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一
桐畑の貸座敷
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赤坂にある大きな溜池に沿った町は、古くから田町と呼ばれ、赤坂御門から順に一丁目、二丁目と続いている。
ここ田町五丁目は岡場所(私娼街)から転じた花街で、その花街の中に坊ちゃんの父上――酒井殿が買い取った貸本屋はあった。
幕府時代、参勤する大名屋敷の侍たち相手に貸本をしていたこの店は、横丁の角地を借地し、間口はさほど広くないものの、塗屋造りの二階建てという立派な店舗が遺されていた。買い取った時点で、京風の通り土間の向こうに住居を兼ねた続きの棟と湯殿、その間に猫の額ながら庭まで所有しているという、貸本屋にしては贅沢な造りであった。
それでも俺は時々考えてしまうのだ。
――「明日から店を開ける」
坊ちゃんが言った日から、すでに二年の時が過ぎた。
あの〈瓦解〉さえなければ、名を変えてまでして、こんな町商売の店番などにはなっていなかったであろうに――と。
たしかに町人の中では裕福な部類に入るのだろうが、元居た屋敷を思うとその手狭さに坊ちゃんが不憫になる。
その坊ちゃんは、今日も今日とて、町人の……それも花街の客を相手に、世間話をしている。
俺の心痛などなんのその。なまっちろく足の不自由な少年店主は、これで中々の商売上手なのだ。
そばで見ている俺がびっくりするくらい逞しく、己の障害や不幸などものともせず、強かにこの花街で生き抜いている。
さっきの女など、坊ちゃんの口上に乗せられて、五冊の連本を借りた上に、洋装洋髪の開化絵一式を買ってくれたようだ。
客に見せていた笑顔を引っ込めると、料金箱に小銭を入れながら俺を見上げた。
「さあさ、ぼんやりしていないで、早速出掛けるよ。準備して」
「どこへですか」
「桐畑だ」
そんなこと言っていたっけ。
毎度のことながら、急に思いついたように言い出すから、こっちが慌てる。
「桐畑なら俺一人で回りますよ。坊ちゃんが行くまでもない」
貸本は店で客を待っているだけでは商売にならない。たくさんの本を背負って町々を訪ね歩くのだ。そしてそれは俺の仕事だ。
そりゃあ、たまに新規開拓や新人作家の本を売り込みたい時などは、手押し車に坊ちゃんを乗せ、芸者屋を回ることもあるが……
だとしても、急すぎるだろ。
「何を言っている。伊勢屋さんから紹介してもらった仕事の方だ」
「神通力の?」
「そうだ。昨日言ったはずだぞ」
何度も言わせるな――とばかりに、坊ちゃんの目の色は冷ややかだ。
(だから、午後の行商は取りやめだと言っていたのか)
今更、今日の予定の意味を理解した。
グズグズしていると坊ちゃんから再び声が掛かった。
「どうした」
その口調には明らかに「さっさとしろよ」という苛立ちがこもっている。
しかし……
「なんだか、気が進まねえな。別にいつって言われていないのなら、明日でも良くねえですか」
たまにあるのだ、こういう感覚が。坊ちゃんの神通力ほどではないが、何とも言えない不安に腹がムズムズする時がある。
とかく、こんな日はろくなことが起こらない――あの上野の日のように……
「そういうの、何と呼ぶか知ってるか。虫の報せって言うんだよ。腹の中に住んでいる虫が色々教えてくれるんだ。その予感は大事にした方がいい」
神通力なんてもんが使えるからだろうか。算術が得意で本の虫で商売に長けていて、いかにも現実主義的な坊ちゃんだが、折につけ、こういう非現実的なことを言う。
(そんなこと誰が信じるのかね、子供じゃあるめえし)
からかわれているのがわかった。
常々、坊ちゃんには子ども扱いされていると感じている。俺の方が坊ちゃんよりも一回り以上も年を食っているというのに。
だから、年嵩の威厳を込めて言い返してやる。
「腹に虫なんぞ飼っていたら、いくら飯を食っても足りねえ。それに、虫が知らせてくれているなら、なおさら今日は行かねえ方がいいんじゃないでしょうかね」
「なんでさ」
ほら来た。とばかりに、俺は額に掌を当てた。
「その嫌な予感の出来事に鉢合わすために、今日出掛ける意味があるんじゃないか」
やたらと面倒ごとに首を突っ込みたがるのが坊ちゃんの悪癖だ。
余程、貸本屋の店番が退屈なのか、自由に歩き回れない自分の世間の狭さを、こういうことで補おうとしているのか。いずれにせよ、危なっかしくて仕方がない。
「そうは言っても、ここ最近何かと物騒じゃないですか。ついこの間も、上野とどこやらで立て続けに二件の辻斬りがあったと、新聞にも書かれていましたぜ」
一昨年、参議の半数が辞職した政変以来、世の中が再びきな臭くなってきていた。
「いちいちそんなことを言っていたら日が暮れちまう。さあさ、その虫の報せに間に合うように急ぐよ」
結局は俺の忠告を聞く耳など持ってねえんだよな。
やれやれ……
◇
その昔、広重の浮世絵にも描かれた赤坂の溜池は、湧水を堰き止められて造られたと伝わる。溜池の縁には水辺の地盤を補強するために植えられた桐の樹が続く。この桐の並木にちなんで、この辺りは桐畑という。
桐畑は他の町の代地を担っていて、特に永代町代地には食べ物屋が多く、湯女の居る湯屋もあり江戸の頃から食傷町などと呼ばれていた。空いた土地は火事で焼け出された時の吉原遊郭の仮宅が許されていたこともあり、五丁目よりも娼妓屋の多い花街でもある。
浮世絵では桐の木の向こうに美しく広大な水辺の光景が描かれているが、しかし今や見る影もない。水は年々減少し、埋立地が拡がって町屋が増えたため、橋まで架けられた。
さらに明治に入ってからは区画整備がなされ、町名は桐畑改め、田町六丁目、七丁目と変わっていた。
だが、古くから田町に住んでいる者は、今もこの辺りのことを桐畑と呼んでいる。
伊勢屋の女将さんが坊ちゃんのことをを紹介したのは、その桐畑にある貸座敷だった。
「菱屋さんねぇ」
門の前に立ち、つい口に出していた。
ここはうち(貸本屋の方)のお得意先でもあるんだ。
菱屋の後妻であるお内儀さんは体が弱いこともあって、いつも奥庭の離れで独り静かに過ごしている。だから近くを回る時にはここの離れにも顔を出すようにしていた。
「面倒な探し物じゃなきゃいいですね。よいしょっ、とぉ」
俺は坊ちゃんを背負子から降ろして胸に抱きかかえた。
そもそも伊勢屋のような置屋とは違い、離れに母屋に二棟の蔵、さらに中庭まで設えた二階建ての楼の中で探し物をするとなると、中々の大仕事になることは想像に難くない。
「わざわざすみませんねえ」
俺の胸の内など知る由もなく、案内の番頭はにこやかに出迎えてくれた。
「あ、おミネさん」
坊ちゃんが俺の腕に抱かれたままの格好で、前から歩いてきた中年の女に声を掛けた。
桐畑で娼妓置屋を営む春木屋のやり手婆(やりてばば――遊女たちの監視や指導をする仲居)である。
昔はさぞかし美人であっただろうと思わせる鼻筋の整った顔立ちだが、笑うと白粉が寄れ、ほうれい線に沿って筋を描いた。
彼女は役者絵を集めるのが趣味で、時々うちの店にも立ち寄ってくれている。
「あら、貸本屋の坊ちゃんじゃないか。あんたも菱屋さんに用事かい」
「ちょいとね。ではまた」
よそ行きの笑顔を張り付け、にこやかな声で答える小さな店主とは裏腹に、案内の番頭は苦虫を潰したような顔を隠さない。
まあ、娼妓屋のやり手と言うのは、何処の妓楼や置屋でも嫌われ役には違いないが、おミネさんは特別だ。
商売に関してはかなりあくどい――と赤坂の見番では有名だが、あの趣味の悪さも嫌われる要因の一つなんだよな。
ほら、見てみなよ。年増のくせにあの頭。かんざしで飾り付けた髪型は、花魁とまでは言わねえが、なんというか、若作りすぎて品がねえ。
とは言うモノの、お客にはちげえねえ。坊ちゃんに倣って、軽く頭を下げておく。
このあと、俺たちが通されたのは一階奥にある茶室だった。
客間から離れた静かな小部屋に、人のよさそうな小男が座っている。四十手前か……童顔のせいかな、実際、幾つくらいなのか分からねえ。
「お呼び立てして申し訳ない」
はてさて、この小男こそ、菱屋の亭主である菱屋惣兵衛だ。
俺は坊ちゃんを下ろすと、少し離れて後ろに正座した。
今でこそ、芸者遊びが座敷遊びの主流だが、元々、ここは遊郭だったらしい。
(へえ、揚屋とは思えねえ、粋な設えだな)
部屋の中央、蒔絵を施した炉にはどっしりした茶釜が掛けられている。少しだけ開いたふたの隙間から湯気が出ていて、おかげで部屋の中はほんのりと暖かい。床の間の茶花は野路菊とまだ青さが残る楓の枝。
坊ちゃんは、と言えば、床の間にも目をくれず、さっそく要件を切り出した。
「伊勢屋さんから聞いて参りました。僕の神通力に頼りたいことがあると伺っております」
菱屋の亭主は茶釜の蓋を取ろうと上げかけた腰を下ろし、なぜか気まずそうに本題である頼みごとを話し始めた。
「伊勢屋さんがおっしゃるに、尾白屋さんに頼めば失せ物は全部出て来たと。そこでぜひ、うちの探し物もお願いしたいと思いまして」
その言葉に苦笑いを抑えきれない。
だってよ、それほど、伊勢屋の女将はうっかり者だということだ。あれほど商いでは切れ者なのにもかかわらず、二か月に一度は、やれ財布だ、やれ扇だ、帯だと探し物をしてやがる。ま、それだけ物を多く持っているということだと坊ちゃんが言っていたが。ついに先日は大事な書類を入れた証文箱を失くすという大失敗をしてしまったのだ。
「それですがね、失せ物がこの屋敷内にあるという条件付きですよ。この脚ですから、外の物までは探せないのでね」
おや……菱屋が少し表情を曇らせたじゃねえか。
「実は、私の探して欲しい物は〈猫〉でございまして……」
なるほどねぇ。猫ならば、屋敷内にいるとは限らないな。とすると、坊ちゃんは断るかもしれないということだ。
「猫の特徴は」
それでも引き受ける気になったのか、坊ちゃんが猫について尋ねた。
「『茶々』という名のキジトラです。妻が可愛がっておりまして、いつもは離れで飼っておるのですが」
あの子か。いつもお内儀の膝で喉を鳴らしている太ったトラ猫がいたっけ。
「この間から姿をくらませていまして……。だいたい飯の時間が決まっているので、離れから出ることはあっても遠くへは行かなかったのですが、楼の中に紛れ込んだ様子もなく」
「メスですか、それともオス」
「メスです。トラのメスは珍しいからと、飼い始めて五年になります。おとなしい上に滅多と鳴かない子ですから、どこかにひっそり隠れているのかと……」
語尾は静かなため息に変わり、消えた語尾の後に炭の爆ぜる音が聞こえた。
やんわりと優しい声で坊ちゃんが問いかけた。
「ねえ菱屋さん、茶々がいなくなって正確には何に……ち」質問の途中で突然口を閉じた。
「どうかしたんですかい」と、俺が小声で尋ねたと同時だった。
障子の外から悲鳴のような鋭い叫び声が、午後の静けさを切り裂いた。
ここ田町五丁目は岡場所(私娼街)から転じた花街で、その花街の中に坊ちゃんの父上――酒井殿が買い取った貸本屋はあった。
幕府時代、参勤する大名屋敷の侍たち相手に貸本をしていたこの店は、横丁の角地を借地し、間口はさほど広くないものの、塗屋造りの二階建てという立派な店舗が遺されていた。買い取った時点で、京風の通り土間の向こうに住居を兼ねた続きの棟と湯殿、その間に猫の額ながら庭まで所有しているという、貸本屋にしては贅沢な造りであった。
それでも俺は時々考えてしまうのだ。
――「明日から店を開ける」
坊ちゃんが言った日から、すでに二年の時が過ぎた。
あの〈瓦解〉さえなければ、名を変えてまでして、こんな町商売の店番などにはなっていなかったであろうに――と。
たしかに町人の中では裕福な部類に入るのだろうが、元居た屋敷を思うとその手狭さに坊ちゃんが不憫になる。
その坊ちゃんは、今日も今日とて、町人の……それも花街の客を相手に、世間話をしている。
俺の心痛などなんのその。なまっちろく足の不自由な少年店主は、これで中々の商売上手なのだ。
そばで見ている俺がびっくりするくらい逞しく、己の障害や不幸などものともせず、強かにこの花街で生き抜いている。
さっきの女など、坊ちゃんの口上に乗せられて、五冊の連本を借りた上に、洋装洋髪の開化絵一式を買ってくれたようだ。
客に見せていた笑顔を引っ込めると、料金箱に小銭を入れながら俺を見上げた。
「さあさ、ぼんやりしていないで、早速出掛けるよ。準備して」
「どこへですか」
「桐畑だ」
そんなこと言っていたっけ。
毎度のことながら、急に思いついたように言い出すから、こっちが慌てる。
「桐畑なら俺一人で回りますよ。坊ちゃんが行くまでもない」
貸本は店で客を待っているだけでは商売にならない。たくさんの本を背負って町々を訪ね歩くのだ。そしてそれは俺の仕事だ。
そりゃあ、たまに新規開拓や新人作家の本を売り込みたい時などは、手押し車に坊ちゃんを乗せ、芸者屋を回ることもあるが……
だとしても、急すぎるだろ。
「何を言っている。伊勢屋さんから紹介してもらった仕事の方だ」
「神通力の?」
「そうだ。昨日言ったはずだぞ」
何度も言わせるな――とばかりに、坊ちゃんの目の色は冷ややかだ。
(だから、午後の行商は取りやめだと言っていたのか)
今更、今日の予定の意味を理解した。
グズグズしていると坊ちゃんから再び声が掛かった。
「どうした」
その口調には明らかに「さっさとしろよ」という苛立ちがこもっている。
しかし……
「なんだか、気が進まねえな。別にいつって言われていないのなら、明日でも良くねえですか」
たまにあるのだ、こういう感覚が。坊ちゃんの神通力ほどではないが、何とも言えない不安に腹がムズムズする時がある。
とかく、こんな日はろくなことが起こらない――あの上野の日のように……
「そういうの、何と呼ぶか知ってるか。虫の報せって言うんだよ。腹の中に住んでいる虫が色々教えてくれるんだ。その予感は大事にした方がいい」
神通力なんてもんが使えるからだろうか。算術が得意で本の虫で商売に長けていて、いかにも現実主義的な坊ちゃんだが、折につけ、こういう非現実的なことを言う。
(そんなこと誰が信じるのかね、子供じゃあるめえし)
からかわれているのがわかった。
常々、坊ちゃんには子ども扱いされていると感じている。俺の方が坊ちゃんよりも一回り以上も年を食っているというのに。
だから、年嵩の威厳を込めて言い返してやる。
「腹に虫なんぞ飼っていたら、いくら飯を食っても足りねえ。それに、虫が知らせてくれているなら、なおさら今日は行かねえ方がいいんじゃないでしょうかね」
「なんでさ」
ほら来た。とばかりに、俺は額に掌を当てた。
「その嫌な予感の出来事に鉢合わすために、今日出掛ける意味があるんじゃないか」
やたらと面倒ごとに首を突っ込みたがるのが坊ちゃんの悪癖だ。
余程、貸本屋の店番が退屈なのか、自由に歩き回れない自分の世間の狭さを、こういうことで補おうとしているのか。いずれにせよ、危なっかしくて仕方がない。
「そうは言っても、ここ最近何かと物騒じゃないですか。ついこの間も、上野とどこやらで立て続けに二件の辻斬りがあったと、新聞にも書かれていましたぜ」
一昨年、参議の半数が辞職した政変以来、世の中が再びきな臭くなってきていた。
「いちいちそんなことを言っていたら日が暮れちまう。さあさ、その虫の報せに間に合うように急ぐよ」
結局は俺の忠告を聞く耳など持ってねえんだよな。
やれやれ……
◇
その昔、広重の浮世絵にも描かれた赤坂の溜池は、湧水を堰き止められて造られたと伝わる。溜池の縁には水辺の地盤を補強するために植えられた桐の樹が続く。この桐の並木にちなんで、この辺りは桐畑という。
桐畑は他の町の代地を担っていて、特に永代町代地には食べ物屋が多く、湯女の居る湯屋もあり江戸の頃から食傷町などと呼ばれていた。空いた土地は火事で焼け出された時の吉原遊郭の仮宅が許されていたこともあり、五丁目よりも娼妓屋の多い花街でもある。
浮世絵では桐の木の向こうに美しく広大な水辺の光景が描かれているが、しかし今や見る影もない。水は年々減少し、埋立地が拡がって町屋が増えたため、橋まで架けられた。
さらに明治に入ってからは区画整備がなされ、町名は桐畑改め、田町六丁目、七丁目と変わっていた。
だが、古くから田町に住んでいる者は、今もこの辺りのことを桐畑と呼んでいる。
伊勢屋の女将さんが坊ちゃんのことをを紹介したのは、その桐畑にある貸座敷だった。
「菱屋さんねぇ」
門の前に立ち、つい口に出していた。
ここはうち(貸本屋の方)のお得意先でもあるんだ。
菱屋の後妻であるお内儀さんは体が弱いこともあって、いつも奥庭の離れで独り静かに過ごしている。だから近くを回る時にはここの離れにも顔を出すようにしていた。
「面倒な探し物じゃなきゃいいですね。よいしょっ、とぉ」
俺は坊ちゃんを背負子から降ろして胸に抱きかかえた。
そもそも伊勢屋のような置屋とは違い、離れに母屋に二棟の蔵、さらに中庭まで設えた二階建ての楼の中で探し物をするとなると、中々の大仕事になることは想像に難くない。
「わざわざすみませんねえ」
俺の胸の内など知る由もなく、案内の番頭はにこやかに出迎えてくれた。
「あ、おミネさん」
坊ちゃんが俺の腕に抱かれたままの格好で、前から歩いてきた中年の女に声を掛けた。
桐畑で娼妓置屋を営む春木屋のやり手婆(やりてばば――遊女たちの監視や指導をする仲居)である。
昔はさぞかし美人であっただろうと思わせる鼻筋の整った顔立ちだが、笑うと白粉が寄れ、ほうれい線に沿って筋を描いた。
彼女は役者絵を集めるのが趣味で、時々うちの店にも立ち寄ってくれている。
「あら、貸本屋の坊ちゃんじゃないか。あんたも菱屋さんに用事かい」
「ちょいとね。ではまた」
よそ行きの笑顔を張り付け、にこやかな声で答える小さな店主とは裏腹に、案内の番頭は苦虫を潰したような顔を隠さない。
まあ、娼妓屋のやり手と言うのは、何処の妓楼や置屋でも嫌われ役には違いないが、おミネさんは特別だ。
商売に関してはかなりあくどい――と赤坂の見番では有名だが、あの趣味の悪さも嫌われる要因の一つなんだよな。
ほら、見てみなよ。年増のくせにあの頭。かんざしで飾り付けた髪型は、花魁とまでは言わねえが、なんというか、若作りすぎて品がねえ。
とは言うモノの、お客にはちげえねえ。坊ちゃんに倣って、軽く頭を下げておく。
このあと、俺たちが通されたのは一階奥にある茶室だった。
客間から離れた静かな小部屋に、人のよさそうな小男が座っている。四十手前か……童顔のせいかな、実際、幾つくらいなのか分からねえ。
「お呼び立てして申し訳ない」
はてさて、この小男こそ、菱屋の亭主である菱屋惣兵衛だ。
俺は坊ちゃんを下ろすと、少し離れて後ろに正座した。
今でこそ、芸者遊びが座敷遊びの主流だが、元々、ここは遊郭だったらしい。
(へえ、揚屋とは思えねえ、粋な設えだな)
部屋の中央、蒔絵を施した炉にはどっしりした茶釜が掛けられている。少しだけ開いたふたの隙間から湯気が出ていて、おかげで部屋の中はほんのりと暖かい。床の間の茶花は野路菊とまだ青さが残る楓の枝。
坊ちゃんは、と言えば、床の間にも目をくれず、さっそく要件を切り出した。
「伊勢屋さんから聞いて参りました。僕の神通力に頼りたいことがあると伺っております」
菱屋の亭主は茶釜の蓋を取ろうと上げかけた腰を下ろし、なぜか気まずそうに本題である頼みごとを話し始めた。
「伊勢屋さんがおっしゃるに、尾白屋さんに頼めば失せ物は全部出て来たと。そこでぜひ、うちの探し物もお願いしたいと思いまして」
その言葉に苦笑いを抑えきれない。
だってよ、それほど、伊勢屋の女将はうっかり者だということだ。あれほど商いでは切れ者なのにもかかわらず、二か月に一度は、やれ財布だ、やれ扇だ、帯だと探し物をしてやがる。ま、それだけ物を多く持っているということだと坊ちゃんが言っていたが。ついに先日は大事な書類を入れた証文箱を失くすという大失敗をしてしまったのだ。
「それですがね、失せ物がこの屋敷内にあるという条件付きですよ。この脚ですから、外の物までは探せないのでね」
おや……菱屋が少し表情を曇らせたじゃねえか。
「実は、私の探して欲しい物は〈猫〉でございまして……」
なるほどねぇ。猫ならば、屋敷内にいるとは限らないな。とすると、坊ちゃんは断るかもしれないということだ。
「猫の特徴は」
それでも引き受ける気になったのか、坊ちゃんが猫について尋ねた。
「『茶々』という名のキジトラです。妻が可愛がっておりまして、いつもは離れで飼っておるのですが」
あの子か。いつもお内儀の膝で喉を鳴らしている太ったトラ猫がいたっけ。
「この間から姿をくらませていまして……。だいたい飯の時間が決まっているので、離れから出ることはあっても遠くへは行かなかったのですが、楼の中に紛れ込んだ様子もなく」
「メスですか、それともオス」
「メスです。トラのメスは珍しいからと、飼い始めて五年になります。おとなしい上に滅多と鳴かない子ですから、どこかにひっそり隠れているのかと……」
語尾は静かなため息に変わり、消えた語尾の後に炭の爆ぜる音が聞こえた。
やんわりと優しい声で坊ちゃんが問いかけた。
「ねえ菱屋さん、茶々がいなくなって正確には何に……ち」質問の途中で突然口を閉じた。
「どうかしたんですかい」と、俺が小声で尋ねたと同時だった。
障子の外から悲鳴のような鋭い叫び声が、午後の静けさを切り裂いた。
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