熱愛を祈願します!

篠原怜

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1巻

1-3

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「ところでおふくろは?」
「和明さん夫妻と、歌舞伎座に行った。あと二、三時間は一緒だろう。お前は友人の結婚式で帰りが遅くなると信じてるから、安心しろ」

 兄がニヤッと笑った。女性経験はそれなりにあるが、恋愛には興味がないと言い切る兄は、母に勧められるままに見合いを繰り返している。母親がしゅうとめにいびられたせいで離婚したので、結婚相手は母が気に入る女性にしたいそうだ。

「なるほどな。さすがは兄貴、手抜かりはないか」
「当たり前だ」

 大学の同期生だった両親は、神社の跡取り息子と巨大企業グループの令嬢という素性すじょうを知らぬまま恋に落ち、希和子が妊娠したことにより、卒業と同時に結婚した。希和子は慣れない土地で神主の嫁として頑張ったが、博之の浮気としゅうとめの嫁いびりに耐えかね、貴大が七歳の時に息子たちを連れて家を出たのだ。
 結婚に反対した藤堂の家とは絶縁状態であったので、離婚後の数年間、母子は極貧ごくひん生活を送ることとなった。
 希和子は現在の地位を手に入れるまで、辛酸しんさんめ尽くした。ときどき別れた夫のことをマスコミがぎ回るが、希和子が実家と和解したため、スキャンダルを嫌う藤堂の伯父おじが裏で手を回してひねり潰している。

「俺がおふくろの会社を継ぎ、お前はあの神社を守る。もしお前が金銭的に困っても、俺は絶対にお前を見捨てない。お前が神主の資格を取った時にそう決めただろう? 貴大」

 大輔の言葉に、貴大は現実に引き戻された。

「ああ。大丈夫だ、よくわかってるよ」

 大輔も貴大も、苦労して育ててくれた母には心から感謝している。
 離婚して藤堂の名字に変わってからは、母のためにも父方の身内とは一切会わずに過ごしたほどだ。
 しかし貴大が二十歳の時、母の目を盗んで会いに来た父から、祖父母の死と、祖母が死の間際まぎわまで、孫のどちらかに神社を継いでほしいと願っていたと聞かされた。
 十数年ぶりに会う父はめっきり老け込み、懐かしい神社も経営の悪化で人手不足に悩まされているという。それを知った時、憎しみはどこかに消え去り、やがて兄弟は、父を支えることを決心した。
 貴大はからになったビール瓶をテーブルに置いた。今考えるべきは、そのことではない。美香についてだ。

「少々まずいことになった。会社の女の子に見られたんだ」
「見られた……? 誰に何を」
「有吉美香だ。新婦の友人として、彼女も式に招かれていたんだ。ご神木の前でばったり会って……」
「ほう。美香ちゃんか……。お前の大好きな」

 一瞬けわしい顔になった兄だが、美香の名を聞いて口元をゆるめた。
 有吉美香。確かに大好きだ。
 目を閉じれば、雅楽ががくの音色が響く中に、品の良い桜色のワンピースを着た美香の姿が浮かぶ。
 彼女はいつもと違う香水をまとっていた。甘くて女らしい香りだ。ほっそりとした足が綺麗で、立ち上がらせた時、思わずドレスの胸元の谷間に目が行ってしまった。
 職務も忘れ、貴大はつかの間、不埒ふらちな想いに囚われた。
 美香が入社したばかりの頃は、社長のワガママに振り回されている彼女を、興味深く見ているだけだった。
 そのうち、社長の面倒な要望にもせっせとこたえる彼女に本気でかれるようになった。貴大は資産家の令嬢やモデル並みの美女には魅力を感じない。
 時代遅れかもしれないが、ひたむきでけなげな女性に憧れるのだ。社長のラテを買うために息を切らしながら走る美香に心をいやされ、いつの間にか全力で愛してやりたいと思うようになった。
 それほどに惹かれながらも、頑張れと励ますだけで半年以上が過ぎてしまっている。

「彼女には何も話してないのか」

 大輔が探るように言う。貴大はうなずくことしかできなかった。

「当然だ。なんだかんだ言っても、彼女は社長の腹心ふくしんだ。下手をすればこの十年の努力が水の泡になる。だから口止めした」
「口止め……。でも、もう時間がないぞ。隠したままでいいのか?」
「たった一度、家まで送っただけだぞ。俺のことをどう思ってるかさえわからない」
「じゃあ明日の晩、ホテルのスイートに連れ込んで、夜通し抱いてやれ。そして一言、俺と一緒に白岬に来てくれと言えばいい。彼女が思わず頷くような強引さを見せろ」

 冷徹れいてつな目とは正反対な熱い兄の言葉に、貴大は唖然あぜんとした。同時に兄の提案を頭の中で想像してしまい、みだらな誘惑に負けそうになる。

「お前、口のきき方がだんだんおふくろに似てきたな。大切だと思うからこそ、手が出せないんだろうが」
「それがお前の悪いところだ。他人の顔色をうかがいすぎる。好きなら奪え。何故さっさとものにしない。他の男にさらわれるぞ」

 奪えと言われても。
 母親があのピンヒールを履いた悪魔で、伯父おじは藤堂グループ総帥そうすいだ。そんな肩書きを背負ったままうかつに手を出しては、美香は戸惑とまどい、離れていくだろう。
 すべての女が金の匂いに惹かれるわけではない。ことに美香は、身の程をわきまえすぎている女だ。
 でも、彼女はご神木の前で俺の手を取った。
 あの木には古くから語り継がれる恋物語がある。遠い昔、いくさで傷付いた武将があの木の根元に倒れていると、通りかかった町の娘に助けられた。二人は恋に落ち、やがて身分の違いを乗り越え結ばれた。
 町の郷土資料館にも文献が残る、古代のロマンス。あの木の下で手を取り合った男女は結ばれる――いつしかそんな言い伝えが広まり、白岬神社は縁結び神社と呼ばれるようになった。
 俺たちも結ばれる運命にある。
 貴大はそう確信していた。美香にすべてを打ち明け、二人の関係を一歩先に進めようと、真剣に考え込んだ。 


 月曜日の午後六時過ぎ、貴大は帰り支度じたくをしている美香を拉致らちするように車に乗せ、都心から離れた場所まで車を飛ばした。たどり着いたのは、江戸川近くの雑居ビル。このビルの五階で、高校時代の友人が洋食屋を営んでいる。
 社長はもう一人の秘書と営業部長を伴い、神楽坂かぐらざかの料亭でロシアのVIPを接待中だ。ここまで来れば遭遇そうぐうすることもないと考えたのだ。

「で。昨日の約束は守ってくれただろうな」
「は、はい……」

 貴大は、ピザと飲み物を運んで来たスタッフが出て行くなり、そう切り出した。二人が案内されたのは、店の奥の小さな個室で、気をきかせた友人が、テーブルの上に花やキャンドルを飾ってくれていた。室内はほの暗く、窓からはベイエリアの夜景も見えたが、美香は二人きりでいるのが落ち着かないのか、しきりに周囲を見回している。

「そうか。色々と無理を言って悪かった。とりあえずピザでもつまみながら飲めよ。事情を説明するから」
「はい。では……」

 ピザと一緒に美香にはカンパリソーダを勧め、自分はウーロン茶を頼んだ。

「昨日のことなんだが、実は俺は神主、いや、正しく言うと神職の資格を持ってるんだ」

 大輔に言われたように、貴大はすべてを打ち明けるつもりで来た。意外にも美香はさほど驚かなかった。

「やっぱり、そうでしたか。式の後の食事会で、友人たちがイケメン神主さんの話題で盛り上がってしまって……。友人から、専務があの神社の宮司ぐうじさんの息子さんだと聞きました」
「なんだ、もうばれてるのか」

 少しだけ拍子抜けした気分になる。貴大は頬杖ほおづえをつきながら、ため息をらした。

「三枝さんとおっしゃる方が、専務のお父さんで、社長の……?」
「別れた亭主だ。三枝の家は社家しゃけといって、ようするに、白岬で代々神社の宮司を世襲せしゅうしてきた家なんだ。けどこの二年ほど親父おやじの体調が悪くて、俺が手伝いに行く回数が増えた」
「そうでしたか。わたしはてっきり、専務のサイドビジネスだと思いました。失礼ですが、この件は社長には?」
「隠している」

 美香が息を呑んだ。貴大はウーロン茶を一口飲むと、慎重に話を進めた。

「親父とおふくろは大学の同期生で、いわゆるデキ婚をしたんだ。だけど祖母の嫁いびりや親父の浮気のせいで別れた。その後のシングルマザー時代は君も知っているとおりだ」
「ええ。社長の著書で読みました。とにかく貧乏で、食べ物に事欠いたと……」
「全部事実だ。俺が小学生から中学生の頃にかけては悲惨だった。でもおふくろは俺たちのために、藤堂の力を借りずに死にもの狂いで働いたんだ。そんなおふくろだから、俺が三枝の家の手伝いをしてると知ったら、即刻親父の息の根を止めに行くだろう」

 その場面を想像したのか、美香は両手を胸に当てて小さく身震みぶるいした。

「でも専務。社長に反対されるようなことを、どうして隠れてまでなさるんですか?」

 その言葉には、わずかに非難が込められているように感じた。

「手塩にかけて育てた息子さんが、隠れて元ご主人と通じていると知ったら、ショックを受けられるでしょう。社長がお気の毒です」
「確かに親父おやじはろくでなしだ」

 貴大の脳裏のうりに、やせおとろえ、神職にはあるまじき無精ぶしょうひげをうっすらやした博之の顔が浮かぶ。昔はああではなかった。凛々りりしい神主だと、近所でも評判だったのを覚えている。
 父は妻と実母の間で板挟みになり、現実逃避するかのように浮気をした。結果、妻と二人の息子を失ったのだ。

「それでも親なんだ」
「専務」
「あの神社は縁結びで知られていたが、親父たちの離婚のせいで評判が落ち、参拝者も減った。今では神職は親父一人になり、後継者の問題もある。放っておけないんだ。後は亡くなった祖父母だ」

 先代宮司ぐうじである祖父は貴大が高校生の時に亡くなり、祖母はその三年後にった。その事実をげられた時の喪失感そうしつかん。いまだに忘れられない。

「祖父母は、孫のどちらかに神社を継いでほしいと願っていたそうだ。祖母は確かにおふくろにはきつく当たっていたが、俺と大輔は可愛がってもらった。それなのに、離れて暮らしていたから何もしてあげられなかった」
「だから神主になろうと?」
「そう」

 空気が重くなる。美香は、心もち明るい声で質問をしてきた。

「でも神前式には雅楽隊ががくたい巫女みこさんがいました。人手が足りなさそうには見えませんでしたが」
「あれは片岡さんがよその神社から自前で連れて来たすけだ。うちの神社は、神職は親父一人。大きな祭りがある時はバイトの巫女を雇い、それ以外は地元の人間で、神職に協力してくれる役割の総代や、叔母おばとその旦那が手伝いに来てくれる」
「そうだったんですか……。神社も色々と大変なんですね」
「地元の人たちも、俺か大輔に戻って来てほしいと言ってくれている。大輔はおふくろの会社を継ぐべきだと思う。だから俺が親父の跡を継ぐ。そう考えたんだ」
「そうですね……、えっ、継ぐ? 手伝いではなく、専務は神社のお仕事を本職になさるおつもりなんですか?」
「いや、その……。なあ、美香ちゃん」

 貴大は身を乗り出し、テーブルの上の美香の手を取った。そうして、うろたえる美香の目をじっと見つめる。
 自分をこき使う、悪魔のようなボスの身になって考える辺りが、いかにも美香らしい。
 優しい子なんだよな。だからおふくろにいいように使われる。
 しかし、その優しさに貴大はかれていた。

「明日にでも専務を辞めて神社の神主になる――。そう言ったら、美香ちゃんは一緒に来てくれるか?」
「え?」
「おふくろは激怒して、親子の縁を切るだろう。神社の件では、前にも一度ケンカになってるんだ。でも心配はいらない。俺にはたくわえがある。自分の妻子に苦労をかけることはないはずだ。だから美香ちゃん」
「さ、妻子?」

 美香は目を丸くした。貴大はそれを無視して美香の頬に触れる。びくりと肩を震わせた彼女の頬を、手のひらでそっと包み込む。温かくて、かすかに震えるすべすべの肌。今日は珍しく、髪を下ろしている。ゆるく波打つ柔らかい髪が、妙に女っぽい。
 ふっくらした唇は、キスしたらどんな味がするだろう。

「美香ちゃん。俺と……」

 貴大は頬の線に沿って指をすべらせ、美香のあごを持ち上げた。
 俺と一緒に白岬に来てくれ。君はどうしたら俺のものになってくれる?
 静寂せいじゃくとテーブルに置かれたキャンドルの明かりが、貴大を大胆にした。しかし――

「そんなご冗談をおっしゃってはいけません、専務……!」

 美香はわずかに身を引いて、貴大の手から逃れた。

「確かにわたしは社長の秘書ですが、ヘッドハンティングするような価値はありません。それに専務がいなくなっては社長が悲しまれます。会社も困ります」

 ヘッドハンティングだと……? おいおい。
 勇気を振りしぼっての愛の告白なのに、どうしてそんな結論にたどり着くのか。じれったくなった貴大は、否定しようと慌てて口を開いた。

「ヘッドハンティングなんかじゃないよ。俺は君を――」

 けれど美香はそれ以上聞きたくないと言わんばかりに、首を横に振る。

「専務は優しい方です。亡くなったおばあ様のために神主の資格を取って、ご病気のお父様のために神社のお手伝いをなさる。もちろんお母様のために重役としての責務も果たされている。感動します。わたしの憧れている専務がそんな人で嬉しくて……、あ」

 そこまで言ってから美香は口元を押さえて、明らかに恥じらう素振りを見せた。

「申し訳ありません!」

 美香はぺこりと頭を下げた。

「ずっと専務に憧れていました。今日お話をうかがって、ますます専務が好きになりました。ですから」
「ですから……?」

 顔を上げた美香は、まぶしい笑顔を貴大に向けた。

「社長とお話しになるべきです」

 そしてさとすように言葉を続けた。

「時間をかけて説得なされば、わかってくれるはずです。その頃には会社ももっと成長して、安定期に入るのではないでしょうか。それまで辛抱しんぼうなさるほうが……。縁を切るなどもってのほかです」
「美香ちゃん」
「今うかがったことは誰にも言いませんから……、あ、ピザがめてしまいましたね……」
「いやいいよ、たとえばの話だよ」
「専務」

 彼女は泣きそうな顔をしていた。貴大はなだめるように言う。

「例えばの話。冗談だ。に受けなくていいから」

 そうさ、真に受けなくていいよ。今はまだ。
 自分の中で、何かが急速に冷めていくのを貴大は感じた。
 あと十日も経たないうちに、貴大は会社を去り白岬に帰るという極秘作戦を決行する予定だ。もし美香がうんと言ってくれたら、彼女を連れて行こうと考えていた。自分たちはいわゆる恋人同士ではないが、一緒に暮らすうちに深い愛が生まれるだろう。
 彼女が望むなら、幼稚園でも保育所でも好きな仕事にけるよう協力するつもりだ。
 しかし美香は貴大より、秘書の仕事、いや、すくすくっこルームのほうが大事らしい。その事実が貴大の全身を駆けめぐり、雷に打たれたようなショックを与えた。


「どうやら振られたようだ」

 ディナーの後に美香を送り、そのまま自宅に帰った貴大は、大輔に電話で報告をした。

「スイートルームに連れ込んだのか。むせるほどのバラを用意したか?」
「いや、友人が経営する洋食屋に連れて行った。臨海公園の夜景が見える店だ」
「この、ヘタレ野郎が」

 大輔の容赦ようしゃない言葉に、貴大は心が折れそうになる。

「それでも予定どおり決行だ。ほんとに好きなら、一度や二度の失敗で諦めるな」
「諦めねえよ」

 そうとも、諦めるものか。
 自分たちはご神木の加護を受けた。必ず、彼女は俺のものになるのだから。 



   5


 はあ……、キスされるかと思った。
 貴大のせいで、美香は夜遅くまで寝付けなかった。
 貴大に連れて行かれた夜景の綺麗な店で、美香は思いがけず彼と急接近した。目を閉じても、すぐそばに迫った彼の顔や、頬を包んだ彼の手の感触が何度もよみがえる。あごに添えられた彼の指が美香の顔を上に向け、伏し目がちな彼の顔が今にも重なりそうに感じられた。
 まるでプロポーズの予行練習みたいだ。美香はうっとりと彼に見入ってしまったが、我に返り、慌てて彼の告白をさえぎった。彼は明らかに気を悪くしていた。でも一介の社長秘書の身としては、あんなふうにしか答えられない。
 あれは、本当に冗談だったのだろうか。彼が語った人生設計は、やけにリアルに感じられたのだが。そのことが気になって、ますます寝付けなくなる。
 おかげで、翌日は寝不足のまま出勤することになった。

「どうしたの? 寝不足?」
「ええ、あの、はい……」

 メイクでごまかしたつもりだったが、悦子に指摘されてしまう。社長を出迎えた時も、怖い目でにらまれた。きっとしょぼくれた顔が気に入らなかったのだろう。
 昨夜聞かされた希和子の過去は、美香にとって衝撃しょうげきだった。慣れない土地での結婚生活。しゅうとめにいびられ、どんなに辛かったことか。何故、貴大の父は希和子を守ってやれなかったのか――
 思い出すと美香の胸も苦しくなった。
 しかし、そういった辛い経験が、自身と同じような境遇の母親を応援する事業の設立につながったのかと思うと、いっそう希和子を尊敬し、彼女の部下であることが誇らしくさえなった。
 眠気を追いやり、今日も仕事に励む。いつものように社長の使い走りで外出し、ようやく席に戻った時、デスクの上の内線が鳴った。社長室からだ。

「有吉、いる? すぐに来て!」

 受話器を取った美香が何か言うより前に、希和子の大声が耳に響いた。

「はい! ただいま」

 受話器を戻した美香に、悦子がこっそり声をかける。

「おかんむりよー。何をやらかしたの?」
「身に覚えはありませんけど……」

 興味本位の悦子の視線をよそに、美香は席を立って社長室のドアをノックする。

「お呼びでしょうか」

 ドアを開けると希和子のデスクの前に貴大がいた。美香が席を外している間に入室したのだろう。美香は彼と目が合って足がすくんでしまう。

「ここに来て」

 そううながされ、美香は緊張しながら希和子の前に進み出る。その間ずっと、貴大の視線は自分にそそがれたままだ。今までとは明らかに違う、強烈な視線にぞくっとした。

「昨夜、八時頃かしら。臨海公園の近くで貴大の車とあなたたち二人を見かけたわ。何をしてたの?」
「は……?」

 背中に冷水を浴びせられた気分になる。ちょうどその頃には店を出て、二人で駐車場に向かっていたはずだ。

「社長は神楽坂で接待だったと聞いておりますが」

 黙って聞いていた貴大がそう返した。希和子は頬杖ほおづえをつきながら、息子の顔を見上げる。

「お座敷で忍者ショーを見ながら、しゃぶしゃぶを食べてたんだけどね、ベステミアノフ夫妻がディズニーランドの花火を見たいとおっしゃるので、車であの近くまで行ったのよ。それで」

 見つかっちゃったんだ。そういえば、専務のお友達のお店からも花火が見えたっけ――
 上手くごまかさなきゃ……。と思った時には、貴大がのんびりと口を開いていた。

「実は日曜日の結婚式で彼女とばったり会ったんだ。その時の参列者の何人かと、昨日あの近くの店で飯を食ったんだよ。彼女も一緒に」
「同じ結婚式に出てたってこと?」
「そう。お互い新郎新婦の友人でさ。驚いたよ、なあ、有吉」
「はい……。まさかあの、専務のお知り合いの方だったとは……」

 美香は慌てて話を合わせた。

「ふーん」

 そんな嘘が社長に通用するわけがないと思ったのだが、希和子はしばらく無言で美香と貴大を見比べると、追及の手をゆるめた。

「ならいいわ。別に怒ってるんじゃないの。意外な組み合わせだなと思ったから」
「意外ですか? 歳も近いしお互い独身だし……」

 貴大は冗談めかして言ったが、希和子が興味なさげにそっぽを向いたので口をつぐんだ。そしてすぐに真面目な顔に戻り、手にしていた資料を社長のデスクに置く。

「それでは、この案件を進めたいので決裁をいただけますか? ご出発までもう一週間ですし」
「ああ、そうだったわね」

 希和子はメガネをかけると、貴大の差し出した書類に手を伸ばした。来週の後半より、希和子は海外出張のため長期不在となる。訪問先はヨーロッパからアジアまで数カ国に及ぶ。
 毎年恒例の、商品の買い付けや新規マーケットを開拓するための出張。ヨーロッパでは王族との面会が予定されており、最後の二週間はドバイでのプライベート休暇に当てられていた。そのせいで、商用というより外遊と呼ぶほうがふさわしく感じられる。
 全日程は二カ月。美香がこの会社に来て以来、社長がこれほど長く不在になることはなかった。
 大声で万歳ばんざいしたいところだが、トップがこんなに会社をあけて良いのだろうかと思わなくもない。

「これで進めてちょうだい。ねえ、貴大。今からでも遅くないわ。お前も一緒に行かない?」

 希和子は書類を貴大に返しながらそう言った。

「私は他にも交渉中の案件がありますので、そちらを優先させていただきませんと」
「やっぱり無理なの?」
「はい。ヨーロッパは魅力的ではありますが」

 海外出張のメンバーは希和子と大輔、海外営業部長に秘書の悦子。そして西野にしのという、役員付ではないベテラン女性秘書の、計五名となっている。
 希和子は美香を連れて行きたがったのだが、社長秘書が一人は残ったほうが、何かあった時に社内で対応しやすい……と西野が言い出し、さらには自ら社長のお世話係として同行すると主張した。
 なんとなく、会社のお金で海外に行きたいという西野の下心を感じないわけでもなかったが、美香はつつしんで同行を辞退し、希和子もしぶしぶながら西野の提案を受け入れた。
 海外は魅力的だが、たまには希和子と離れるのもいいだろう。社長がいない間に思い切って長い休みを取り、リフレッシュするつもりだ。

「有吉も来られないんだし、肩がったらどうしようかしら」
「西野さんや悦子さんにお願いすればよろしいと思います」
「そうね、出発は来週だし。今更、子どもみたいなことを言うのはよすわ」

 美香はほっと胸をで下ろし、その場を辞した。自分のデスクに戻って十分ほどすると、貴大も社長室から出てきた。
 彼は美香をそわそわさせるような流し目を送ってきたが、無言で彼女の前を通り過ぎた。


 それからの一週間はあわただしく過ぎ去った。社長と次期社長がそろって長期不在になるため、社内はその準備に追われた。
 貴大は美香を避けているようだった。顔を合わせても、おはようとお疲れ様でしたの二言しか交わさない。彼の秘密を共有したことで、逆に二人の距離があいたみたいだ。さびしいが、やむを得ない。
 水曜日の午後には、成田で社長一行を見送った。最初の訪問地はイタリア。美味おいしい生ハムとオリーブオイルを買い付けるとのことだ。
 そして美香が木曜の朝出勤すると、貴大が明日から二週間の休暇に入ると、秘書室の面々に通達があった。
 あれ? 交渉中の案件があったんじゃ……
 それを理由に海外への同行を断ったはずだ。美香が怪訝けげんに思っていると、翌日事件は起こった。

「大変です。専務が辞任されました!」

 金曜日の午後、美香が秘書室で同僚たちと打ち合わせをしていると、貴大の秘書の坂田が大声で叫びながら駆け込んで来た。

「休暇に入ったら渡すようにと、糸井いとい副社長へのメッセージをお預かりしていたんですが、先ほどそれをお届けしたら、出てきたのは辞任届で、電話も通じません」

 青ざめた顔で、坂田は秘書室長の田澤たざわに訴えた。糸井というのはもう一人の副社長で、会社創設時から希和子を支える古参こさんの男性だ。

「辞任だと……? そんなこと誰も聞いていないが。社長はご存じなのか?」
「何もげずにお辞めになったようです。社長への対応は大輔様がなさるので心配はいらないと」

 秘書室にいた面々は驚いて顔を見合わせる。田澤室長が困ったようにつぶやいた。

「まるで次男が逃げ出したみたいじゃないか。どうなってるんだ、坂田!」

 混乱する田澤をよそに、坂田は呆然と成り行きを見つめていた美香に詰め寄った。


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