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四谷の貧民窟

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 結局、坊ちゃんを背負って四谷へと向かう羽目になっちまった。

 羽織の下、腰には〈水心子正秀すいしんしまさひで〉の弟子が打ったという一尺八寸の長脇差。昔、主君……酒井殿から賜った名刀だ。今の俺が持つ唯一の御宝である。
 時折、刀のつかつばに触れ、その懐かしくも馴染みの感触を確かめる。

 最後に人を斬ったのは、あの上野の戦――七年前。
 しばらくは寝首を掻かれぬよう鍛錬を怠らずにいた。
 だが、東京警視庁や各地方の鎮台ちんだい(陸軍部隊)が一般人からの募集を始めたと知った時、改めて、「ああ、戦は終わったのだ」――と思い知り、肩の荷を下ろすように刀を手放した。  
 それ以来、日々の稽古もおざなりになっているのが現状だ。

 正直に白状すると、このご時世になっても人を斬りまくっているような剣士なんぞと、対等に戦える気がしねえ。

(君子危うきに近寄らず――だぞ。)

 遠目に見るだけだ。決して相手に気取けとられず、そっと見るにとどめるのだと、心する。
 だが万一のこともある。
 背中に向かって声を張り上げる。

「坊ちゃん、万が一、刀を抜かねばならない時が来たら」
「わかっている。ためらわずに飛び降りるよ」

 言い終えるより早く返答される。

「わかってりゃいい」

 この背負子しょいこの高さから落ちたら、多少なりとも怪我くらいするだろう。足の不自由な坊ちゃんが擦り傷なんぞで済むとは思えないが、斬り殺されるよりましだ。

 そんな事態にならないことを祈りながら先を急ぐ。
 しばらくは外濠そとぼり沿いに歩く。
 ここらの大店おおだなは、武家相手に商売をしていた店が多かったこともあり、御一新の後はみるみる寂れて武家屋敷同様に空き家が目立つ。この辺りの住人にすれば、幕府が倒されると同時に襲ってきた不況の嵐は、維新などという華々しい言葉でごまかせるものではなく、皆がこぞって「瓦解がかい」だと揶揄していた。

 武家の町だった御城の西側は、いつ来ても胸の奥がギュッとなっちまう。

 赤坂御門を過ぎ、紀伊国坂きのくにざか喰違見附くいちがいみつけの方へ上ると、坂の西側に名前の由来となった紀州御殿様の御屋敷が見える。今は離れ御所として先の帝の皇后陛下が御住まいになっていると聞く。
 崩壊した江戸という街を象徴するかのように、維新後しばらくは、賊に荒らされ廃墟同然となっていた旗本屋敷や、あるいは塀だけが残されて、中は桑畑や牛小屋となった大名屋敷が目に付いた赤坂の風景。
 だが、この紀州の御屋敷だけは昔と変わらぬ美しさを保ったまま、東京という新しい城下にたたずんでいた。

 その紀伊殿の御屋敷の塀に沿って更に坂を上っていくと、一気に街の雰囲気が変わる。
 かつて北に内藤新宿、南に紀伊殿の屋敷に挟まれた四谷一帯は、高低差のある狭い土地に御家人の家が建ち並び、小役人の長屋なども多い下級武士の街だった。
 新宿が交通の要所だったこともあり、賑わいある活気あふれた街だったんだよ。

 ――もう、見る影もねえな。
 俺の生家があった辺りなんぞ、どこにあったのかすらわからねえ。

 仕える幕府が消え去り、幕臣という職業がなくなった御一新後、住人の多くが江戸を去った。
 新政府により解体された街には鎮台の駐屯地が建ち、屋敷跡は一掃されつつある。
 だがもっとも深刻だったのは、そういう武家に仕えていた小者たちで、職も家も失った彼らの一部は四谷の一等低い谷の吹き溜まりのような街に集まっていた。折しも東北では飢饉があったらしく、職を求めて東京という新天地にやって来る者も、やはりこういう貧民窟に身を寄せることとなる。

 すぐに目的の町が見えて来た。――いよいよ戦地に乗り込む。
 俺は坊ちゃんを乗せた背負子を真っすぐに背負い直した。

 四谷一の貧民窟は、ちょうど離宮となった紀伊殿の御屋敷から見下ろすような位置にある。蛇の如く、うねる形で貫く道に沿って、ひしめくように掘っ立て小屋が続いているのが見える。

(ここが鮫河橋谷町か)

 瓦解後、この町に来るのは初めてだ。もとより、貧民街ではあったが、こうまで混沌とした雰囲気ではなかった。
 掘っ立て小屋の間にあるさらに狭い道が、暗鬱な町の奥へといざなっている。
 藤田は鮫河橋から四谷仲之町辺りを巡査が見廻っていると言っていたが、今のところそのような人物には遭遇していないように思う。

「坊ちゃん、どこにいるのか分かりますかね。藤田さんは谷町に入って二つ目の辻を右に曲がった先で見つけられたと言っていたが……」

 谷町を貫く一本道から逸れると、これはまるで迷路だと感じた。
 道と言ってもそこいらに家財道具が置かれ、家と言ってもいびつな屋根の掘っ立て小屋が適当な形にもたれ合っているだけである。
 いったいどこが公共の道でどこが庭でどこが家なのか。これのどこにまともな辻があるってんだ。そこには辻灯籠も無ければ、家の持ち主を示す門も塀もない。

(炭の臭いだ……)

 こんな所でも、ちゃんと人々の生活があった。

(あんな所にも人力車か)

 ここで一番の仕事は車夫であるようで、狭い道の角々に停まっているのが目に付く。
 そういや、殺された小林も車夫だったな。食いっぱぐれたもと武士にとって、車夫は取っかかりやすい仕事なのだろう。

「この貧民窟は東京一の広さだと言いますぜ。見つけられるんですかい」

 この狭い谷間に、千人以上もの人間がぎゅうぎゅうに詰まっているのだ。

「……何となくわかるんだ」

 坊ちゃんが背中越しに指図した。

「そのよしずの角を曲がらずに真っすぐ」

 辺りの人間に警戒しつつ、指図に従いゆっくりと歩を進める。
 壊れたまま立てかけられたよしずを過ぎてすぐ、やたらと目つきの悪い男とすれ違った。くたびれた洋装の私服姿だが、明らかここの住人ではなさそうだ。

「あれは」
「多分、藤田さんが言っていた四谷巡回の巡査だろう。私服で三井の行動を張っているんだ。誰かと接触しないかってね」

 巡査がいたということは、すぐ近くに三井がいるかもしれないということだ。
 路地を抜けると少し広い道に出た。だが、広いと言っても田町のように整然としていない道は、やたらと狭く感じる。

 体をひねって前を向いているのか、時折背負子が揺れる。

「そう、あの子たちの横を過ぎて……」

 何もしゃべらず、遊ぶでもなく、ただぼんやりと指をくわえて地べたに座り込む幼い二人の横を通り過ぎた。
 栄養が足りていない幼子らは、艶のないすすけた顔色をしている。虚ろなその目に、泣いたり笑ったりすることができるのだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。

「そこで止まって」

 ぼんやりとしていたことを咎めるような声が背中越しに聞こえた。
 直ちに息を殺してその場に立ち止まる。
 背中を冷や汗が伝っていった。
 地味な恰好で来たつもりだったが、それでもすえた臭いの漂うこの街では、自分たちの清潔さがやたら際立つような気がする。

 ――よもや、既に気付かれているんじゃねえのか。

「三四郎、右!!」

 鋭い号令に、疑問も抱かず右を向く。方向を変える際、目の端に黒い縞をとらえ息を呑んだ。
 途端、背中の背負子が大きく揺れて重さが無くなった。

(坊ちゃんが跳んだ!)

 考えるよりも速く、俺は落とし差しにしていた剣を抜いていた。
 耳孔を鋭い金属音が反響する。

「くっ」

 何とか相手の剣を受けることができたようだ。
 目の前に現れた男は確かに縞模様の袴姿で、肩まで伸びたぼさぼさの散切り髪が顔を覆っていた。

「て、っめえ!」

 受けた剣を渾身の力で押し返す。
 次の手など考えていない。気合の声と共に、つばぜり合いの形のまま、腕を伸ばさず体当たりで押し返した。

「うおおおぉぉぉ!」

 同時に髪に隠れていた顔の口元が見えた。

(笑ってやがる?!)

 狂っている――と、気持ちが及びかけたその時、子供の甲高い泣き声が、狭い道の間に響き渡った。

「うわああぁあん! ああーん、あーん」

 一瞬、男の動きが止まった。それでも力を緩めちゃなんねえと、必死で力を込め続ける。
 男の体勢が崩れ、割れたどぶ板に足をとられた。

(よし!)

 泣き声を聞きつけた親が、家の中から顔を出して何か怒鳴った。

「ちっ」

 男の舌打ちが聞こえた。
 すでに戦いの緊張は切れてしまった。

(今だ!)

 男がひるんだ隙に、子供の側に転がっていた坊ちゃんを脇に抱え上げると、さっき私服の巡査とすれ違った路地を目指した。

 ――訳が分からぬ。なぜ襲われたのか。
 それにしても――混乱した頭で考える。自分の中にいるが、背後にいるを恐れているのだろうか――と。

 あいつと立ち会ってから、何とも言えない気持ちの悪さを感じていたんだ。
 まるでざわつくような気持ちの悪さだ。それが五臓六腑の奥の方からじわじわせり上がって来るのを、前を向くことで辛うじて押さえつける。

(ぜったい、振り返るんじゃねえ!)

 全速力で人力車の横のよしずの角を曲がろうとした時、すれ違った私服の警官に向かって坊ちゃんが身を乗り出し囁いた。

「あれは既にこの世の人間じゃない。気を付けろ。丸腰だと乗っ取られるぞ」
「はあ?」

 いきなり声を掛けられ、しかも訳のわからないことを囁かれた男は、いぶかしげな声を上げたが、今は説明している暇も惜しい。
 さっさとこの低地から逃れるのが先決だ。
 坂の向こうに目をやると、紀伊の屋敷のある高台辺りの崖にはまだ雑草の緑が残っていた。
 寺の雑木や庭木の葉は美しく紅葉し、赤や黄や赤茶の葉の鮮やかさが目に飛び込んでくる。

 ――ああ、空が高い……

 冬に向かう直前の季節が、残酷なほど美しいじゃねえか。
 いま足早に抜けようとする街には、腐敗した食べ物とどぶと下肥えが混じったような異臭が漂い、人々は何日も洗っていない体にシラミを這わせ、着たきりの服をまとっているというのによ。

 そしてそこには、人を無差別に殺して回るほどの恨みに取り憑かれた〈蟲〉がいるのだ。

 この澱んだ街から逃れるように、俺は明るい空の方へとほぼ駆け足で坂道を上っていった。

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