってきた時、坊ちゃんは離れの自室で寝ていて、お絹さんが店番をしていた。
「おかえりなさいまし。そろそろお店の方も仕舞おうかと思っていた所なんですのよ」
「なあ、お絹さん。坊ちゃん……どこかへ行きなすったんですかい」
店の土間の隅に坊ちゃんの草履が脱ぎ捨てられていて、壁には先の汚れた杖が立てかけられていた。
つまり俺が行商している間に、坊ちゃんはどこかに出かけていたのだ。
「ええ、わざわざ人力車を呼んで桐畑まで行かれましたのよ。桐畑でしたら、わたくしが車を押すと申し上げましたのに、店番を言いつけられましてね」
確かに桐畑までの距離ならば、人力車を手配するよりも、お絹さんに手押し車を押してもらった方が手っ取り早い。
逆に考えると、わざと独りで出かけたのだ。
さっき殺されかけたばかりだと言うのに、いったい何を考えてるんだ、坊ちゃんは。不用心というか、無謀すぎやしねえか。
「で、帰りは?」
「帰りも人力車でお帰りになられましたのよ。なんでも菱屋さんが代金を払ってくださったとか」
「へえ……てことは、菱屋へ行ったのか」
まったく、坊ちゃんが何を目論んでいるのか、さっぱり見当もつかねえ。
四谷の辻斬りに続いて、今度は厠の小林殺し。いったい何を確かめに行ったんだ。
とにかく起きたら、こっぴどく説教をせねば……
しかし、夕飯時になっても坊ちゃんは起きてこなかった。
余程疲れたのだろうと、慮る。
独りで動かぬ脚を引きずって桐畑まで出かけ……いや、その前に三井にも会いに行った。
きっと背負子から飛び降りた際の傷は目で確認できた以外にもあって、動くのが辛かったから、わざわざ人力車など呼ばせたに違いない。おまけに菱屋でも神通力を使ったとみて間違いないだろうよ。
(ったく、無茶ばかりしやがって)
神通力を使った日は、相当疲れるのか早く床に就くことが多いように思う。それは、見えない物を見るためには集中力が必要なのだろうと思っていたが、今日の三井とのことを顧みた時、集中力だけではない尋常とは違う力を使っているように感じた。
(ふ、そもそも神通力だと言い切るんだ。尋常なものであるはずがないな)
俺は勝手に独り納得した。
「三四郎さん、私も先に休ませていただきますね」
お絹さんの声に、顔を上げる。壁の西洋時計の短い針は7の数字を指していた。
(もう、そんな時間か……)
洗い物を済ませたお絹さんが裏の長屋へと帰って行った。
坊ちゃんが休んでいる離れの戸締りを確認するため中庭に出たが、坊ちゃんが起きてくる気配はなかった。
俺の部屋は店の二階にある。俺以外に使用人を雇っていないため、二階の二部屋を一人で使わせてもらっている。
「んん?」
階段の下で見つけたのは、坊ちゃんの羽織だ。
「まったく、しょうがねえなあ」
坊ちゃんは、とかく物を片すのが下手だ。こうやってどこかにポイと置いておく癖があった。黒い羽織は脱いだ形のままで置かれていた。
「伊勢屋の女将さんのことを言えねえな」
羽織を拾って持ったまま階段を上ると、途中でシロとすれ違う。彼女はすれ違いざまに俺の脚に体をすり寄せ、無駄に毛を付けて下りていった。
襖を開け、部屋に入ると先ずはランプに火を灯す。そして部屋の真ん中に座り込んだ。
「ああ、疲れた」
声に出さずにはいられなかった。
三井との遭遇は、思った以上の打撃だ。体がまるで軋んでいるような気がする。
怪我をしていない俺でもこうだ。背負子から落ちた坊ちゃんが無事なはずがない。それなのに……
「まったく、あの好奇心を何とかなだめねえと、今に痛い目に遭うぞ」
坊ちゃんに対する小言は尽きぬ。
のそのそと、ランプの灯の下で坊ちゃんの羽織を畳む。坊ちゃんとお絹さんは石油の臭いが気に入らないという理由で、未だに燭台や行灯の灯りで間に合わせているが、俺はこの明々と輝く洋灯を気に入っている。
「シロの毛?」
坊ちゃんの羽織に付いていた毛をつまむ。俺の着物に付けられた毛よりも太く、茶色と黒が混じっていることに気付いた。
「あ、茶々に会いに行ったのか」
毛色が茶色だから茶々と名付けられた菱屋のお内儀に可愛がられる猫。
「今更、なんで猫なんぞ……」
考えたところで、よくわからん。理由が思いつかないまま、ランプの灯を消した。
きっと俺には想像も及ばない方向に色々と考えを巡らせているのだろうさ。色々心配したところで、きっと坊ちゃんは、今度もうまく何かを見つけたんだろうよ……
「おかえりなさいまし。そろそろお店の方も仕舞おうかと思っていた所なんですのよ」
「なあ、お絹さん。坊ちゃん……どこかへ行きなすったんですかい」
店の土間の隅に坊ちゃんの草履が脱ぎ捨てられていて、壁には先の汚れた杖が立てかけられていた。
つまり俺が行商している間に、坊ちゃんはどこかに出かけていたのだ。
「ええ、わざわざ人力車を呼んで桐畑まで行かれましたのよ。桐畑でしたら、わたくしが車を押すと申し上げましたのに、店番を言いつけられましてね」
確かに桐畑までの距離ならば、人力車を手配するよりも、お絹さんに手押し車を押してもらった方が手っ取り早い。
逆に考えると、わざと独りで出かけたのだ。
さっき殺されかけたばかりだと言うのに、いったい何を考えてるんだ、坊ちゃんは。不用心というか、無謀すぎやしねえか。
「で、帰りは?」
「帰りも人力車でお帰りになられましたのよ。なんでも菱屋さんが代金を払ってくださったとか」
「へえ……てことは、菱屋へ行ったのか」
まったく、坊ちゃんが何を目論んでいるのか、さっぱり見当もつかねえ。
四谷の辻斬りに続いて、今度は厠の小林殺し。いったい何を確かめに行ったんだ。
とにかく起きたら、こっぴどく説教をせねば……
しかし、夕飯時になっても坊ちゃんは起きてこなかった。
余程疲れたのだろうと、慮る。
独りで動かぬ脚を引きずって桐畑まで出かけ……いや、その前に三井にも会いに行った。
きっと背負子から飛び降りた際の傷は目で確認できた以外にもあって、動くのが辛かったから、わざわざ人力車など呼ばせたに違いない。おまけに菱屋でも神通力を使ったとみて間違いないだろうよ。
(ったく、無茶ばかりしやがって)
神通力を使った日は、相当疲れるのか早く床に就くことが多いように思う。それは、見えない物を見るためには集中力が必要なのだろうと思っていたが、今日の三井とのことを顧みた時、集中力だけではない尋常とは違う力を使っているように感じた。
(ふ、そもそも神通力だと言い切るんだ。尋常なものであるはずがないな)
俺は勝手に独り納得した。
「三四郎さん、私も先に休ませていただきますね」
お絹さんの声に、顔を上げる。壁の西洋時計の短い針は7の数字を指していた。
(もう、そんな時間か……)
洗い物を済ませたお絹さんが裏の長屋へと帰って行った。
坊ちゃんが休んでいる離れの戸締りを確認するため中庭に出たが、坊ちゃんが起きてくる気配はなかった。
俺の部屋は店の二階にある。俺以外に使用人を雇っていないため、二階の二部屋を一人で使わせてもらっている。
「んん?」
階段の下で見つけたのは、坊ちゃんの羽織だ。
「まったく、しょうがねえなあ」
坊ちゃんは、とかく物を片すのが下手だ。こうやってどこかにポイと置いておく癖があった。黒い羽織は脱いだ形のままで置かれていた。
「伊勢屋の女将さんのことを言えねえな」
羽織を拾って持ったまま階段を上ると、途中でシロとすれ違う。彼女はすれ違いざまに俺の脚に体をすり寄せ、無駄に毛を付けて下りていった。
襖を開け、部屋に入ると先ずはランプに火を灯す。そして部屋の真ん中に座り込んだ。
「ああ、疲れた」
声に出さずにはいられなかった。
三井との遭遇は、思った以上の打撃だ。体がまるで軋んでいるような気がする。
怪我をしていない俺でもこうだ。背負子から落ちた坊ちゃんが無事なはずがない。それなのに……
「まったく、あの好奇心を何とかなだめねえと、今に痛い目に遭うぞ」
坊ちゃんに対する小言は尽きぬ。
のそのそと、ランプの灯の下で坊ちゃんの羽織を畳む。坊ちゃんとお絹さんは石油の臭いが気に入らないという理由で、未だに燭台や行灯の灯りで間に合わせているが、俺はこの明々と輝く洋灯を気に入っている。
「シロの毛?」
坊ちゃんの羽織に付いていた毛をつまむ。俺の着物に付けられた毛よりも太く、茶色と黒が混じっていることに気付いた。
「あ、茶々に会いに行ったのか」
毛色が茶色だから茶々と名付けられた菱屋のお内儀に可愛がられる猫。
「今更、なんで猫なんぞ……」
考えたところで、よくわからん。理由が思いつかないまま、ランプの灯を消した。
きっと俺には想像も及ばない方向に色々と考えを巡らせているのだろうさ。色々心配したところで、きっと坊ちゃんは、今度もうまく何かを見つけたんだろうよ……
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