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序
上野の辻斬り
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――何が上野公園だ。ありゃあ、官軍が焼き払った彰義隊の墓場だな。
ああ確かに、奴らの死に様は犬死にちげえねえ……
「おい、何か聞こえねえか」
「そうか、どうせ酔っぱらいじゃろ」
赤い五日月がぎりぎり空の端っこに引っかかっている秋の夜。上野は谷中。二人の巡査は夜間巡回の途中であった。
将軍の菩提寺である寛永寺をはじめ江戸の頃は寺町として栄え、物見遊山の名所でもあった上野だが、慶応四年の彰義隊――つまりは佐幕派と、官軍と呼ばれた新政府軍との戦で、辺り一面は焼け野原となってしまった。
その焼け跡も今は官有地となり、二年前の布告で公園に指定されている。
しかしどれだけ整備が進もうと、幕府の頃の賑わいや風情が戻ることはなかった。とはいえ、維新前後にやって来た薩摩人の巡査らにはその違いなど知る由もなく、少しずつ近代化されていく街を見るにつけ、自分たちの藩が筆頭となり成し遂げた〈維新〉という名の誇りを胸に、こうやって日々巡回を続けていた。
それなのに、こんな声が耳に届いた。今度は言葉の尻まではっきりと。
明治維新だと……維新だぁ? けっ、何が『これあらた也』だ。
んなもん、だあれも喜んじゃぁいねえよ。
見てみろ、この荒れようを。
あぁああ、花のお江戸が泣いてらあ。
誰がこんな街にした、誰のせいでここまで瓦解しちまったんだ。
こんなことのために奴らは死んじまったのか、ええ?
「なんば、ふざけよることを」
その内容の不穏さに、巡査の一人が足を止めた。
「よせよせ、不忍で遊んだ帰りの酔っぱらいじゃって。かかわるだけ面倒じゃ」
「ばってん、放っておけん」
同僚が止めたにも関わらず、若い巡査は己の正義感に駆られ、声の主に近寄った。
木陰に入ると月が隠れ、やけに暗さが増す。
石灯籠の横で揺れている影が声の主だと思われた。提灯を掲げるも、そこには亡霊のように不確かな姿が浮かび上がるだけである。
かなり近寄って、影が袴を着けた男であることを確認した。
男は強か酔っているのか、足元がおぼつかない。
「貴様、それは政府批判とみなしてよかか」
呼びかけにふらついていた足が止まった。と同時に、聞き覚えのある金属音が巡査の耳に届く。
巡査の思考がわずかに逸れた。
(あれは何の音だったか……)
思い出したと同時に声の主と目が合った。
背後に現れた月と同じ赤い目にたじろぐが、すぐ様、腰のサーベルに手を掛ける。
代わりに手にしていた提灯が落ちて、炎が立った。
「おい、木下、どがいしたんじゃ?」
異変に気付いたであろう、同僚の声が追いかけて来る。
――あれは鯉口を切った音。ほんの数年前には嫌と言うほど聞いていた音だ。
木下と呼ばれた若い巡査は、サーベルを抜く前にほとばしる血飛沫を見た。遅れて激しい痛みが全身を貫く。
血飛沫は己の胸から噴き上げていた。
(なんば色じゃ。)
斬った男の血走った眼の色なのか、己の血の色なのか、目の前が真っ赤に染まる。
赤い視界の中央に男の口元が見えた。
夜空の月をそのままそこに当てはめたかのように裂けた隙間から何かがのぞいている。その正体を知った途端、死とは別の恐怖がせり上がって来た。
抵抗を諦めた身体が崩れるように跪く。
相手の男は袴をひるがえし、踵を返した。
「こらあ、まてえ!」
同僚の怒鳴り声がすぐ近くで聞こえる。
韋駄天のごとく駆け去る男の後ろ姿はすぐ闇に紛れ、それを最後に視野はどんどん狭くなっていった。
「木下、しっかりせえ!」
倒れ込む前に支えられたが、彼の頭にはさっき見た光景がまとわりついて離れない。
幻覚でも見間違いでもない。確かに見たのだ。
にやりと笑った歯の隙間から、気味の悪い蟲の、紅い眼とざわつく足が。一本一本が別々の意志を持つかのように、揺れ動く長い触角とうごめく足……
「見た……見たんじゃ」
「木下! 何を見たのだ」
「む……むし、むし」
「ムシ? 何ば言うとぉ」
「むし、むしが」
蟲がいたんじゃ、蟲がうごめいて、おいを狙っとったんじゃ。蟲が………
だが、すでに声を出すことも叶わず、意識は燃え尽きた提灯の灯と共に、深い闇へと墜ちて行った。
ああ確かに、奴らの死に様は犬死にちげえねえ……
「おい、何か聞こえねえか」
「そうか、どうせ酔っぱらいじゃろ」
赤い五日月がぎりぎり空の端っこに引っかかっている秋の夜。上野は谷中。二人の巡査は夜間巡回の途中であった。
将軍の菩提寺である寛永寺をはじめ江戸の頃は寺町として栄え、物見遊山の名所でもあった上野だが、慶応四年の彰義隊――つまりは佐幕派と、官軍と呼ばれた新政府軍との戦で、辺り一面は焼け野原となってしまった。
その焼け跡も今は官有地となり、二年前の布告で公園に指定されている。
しかしどれだけ整備が進もうと、幕府の頃の賑わいや風情が戻ることはなかった。とはいえ、維新前後にやって来た薩摩人の巡査らにはその違いなど知る由もなく、少しずつ近代化されていく街を見るにつけ、自分たちの藩が筆頭となり成し遂げた〈維新〉という名の誇りを胸に、こうやって日々巡回を続けていた。
それなのに、こんな声が耳に届いた。今度は言葉の尻まではっきりと。
明治維新だと……維新だぁ? けっ、何が『これあらた也』だ。
んなもん、だあれも喜んじゃぁいねえよ。
見てみろ、この荒れようを。
あぁああ、花のお江戸が泣いてらあ。
誰がこんな街にした、誰のせいでここまで瓦解しちまったんだ。
こんなことのために奴らは死んじまったのか、ええ?
「なんば、ふざけよることを」
その内容の不穏さに、巡査の一人が足を止めた。
「よせよせ、不忍で遊んだ帰りの酔っぱらいじゃって。かかわるだけ面倒じゃ」
「ばってん、放っておけん」
同僚が止めたにも関わらず、若い巡査は己の正義感に駆られ、声の主に近寄った。
木陰に入ると月が隠れ、やけに暗さが増す。
石灯籠の横で揺れている影が声の主だと思われた。提灯を掲げるも、そこには亡霊のように不確かな姿が浮かび上がるだけである。
かなり近寄って、影が袴を着けた男であることを確認した。
男は強か酔っているのか、足元がおぼつかない。
「貴様、それは政府批判とみなしてよかか」
呼びかけにふらついていた足が止まった。と同時に、聞き覚えのある金属音が巡査の耳に届く。
巡査の思考がわずかに逸れた。
(あれは何の音だったか……)
思い出したと同時に声の主と目が合った。
背後に現れた月と同じ赤い目にたじろぐが、すぐ様、腰のサーベルに手を掛ける。
代わりに手にしていた提灯が落ちて、炎が立った。
「おい、木下、どがいしたんじゃ?」
異変に気付いたであろう、同僚の声が追いかけて来る。
――あれは鯉口を切った音。ほんの数年前には嫌と言うほど聞いていた音だ。
木下と呼ばれた若い巡査は、サーベルを抜く前にほとばしる血飛沫を見た。遅れて激しい痛みが全身を貫く。
血飛沫は己の胸から噴き上げていた。
(なんば色じゃ。)
斬った男の血走った眼の色なのか、己の血の色なのか、目の前が真っ赤に染まる。
赤い視界の中央に男の口元が見えた。
夜空の月をそのままそこに当てはめたかのように裂けた隙間から何かがのぞいている。その正体を知った途端、死とは別の恐怖がせり上がって来た。
抵抗を諦めた身体が崩れるように跪く。
相手の男は袴をひるがえし、踵を返した。
「こらあ、まてえ!」
同僚の怒鳴り声がすぐ近くで聞こえる。
韋駄天のごとく駆け去る男の後ろ姿はすぐ闇に紛れ、それを最後に視野はどんどん狭くなっていった。
「木下、しっかりせえ!」
倒れ込む前に支えられたが、彼の頭にはさっき見た光景がまとわりついて離れない。
幻覚でも見間違いでもない。確かに見たのだ。
にやりと笑った歯の隙間から、気味の悪い蟲の、紅い眼とざわつく足が。一本一本が別々の意志を持つかのように、揺れ動く長い触角とうごめく足……
「見た……見たんじゃ」
「木下! 何を見たのだ」
「む……むし、むし」
「ムシ? 何ば言うとぉ」
「むし、むしが」
蟲がいたんじゃ、蟲がうごめいて、おいを狙っとったんじゃ。蟲が………
だが、すでに声を出すことも叶わず、意識は燃え尽きた提灯の灯と共に、深い闇へと墜ちて行った。
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