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傷
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夜十時前、アスカはジャルジャンの部屋に向かった。パジャマの長袖の内側にはステーキ用のナイフをしのばせている。
ペルーラが心配そうに言う。
「そんな物騒なもの持って行って大丈夫?」
「大丈夫。ただの脅しよ。こんなステーキ用のナイフじゃ大したことにはならないわ」
「だったら良いけど……。気を付けて」
「分かってる。私だって色々な修羅場を経験してきたんだもん。簡単には男の言いなりにはならないわ」
アスカは強がってみたものの、内心かなり不安だった。しかし、なるようにしかならない。嫌なことには徹底的に抵抗する。そう決めた。
恐る恐るジャルジャンの部屋をノックする。何も返答はないが、ノブを回してみると鍵は掛かっていないようだ。
ゆっくりと扉を開けると、部屋の中は暗かった。窓から少しだけ庭からランプの光が入り込んでいた。中央に大きなベッドがある。
目が慣れてくると、ベッドの脇に人影がある事に気づいた。ジャルジャンがガウンを着て立っている。
裸足だった。
そして、普段よりも背が低かった。ジャルジャンは普段底上げブーツの類を履いて身長を大きく見せていたのだ。一回り小さいジャルジャンは獲物を狙う野生動物のように目を光らせた。その影はまるでジャルジャンの闇の部分を現すように、暗くてどす黒い。
ジャルジャンはアスカの方を向くと近寄ってきた。
「わたしに触れないで!」アスカはそう叫ぶとステーキ用のナイフを両手で持って構えた。その先端は自らの喉に向けていた。アスカの足は震えていた。
ジャルジャンはガウンを脱いだ。その下には何も着ていなかった。そこには細くて小さな痩せた体があった。そして、その体には無数の傷やミミズバレがついていた。
その体の傷の多さにアスカは驚いた。
すたすたとジャルジャンは歩み寄り、アスカの持つステーキ用のナイフの刃を右手で掴んだ。
「こんな事をしてはいけないよ。自分を傷つけるなんて最悪だ」
そう言ってジャルジャンはアスカを見つめた。しかし、その青い目には感情がなかった。どこまでも無感情な目にアスカは圧倒されていた。
ジャルジャンの右手から血が滴り落ちた。
アスカは恐怖のあまり、ナイフを動かす事が出来ず、そっと力をゆるめて手を離した。その手は微かに震えていた。
ジャルジャンはゆっくりと右手を開いていった。ナイフがコトンと音を立てて床に落ちた。ジャルジャンは手のひらの傷口の血を舐めた。血はすでに少しだけ固まり始めていた。
「ふぅー」とジャルジャンは痛みをこらえるように小さなため息をついた。
「こんなのたいして痛くはない。これよりもっと痛い目にはたくさんあった」
近くで見るジャルジャンの肌には無数の傷、ミミズバレやアザがあった。それはひどい有様だった。なぜ生きているのか不思議なほどの傷が肌を埋め尽くしている。
「そ、その体の傷は……」
アスカは唇が震えて上手く喋れなかった。
「これは親につけられた傷なのよ」
「虐待」
「そうとも言う」
「なんて事を」
「私はとても貧しい家庭に生まれた。
ろくに食べるものも与えられずに育った。
父親は私が幼い頃に亡くなった。
家にはすぐに継父が来て、毎日殴られるようになった。
この傷は包丁で切りつけられた。
こっちは火鉢で焼かれた跡。
この骨はバットで殴られて歪んだ。
いつの間にか母親も一緒になって私を殴った。
ただし、学校にバレないように顔は殴らなかった。
一歳年下の弟は私が十一歳の時の冬に家で死んでいた。
いや、多分、殺されたんだ。
弟が墓に埋められた次の日に私は家出した。
生き延びるために。
私は貧乏を憎んだ。
貧乏でなければ家族みんなもっと幸せに暮らせたに違いない。
だから、死に物狂いで金を稼いだ。
金になることならなんだってやった。
汚いことも、ずるい事も、卑怯なことも。
そして、今の地位にまでかけ登った。
それは本当に苦しかった。
でも、親に殴られるよりはましだった。
私は生まれた時から裕福な奴が憎い。
愛を語るやつが許せない。
私は愛なんて信じない。
結局はみんな金の元にひざまずくんだ」
そう言うと、ジャルジャンは傷ついた右手を上げて唸った。
「ううぅぅううう」
「何してるの」
「痛い時にこの辺りから自分で自分を見てると痛くなくなる」そう言ってジャルジャンは頭上で右手の指を広げた。傷口から赤い血が腕を伝って流れた。
― この人はいつもこうやって痛みをこらえて生きてきたんだ。
そう思うとアスカはジャルジャンの傷の一つ一つが重たく感じられた。
生半可には生きていない男の裸がそこにはあった。
ペルーラが心配そうに言う。
「そんな物騒なもの持って行って大丈夫?」
「大丈夫。ただの脅しよ。こんなステーキ用のナイフじゃ大したことにはならないわ」
「だったら良いけど……。気を付けて」
「分かってる。私だって色々な修羅場を経験してきたんだもん。簡単には男の言いなりにはならないわ」
アスカは強がってみたものの、内心かなり不安だった。しかし、なるようにしかならない。嫌なことには徹底的に抵抗する。そう決めた。
恐る恐るジャルジャンの部屋をノックする。何も返答はないが、ノブを回してみると鍵は掛かっていないようだ。
ゆっくりと扉を開けると、部屋の中は暗かった。窓から少しだけ庭からランプの光が入り込んでいた。中央に大きなベッドがある。
目が慣れてくると、ベッドの脇に人影がある事に気づいた。ジャルジャンがガウンを着て立っている。
裸足だった。
そして、普段よりも背が低かった。ジャルジャンは普段底上げブーツの類を履いて身長を大きく見せていたのだ。一回り小さいジャルジャンは獲物を狙う野生動物のように目を光らせた。その影はまるでジャルジャンの闇の部分を現すように、暗くてどす黒い。
ジャルジャンはアスカの方を向くと近寄ってきた。
「わたしに触れないで!」アスカはそう叫ぶとステーキ用のナイフを両手で持って構えた。その先端は自らの喉に向けていた。アスカの足は震えていた。
ジャルジャンはガウンを脱いだ。その下には何も着ていなかった。そこには細くて小さな痩せた体があった。そして、その体には無数の傷やミミズバレがついていた。
その体の傷の多さにアスカは驚いた。
すたすたとジャルジャンは歩み寄り、アスカの持つステーキ用のナイフの刃を右手で掴んだ。
「こんな事をしてはいけないよ。自分を傷つけるなんて最悪だ」
そう言ってジャルジャンはアスカを見つめた。しかし、その青い目には感情がなかった。どこまでも無感情な目にアスカは圧倒されていた。
ジャルジャンの右手から血が滴り落ちた。
アスカは恐怖のあまり、ナイフを動かす事が出来ず、そっと力をゆるめて手を離した。その手は微かに震えていた。
ジャルジャンはゆっくりと右手を開いていった。ナイフがコトンと音を立てて床に落ちた。ジャルジャンは手のひらの傷口の血を舐めた。血はすでに少しだけ固まり始めていた。
「ふぅー」とジャルジャンは痛みをこらえるように小さなため息をついた。
「こんなのたいして痛くはない。これよりもっと痛い目にはたくさんあった」
近くで見るジャルジャンの肌には無数の傷、ミミズバレやアザがあった。それはひどい有様だった。なぜ生きているのか不思議なほどの傷が肌を埋め尽くしている。
「そ、その体の傷は……」
アスカは唇が震えて上手く喋れなかった。
「これは親につけられた傷なのよ」
「虐待」
「そうとも言う」
「なんて事を」
「私はとても貧しい家庭に生まれた。
ろくに食べるものも与えられずに育った。
父親は私が幼い頃に亡くなった。
家にはすぐに継父が来て、毎日殴られるようになった。
この傷は包丁で切りつけられた。
こっちは火鉢で焼かれた跡。
この骨はバットで殴られて歪んだ。
いつの間にか母親も一緒になって私を殴った。
ただし、学校にバレないように顔は殴らなかった。
一歳年下の弟は私が十一歳の時の冬に家で死んでいた。
いや、多分、殺されたんだ。
弟が墓に埋められた次の日に私は家出した。
生き延びるために。
私は貧乏を憎んだ。
貧乏でなければ家族みんなもっと幸せに暮らせたに違いない。
だから、死に物狂いで金を稼いだ。
金になることならなんだってやった。
汚いことも、ずるい事も、卑怯なことも。
そして、今の地位にまでかけ登った。
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でも、親に殴られるよりはましだった。
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結局はみんな金の元にひざまずくんだ」
そう言うと、ジャルジャンは傷ついた右手を上げて唸った。
「ううぅぅううう」
「何してるの」
「痛い時にこの辺りから自分で自分を見てると痛くなくなる」そう言ってジャルジャンは頭上で右手の指を広げた。傷口から赤い血が腕を伝って流れた。
― この人はいつもこうやって痛みをこらえて生きてきたんだ。
そう思うとアスカはジャルジャンの傷の一つ一つが重たく感じられた。
生半可には生きていない男の裸がそこにはあった。
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