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二
上野……焼け跡の記憶
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「ずいぶん変わってしまって、まるで江戸じゃないみたいだよ」
と、日本橋で人力車を降りた途端、坊ちゃんが口を開いた。
「もう江戸じゃないですからね。東京ですぜ」
苦笑いをこらえながら答えた。しかし坊ちゃんを背負うと、すぐに笑みは消えてしまった。
あの戦が終わった後、酒井家の生き残りである俺たちは、しばらくの間隠れて暮らしていた。酒井家の当主である坊ちゃんの父上と家臣である俺が、上野戦争に彰義隊として参加したからだ。
彰義隊は新政府にとっては賊軍の最たるもの。新選組と並び、目の敵とされていた。
彰義隊や新選組の残党が捕らえられて処刑されただとか、あるいは獄死したという噂を、明治二年から三年の頃、頻繁に耳にしていた。確か、新選組の大石何某が、坂本龍馬だか伊東何某だかの殺害容疑で斬首になったという読売を読んだのは、明治三年だったと記憶している。
あの記事だけは忘れられない。
それを言うなら官軍側の人間も、江戸城に仕えていた有能な幕臣や藩士を何人も殺しているではないか。天誅という名の暗殺劇を繰り広げたのも、そもそも官軍側ではないか!――と、記事を目にした時は、憤りで溢れる涙を抑えることができなかった。
そこから二年後だ。
――「新井、今日から店を開けるぞ」
坊ちゃんが貸本屋を始めたのは。
もちろん坊ちゃんも少しずつ外へ出ていたが、脚が不自由だったこともあり、溜池の向こう岸にある日枝神社よりも遠くへは出かけたことが無かった。
だから今日の外出は、久しぶりの遠出であった。
潰されてしまった武家屋敷の跡にできた新橋の鉄道駅、増えつつある銀座の洋館。真横を走り抜ける自転車に、洋装の紳士……人力車の中からそれらを眺めながら、ずっと坊ちゃんは押し黙っていた。
「僕はまるで浦島太郎にでもなった気分だ」
日本橋まで来て、ようやく漏らした坊ちゃんの本音に胸が詰まる。
「……そうですね」
銀座や日本橋は、武家の街であった西側よりも文明開化による変化が著しい。
だが桑畑や牛舎となった武家屋敷跡の広がる赤坂や牛込も、いずれはこんな風に変わっていくのだ。
明治維新という名の『瓦解』を経て、すっかり寂れてしまった江戸の街もいずれ全てが解体され再構築の後、再び人が集まり、あの頃のような賑わいが戻るだろう。
それを思うと、寂しさが心をえぐる。
復興は嬉しいはずなのだが、それはもう『江戸』という慣れ親しんだ城下町ではなく、『東京』という名の見知らぬ都市なのだと思うと、やりきれない想いが胸を塞ぐのだ。
「疲れた?」
背中から控えめな声が聞こえてきた。
上野に近付くにつれ、足取りの重くなった俺を気遣っているのだとわかる。
「いや」
短く答え、重くなる足を叱咤しながら前を向いて歩いた。
それから程なく、谷中の事件現場にたどり着いた。一乗寺からすぐ近くにある辻灯籠の下に白と黄色の菊が供えられていた。
「ここが斬られた場所ってことですかね」
「そうだね」
坊ちゃんを背中から降ろすと杖を差し出した。
二本の杖に体を預けるようにして、体重を支える力をほとんど持たないやせ細った左脚を軸にひょこひょこと辻灯籠の周りを拙く歩き回る。
いったい何が見えているのだろうかと、坊ちゃんを見守りながら辻斬りの様子を想像してみた。
だが、頭によぎったのは、薩摩の巡査が斬られた様子ではなく、あの日の業火だった。
(そういや、ここに来るのは、あの戦以来だな。)
「……あの時は雨が続いていたなぁ」
見上げると、空は秋晴れ。寺の庭や上野公園に植わった楓の紅葉が美しい。少し残った青い葉と赤く染まった葉が錦を織りなし、空の高い位置でたなびく雲を背景に、さわさわと風に揺れている。
それなのに俺は独り、あの日の雨の中に居るような気がした。
誰に聞かせるともなく語る。
「この辺りは藍染川が氾濫していたこともあって、俺たちは黒門の近くの門前町に身を寄せていたんだ」
――そして戦当日。
官軍側から一方的に宣戦布告がなされ、一斉にアームストロング砲が火を噴いたのだ。
「あれはまさしく騙し討ちだった……」
開戦当初は彰義隊に有利かと思えた戦況も、長州と大村益次郎にしてやられ、薩摩の砲撃に焼き払われてしまった。
俺の独り言ともつかない昔話に、坊ちゃんが応えた。
「父上も、その時吹っ飛んだのだね」
ああ、そうだ――その声は喉で引っかかったまま、吐き出されることは無かった。
開戦後、俺は砲撃を避け、酒井殿を護りながら、それでも敵を斬りつつ走り続けた。しかし少し離れたところに砲弾が落ちた。その時、飛んできた瓦礫が頭部に直撃して、気を失ってしまったのだった。
「ここ谷中も、民を巻き込んで、寺も家も燃えていた」
雨の中、累々と散らばる屍の中で意識を取り戻した俺が最初に目にしたのは、羽虫である。
砲弾の嵐が止んでもなお、くすぶり続ける黒い煙の陰に、無数の羽虫が舞っていた。
どこから湧いて出たのだろうかと痛む首を回すと、胴の半分から下が無くなった主君の胸の上を、節のある蟲がはっていた。その向こうには、別の千切れた首の口から、あるいは黒焦げの木偶の喉元を、銀鱗の蟲が蠢いていた。一つの骸に一つの蟲。それらはやがて背を丸め、縦にパッカリ割れたかと思うと、蜻蛉に似た儚い無数の羽虫となり飛び立った。
(あれは魂の化身だ……)
朦朧とする頭が見せた幻覚だ。地獄絵の光景が見せた幻に違いないと、自分に言い聞かせた。
……だが、ここで斬られた巡査も言ったのだ。『ムシ』と。
彼が見た『ムシ』も、自分が見た蟲と同じであったのではなかろうか……。
「坊ちゃん、虫はおりましたかい」
黙々と石灯籠の周りを歩き回る坊ちゃんに尋ねると、「バッタなら草陰にいたよ」と返された。
何かを感じ取ろうとして地面に手を突いた足の不自由な少年を、通行人が怪訝な顔で見ては通り過ぎていく。
「これ、本当に亡霊の仕業かもしれないね」
坊ちゃんがうつむいたまま呟いた。
(そんな馬鹿な)
笑い飛ばしたかったが、あの日の光景が頭から消えない俺には、笑うことなどできない。
今も耳の奥に、雨の音が聞こえるような気すらしていた。
と、日本橋で人力車を降りた途端、坊ちゃんが口を開いた。
「もう江戸じゃないですからね。東京ですぜ」
苦笑いをこらえながら答えた。しかし坊ちゃんを背負うと、すぐに笑みは消えてしまった。
あの戦が終わった後、酒井家の生き残りである俺たちは、しばらくの間隠れて暮らしていた。酒井家の当主である坊ちゃんの父上と家臣である俺が、上野戦争に彰義隊として参加したからだ。
彰義隊は新政府にとっては賊軍の最たるもの。新選組と並び、目の敵とされていた。
彰義隊や新選組の残党が捕らえられて処刑されただとか、あるいは獄死したという噂を、明治二年から三年の頃、頻繁に耳にしていた。確か、新選組の大石何某が、坂本龍馬だか伊東何某だかの殺害容疑で斬首になったという読売を読んだのは、明治三年だったと記憶している。
あの記事だけは忘れられない。
それを言うなら官軍側の人間も、江戸城に仕えていた有能な幕臣や藩士を何人も殺しているではないか。天誅という名の暗殺劇を繰り広げたのも、そもそも官軍側ではないか!――と、記事を目にした時は、憤りで溢れる涙を抑えることができなかった。
そこから二年後だ。
――「新井、今日から店を開けるぞ」
坊ちゃんが貸本屋を始めたのは。
もちろん坊ちゃんも少しずつ外へ出ていたが、脚が不自由だったこともあり、溜池の向こう岸にある日枝神社よりも遠くへは出かけたことが無かった。
だから今日の外出は、久しぶりの遠出であった。
潰されてしまった武家屋敷の跡にできた新橋の鉄道駅、増えつつある銀座の洋館。真横を走り抜ける自転車に、洋装の紳士……人力車の中からそれらを眺めながら、ずっと坊ちゃんは押し黙っていた。
「僕はまるで浦島太郎にでもなった気分だ」
日本橋まで来て、ようやく漏らした坊ちゃんの本音に胸が詰まる。
「……そうですね」
銀座や日本橋は、武家の街であった西側よりも文明開化による変化が著しい。
だが桑畑や牛舎となった武家屋敷跡の広がる赤坂や牛込も、いずれはこんな風に変わっていくのだ。
明治維新という名の『瓦解』を経て、すっかり寂れてしまった江戸の街もいずれ全てが解体され再構築の後、再び人が集まり、あの頃のような賑わいが戻るだろう。
それを思うと、寂しさが心をえぐる。
復興は嬉しいはずなのだが、それはもう『江戸』という慣れ親しんだ城下町ではなく、『東京』という名の見知らぬ都市なのだと思うと、やりきれない想いが胸を塞ぐのだ。
「疲れた?」
背中から控えめな声が聞こえてきた。
上野に近付くにつれ、足取りの重くなった俺を気遣っているのだとわかる。
「いや」
短く答え、重くなる足を叱咤しながら前を向いて歩いた。
それから程なく、谷中の事件現場にたどり着いた。一乗寺からすぐ近くにある辻灯籠の下に白と黄色の菊が供えられていた。
「ここが斬られた場所ってことですかね」
「そうだね」
坊ちゃんを背中から降ろすと杖を差し出した。
二本の杖に体を預けるようにして、体重を支える力をほとんど持たないやせ細った左脚を軸にひょこひょこと辻灯籠の周りを拙く歩き回る。
いったい何が見えているのだろうかと、坊ちゃんを見守りながら辻斬りの様子を想像してみた。
だが、頭によぎったのは、薩摩の巡査が斬られた様子ではなく、あの日の業火だった。
(そういや、ここに来るのは、あの戦以来だな。)
「……あの時は雨が続いていたなぁ」
見上げると、空は秋晴れ。寺の庭や上野公園に植わった楓の紅葉が美しい。少し残った青い葉と赤く染まった葉が錦を織りなし、空の高い位置でたなびく雲を背景に、さわさわと風に揺れている。
それなのに俺は独り、あの日の雨の中に居るような気がした。
誰に聞かせるともなく語る。
「この辺りは藍染川が氾濫していたこともあって、俺たちは黒門の近くの門前町に身を寄せていたんだ」
――そして戦当日。
官軍側から一方的に宣戦布告がなされ、一斉にアームストロング砲が火を噴いたのだ。
「あれはまさしく騙し討ちだった……」
開戦当初は彰義隊に有利かと思えた戦況も、長州と大村益次郎にしてやられ、薩摩の砲撃に焼き払われてしまった。
俺の独り言ともつかない昔話に、坊ちゃんが応えた。
「父上も、その時吹っ飛んだのだね」
ああ、そうだ――その声は喉で引っかかったまま、吐き出されることは無かった。
開戦後、俺は砲撃を避け、酒井殿を護りながら、それでも敵を斬りつつ走り続けた。しかし少し離れたところに砲弾が落ちた。その時、飛んできた瓦礫が頭部に直撃して、気を失ってしまったのだった。
「ここ谷中も、民を巻き込んで、寺も家も燃えていた」
雨の中、累々と散らばる屍の中で意識を取り戻した俺が最初に目にしたのは、羽虫である。
砲弾の嵐が止んでもなお、くすぶり続ける黒い煙の陰に、無数の羽虫が舞っていた。
どこから湧いて出たのだろうかと痛む首を回すと、胴の半分から下が無くなった主君の胸の上を、節のある蟲がはっていた。その向こうには、別の千切れた首の口から、あるいは黒焦げの木偶の喉元を、銀鱗の蟲が蠢いていた。一つの骸に一つの蟲。それらはやがて背を丸め、縦にパッカリ割れたかと思うと、蜻蛉に似た儚い無数の羽虫となり飛び立った。
(あれは魂の化身だ……)
朦朧とする頭が見せた幻覚だ。地獄絵の光景が見せた幻に違いないと、自分に言い聞かせた。
……だが、ここで斬られた巡査も言ったのだ。『ムシ』と。
彼が見た『ムシ』も、自分が見た蟲と同じであったのではなかろうか……。
「坊ちゃん、虫はおりましたかい」
黙々と石灯籠の周りを歩き回る坊ちゃんに尋ねると、「バッタなら草陰にいたよ」と返された。
何かを感じ取ろうとして地面に手を突いた足の不自由な少年を、通行人が怪訝な顔で見ては通り過ぎていく。
「これ、本当に亡霊の仕業かもしれないね」
坊ちゃんがうつむいたまま呟いた。
(そんな馬鹿な)
笑い飛ばしたかったが、あの日の光景が頭から消えない俺には、笑うことなどできない。
今も耳の奥に、雨の音が聞こえるような気すらしていた。
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