熱愛を祈願します!

篠原怜

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1巻

1-2

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 そうは思ったが、秘書になってから嫌なことばかりではなかったと思い出し、努めて明るい声で言う。

「でもなんとか半年頑張ったし、そのうち新しい秘書が来てくれるはずですから」
「だと、いいけどな」
「えっ! 来ないんですか?」
「いや、冗談。その辺は俺は知らないんだ」
「そうですか」
「でも、許してやってほしい。ああ見えて、色々と苦労してるんだ。うちのおふくろは」
「専務」
「周りに厳しくするのは、自分もそういう扱いを受けてきたから、つい……な」
「社長が……ですか」
「そう。もしもっと聞きたいなら、来週の食事の時に話すよ」

 社長の過去――
 三十代で離婚。以来シングルマザーで奮闘ふんとうし、スーパーのお惣菜そうざい売場からチェーンの弁当屋勤務を経て、四十代で食材宅配会社を起業。実兄じっけいは経済界の大物、藤堂和明氏……
 美香はそれくらいしか知らない。希和子はたびたびテレビに登場するが、彼女の結婚について、特に貴大と大輔の父親については何も公表されていないのだ。

「お誘いは嬉しいのですが、わたしなんかが専務とご一緒してもよろしいのでしょうか」
「いけない理由なんてあるのか? 会社を離れたら、ただの男と女だろ」

 た、ただの男と女――
 びっくりして言葉が出ない。そんな美香を気にした様子もなく、貴大はなおも続けた。

「今後も俺は、有吉さえ良ければ車で送るけど。何か不都合でもあるか?」
「不都合というか……」

 社長の目が怖いが、それだけじゃない。

「失礼ですが、専務はお付き合いをされている女性はいらっしゃらないんですか?」
「急になんだよ」

 貴大は声を出して笑った。美香は意地になって突っ込む。

「だって、専務はお見合いをされているんでしょう? もしお付き合いされている方がいらっしゃるなら、わたしなんかと食事したりドライブしたりするなんて、お相手の方が悲しまれると思います」
「……真面目だねえ。有吉は」 

 貴大が小さく吐息をらしたのがわかる。怒らせてしまったのかと思ったが、彼の表情を見ると、そうでもなさそうだった。

「藤堂の伯父おじが世話をしたがるので、以前は、ほぼ毎月のように見合いをさせられた」
「ほぼ毎月」
「ああ。だけど去年の九月を最後に、見合いはしていない。特定の相手もいない。ま、大輔は毎月のように、どこぞのご令嬢と見合いをしているが」

 そうなんだ。専務はもう、お見合いをしていないんだ。
 それがわかった途端とたん、心が急に軽くなった。

「これで気が済んだ? だから言っただろう? 余計な気を回すなって」
「はい、あの。詮索せんさくしたみたいで、申し訳ありません」
「いや……」

 その後、美香は何を言えばいいかわからなくなった。しばらく黙り込んでいると、急に車の流れが悪くなった。前方に「事故」と表示された電光掲示板が見える。
 貴大は車を減速させた。 

「週末は予定があるのか?」
明後日あさっての日曜日に、友人の結婚式に招かれています。明日はその準備で色々と……」
奇遇きぐうだな。俺も日曜日に、知人の結婚式に招かれてる」
「そうでしたか」

 貴大の知人とはどういう人なのだろう。やっぱりお金持ちなのだろうか。

「プライベートな君の姿も、一度見てみたいな」

 今夜の貴大は、美香をまどわすようなことばかり言う。オフの日、美香はたいていユルい服で過ごすが、日曜日はフォーマルなピンクのワンピースで神前式に出る予定だ。
 わたしだって、いつもと違うあなたを見たい――
 去年の秋を最後に、お見合いを止めたわけを知りたい――
 美香が藤堂フーズの社員になったのは、去年の夏。貴大が見合いを止める少し前だ。彼は初めて顔を合わせた時から親切で、美香は何度となく彼の言葉に救われてきた。しかし、彼が優しくしてくれるのは、美香が元気に秘書の仕事に励めば、彼の母親が機嫌良く仕事にけるからだと思っていた。
 だけどもし、他にも理由があるのだとしたら。
 あれこれ考えているうちに、次第に眠くなっていった。


「有吉」

 名前を呼ばれて目覚めた時、すぐそばに貴大の顔があった。美香は悲鳴を上げそうなほど驚いた。はっとして顔を上げると、フロントガラスの向こうに、自宅マンションが見える。

「ごめん。あまりにもよく寝ていたから、起こすのが忍びなくて。きっかり五分、寝顔を見させてもらった」
「ええっー? も、申し訳ありません……。わたしったら!」

 顔が熱くなってきた。慌てて手の甲で口元をぬぐう。大丈夫、よだれは出ていない。ほっとしてシートベルトに手をかけたが、あせってしまい、なかなかはずせなかった。
 貴大がくすくすと笑い出した。

「いいことを教えてあげよう。初めて乗る男の車では、眠らないほうがいい。君の身のためだ」
「本当に申し訳ありません。そんなつもりじゃなくて……」
「いいよ、気にするな。元はと言えば、うちのおふくろがこき使うせいだから」
「違うんです。あの、あまりにも乗り心地が良くて、安心したというか……」
「ふーん。俺の隣だと安心できるのか。じゃあ、許してやろう」

 絶対にからかわれている。からかって反応を楽しんでいるのだ。
 恥ずかしすぎて彼と目が合わせられなくなった美香は、礼を言ってドアを開けると、逃げるように夜の車道に降り立った。

「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ。来週の金曜日、忘れるなよ」
「ええと……、はい」

 しばしば美香をからかいはするが、貴大はいい人なのだ。自分のような者をいたわってくれるのだから。
 美香は軽く会釈えしゃくをしてドアを閉めた。けれど車はすぐには動かなかった。やがて助手席の窓がするすると下がり、こちらを見つめる彼と目が合う。

「俺は、神様はいると思うよ」
「え?」

 ほの暗い車内で、貴大はハンドルに片手をかけて、まっすぐに美香を見据みすえた。彼は続けて言葉をつむぐ。

「悪魔もいるかもしれないが、神様も君のそばにいるよ、有吉。信心深く、何事にも真面目に取り組んでいれば、いつかきっとむくわれる。じゃあ結婚式、楽しんで来いよ」

 車が走り去っても、美香はその場を動けなかった。どうやら、社長室での愚痴ぐちを聞かれていたらしい。しかし、彼の母親の悪口を聞かれたことへのショックより、励ましてもらったことへの喜びが勝った。
 神様はいる。じゃあ、恋の神様はわたしにどうしろと……?
 ゴージャスな専務を想い続けるのは自由かもしれないが、かといって、気持ちを伝えることなどできそうになかった。



   3


 貴大の言葉が頭を離れないまま日曜日になり、美香は短大時代の友人四人とともに、千葉の外房そとぼうにある白岬町しろさきまちを訪れた。この町にある白岬神社で、同じく短大仲間である片岡かたおかモエの神前式が行われる。
 モエは白岬町の生まれで、地元の観光産業にたずさわる実業家の娘だ。ぱっと見は長身でがっちりした体形ではあるが、一途いちずな性格で、好きになった相手にはとことん尽くすタイプ。
 二人の姉がすでにとついでいた彼女は、優雅な婚活ライフを送りながら、家業を継いでくれる婿養子むこようしを探していた。そして去年の五月にめでたく料理人の夫、正平しょうへいと入籍。幸せな新婚生活をスタートさせている。
 入籍の翌月にはこの白岬で披露宴ひろうえんが行われ、ひょろりと背が高く実直そうな夫の横で、モエが豪華なウェディングドレス姿を見せてくれた。何故一年近く経った今頃になって挙式をするのかといえば、モエが二人の思い出の神社で、満開の桜をバックに神前式を挙げたいと希望したからだ。

「だってここはぁ、ダーリンとデートした大切な場所なんだものぉ」

 付き合い始めて間もない頃、二人はこの神社の境内けいだいで、たびたびデートを重ねたらしい。

「白岬神社は地元で有名な、縁結び神社なのよ」

 一年後にまた挙式に行くのもなあ……と最初は渋っていた友人たちだが、縁結び神社というモエの言葉に、独身だった全員が参加を決めた。
 美香は髪を巻いてハーフアップにし、落ち着いたピンクのワンピースに黒のボレロを羽織はおっている。アクセサリーはパールのチョーカーと、おそろいのブレスレット。華やかなよそおいの友人たちの中にいても、見劣りすることはないだろう。
 白岬神社へは、東京から特急で一時間。さらに駅から車で二十分ほどかかる。
 大きな鳥居と、ついになった狛犬こまいぬ拝殿はいでんの入り口には手の込んだ細工さいくほどこした欄間らんまがあり、拝殿の奥の本殿ほんでんを含め、神社全体が地元の文化財に指定されているそうだ。決して大きな神社ではないが、そのたたずまいは長い歴史を感じさせた。
 今は拝殿に向かって境内けいだい縦断じゅうだんするように緋色ひいろもうせんが敷かれ、親族以外の参列者がその両端に集まっている。

「桜が綺麗ね。モエがこの時期に式を挙げたがった気持ち、わかるわー」

 美香の隣で、同じく式に招かれた明日香あすかが言った。境内の桜は見頃を迎えていて、外で式の開始を待つ人々の目を楽しませている。

「でも、他に人がいないわよ? 有名な縁結び神社っていう感じはしないかな」

 そう言ったのは、歯科医院の受付をしている弥生やよいだ。弥生の言葉に友人一同が周囲を見回す。桜は綺麗だし、境内の掃除は行き届いているが、確かに式に参加する人々以外の参拝者は見かけない。
 交通の便の悪い田舎町だし、メジャーな縁結びスポットではないのかもしれない。

「モエはああ言ってたけど、実はあまりご利益りやくがないのかも」

 そんな不謹慎ふきんしんな言葉をささやいたのは、保育士の佐智子さちこだった。美香はつい口を挟んだ。

「その辺にしておこうよ。おめでたい日なんだから」

 友人たちが苦笑いした時、どおんと大きく太鼓が鳴った。参列者一同が顔を上げると、今度はみやびやかな雅楽ががくの音色が辺りに響き始める。
 毛せんの先端に、黒いかんむりに白い装束しょうぞくを着た神職の男性が姿を現した。参進さんしんと呼ばれる儀式で、神職や巫女みこに先導された新郎新婦が、拝殿に向けてゆっくりと行進するのだ。
 本来ならば参列者である美香たちも後ろに続くのだが、白岬神社は行進できるスペースが短いので、両脇で待機となった。

「来た来た。へえー、なんだか本格的ねえ……」

 佐智子が小声で言った。雅楽の調しらべが次第に大きくなり、先頭の神職がゆっくりと近付いて来る。
 何かで読んだが、神主という呼び名は俗称のようなもので、正しくは神職と呼ぶらしい。
 その神職の後ろにもう一人神職が続き、和装の雅楽隊、朱色のはかま穿いて、髪にかんざしを飾った巫女が続いた。新郎新婦は巫女の後を歩いている。

「うわ、モエが着ているのって何?」
「まさかの十二単じゅうにひとえとか。人とは違ったことをやりたがるコだからね、モエは」

 美香も友人たちが指さすほうを見る。巫女の後ろに色鮮やかな着物を重ね着し、介添かいぞえ人に裾を持たせてそろりそろりと歩くモエの姿が見えた。
 お雛様ひなさまのようなかつらに金色のかんむり。隣にはこれまたお内裏様だいりさまのような、シックな紫の衣装を着た正平の姿があった。
 友人たちはモエ夫婦についてあれやこれやとささやき合っていたが、急に話題が変わった。

「ちょっと、先頭の人を見てよ。イケメン神主!」
「どれどれ……。えっ! 誰あれ、素敵」
「うそ、見えないー!」
「やば……。どこかの役者じゃない? あんな神主いるの?」

 自然と声が大きくなり、他の参列者からジロジロ見られる。美香は静かにするようにと人差し指を立ててから、自分も爪先立つまさきだって、近付いて来た先頭の男性に注目した。
 すらりとした長身に、黒い冠をかぶり、あご下でひもを結んでいる。首元がスクエアになった平安貴族のような白い上衣じょういの下は、同じく白いはかまのようなものを穿いていた。
 彼は口元をきりりと結び、伏し目がちに歩を進めている。その立ち振る舞いからは厳粛げんしゅくな雰囲気がかもし出されていた。それでも彼が若く、まるで映画か何かから抜け出てきたように美しいのは、誰の目にも明らかだ。

「やだ……。本当に素敵」

 黒と白という至ってシンプルなよそおいなのに、圧倒的な存在感があって、完全に主役を食っている。モエと正平は笑みを浮かべながら行進していたが、友人たちは神主に心を奪われ、モエそっちのけで、神主に向けてスマートフォンのシャッターボタンを押し続けた。
 あれ? あの人どこかで見たような……
 神主が美香の前まで来た時だ。まるで現代の光源氏かと見まがうようなイケメン神主の横顔に、美香は既視感きしかんを覚えた。懐かしくて切なくて、ひどく胸がざわついた。


「かしーこみー、かしーこみー……」

 イケメン神主は独特の節回ふしまわしをつけて、祝詞のりとと呼ばれる神社特有の文章を読み上げていった。式の最中もずっと考えていたのだが、結局美香は、イケメン神主をどこで見たのか思い出せない。もっと近くで顔を見ることができれば良かったのだが、美香たち友人は拝殿はいでんの最後列に座らされ、遠目に式を見守るしかできなかったのだ。式はとどこおりなく進み、やがて終了した。
 ま、いいか。
 気にはなったが、美香にとってはどうでもいいことだ。彼女の心にいるのは貴大だけなのだから。
 外に出ると、記念撮影の準備が始まっていた。まずは新郎新婦のツーショット、それから親族での撮影。最後に全体での集合写真を撮るそうだ。友人たちはイケメン神主を探しに行ってしまったので、美香は一人で近くをぶらつくことにした。
 境内けいだいにはおみくじが結び付けられた結びどころや、古いおふだを納める納札所のうさつしょ、たくさんの絵馬がかけられた場所があった。さらに進むと四方を縄で囲われ、しめ縄の巻かれた大木がある。近付いてみると、「ご神木」と書かれた立て看板があった。
 ご神木か。お願いしちゃおうかな――
 木の前に立った美香は、背筋を伸ばすと、ご神木に向かって両手を合わせた。ここがモエの言うとおりの有名な縁結び神社なら、きっと願いを聞いてくれるはずだ。
 神様お願いします。専務、いえ貴大さんともっと仲良くなれますように。
 身分違いは百も承知。結婚なんて望まない。ただ彼のそばに、ずっといたい。それだけ――
 目を閉じてそう願った直後。


 その願い、かなえてあげましょう。


「えっ?」

 頭の中にそんな声が響いた。
 驚いた美香は慌てて辺りを見回したが、誰もいない。気のせいだろうか。いや、確かに人の声を聞いた。それも女の声だ。
 美香は思わず目の前のご神木を見上げた。四方に伸びた枝が、春の風にゆったりと揺れている。 なんだか気味が悪くなり、その場を去ろうとすると、何かに足を取られてつまずきそうになった。

「わっ!」

 慌てて足元を見れば、地面に盛り上がった木の根っこ付近に、左足の靴のヒールが挟まっている。

「いやだ、どうしよう」

 足を引いてみたが、抜き取れない。細めのヒールが、見事に根の隙間に刺さっていた。無理に動かせば、ぽきりと折れるかもしれない。
 どうしてこんな細いヒールを履いて来ちゃったんだろう。
 美香はその場にしゃがみ込み、手で靴のかかと部分を動かしてみたが無駄だった。

「どうなさいました?」

 困り果てていると後ろから声がした。衣擦きぬずれの音がして、光沢こうたくのある純白の装束しょうぞくが美香のすぐそばで立ち止まる。さっきのイケメン神主だ。

「靴が引っかかってしまって……」

 しゃがんだまま、美香は顔だけ上に向けて言う。顔を拝むチャンス――と思ったのだが、目が合った瞬間、お互い、あっと声を上げてしまった。

「せ、専務……。藤堂専務ですよね?」
「有吉……。結婚式って、片岡さんのお嬢さんのだったのか」

 イケメン神主の正体は、まさかの貴大だった。どうりで横顔に見覚えがあったはずだ。しかし何故貴大がこんな場所で、神主の真似ごとをしているのだろう。

「モエはわたしの友人なんです。専務こそ、ここで何をしていらっしゃるんですか? その格好は……」
「しっ! 静かに」

 貴大は立ち上がりかけた美香を制するように、人差し指を口の前に立てた。そして自らもその場にしゃがみ込むと、美香に顔を近付けてささやいた。

「今は専務じゃない。ここではその言葉を口にしないように」
「は、はい……」
「俺が靴を取るから、とりあえず立ちなさい。手を」

 貴大は立ち上がってそう言うと、美香の目の前に手を差し出した。言われるがまま、美香はその手を取った。すると温かくて大きな彼の手が美香の手をしっかりと握り、引き上げてくれた。
 コスプレにしては似合いすぎる、貴大の神主姿。改めて面と向かうと、なんと言葉をかけていいかわからない。
 美香を立たせてすぐ、貴大は再びその場にしゃがみ込んだ。

「俺の肩につかまれ、有吉。それから左足を上げるんだ」
「申し訳ありません、せん……、いえ、神主さん」

 彼の肩に手を置かせてもらい、そっと左足を上げた。貴大は片手で袖を押さえ、もう片方の手で木の根に挟まってしまった美香のハイヒールに手をかける。
 その途端とたん、するっと、ハイヒールが持ち上がった。

「うそっ!」
「ヒールは折れてないし、傷も付いてない。良かったな」

 貴大は傷がないかどうかハイヒールを確認してから、シンデレラの王子さながらに美香の前に置いてくれる。にわかには信じられないが、美香は礼を言い、急いでハイヒールを履き直した。

「お手をわずらわせて申し訳ありません。でも、さっきは本当にびくともしなかったんです」

 まるで美香をその場に釘付けにするみたいに、靴ががんとして動かなかった。先ほどの声といい、靴といい、この神社には何かあるのだろうか。不思議でならない。

「謝らなくていいよ、靴を取るのに、ちょっとしたコツが必要だったんだ」
「そうでしょうか」
「ああ。それより写真撮影が始まるから、早く行ったほうがいい」
「はい……。じゃあせん……いえ、神主さん」

 ぺこりと頭を下げて美香が立ち去ろうとした時だ。

「美香ちゃん」

 貴大はいきなり美香の名を呼ぶと、腕をつかんで自分のほうに引き寄せた。白くふんわりと広がる装束しょうぞくが、美香を包み込むようにひるがえる。

「桜色のワンピースが良く似合ってる。上品で女性的でとても君らしい」
「あ……、ありが……」

 見つめられてそう言われ、美香の気分は一気に天へ駆け上る。

「俺と君が知り合いだということは、誰にも言わないように」

 さらに顔を近付けて、貴大は美香の耳元でささやいた。耳朶みみたぶに触れる彼の息に、美香は膝が震えそうになる。

「……もしかして、藤堂フーズの重役だということを隠していらっしゃるんですか?」
「小難しいことは考えなくていい。片岡さんにも他の友人にもしゃべるなよ。もちろん、明日会社に行っても、今日見たことは誰にも言うな」

 最後は命令口調になった。なんだろう。いったい貴大は何を隠しているのだろうか。

「わかりました。専務がそうおっしゃるなら……」
「ありがとう、美香ちゃん。この件については、日を改めて話すから」

 頼んだぞ。貴大に背を押されて、美香は写真撮影の場所に向かう。まだ少し胸がドキドキしていたが、名前で呼ばれたことも、貴大と秘密を共有することも、妙に嬉しかった。
 高鳴る胸をしずめるように手で押さえながら、拝殿はいでんの前に集まっていた友人たちのもとへ急ぐ。友人たちは戻って来た美香に言った。

「あのイケメン神主、ここの宮司ぐうじさんの息子なんだって」
「そうなんだ……。えっ! 息子?」

 ということは、もしかしてその宮司が社長の別れた夫? 社長は神主の嫁だった――?



   4


 まずいな――
 愛車を飛ばして帰途につく間も、貴大の頭の中は想定外の出来事にどう対処すべきかで一杯だった。
 六時過ぎに自宅マンションに戻ると、留守中に上がり込んだ兄の大輔が、キッチンで食事の用意をしていた。両親が離婚して以来、長らく母と兄と三人で暮らしてきた貴大だが、四年ほど前から、ベイエリアにある都内のマンションで一人暮らしをしている。

「何してるんだ。お前、今日は見合いのはずだろう?」

 得意げに料理の盛り付けをしている兄に向かって、貴大は声をかけた。

「俺が作ったアスパラのミラノ風、上々の出来だぞ」

 軽口で返した大輔は、呆れ顔の弟に気付いて顔を上げる。

「心配するな。やるべきことはやって五時前にはお開きになった。それよりお前の首尾はどうだ?」

 貴大は片岡家からもらった土産みやげの品々の入った紙袋を、キッチンカウンターに置いて言う。

「緊張したが、上々だ。生まれて初めて斎主さいしゅをやった」
「斎主……。ということはお前が神前式を仕切って、祝詞のりとも読み上げたのか?」
「ああ。予定では修造しゅうぞうさんがやるはずだったけど、これも経験だからと言われて」
「じゃあ、本格的な神主デビューってことか」
「そんなとこだ」

 フライ返しを持ったまま、大輔は感心したように拍手した。細身のフレームのメガネに、紫のシャツ。袖は肘までまくり上げ、腰に辛子色からしいろのエプロンを巻いている。

「で、親父おやじの体調は?」
「あまり良くなかった。この式を見届けたから、安心して入院できると言ってた」
「そうか」

 めったに表情を変えない兄が、父の様子を聞いて顔をくもらせた。広いリビングのソファに向かう貴大の後を黙って付いて来る。

「とりあえず何か飲むか?」
「ビールくれ。キンキンに冷えてるやつを」
「待ってろ、一緒に乾杯してやる」

 またキッチンに引っ込んだ兄を横目に、貴大はジャケットを脱いでダイニングチェアの背にかける。そしてテレビの前に二つ並べて置いた、一人がけのソファに腰を下ろした。留守の間に大輔が掃除もしたのか、ソファの前のテーブルに出しっぱなしにしてあった雑誌やリモコンが整頓されている。
 会社ではクールな副社長をよそおっているが、大輔は料理や掃除が得意な家庭的な男だ。その上家電オタクで、実家には選び抜かれたこだわりの生活家電があふれている。
 その兄が、栓を開けた瓶ビールを二本手にして戻って来た。片方を貴大に差し出す。

「ほれ」
「サンキュ」

 渡されたビールはよく冷えていた。大輔は残りの一本を持ったまま隣のソファに腰を下ろすと、軽くビールをかかげて言った。

「お前の初めてのご奉仕を祝して乾杯」

 貴大も真似してビールを掲げ、そのままぐびりとあおった。ほろ苦いイギリス産のビールが、空腹の胃袋にじんわりと染みていく。
 希和子の別れた夫であり、貴大と大輔の父である三枝博之さえぐさひろゆきは、白岬神社の宮司ぐうじだ。三枝家は「社家しゃけ」と言って、代々神職を世襲せしゅうしてきた一族である。今日の神前式は父が斎主さいしゅを務める予定だったが、体調が悪化したせいで、貴大が代わりを務めることになった。
 博之は一年前にがんの宣告を受け、今は通院しながら療養中りょうようちゅうだ。修造というのは、父の妹の深山瑠璃子みやまるりこの夫で、博之と同じように隣町の神社で神職をしている。
 貴大は、母に内緒で大学四年の時に神職の資格を取った。階級的にはしたなものの、一人前の神職――すなわち神主になった。その後は仕事をするかたわら、父の神社が忙しい時だけ手伝いに行っている。
 会社でこの事実を知るのは、兄の大輔だけだ。つい数時間前、美香もそこに含まれたが。
 離婚後の母は、父が息子たちに面会することを許さなかった。もし内緒で貴大が神主の資格を取り、こっそりと父を手伝っていると知ったら、天地がひっくり返るほど怒るだろう。


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