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三
魂の蟲
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坊ちゃんがおもむろに体を捻って体勢を変えた。そして這いながら部屋を出ようとした。
「坊ちゃん?」
手を貸そうとしたが素っ気なくあしらわれ、そのまま台所の方へと行ってしまった。
「どうしたってんだ、てめえんとこの店主は」
「わからん」
坊ちゃんが戻ってくるまで、しばし時間が空いた。
(気まずい……)
こんな奴と二人きりで、何を話せってんだ。
相手は元新選組の組長さんだぜ。
――ガタ、ガタ、ガタ、ガタ
通り土間の方から、すのこの土間を打つ音が聞こえてきた。
なんと、離れまで行っていたようで、左脚の膝と右手を使って這いながら戻ってきた坊ちゃんの左手には、一冊の古い本があった。
「これを見てほしいんだ」
藤田の前に置く。
本の綴じ方からして、相当に古い本だとわかる。
「『呪詛記』? お前の店は流行本だけでなく、古書も扱っているのか」
本の表紙に書かれた文字を読んで、藤田が怪訝な顔をした。
「いや。これは貸し出していない。うちの蔵から持ち出したものだ。父上が彰義隊に参加すると決めた後に、この店に避難させた財産の一つだ。軸や壺や着物などは屋敷に置いてきたが、書物はほとんど持ち出した。その中でもこれはかなり毛色が変わっていてね、連本なのだが、呪術や呪いについて書かれた書物なんだよ」
「それと三井に何の関係がある」
不可解な顔を崩さない藤田の目の前で本を開く。
千代紙の栞が落ちた。いったいいつから挟んでいたのか、それを取り除くと、古い紙に紅色が薄っすらと移っていた。
「ここだよ。『蟲之章』」
「『壱 三尸ノ蟲』……庚申講信仰の蟲のことか」
「荒神さんのことかい?」
台所に祭ってある神さんだ。だが、俺の問いに藤田が首を振った。
「いや、荒神とはまた違うな」
藤田が言う庚申講信仰とは、清国の古い時代の道教を起源とする民俗信仰で、かつては江戸でも盛んにおこなわれていたらしい。今ではすっかり聞かなくなったが、山間部の農村では今も六十日ごとの庚申の日に庚申様を祀って一夜を過ごすという慣習が残っているという。
「よく知っているね」
「隊士の中には百姓もいたからな。信仰している奴がいた」
「庚申講で言う三尸の蟲とは――人の体には三匹の蟲が取り憑いていて、それが人を悪事に導き、さらに人が寝ている間にその悪事を天に報せて寿命を削る悪しき蟲だと信じられている。でも、そこじゃない、その次の項、『魂ノ蟲』ってところ」
坊ちゃんの指が、隣の頁の文字を指した。
藤田が指された文字を読む。
「『魂ニ取憑ク然ルニ人乃生キ死ニト共ニ在ル』……意味がわからんな」
藤田の目が細くなる。それに対し、坊ちゃんは淡々と説く。
「つまり――人の魂には生まれた時から蟲が取り憑いているというんだ。これは三尸の蟲と同じだね。違うのは、その蟲の性質でその人の性格が決まるらしい。宿主である人間が死ぬと、この蟲はその体から出て行ってしまう。言い換えれば、人が死んで初めて蟲は体の外に出られるんだよ」
――蟲が……? 俺の中に?
自分の胸を擦る。
「共存ではないのか」
古い本の内容をまともに信じたわけではあるまいが、藤田は真剣な顔で質問した。
「少し違うかな。人間の魂に寄生することでしか生きられないが、人が死ぬと、人の体から出て行ってしまう。ここ、『蟲出デシ体即チ死ス』という記述がある。この解釈が難しくて、この書き方だと蟲は魂と同じ意味を持つように思えないか。あるいは蟲が人間という肉の虫篭に閉じ込められているという解釈もできる。いずれにしろ、体から出てしまった蟲は、無数の羽虫に姿を変えて天へと昇り、次なる魂が生まれ出るのを待つんだ」
めくった頁を見て俺ののどがひゅっと音を立てた。
節のある丸くなった蟲の背中から蜻蛉にも似た羽虫が湧いて、死体の上を舞っている図が現れた。
(げっ)声を出しそうになって、慌てて口を手で覆う。なぜなら、これは……(あの時の上野の光景だ。)
「おい、まさか、お前は殺された木下巡査が見たのは、この蟲だと言いたいのか。自分の体から蟲が出て行くのを見たのだと」
本から上げた藤田の顔は、再び不機嫌を張り付けていた。
「違うね」
坊ちゃんは即座に否定した。
「きっとその巡査が見たのは、袴の男の蟲だと思う。しかもまだ羽化していない蟲だ」
「では、その辻斬りの男は死にかけていたということか」
「それも違う。僕の考えでは、蟲というのは魂の〈念〉の化身だ。〈念〉が具現化したものだと言ってもいい。〈念〉は強い〈欲〉を餌とする。強すぎる念を抱く時……例えば恨みや復讐と言った感情だ。その時、蟲は人格を乗っ取って宿主を操っているとも考えられる。なぜなら復讐のためには強い生存欲が必要で、目的を達成するための〈願い〉が生じるだろ。そして、その強い欲を餌にした蟲は、人を渡り歩くことができるんだよ」
「『人を渡り歩く』だと。どういうことだ」
「例えば、強すぎる念を持って死にかけた人間……仮に強い恨みを持っているが殺されそうになっている人がいたと仮定しよう。その人間の前に、ちょうど都合よく弱い魂を持った人間が現れたとしたらどうなると思う?」
あまりにも突拍子もない話だからなのか、藤田はまるで氷でも作れそうなほど冷めた目で坊ちゃんを見下ろしている。
しかし、現実に……いや、あれは幻覚かもしれないが、蟲が羽化して天に昇る様を見てしまった俺は、この話を聞いて、背中が冷たくなっていくのを感じていた。
「坊ちゃん?」
手を貸そうとしたが素っ気なくあしらわれ、そのまま台所の方へと行ってしまった。
「どうしたってんだ、てめえんとこの店主は」
「わからん」
坊ちゃんが戻ってくるまで、しばし時間が空いた。
(気まずい……)
こんな奴と二人きりで、何を話せってんだ。
相手は元新選組の組長さんだぜ。
――ガタ、ガタ、ガタ、ガタ
通り土間の方から、すのこの土間を打つ音が聞こえてきた。
なんと、離れまで行っていたようで、左脚の膝と右手を使って這いながら戻ってきた坊ちゃんの左手には、一冊の古い本があった。
「これを見てほしいんだ」
藤田の前に置く。
本の綴じ方からして、相当に古い本だとわかる。
「『呪詛記』? お前の店は流行本だけでなく、古書も扱っているのか」
本の表紙に書かれた文字を読んで、藤田が怪訝な顔をした。
「いや。これは貸し出していない。うちの蔵から持ち出したものだ。父上が彰義隊に参加すると決めた後に、この店に避難させた財産の一つだ。軸や壺や着物などは屋敷に置いてきたが、書物はほとんど持ち出した。その中でもこれはかなり毛色が変わっていてね、連本なのだが、呪術や呪いについて書かれた書物なんだよ」
「それと三井に何の関係がある」
不可解な顔を崩さない藤田の目の前で本を開く。
千代紙の栞が落ちた。いったいいつから挟んでいたのか、それを取り除くと、古い紙に紅色が薄っすらと移っていた。
「ここだよ。『蟲之章』」
「『壱 三尸ノ蟲』……庚申講信仰の蟲のことか」
「荒神さんのことかい?」
台所に祭ってある神さんだ。だが、俺の問いに藤田が首を振った。
「いや、荒神とはまた違うな」
藤田が言う庚申講信仰とは、清国の古い時代の道教を起源とする民俗信仰で、かつては江戸でも盛んにおこなわれていたらしい。今ではすっかり聞かなくなったが、山間部の農村では今も六十日ごとの庚申の日に庚申様を祀って一夜を過ごすという慣習が残っているという。
「よく知っているね」
「隊士の中には百姓もいたからな。信仰している奴がいた」
「庚申講で言う三尸の蟲とは――人の体には三匹の蟲が取り憑いていて、それが人を悪事に導き、さらに人が寝ている間にその悪事を天に報せて寿命を削る悪しき蟲だと信じられている。でも、そこじゃない、その次の項、『魂ノ蟲』ってところ」
坊ちゃんの指が、隣の頁の文字を指した。
藤田が指された文字を読む。
「『魂ニ取憑ク然ルニ人乃生キ死ニト共ニ在ル』……意味がわからんな」
藤田の目が細くなる。それに対し、坊ちゃんは淡々と説く。
「つまり――人の魂には生まれた時から蟲が取り憑いているというんだ。これは三尸の蟲と同じだね。違うのは、その蟲の性質でその人の性格が決まるらしい。宿主である人間が死ぬと、この蟲はその体から出て行ってしまう。言い換えれば、人が死んで初めて蟲は体の外に出られるんだよ」
――蟲が……? 俺の中に?
自分の胸を擦る。
「共存ではないのか」
古い本の内容をまともに信じたわけではあるまいが、藤田は真剣な顔で質問した。
「少し違うかな。人間の魂に寄生することでしか生きられないが、人が死ぬと、人の体から出て行ってしまう。ここ、『蟲出デシ体即チ死ス』という記述がある。この解釈が難しくて、この書き方だと蟲は魂と同じ意味を持つように思えないか。あるいは蟲が人間という肉の虫篭に閉じ込められているという解釈もできる。いずれにしろ、体から出てしまった蟲は、無数の羽虫に姿を変えて天へと昇り、次なる魂が生まれ出るのを待つんだ」
めくった頁を見て俺ののどがひゅっと音を立てた。
節のある丸くなった蟲の背中から蜻蛉にも似た羽虫が湧いて、死体の上を舞っている図が現れた。
(げっ)声を出しそうになって、慌てて口を手で覆う。なぜなら、これは……(あの時の上野の光景だ。)
「おい、まさか、お前は殺された木下巡査が見たのは、この蟲だと言いたいのか。自分の体から蟲が出て行くのを見たのだと」
本から上げた藤田の顔は、再び不機嫌を張り付けていた。
「違うね」
坊ちゃんは即座に否定した。
「きっとその巡査が見たのは、袴の男の蟲だと思う。しかもまだ羽化していない蟲だ」
「では、その辻斬りの男は死にかけていたということか」
「それも違う。僕の考えでは、蟲というのは魂の〈念〉の化身だ。〈念〉が具現化したものだと言ってもいい。〈念〉は強い〈欲〉を餌とする。強すぎる念を抱く時……例えば恨みや復讐と言った感情だ。その時、蟲は人格を乗っ取って宿主を操っているとも考えられる。なぜなら復讐のためには強い生存欲が必要で、目的を達成するための〈願い〉が生じるだろ。そして、その強い欲を餌にした蟲は、人を渡り歩くことができるんだよ」
「『人を渡り歩く』だと。どういうことだ」
「例えば、強すぎる念を持って死にかけた人間……仮に強い恨みを持っているが殺されそうになっている人がいたと仮定しよう。その人間の前に、ちょうど都合よく弱い魂を持った人間が現れたとしたらどうなると思う?」
あまりにも突拍子もない話だからなのか、藤田はまるで氷でも作れそうなほど冷めた目で坊ちゃんを見下ろしている。
しかし、現実に……いや、あれは幻覚かもしれないが、蟲が羽化して天に昇る様を見てしまった俺は、この話を聞いて、背中が冷たくなっていくのを感じていた。
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