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19のかたち
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「ちょっとトイレ行ってくるね。ミカは大丈夫か」
「うん」
「ミサキは?」
「あっ、私も行く」
「ミカも行っておいた方がいいんじゃないか」
「全然行きたくないもん」
「そうか」
夢の国に来てから、娘は、まだ一回もトイレに行っていない。行っていないにも関わらず、元気だ。わだかまりも、不純物も溜まっていない。
足を硬い地面に打ち付け、ドタバタとたまに音を鳴らす。それほど、元気がいい。だから、嘘を吐き、我慢していることなんて、少しも考えられなかった。
トイレに関して、嘘を吐く必要性が、全くと言っていいほどないのだから。娘がトイレに行った記憶は、もう遥か遠くの方にある気がした。もう、消えそうなほどに薄れている。もう、消え去っているも同然だ。
尿意は、消えている。なのに、元気は一向に消えることも減ることもない。むしろ、前よりも格段に増えていた。それに関する理由は、全く持ち合わせてはいない。
妻に手を引かれて、娘はトントンした。片足を二歩ずつ、地に着けて。優雅に跳ねる。娘の姿に区切りを付けて、脳も心も瞳も身体も、トイレに向けた。
洒落た文字が躍る、看板が目に付く。その看板がなければ、トイレだとは想像もつかない。それほど、立派なお城が、そこにはあった。
城の入り口をくぐり、暗い通路を進んでいく。すると、パッと照明の花が開いた。一瞬で、明るさが全体に広がってゆく。そして、ずらっと並ぶ小便器が、鮮明にその場に、浮かび上がった。
さきほどの跳ねる娘は、この瞳に焼き付いている。しっかりと地に足を着け、しっかりとした動作を繰り広げる娘。そんな姿が、今も瞼の裏にいる。
でも、娘から人間らしさが、またひとつ消えた事実は消えない。そして、人形らしさが、またひとつ生まれた事実。それも、また消えない。
ベルトを緩めて、一回小さめの深呼吸を挟んだ。そして、溜まったものを一気に放出した。溜まったものを、体内から一気に外へ出した。それでも、緊張感の度合いは下がらない。安堵には届かなかった。
不安やわだかまりは、ずっと僕の心臓に、しがみつき続ける。強風が吹こうと、大雨に曝されようと。
娘の人間である事実。それは、少し間を置いて、またひとつまたひとつと消えゆく。一度に消えはせず、焦らすように。そして、僅かに惜しんでいるかのように、ゆっくりと消えてゆく。
まだ、娘には笑顔が残っている。まだ、娘には元気が残っている。
水道の蛇口を捻り、勢いよく水を放出した。自分の中に潜んでいる、哀しみの如く。手を擦っても、皮膚の表面にある汚れしか、落ちてはくれない。
ポケットには、揉みしだかれたハンカチ。それは、心のように、いくつものシワをまとっていた。
娘を想いながら。妻を想いながら。揉みしだくようにして、ハンカチで水分を拭き取った。
娘の活力は、今までの10年間と何も遜色がない。表情を司る筋肉が、動いているうちは、僕の心臓が止まるほどの苦痛は、やって来ない。それは確実なことだ。
変わりゆく娘に、家族の在り方。そして、人としての在り方を教えられた。それらの在り方を教えるために、娘はお人形さんに変貌していった。そう考えるのが、妥当だった。そう考えるしか、救いがなかった。
行きよりも、長く感じる通路。それを、何度も何度も曲がりながら、外の空気を目指す。トイレの、小さい網目状の線で仕切られた、床を進む。
本来の、魔法が掛けられた美しい床へと出た。そこには、仲良く手を繋いで、微笑ましく佇む、娘と妻の姿があった。
普通の家族に戻れば、本来の娘も帰ってくる。そう信じる心は、まだ中腹に存在していた。心の中腹で、スヤスヤと眠り続けていた。
今の僕たちは、普通の家族に近づいていると信じている。一時的に、普通の家族だと、感じているだけかもしれない。まだ、どこか、ぎこちなさが残っている。
まだまだ、家族が壊れる余地もありそうだ。でも、あの飾らない娘を、必ず帰って来させる。そのために、努力するしかないのだ。
僕たち夫婦の在り方は、まだ片足も突っ込んでいない。そのくらいのものだろう。でも、数日前の僕たちより、何倍も成長したことは確かだ。段々と幸せに近づいて来ていることも確かだ。
妻と娘は、とても仲が良さそうだ。手を繋いで、こちらへと歩いてくる。夢の国に長く住み続けた、住人であるかのように。夢のような光景を、二人は見せつけてきた。
夢の国で娘は、夢であるかのような、最高の燥ぎっぷりをしていた。そして、光り輝くほどの、最高の子供らしさをしていた。そして、美しい最高の笑顔を、振り撒き続けていた。
「うん」
「ミサキは?」
「あっ、私も行く」
「ミカも行っておいた方がいいんじゃないか」
「全然行きたくないもん」
「そうか」
夢の国に来てから、娘は、まだ一回もトイレに行っていない。行っていないにも関わらず、元気だ。わだかまりも、不純物も溜まっていない。
足を硬い地面に打ち付け、ドタバタとたまに音を鳴らす。それほど、元気がいい。だから、嘘を吐き、我慢していることなんて、少しも考えられなかった。
トイレに関して、嘘を吐く必要性が、全くと言っていいほどないのだから。娘がトイレに行った記憶は、もう遥か遠くの方にある気がした。もう、消えそうなほどに薄れている。もう、消え去っているも同然だ。
尿意は、消えている。なのに、元気は一向に消えることも減ることもない。むしろ、前よりも格段に増えていた。それに関する理由は、全く持ち合わせてはいない。
妻に手を引かれて、娘はトントンした。片足を二歩ずつ、地に着けて。優雅に跳ねる。娘の姿に区切りを付けて、脳も心も瞳も身体も、トイレに向けた。
洒落た文字が躍る、看板が目に付く。その看板がなければ、トイレだとは想像もつかない。それほど、立派なお城が、そこにはあった。
城の入り口をくぐり、暗い通路を進んでいく。すると、パッと照明の花が開いた。一瞬で、明るさが全体に広がってゆく。そして、ずらっと並ぶ小便器が、鮮明にその場に、浮かび上がった。
さきほどの跳ねる娘は、この瞳に焼き付いている。しっかりと地に足を着け、しっかりとした動作を繰り広げる娘。そんな姿が、今も瞼の裏にいる。
でも、娘から人間らしさが、またひとつ消えた事実は消えない。そして、人形らしさが、またひとつ生まれた事実。それも、また消えない。
ベルトを緩めて、一回小さめの深呼吸を挟んだ。そして、溜まったものを一気に放出した。溜まったものを、体内から一気に外へ出した。それでも、緊張感の度合いは下がらない。安堵には届かなかった。
不安やわだかまりは、ずっと僕の心臓に、しがみつき続ける。強風が吹こうと、大雨に曝されようと。
娘の人間である事実。それは、少し間を置いて、またひとつまたひとつと消えゆく。一度に消えはせず、焦らすように。そして、僅かに惜しんでいるかのように、ゆっくりと消えてゆく。
まだ、娘には笑顔が残っている。まだ、娘には元気が残っている。
水道の蛇口を捻り、勢いよく水を放出した。自分の中に潜んでいる、哀しみの如く。手を擦っても、皮膚の表面にある汚れしか、落ちてはくれない。
ポケットには、揉みしだかれたハンカチ。それは、心のように、いくつものシワをまとっていた。
娘を想いながら。妻を想いながら。揉みしだくようにして、ハンカチで水分を拭き取った。
娘の活力は、今までの10年間と何も遜色がない。表情を司る筋肉が、動いているうちは、僕の心臓が止まるほどの苦痛は、やって来ない。それは確実なことだ。
変わりゆく娘に、家族の在り方。そして、人としての在り方を教えられた。それらの在り方を教えるために、娘はお人形さんに変貌していった。そう考えるのが、妥当だった。そう考えるしか、救いがなかった。
行きよりも、長く感じる通路。それを、何度も何度も曲がりながら、外の空気を目指す。トイレの、小さい網目状の線で仕切られた、床を進む。
本来の、魔法が掛けられた美しい床へと出た。そこには、仲良く手を繋いで、微笑ましく佇む、娘と妻の姿があった。
普通の家族に戻れば、本来の娘も帰ってくる。そう信じる心は、まだ中腹に存在していた。心の中腹で、スヤスヤと眠り続けていた。
今の僕たちは、普通の家族に近づいていると信じている。一時的に、普通の家族だと、感じているだけかもしれない。まだ、どこか、ぎこちなさが残っている。
まだまだ、家族が壊れる余地もありそうだ。でも、あの飾らない娘を、必ず帰って来させる。そのために、努力するしかないのだ。
僕たち夫婦の在り方は、まだ片足も突っ込んでいない。そのくらいのものだろう。でも、数日前の僕たちより、何倍も成長したことは確かだ。段々と幸せに近づいて来ていることも確かだ。
妻と娘は、とても仲が良さそうだ。手を繋いで、こちらへと歩いてくる。夢の国に長く住み続けた、住人であるかのように。夢のような光景を、二人は見せつけてきた。
夢の国で娘は、夢であるかのような、最高の燥ぎっぷりをしていた。そして、光り輝くほどの、最高の子供らしさをしていた。そして、美しい最高の笑顔を、振り撒き続けていた。
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