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呪禁師の宮侍

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「……こんな話、馬鹿げていると思っているだろう」

 藤田の冷ややかな視線に対し、坊ちゃんが珍しく真剣な顔で説得していた。

「だけどね、魂の蟲は本当に存在する。断言したっていい。そしてさっきの答え。恨みを抱いて死にそうになっている人間の前に、都合よく弱った魂を持つ人間が現れたら。その蟲は体から出ても羽化せず、目の前の相手の体を乗っ取るんだ。そうやって、蟲は生き続けることができる」

 羽化する蟲の挿絵の隣の頁には、その説明どおり、人の口から出た蟲が別の人間の口へと潜り込む絵が描かれていた。

 ――渡リ歩ク蟲也

「乗っ取られた相手の蟲、いや、魂はどうなる」
「それについては書かれていないから分からない。餌となり喰われてしまうのか、あるいは共存するのか。これはあくまでも僕の憶測だ。探索に不要だと思うなら聞き流してくれていい」

 そう前置きして、坊ちゃんがその憶測を説明した。

はかまの男の中にいる魂は、自分でも抑えきれないくらいの〈念〉を抱いていた。それが維新の恨みなのか個人的な遺恨によるものなのかはわからないが。強い〈念〉は恨みを果たしたいという〈欲望〉の餌を与えられ、魂に宿す蟲を肥らせる。つまり蟲に操られてしまうんだ。〈欲〉で肥えた蟲は、例え宿主の体が死んでしまったとしても生き延びられるよう、いつでも誰かに宿替えできるように、口や目や鼻など、人の体の穴から出たり入ったりを繰り返しているんだよ」

 次の頁をめくる時、挿絵の上をカサカサと虫が走った。坊ちゃんはそれを素早くつまみ上げると、
「こいつは言葉の魂を喰らう悪しき虫だ」そう言うなり、爪の先で潰してしまった。

「普通の人間の魂の状態なら、蟲は形を成さないと言われている。だが、異常な欲望に狂ってしまった魂の蟲は、こんな風に姿を見せるんだとさ」

 挿絵に描かれた魂の蟲の形は、坊ちゃんが潰した虫――紙魚しみにそっくりだった。
 涙型で節のある体、うろこ状の文様、長い触角。違っているのは足の数と大きな牙を思わせる顎に大きな双眼、さらに頭部左右に小さい目が三つずつ並んでいる。まるでムカデや蠍や蜘蛛などのような毒虫にも似た不気味な見た目は、人の魂の化身だとは到底思えない。それが口や目から這い出している図は、あたかも怪奇絵巻の挿絵のようだ。
 しかもこれが己の体の中にもいて、己の魂にも寄生しているというのだ。

(いや、その蟲こそが俺自身なのか?)

 坊ちゃんの解釈を信じるとすれば、まるで蟲は人間の意志の具現化のようなものだとも思える。

(うっ……頭がいてえ……)

 訳が分からなさ過ぎて、いや、不気味過ぎて、俺の頭が考えることを拒否しやがる。
 藤田も同様だった。腕を組んで苦虫を噛み潰したような顔をしてやがる。

「こんなものを信じろと」
「そう言うけどさ、これ、酒井家に代々伝わる本なんだよね」

 信じるに値せぬといった表情の藤田に坊ちゃんが鼻で嗤った。

「酒井家はただの幕臣だがね、遠い先祖は京で典薬寮くすりのつかさに属する呪禁師じゅごんしの一番側に仕えた宮侍だったらしい。いわゆる呪術や祓いを司る都の役職だ。それから戦国時代を経て、呪禁師が廃止された後はどこぞの武将の家臣団として関東に下って、そこから分家して今に至っている。徳川家に仕えた初めのころは、呪術や呪詛祓じゅそはらえの力を買われ暗躍していたと伝わっているんだ」

 俺が酒井家に仕えていた時は、そのような話など聞いた事もなかった。酒井家はあくまでも幕府の所蔵する書簡を管理する文官に過ぎなかったはずだ。

「もちろん、この書物も何度か作り直されて、今の言葉でわかりやすく書き直された物だ。と言っても、これ自体二百年以上も前のものだけれど。今の代では失われた力だと父上が話していたが、少なくとも僕には神通力と呼べるような力がある」
「で、その陰陽師仕えの子孫であるお前の見解はどうなんだ」
「陰陽師じゃない。呪禁師だ。その三井って男、蟲に乗っ取られていると思うよ。他人の蟲にね」

「なあ、坊ちゃん。他人の蟲と言うが、そんなにも簡単に乗っ取れるものなのか」

 俺が恐ろしいと思うのはそこだ。本の絵の中で描かれたものならば、「怖いなあ」と言っていればよいことだ。だが、これが現実で、こうも簡単に人へと乗り移れるとなると、空恐ろしい。辻斬りの中の蟲のこれからを想像すると背筋が凍る。

「自分の魂が弱っていなければ大丈夫だが、そうだね、恐怖なんかで怯えてしまうと駄目だな。が縮み上がった状態が一番危ないらしい」

 さらに上乗せして怖いことを言われてしまった。

「とにかく三井がどこで誰の蟲に乗っ取られたのかまで当てることはできないが、侍の世を終わらせたあの乱世だ。人の死に際に立ち会うことなどごまんとあっただろう。しかも新政府を恨む魂など腐るほどあったはずだ」

 坊ちゃんの見解に、藤田が鼻で嗤った。

「はっ、それこそ、そんな理由で三井を捕らえられねえぞ」

 確かにそうだ。『蟲が諸悪の根源でござる』――などという口上で、捕縛などできるはずがない。

「それにあいつが本当に他人の蟲に操られているのかどうかなど、どうやって証明する気だ。何百回と人の死に際に遭ってきた俺でも、蟲なんぞ一度たりとも見たことはねえ」

 人間は二通りに分けられる。――見えない物や見たことのない事象を信じない人と、見えない物や理解不能な事象を恐れる人。
 藤田は明らかに前者だ。

 こいつは神も仏も畏れないたぐいの人間だ。

「僕がそいつを見ればわかる。そのために三四郎が暇な時間を狙って来たんだろ。藤田さんは僕にそいつを見せたかったんじゃないのかい。神通力を通した目で見た男の正体を知りたいんだろう」

 坊ちゃんはにやりと笑って藤田の方を見た。

「ちょっと待て!」

 慌てたのは俺だ。
 つまり何か、藤田は坊ちゃんに三井を探らせようとしてるってのか!?

「剣術に関して言えば、三四郎も相当強いからね。それもお見通しってことだ」

 藤田の方を見たが、奴は目を閉じたまま微動だにしない。
 ふ、ざっけんなよ!!

「俺は行くとは言ってねえ! そそ、そんなもん、藤田殿、貴殿が行けば済むことじゃございませんか。しかも坊ちゃんがそんな危険な奴に会いに行くことなんざ、それがしは絶対、反対でございますからね!」

 やたらとご丁寧な話し言葉になった俺に、藤田が瞠目している。その目の前で坊ちゃんが肩でため息を吐く。

「だから、お前は馬鹿だと言うのだ。そもそも泳がせている男に藤田さんが会いに行ったら水の泡だろ。しかも相手は元新選組。藤田さんの顔を憶えているに違いない。それこそ逃げられたら元も子もないだろうが」
「そりゃ、そうですが……」
「それに、僕も他人の蟲に乗っ取られた人間を見たことがないから見てみたいんだ。上野に行って確信した。殺された巡査が言っていた『ムシ』とは、他人を乗っ取った『蟲』だと。ついでに言うと、あのかんざしにも奇妙な念の色が残っていた。いくつもの念が重なったような……だから一人の持ち物じゃないような気がしたんだ」

 かんざしのことに触れた途端、藤田の眼光が鋭くなった。

「厠殺しと上野の辻斬りが同じ人間の仕業だと」

 だが坊ちゃんは首を振る。

「いや、念の種類と言うか感じが似ていると思っただけで、全く別の物だ。だから、実際に二つの殺しの下手人は別人だと思っている。ただ……」
「ただ、なんだ」
「どちらも常人の念ではなかった。つまり、厠の件も、ただの殺人じゃないってことだよ」

 いやいや、待て待て。
 蟲を見たことも無ければ、〈虫の報せ〉すら体験したことがないであろう藤田に、こんな説明をすること自体間違っている。御伽草子おとぎぞうしの一寸法師や烏天狗を信じろと言うのと何ら変わりない。

「まあ、この蟲の話も、その三井って男を見なきゃ、ただの絵空話に過ぎない。だから行くよ」
「え? は?」

 呆気に取られている俺を置いて、坊ちゃんが部屋の外に向かって大きな声を上げた。

「絹さん! 店番を頼むよ」

 ――「承知いたしました」

 客間の壁と隣り合わせの台所から、お絹さんの涼やかな声が返ってきた。

「えええ」
「ほら、馬鹿みたいな顔をしていないで、すぐに出立だ。夕刻までには一丁目のお得意さんを回ってもらわなきゃならないんだからね。さっさと探索を済ませよう」

 無謀な要求に狼狽えたが、藤田は既に承知しているというか、思惑通りに進んだようで、珍しく満足気な顔をしていた。

(こいつ、坊ちゃんの言っていることを本当は信じているんじゃねえのか!)
 
 なんだかわからねえが、こいつの手の上で転がされている気がして、悔しくなった。

 ――みいぃぃ

 細い声が近寄ってくる。
 坊ちゃんが開けた襖の間からシロが入って来ていた。いつもは俺に懐かない太った白猫が、俺の膝にすり寄りじっと顔を見る。

(さあ、私の坊ちゃんを護って下さいまし)

 瞳孔の丸くなった黄金の瞳がそう訴えていた。
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