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厠殺人事件

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 聞こえたのは女の悲鳴のようである。
 俺たちが障子の方に首を向けてすぐ、今度は丁稚でっちらしき若い男の叫び声がした。

「何があったのですか!」

 菱屋の亭主が、客人(坊ちゃん)を放って部屋を飛び出す。

「……坊ちゃん、あんた、これを予見したのか」

 俄かにざわつく廊下の様子に、坊ちゃんを睨むと、坊ちゃんは何食わぬ顔で答えた。

「行けば分かる」

 つまり連れて行けということだ。

「はあ~」

 わざとらしいため息を吐き、坊ちゃんを再び幼子のようにひょいと抱きかかえると、菱屋の後ろ姿を追った。

 悲鳴を聞きつけた人々が集まっていたのは、一階廊下の端にあるかわやだった。外で掃除をしていた丁稚が一番乗りだったらしい。駆け寄った番頭や亭主に何やら様子を話しているが、そのひっ迫した表情からして、ただ事でないのは一目瞭然だ。

 その間を割って入るように坊ちゃんを抱いたまま、中を覗こうとした。

「ああ、富田様はご覧にならない方が」

 慌てて菱屋が止めに入るも、坊ちゃんはそれを無視し、俺の二の腕から体を乗り出した。

「ひでえ……」

 つい声にしてしまったのは、俺の方だ。

 座り込んだ半玉はんぎょく(芸者の卵)が厠の扉にもたれて泣きじゃくっていた。
 この娘が最初の悲鳴の主だと思われる。
 厠の奥には白目を剥いている和装の男が、壁にもたれかかった状態で、便器の向こう側に尻をついていた。その首の付け根、鎖骨の間に流血の痕が生々しい。さらに左目からも血の流れた痕が見られた。
 眼球は赤く染まり潰れている。血の気の引いた蒼い顔と出血量から、すでに死んでいるように見える。

 とりあえず坊ちゃんをその場に下ろし、ぐったりとしている血まみれの男に近寄った。
 顎の下に指を押し付け、脈を探そうとしたが無駄だった。

「だめだ。死んでいる」

 すでに流血の止まった喉元には、何か釘のような鋭い物で刺された傷口がある。

(傷はこの二つだけか……)

 流れた血の量や、傷口の膨れ具合から見ても、ずいぶん深く刺されたようだ。

「すぐにポリスさんを!」

 菱屋が下働きの小者を走らせると、半玉を厠から連れ出し、濡れ縁に座らせた。

「大丈夫ですか、お怪我はございませんか」

 坊ちゃんとさほど変わらぬ年頃の若い娘だ。
 びっくりして漏らしてしまったのか、小便の臭気が鼻を突く。

「おや、伊勢屋さん処の豆千代さんじゃないか」

 坊ちゃんが這いながら向こう側に回り込むと、半玉の隣に腰を掛けた。
 田町にある芸者置屋の芸者や半玉たちは尾白屋の常連客である。それにしても、とんだ大事に巻き込まれてしまったものだ。

「用を、用を足そうと、し、てぇ、なっ、ひ、ひっ」

 説明しようと口を開いたものの、途中から嗚咽のせいで、まるで言葉にならない。

「用を足そうとして入って見たら、中で人が死んでいたってことを言いたいんだね」

 坊ちゃんの代弁に、豆千代はまるで壊れたからくり人形のように、こくこくと何度も首を縦に振っている。

「しかし、あれ、急所を狙ったというよりも、声を封じたかっただけなのか、あるいは殺しに自信がなかった」
「ど、どういうことでしょうか」

 坊ちゃんの言葉に首を傾げる菱屋。

「刺された場所は喉だよ。喉元の凹んだところは急所だからね。あの様子だと、即死だったと思うんだ。なのに、わざわざ目ん玉まで突いている。目玉の方が狙うのは難しい。だから後からとどめのつもりで刺したと僕は見るね。つまり、賊は喉を突いたけれど、それで死んだとは確信できず、不安になって一番柔らかそうな眼球の穴にも刺してみたって感じじゃないかな。心の臓を狙わなかったのは、賊の持つ得物が小さすぎたからだ。小さい武器で広い胸の真ん中を狙うのは意外と難しいからね。あの傷痕で見る限りきりのようなものだろう」
「なるほど」
「しかしあの様子、殺して間もないよね。豆千代さんの着物にも血が着いているってことは、さっきまで血が流れていたってことだもの。となると、まだ曲者くせものは遠くへ行ってはいなさそうだ」

 淡々と説明する冷静な声が、場の雰囲気を凍らせた。だが、俺には坊ちゃんが至極、楽しそうに見えて仕方がねえ。

「もしや、富田様には、賊が見えませぬか」

 菱屋が期待のこもった目を向けた。しかし、

「それは無理ですね」

 坊ちゃんはきっぱり言い切った。

「物探しは探したい人の念の色を頼りに、物の場所を探るのですよ。しかし此度の場合、仏さんが相手のことを探すとか知りたいと念じる間もなく殺された可能性の方が高いわけで、ここでは僕の神通力は役に……」

 またもや坊ちゃんが黙り込んでしまった。ああ、また嫌な予感がする……

「坊ちゃん?」

 その予感を肯定するように、坊ちゃんが明るい声で提案する。

「菱屋さん、探ってみましょうか。この殺しの下手人を」
「はあ? 何言ってなさる! 坊ちゃんは貸本屋でありましょうが。いつから火盗改めになったのでございまするか」

 普段はぞんざいな敬語しか使わないくせに、驚くやら腹立たしいやらが入り混じってしまって、やたら丁寧すぎる言葉遣いになった俺を、菱屋が目を丸くして見ていた。

 俺の〈虫の報せ〉は当たってしまった。
 失せ物探しだとばかり思っていたのに、とんでもない展開にうんざりする。いや、実はこういうことはよくあるのだ。
 だから困る。
 なぜか、坊ちゃんにはややこしいわざわいごとを引き付ける何かがあるらしい。そして坊ちゃんもそれを愉しんでいる節が……

「なんだかねえ、この殺し、奇妙な念を感じるんだよね。ただの恨みではないような」

 ほら、さっそく始まった。

「やはり怨恨が理由の凶行でしょうか」

 菱屋も菱屋だ。なんで子供の言うことを真に受けて喰いつくかなぁ。

「財布や金子が盗られていないか確かめられれば良いのですが、ポリスが来るまで死体は動かさない方が良いでしょうし」

 人が一人殺されて、しかも残虐な手口なうえ、その賊はまだ近くにいるかもしれないというのに!
 まるで危機感のない坊ちゃんと、それを煽る菱屋に腹が立つ。

「当たり前でしょ、何を馬鹿なことを!」

 声を荒げて抗議しても、坊ちゃんは首を傾げ、意にも介さない様子で顎に人差し指を当てた。

「だがな三四郎、よく見てごらん。喉を一突きだよ。しかも確実に急所だとわかる場所だ。狙い定めたように。それなのに、目ん玉を刺した時はためらい傷と言うか、刺し仕損じた傷が二か所。これって、明らか素人のやり口だと思わないか。もし素人の仕業だとしたら、計画ありきの仕事じゃないかな。だから最初の刺し傷には迷いがなかった」

「おいおい、何を勝手に、推理をおっぱじめてやがる」

 突然、割って入った野太い声に、泣いていた豆千代含め、全員が振り返った。

 すぐ背後に、太い眉の下の炯眼けいがんが坊ちゃんを見下ろしていた。

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