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1巻
1-3
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そう考えた麻里は、現場監督に聞いた場所から現場の鍵を取り出し、ゴム手袋とゴミの回収袋を用意してオフィスを出た。ずっと社内にいたので気づかなかったが、いつの間にか外は湿った南風が吹き荒れている。立っているだけで、髪がぐちゃぐちゃになった。
歩いて五分ほどで現場に着く。その頃には雨がぱらぱらと落ちてきた。
ついてないなあ……。大降りにならなきゃいいけど。
自らの運の悪さを呪った麻里だが、施工現場を囲っている低いフェンスの内側で、半分口の開いたゴミ袋が地面を転がるのを見た瞬間、それどころではなくなった。
「うわあ……」
ゴミ袋からはみ出た紙くずやビニール袋などがあたりに散乱し、いくつかは隣家の生垣に引っかかっていた。本来なら施工現場のゴミは、工事に入った業者が分別してその日のうちに支社に運び込むことになっているが、手違いでここに置き去りにされたのだろう。
麻里は持ってきた鍵でフェンスを開錠して中に入ると、ゴム手袋をはめて、地面に転がるゴミ袋を追いかけて掴んだ。
持参した回収袋を片手に持ち、散らかったゴミを拾い始める。そのあたりで雨が強くなってきた。
最低。わたしの新しい靴が――
母と一緒に選んだ靴。防水加工はされているが、この雨の中ゴミ拾いをして無事だとは思えない。
しかし、ためらっている場合ではない。迅速に作業を終えないと、会社の評判を落とすことになる。さらには後々、隣家からここの施主に苦情がいくかもしれない。そうなっては、入居後のご近所付き合いにも水をさしてしまう。
風雨の中、麻里はせっせとゴミを拾った。追いかけても風であちこちに飛ばされるので、手間取ってしまう。どうにか拾い集めた頃には、全身がずぶ濡れになっていた。
腕時計を見ると、午後七時を過ぎている。
「おかしいな。三十分経ったけど、誰も来ないじゃない……」
次第に心細くなりつつあったが、すぐに来るだろうと思い、大きなゴミ袋を抱えて現場監督が来るのを待った。やがて目の前の道路に車が続けて二台停まり、真っ先にスーツ姿の男性が姿を見せた。
「庄野!」
「主任! 来てくれたんですか?」
聡だとわかった瞬間、麻里は何故だか泣きそうになった。
「ばか、お前……」
聡は傘もささずに、麻里のそばに走り寄った。
「こんなに濡れて……。後は俺がやるから、早く車に乗れ」
「わたしは平気です。それよりこのゴミを片付けないと」
「それは俺が持って帰るよ」
聡の後ろから声がして、グレーの作業服にヘルメットをかぶった現場監督が顔を出した。
良かった、ちゃんと来てくれたんだ――安心していると、聡が上着を脱いで、麻里の頭の上からすっぽりとかぶせた。
「とりあえず、これは頼むぞ」
聡は現場監督に回収袋を手渡すと、麻里の肩を抱き寄せて停めてある車に向かって走り出した。
「しゅ、主任!」
「いいから車に走る!」
いいからって……
聡は麻里がこれ以上濡れないよう、腕で包み込みながら車まで連れて行ってくれた。突然の行動に麻里は声も出なかったが、彼が助手席のドアを開けてくれたので、そのままおとなしく乗り込んだ。
「ちょっと待ってろ。その間に、これで拭いておけ」
聡は後部座席にあったタオルを麻里に押し付けると、再び雨の中に飛び出していった。
好意に甘え、麻里はタオルを顔に押しあてる。髪からぽたぽたとしずくが落ちた。聡の上着にも車のシートにも、雨がしみていく。
窓の外を見ると、聡はいつの間にか傘をさし、現場監督と手分けして敷地内の点検をしていた。それが済むとフェンスを施錠して、電話をかけてきた隣家のインターフォンを押す。きっと謝罪をするのだろう。
すべてを終えて戻ってきた聡に、麻里はまず謝った。
「すみません、主任。車の中がびしょびしょに……」
「いいよ、放っとけば乾くだろ」
「主任の上着も濡らしてしまいました。すみま……」
聡は言葉を遮り、麻里の肩にかかっていたタオルを掴んで頭にかぶせた。そして麻里を強引に彼のほうへ向かせ、まるで恋人にするように、優しく髪と頬を拭いてくれた。彼だって髪とワイシャツが濡れているのに、気にする素振りはない。
「すぐに行くから待ってろって、電話したんだぞ」
「え? そうだったんですか? わたし、急いで会社を出たから気がつかなくて」
「でも助かったよ。隣の奥さん、ゴミがぶっ飛んできて頭にきたけど、若い女の子が一生懸命ゴミを拾ってるのを見たら、なんだか怒る気がしなくなったって言ってた」
聡がふわりと笑ったように見えた。気のせいだろうか。麻里の胸がドキンと高鳴る。
「良かった。ご近所とトラブルになったら、施主様に申し訳ないと思ったんです。だから急いで来てしまって」
「そのとおり。お客様を第一に考えて動く。俺たちの仕事って、まあ、こんなもんだ」
でかしたぞと、聡は麻里の頭をぽんぽんと撫でてくれた。その大きな手のぬくもりに、麻里の心臓はさらにドキドキした。
「とりあえず会社に戻ろう。課長のお見舞いは明日にするよ。あと、今日は送るから」
「え?」
「お前の家まで送ると言ったんだ。どうせ、帰る方向が同じだからな」
聡はぶっきらぼうに言うと、前を向いて車のエンジンをかけた。麻里は下着まで湿ってきたのを感じて身震いしたが、心は温かかった。
自分は足手まといかもしれないが、彼に嫌われてはいない。そして本当の彼は、やっぱりとても優しい人だと思う。少々、込み入った事情を抱えているようだが。
とりあえず、仕事を頑張ろう。頑張って、もっと主任に褒めてもらおう。そう胸に誓い、麻里は急いでシートベルトを締めた。
5
支社に麻里が来てから、あっという間にひと月が経とうとしている。気がつけば七月も下旬。上司の田村は無事に退院したものの、経過はあまり良くないようで自宅療養中だ。復帰は、八月になりそうだと聞いている。
聡は隣の席で電話をかけている麻里の横顔を眺めながら、この一か月を振り返った。多少の突っ込みどころはあるものの、麻里は熱心に仕事に励んでいる。大いに結構なのだが、問題はそこではない。
長い間、職場の者には隠してきた自分の秘密を、この新参の部下が知っているのだ。
なんで、うちなんだよ。ハウスメーカーなんて、掃いて捨てるほどあるってのに!
受話器を持つ彼女の綺麗な指先に、心の中で悪態をつく。
七夕飾りの揺れる六月の終わり、仕事が早く終わった聡は、立ち寄ったデパ地下で一人の女性とスワンシューを取り合った。
彼女は住宅関係の仕事をしていると言ったが、その時点では本社から異動してくる女性だとは夢にも思わなかった。聡が彼女にスワンシューを譲ったのは、同業者と聞いて仏心が出たのと、彼女の必死な訴えに胸を打たれたからだ。
その結果、「甘いものには目のない男」であることが部下にばれる――という、予想だにしない事態を迎えてしまった。
職場ではクールに振る舞っていても、プライベートでは違う。
聡は両親と姉二人という家庭で育った。病気がちだった母がたびたび入院していたので、家事は父や姉たちと交代で行っていた。
中学三年のときに母が亡くなると、仕事が忙しい父と料理センスゼロの姉たちにかわって、聡が日々の食事の支度を引き受けるようになった。当時、聡は剣道部に在籍していた。その練習に参加しながら弁当や朝食、夕食作りをするのはかなり大変だったが、慣れてくると料理が楽しくなった。
甘党に拍車がかかったのも、その頃だ。聡は小さい頃からケーキやまんじゅうが大好きだった。中学になると、姉たちに連れられてジャンボパフェの食べ歩きに精を出すようになり、近所では甘党男子として知られるようになった。
ところが、中学を卒業してすぐの春休みのこと。
二人の姉と共にファミレスでパフェを食べていると、姉の友人と会った。何度か家に遊びに来たことのある彼女は、勝気な聡の姉たちとは違い、どこか古風でしとやかで、聡はひそかに憧れていた。しかし聡がトイレに立ったとき、
「あの子、あんなに背が高くてかっこいいのに、甘党なの? かっこ悪!」
と言ったのを聞いてしまったのだ。大人びて見えても、当時の聡はまだ十五歳。姉に言われるならまだしも、憧れていた彼女のその言葉は聡の心をぐさりと傷つけた。
聡が甘党であることを隠すようになったのは、それからだ。
同じように、料理や家事が得意であることを他人に知られるのも嫌になった。ありのままの自分を見せて、外見とのギャップに呆れられることが耐えられなかったのだ。
気がつけば社会人となり、まわりにはクールで甘いものが苦手な葉月というイメージが定着していた。
それでいい。そう思ってきたのだが……
『三十だろうが四十だろうが、好きなものは好きでいいと思います』
麻里の言葉に、聡は心を動かされた。照れ隠しで思わずキツい言葉を返してしまったが、内心、聡はうれしかった。あんなふうに言ってくれたのは、麻里が初めてかもしれない。何しろ聡は、姉以外の女性の前では、スイーツ嫌いを通してきたのだから。
初めて会ったデパ地下で、麻里は長い髪をなびかせ、すらりとした脚を惜しげもなく晒したショートパンツ姿で、聡の前を横切った。
かわいい子だなとつい見とれていたら、彼女は突然目の前でつまずいた。
聡は慌てて腕を出し、麻里を抱きとめた。そのとき、ほとんど化粧もしていない、ナチュラルな女っぽさに強く惹かれた。
そう。惹かれたんだ。
だから会社で再会したときには、驚いたと同時に胸が躍った。とはいえ、前日のスワンシューの一件から多少の気まずさも感じ、気づくとキツい態度をとっていた。それでも彼女はめげることなく、頑張っているようだった。そしてあの日、施工現場で雨に濡れながらゴミを片付けていた、彼女のひたむきさに心打たれた。
毎日仕事で連れまわしていれば、麻里が自分の秘密をばらさないか監視できると思ったが、いつの間にか、彼女と過ごすひと時に聡は癒されていた。
彼女は聡の秘密を知っているから、自然体でいられる。少しそそっかしい彼女に突っ込みを入れることは楽しいし、ランチの後は気兼ねせず、甘いスイーツを食べられる。
そんな毎日が、日に日に楽しくなりつつある。
でも、それを彼女に知られてはいけない。課長が不在の今、聡の役目は麻里に仕事を教え、一人前の営業部員として独り立ちさせることなのだから。
「主任」
「ん?」
ちょうど電話を切った麻里が、恐る恐る声をかけてきた。
「あの……、わたし、何か変なことをしました?」
「いや、別に」
見ているうちに、どうやら怯えさせてしまったようだ。聡は、慌てて自分のデスクに向き直る。だがすぐに、
「俺、コーヒー買ってくる」
と言って席を立つと、麻里の返事を待たずにオフィスを出た。静かな夜のオフィスは危険だ。麻里の持つやわらかい雰囲気に、引き込まれそうになる。
背後から足音がして、吉祥寺が隣に並んだ。彼は帰るところらしい。
「毎日頑張るなあ、麻里ちゃん。お前、少し無理させてやしない?」
馴れ馴れしげに「麻里ちゃん」と強調すると、吉祥寺は、自販機の並ぶ休憩室までついてきた。
「そんなつもりはない。まあ庄野自身、仕事熱心ではあるな」
「ああ、見てりゃわかる」
この変わった苗字の同期は、実は高校の同級生でもあり、同じ剣道部で三年間厳しい練習に耐えた同志でもあった。
高校を卒業後、聡は二度と剣道はしないつもりだったが、桜田ハウスに入社して吉祥寺と再会した際、彼に誘われて久しぶりに竹刀を握った。
今では月に一~二度、マンションの近くにある市民体育館の武道場で稽古をするようになった。
「ところでお前さ、あんまり彼女を独占すんなよ」
「独占?」
吉祥寺はニヤニヤしながらすり寄って来た。
「毎日、朝から晩までつきっきりじゃん。営業にも連れて行くし、残業中も一緒に残ってる。これじゃあ飲みにも誘えないって、一課の奴らが文句たれてるぞ」
「仕方ないだろう。面倒見ろって、うちの課長に言われたんだから」
「なるほど! 田村課長の指示かぁ」
吉祥寺は大げさに言うが、事実だ。田村課長は入院後すぐに病院へ聡を呼び出し、自分がいない間、本社から転勤してくる女の子の面倒を見てやってくれと頭を下げたのだから。その日、指導についての打ち合わせなども病室で行った。
「じゃあ、課長のせいだってことにしとくよ。しかし、真面目だね、あの子は」
「ひと言多いぞ。けどまあ、確かに何かを忘れるみたいに一心不乱に仕事してる」
「それって、別れたオトコだったりして」
「そういうのは、俺は関知しないんで」
「そうかい、そうかい。クールな葉月ちゃんらしいお言葉だよな。でも麻里ちゃん、お前のことを怖がってないか? パワハラだとか言われないように、残業はほどほどにさせとけよ」
偉そうな口ぶりで言うと、吉祥寺は帰って行った。
怖がって、か――
無きにしもあらずだ。自分の気持ちを悟られないよう、聡はつい厳しく麻里に接してしまう。それがベストだと思っていたが、はたから見たら度を超しているように感じられるのだろうか。
聡は、自販機で麻里がよく飲んでいるペットボトルのカフェラテと缶入りのココアを買った。オフィスに戻ると、ところどころ暗くなった室内に麻里の後ろ姿が見えた。長い髪を一つにまとめ、紺のジャケットの背中に垂らしている。
すぐそばまで近づいたものの、聡は吉祥寺の言葉を思い出してしまい、なんと声をかけたらいいかわからなくなった。
「主任」
声に驚いて我に返ると、怯えたような麻里の視線とぶつかる。黙って彼女の背後に立っていたのはまずかった。無言の圧力を感じさせたのかもしれない。
「どっちがいい?」
聡は取りつくろうように、彼女の机の隅にカフェラテとココアを並べて置いた。
「ありがとうございます。あ、お金……」
机の引き出しを開けて、財布を取り出そうとした麻里を制する。
「おごりだよ。いらないんなら、俺が持って帰る」
「いえ、いただきます」
麻里はカフェラテを選ぶと、キャップを開けて、引き出しから取り出したストローを差す。唇を尖らせてちゅーっと吸い上げる姿は、妙にかわいく見えた。
残ったココアを聡が手にすると、麻里がじっと見つめてきた。
「誰も見てないし」
聡は室内を見渡し、自分たち二人しかいないことを確認してから、缶を開けた。甘くてホッとする味は、子どもの頃、母が作ってくれたミルクたっぷりのココアを思い出させた。
「明日は早出だし、これを飲んだら帰ろう」
「はい……。あの、主任」
「ん?」
「……ほんとに、何もないんですよね?」
心配そうに麻里は言う。叱られるのではと、勘違いしたのかもしれない。
聡は手にした缶を強く握りしめた。
違うよ、ただ声をかけて、話をしたかったんだ。
厳しくするのは、彼女が憎いからじゃない。
聡はココアを飲みながら、日に日に膨らんでいく麻里への思いを自覚した。
6
ふいに黙り込んでしまった聡を残し、麻里は一足先にオフィスを出た。疲れているのだろうか。今夜の聡は、虫の居所が悪いみたいだ。あの雨の施工現場で、聡は麻里の頭をぽんぽんと撫でてくれた。優しい人だなと思ったが、あれ以降、特別なことは何も起こらない。
以前の、クールな葉月主任に戻ってしまった。少し寂しい気もするが、麻里が今すべきことは彼と仲良くなることではなく、早く仕事を覚えることだ。
聡の仏頂面を見るたびに、麻里は自分の胸にそう言い聞かせた。
明日からの二日間、二階のショールームでは数か月に一度の大掛かりなイベントがある。営業は早朝に出勤して準備をしなければならず、今夜は皆、早めに退社していった。
もう少し勉強していきたかったが、麻里は聡の言葉に従うことにした。ところがホールでエレベーターに乗ろうとすると、背後からバタバタと足音が聞こえた。
「待て、俺も乗る」
バッグを小脇に抱えながら、聡が駆けて来る。
「あ、はい。どうぞ」
麻里はエレベーターの「開」ボタンを押し、聡を待った。
慌てた様子で乗り込んで来た聡は、麻里の背後に立ち息を整えていた。ふと、初出社の日にエレベーターの中で彼に脅かされたことを思い出し、ボタンを押す指が震えた。しかし彼は黙ったまま、エレベーターは一階に到着した。
良かった、怒られなくて。
ほっとした麻里はドアが開くのを待ったが、なかなかドアは開かない。
「あれ?」
驚いてドアの上部を見上げる。確かに一階に到着したようだが、ドアが開く気配はなく、エレベーターも止まったままだ。
「どうした」
聡が隣に立った。
「あの、ドアが開きません」
「嘘だろ」
聡が「開」のボタンを連打してみたが、ドアは閉ざされたままだ。さらに彼は直接手でこじ開けようとするが、びくともしない。
「もしかして、閉じ込められたんでしょうか――」
これまでに一度も、麻里はエレベーターに閉じ込められたことはない。
「しゅ、しゅにーん……」
頭の中が真っ白になり、つい情けない声をあげた。
「け、警察でしたっけ、それとも消防?」
麻里は急いでスマートフォンを取り出したが、画面をタッチする手が震える。
そのとき、後頭部にふわりと優しい手の感触がした。
「落ち着け。心配するなって」
声は疲れていたが、聡は優しい笑顔を見せてくれた。その表情にホッとし、何度もうなずいて、彼のそばに寄った。
「こういうときは、ここを押すんだ……」
麻里を安心させるように言うと、聡は階数ボタンの上部にある電話マークのボタンを押した。小さなコール音が鳴り響き、やがて女性オペレーターの「監視センターです」という声が聞こえた。
「良かった!」
歓喜の声をあげた麻里は、思わず聡の腕にしがみついてしまった。
とはいえ。
「今夜中に帰れるんでしょうか……」
静まり返ったエレベーターの中で、麻里はついそんな弱音を吐いた。
どうやらドアの故障らしく、すぐに作業員を向かわせるとオペレーターは言ってくれた。しかし、それまでここで待たなくてはならない。その後、聡が携帯でビルの管理室にも連絡を取ってくれたが、あちらでは何もできないそうだ。
幸い内部の照明はついたままで、空調も作動していた。だが、ここ数日は熱帯夜が続いている。閉じ込められたという焦りもあってか、麻里は額に汗が浮くのを感じた。
「大丈夫か?」
聡が尋ねてきた。
「はい、大丈夫です」
答えたものの、声は震えていた。聡は自分のバッグから扇子を取り出すと、麻里に向けて扇いだ。彼が普段、オフィスで使っている緑の扇子だ。表に金色の文字で「おきばりやす」と書いてある。たぶん京都のお土産だろう。
「騒いでも始まらん。のんびり待とう」
聡は麻里に扇子を持たせると、エレベーターの床に座り込んだ。背中を壁に預け、片膝を立てる。それから立っている麻里を見上げて、自分のハンカチを床に広げてくれた。
「ほら、お前も座れ。無駄な体力使うんじゃない」
「はい。けど、ハンカチなら自分のを……」
「せっかく広げたんだ。座れ」
「じゃ、じゃあ失礼して……」
きっぱりと言われ、麻里はそろそろと彼の隣に腰を下ろした。
「その扇子はお前に貸すよ。俺は暑さに慣れてるし、体力にも自信があるんだ。気分が悪くならないよう、俺の肩にもたれてもいいよ。とにかくリラックスしろ」
「はい……」
麻里は立てていた両膝を、ゆっくり斜め前に伸ばす。借りた扇子で顔をパタパタと扇ぐと、かすかに爽やかな香りがした。
もし聡に恋人がいたら申し訳ないが、彼の言葉に甘えて、麻里は少しだけ寄りかからせてもらった。とても安心できて、心が落ち着いた。
聡はしばらく無言で麻里に肩を貸してくれていたが、やがてバッグをごそごそと探り始め、ほら、と手を差し出した。そこには、二つのキャラメルがのっている。
「食べろよ。ホイスの半生キャラメルだ。一昨日、取り寄せたやつ」
口調はぶっきらぼうだが、行動には彼の優しさがにじみ出ていた。小さなキャラメルの魅力に抗えず、麻里は素直に手を伸ばした。
「ありがとうございます」
いただきますと礼を言い、麻里は包み紙をはがしてキャラメルを口に放り込んだ。ミルクの濃厚な風味が口に広がる。まったりとした幸福感に包まれて、頬が緩む。
「美味いだろ、それ。北海道に足を向けて寝られないよな」
その表現がおかしくて、麻里はつい声をあげて笑ってしまった。
「もしかして、いつもお菓子を持ち歩いてるんですか?」
「チョコはたいてい持ってるよ。ポケットに入れると溶けるから、バッグにしまってる」
「外回りの途中で食べるんですか? 会社の人が見てないから」
「まあ、そんな感じ。ちょっと小腹が空いたときの、おやつみたいなもんだ」
「虫歯になったりしませんか? それに、太っちゃいそう……」
「いや、虫歯もないし、体重も平均より少ないくらいだ」
「は、はあ……」
うらやましい。運動もしているのだろうか。先ほど、体力に自信があると言っていたし。彼の私生活は、どんなものなのだろう。急に興味が湧いてくる。
「この前、脅かして悪かった」
聡は唐突に言った。麻里がびっくりして彼を見ると、目が合う。だがすぐにそらされた。
「この前って?」
「初出勤の日。この前っていうより、結構前か。エレベーターの中で、キツくあたっただろう? デパ地下で会ったことをばらすなって」
「ああ、あれ……」
「甘党で悪いかと啖呵を切った相手が、同じ職場に来るとは思わなくて。正直、人事課でお前を見たとき、頭の中が真っ白になった」
「そんな風には見えませんでした。……ただ、会議室に連れて行かれたときは、びっくりしましたけど……」
「だよな。やっぱりビビらせてたか」
「いえ、そんな……」
「転勤早々、俺みたいなオッサンに脅かされたら、怖いよな。本当に悪かった」
「主任は、オジサンじゃありませんよ?」
麻里の声が大きくなる。聡は、麻里とたった四つしか違わない、素敵な男性だ。少々変わってはいるが。
「それはどうも」
彼は照れたように言うと、膝の上に頬杖をつき、ふうーっと息を吐いた。
「仕事のことも、少し飛ばし過ぎたと思ってる」
「飛ばし過ぎ?」
「ああ。最初はお前に秘密を知られたから、余計なことを喋らないか、仕事にかこつけて見張ろうと思った。だから毎日一緒に残業してたんだが、お前は言われたことはなんでもやっちまうんで、つい調子に乗ったんだ。もっとやらせてみようって……」
「調子に乗った……?」
歩いて五分ほどで現場に着く。その頃には雨がぱらぱらと落ちてきた。
ついてないなあ……。大降りにならなきゃいいけど。
自らの運の悪さを呪った麻里だが、施工現場を囲っている低いフェンスの内側で、半分口の開いたゴミ袋が地面を転がるのを見た瞬間、それどころではなくなった。
「うわあ……」
ゴミ袋からはみ出た紙くずやビニール袋などがあたりに散乱し、いくつかは隣家の生垣に引っかかっていた。本来なら施工現場のゴミは、工事に入った業者が分別してその日のうちに支社に運び込むことになっているが、手違いでここに置き去りにされたのだろう。
麻里は持ってきた鍵でフェンスを開錠して中に入ると、ゴム手袋をはめて、地面に転がるゴミ袋を追いかけて掴んだ。
持参した回収袋を片手に持ち、散らかったゴミを拾い始める。そのあたりで雨が強くなってきた。
最低。わたしの新しい靴が――
母と一緒に選んだ靴。防水加工はされているが、この雨の中ゴミ拾いをして無事だとは思えない。
しかし、ためらっている場合ではない。迅速に作業を終えないと、会社の評判を落とすことになる。さらには後々、隣家からここの施主に苦情がいくかもしれない。そうなっては、入居後のご近所付き合いにも水をさしてしまう。
風雨の中、麻里はせっせとゴミを拾った。追いかけても風であちこちに飛ばされるので、手間取ってしまう。どうにか拾い集めた頃には、全身がずぶ濡れになっていた。
腕時計を見ると、午後七時を過ぎている。
「おかしいな。三十分経ったけど、誰も来ないじゃない……」
次第に心細くなりつつあったが、すぐに来るだろうと思い、大きなゴミ袋を抱えて現場監督が来るのを待った。やがて目の前の道路に車が続けて二台停まり、真っ先にスーツ姿の男性が姿を見せた。
「庄野!」
「主任! 来てくれたんですか?」
聡だとわかった瞬間、麻里は何故だか泣きそうになった。
「ばか、お前……」
聡は傘もささずに、麻里のそばに走り寄った。
「こんなに濡れて……。後は俺がやるから、早く車に乗れ」
「わたしは平気です。それよりこのゴミを片付けないと」
「それは俺が持って帰るよ」
聡の後ろから声がして、グレーの作業服にヘルメットをかぶった現場監督が顔を出した。
良かった、ちゃんと来てくれたんだ――安心していると、聡が上着を脱いで、麻里の頭の上からすっぽりとかぶせた。
「とりあえず、これは頼むぞ」
聡は現場監督に回収袋を手渡すと、麻里の肩を抱き寄せて停めてある車に向かって走り出した。
「しゅ、主任!」
「いいから車に走る!」
いいからって……
聡は麻里がこれ以上濡れないよう、腕で包み込みながら車まで連れて行ってくれた。突然の行動に麻里は声も出なかったが、彼が助手席のドアを開けてくれたので、そのままおとなしく乗り込んだ。
「ちょっと待ってろ。その間に、これで拭いておけ」
聡は後部座席にあったタオルを麻里に押し付けると、再び雨の中に飛び出していった。
好意に甘え、麻里はタオルを顔に押しあてる。髪からぽたぽたとしずくが落ちた。聡の上着にも車のシートにも、雨がしみていく。
窓の外を見ると、聡はいつの間にか傘をさし、現場監督と手分けして敷地内の点検をしていた。それが済むとフェンスを施錠して、電話をかけてきた隣家のインターフォンを押す。きっと謝罪をするのだろう。
すべてを終えて戻ってきた聡に、麻里はまず謝った。
「すみません、主任。車の中がびしょびしょに……」
「いいよ、放っとけば乾くだろ」
「主任の上着も濡らしてしまいました。すみま……」
聡は言葉を遮り、麻里の肩にかかっていたタオルを掴んで頭にかぶせた。そして麻里を強引に彼のほうへ向かせ、まるで恋人にするように、優しく髪と頬を拭いてくれた。彼だって髪とワイシャツが濡れているのに、気にする素振りはない。
「すぐに行くから待ってろって、電話したんだぞ」
「え? そうだったんですか? わたし、急いで会社を出たから気がつかなくて」
「でも助かったよ。隣の奥さん、ゴミがぶっ飛んできて頭にきたけど、若い女の子が一生懸命ゴミを拾ってるのを見たら、なんだか怒る気がしなくなったって言ってた」
聡がふわりと笑ったように見えた。気のせいだろうか。麻里の胸がドキンと高鳴る。
「良かった。ご近所とトラブルになったら、施主様に申し訳ないと思ったんです。だから急いで来てしまって」
「そのとおり。お客様を第一に考えて動く。俺たちの仕事って、まあ、こんなもんだ」
でかしたぞと、聡は麻里の頭をぽんぽんと撫でてくれた。その大きな手のぬくもりに、麻里の心臓はさらにドキドキした。
「とりあえず会社に戻ろう。課長のお見舞いは明日にするよ。あと、今日は送るから」
「え?」
「お前の家まで送ると言ったんだ。どうせ、帰る方向が同じだからな」
聡はぶっきらぼうに言うと、前を向いて車のエンジンをかけた。麻里は下着まで湿ってきたのを感じて身震いしたが、心は温かかった。
自分は足手まといかもしれないが、彼に嫌われてはいない。そして本当の彼は、やっぱりとても優しい人だと思う。少々、込み入った事情を抱えているようだが。
とりあえず、仕事を頑張ろう。頑張って、もっと主任に褒めてもらおう。そう胸に誓い、麻里は急いでシートベルトを締めた。
5
支社に麻里が来てから、あっという間にひと月が経とうとしている。気がつけば七月も下旬。上司の田村は無事に退院したものの、経過はあまり良くないようで自宅療養中だ。復帰は、八月になりそうだと聞いている。
聡は隣の席で電話をかけている麻里の横顔を眺めながら、この一か月を振り返った。多少の突っ込みどころはあるものの、麻里は熱心に仕事に励んでいる。大いに結構なのだが、問題はそこではない。
長い間、職場の者には隠してきた自分の秘密を、この新参の部下が知っているのだ。
なんで、うちなんだよ。ハウスメーカーなんて、掃いて捨てるほどあるってのに!
受話器を持つ彼女の綺麗な指先に、心の中で悪態をつく。
七夕飾りの揺れる六月の終わり、仕事が早く終わった聡は、立ち寄ったデパ地下で一人の女性とスワンシューを取り合った。
彼女は住宅関係の仕事をしていると言ったが、その時点では本社から異動してくる女性だとは夢にも思わなかった。聡が彼女にスワンシューを譲ったのは、同業者と聞いて仏心が出たのと、彼女の必死な訴えに胸を打たれたからだ。
その結果、「甘いものには目のない男」であることが部下にばれる――という、予想だにしない事態を迎えてしまった。
職場ではクールに振る舞っていても、プライベートでは違う。
聡は両親と姉二人という家庭で育った。病気がちだった母がたびたび入院していたので、家事は父や姉たちと交代で行っていた。
中学三年のときに母が亡くなると、仕事が忙しい父と料理センスゼロの姉たちにかわって、聡が日々の食事の支度を引き受けるようになった。当時、聡は剣道部に在籍していた。その練習に参加しながら弁当や朝食、夕食作りをするのはかなり大変だったが、慣れてくると料理が楽しくなった。
甘党に拍車がかかったのも、その頃だ。聡は小さい頃からケーキやまんじゅうが大好きだった。中学になると、姉たちに連れられてジャンボパフェの食べ歩きに精を出すようになり、近所では甘党男子として知られるようになった。
ところが、中学を卒業してすぐの春休みのこと。
二人の姉と共にファミレスでパフェを食べていると、姉の友人と会った。何度か家に遊びに来たことのある彼女は、勝気な聡の姉たちとは違い、どこか古風でしとやかで、聡はひそかに憧れていた。しかし聡がトイレに立ったとき、
「あの子、あんなに背が高くてかっこいいのに、甘党なの? かっこ悪!」
と言ったのを聞いてしまったのだ。大人びて見えても、当時の聡はまだ十五歳。姉に言われるならまだしも、憧れていた彼女のその言葉は聡の心をぐさりと傷つけた。
聡が甘党であることを隠すようになったのは、それからだ。
同じように、料理や家事が得意であることを他人に知られるのも嫌になった。ありのままの自分を見せて、外見とのギャップに呆れられることが耐えられなかったのだ。
気がつけば社会人となり、まわりにはクールで甘いものが苦手な葉月というイメージが定着していた。
それでいい。そう思ってきたのだが……
『三十だろうが四十だろうが、好きなものは好きでいいと思います』
麻里の言葉に、聡は心を動かされた。照れ隠しで思わずキツい言葉を返してしまったが、内心、聡はうれしかった。あんなふうに言ってくれたのは、麻里が初めてかもしれない。何しろ聡は、姉以外の女性の前では、スイーツ嫌いを通してきたのだから。
初めて会ったデパ地下で、麻里は長い髪をなびかせ、すらりとした脚を惜しげもなく晒したショートパンツ姿で、聡の前を横切った。
かわいい子だなとつい見とれていたら、彼女は突然目の前でつまずいた。
聡は慌てて腕を出し、麻里を抱きとめた。そのとき、ほとんど化粧もしていない、ナチュラルな女っぽさに強く惹かれた。
そう。惹かれたんだ。
だから会社で再会したときには、驚いたと同時に胸が躍った。とはいえ、前日のスワンシューの一件から多少の気まずさも感じ、気づくとキツい態度をとっていた。それでも彼女はめげることなく、頑張っているようだった。そしてあの日、施工現場で雨に濡れながらゴミを片付けていた、彼女のひたむきさに心打たれた。
毎日仕事で連れまわしていれば、麻里が自分の秘密をばらさないか監視できると思ったが、いつの間にか、彼女と過ごすひと時に聡は癒されていた。
彼女は聡の秘密を知っているから、自然体でいられる。少しそそっかしい彼女に突っ込みを入れることは楽しいし、ランチの後は気兼ねせず、甘いスイーツを食べられる。
そんな毎日が、日に日に楽しくなりつつある。
でも、それを彼女に知られてはいけない。課長が不在の今、聡の役目は麻里に仕事を教え、一人前の営業部員として独り立ちさせることなのだから。
「主任」
「ん?」
ちょうど電話を切った麻里が、恐る恐る声をかけてきた。
「あの……、わたし、何か変なことをしました?」
「いや、別に」
見ているうちに、どうやら怯えさせてしまったようだ。聡は、慌てて自分のデスクに向き直る。だがすぐに、
「俺、コーヒー買ってくる」
と言って席を立つと、麻里の返事を待たずにオフィスを出た。静かな夜のオフィスは危険だ。麻里の持つやわらかい雰囲気に、引き込まれそうになる。
背後から足音がして、吉祥寺が隣に並んだ。彼は帰るところらしい。
「毎日頑張るなあ、麻里ちゃん。お前、少し無理させてやしない?」
馴れ馴れしげに「麻里ちゃん」と強調すると、吉祥寺は、自販機の並ぶ休憩室までついてきた。
「そんなつもりはない。まあ庄野自身、仕事熱心ではあるな」
「ああ、見てりゃわかる」
この変わった苗字の同期は、実は高校の同級生でもあり、同じ剣道部で三年間厳しい練習に耐えた同志でもあった。
高校を卒業後、聡は二度と剣道はしないつもりだったが、桜田ハウスに入社して吉祥寺と再会した際、彼に誘われて久しぶりに竹刀を握った。
今では月に一~二度、マンションの近くにある市民体育館の武道場で稽古をするようになった。
「ところでお前さ、あんまり彼女を独占すんなよ」
「独占?」
吉祥寺はニヤニヤしながらすり寄って来た。
「毎日、朝から晩までつきっきりじゃん。営業にも連れて行くし、残業中も一緒に残ってる。これじゃあ飲みにも誘えないって、一課の奴らが文句たれてるぞ」
「仕方ないだろう。面倒見ろって、うちの課長に言われたんだから」
「なるほど! 田村課長の指示かぁ」
吉祥寺は大げさに言うが、事実だ。田村課長は入院後すぐに病院へ聡を呼び出し、自分がいない間、本社から転勤してくる女の子の面倒を見てやってくれと頭を下げたのだから。その日、指導についての打ち合わせなども病室で行った。
「じゃあ、課長のせいだってことにしとくよ。しかし、真面目だね、あの子は」
「ひと言多いぞ。けどまあ、確かに何かを忘れるみたいに一心不乱に仕事してる」
「それって、別れたオトコだったりして」
「そういうのは、俺は関知しないんで」
「そうかい、そうかい。クールな葉月ちゃんらしいお言葉だよな。でも麻里ちゃん、お前のことを怖がってないか? パワハラだとか言われないように、残業はほどほどにさせとけよ」
偉そうな口ぶりで言うと、吉祥寺は帰って行った。
怖がって、か――
無きにしもあらずだ。自分の気持ちを悟られないよう、聡はつい厳しく麻里に接してしまう。それがベストだと思っていたが、はたから見たら度を超しているように感じられるのだろうか。
聡は、自販機で麻里がよく飲んでいるペットボトルのカフェラテと缶入りのココアを買った。オフィスに戻ると、ところどころ暗くなった室内に麻里の後ろ姿が見えた。長い髪を一つにまとめ、紺のジャケットの背中に垂らしている。
すぐそばまで近づいたものの、聡は吉祥寺の言葉を思い出してしまい、なんと声をかけたらいいかわからなくなった。
「主任」
声に驚いて我に返ると、怯えたような麻里の視線とぶつかる。黙って彼女の背後に立っていたのはまずかった。無言の圧力を感じさせたのかもしれない。
「どっちがいい?」
聡は取りつくろうように、彼女の机の隅にカフェラテとココアを並べて置いた。
「ありがとうございます。あ、お金……」
机の引き出しを開けて、財布を取り出そうとした麻里を制する。
「おごりだよ。いらないんなら、俺が持って帰る」
「いえ、いただきます」
麻里はカフェラテを選ぶと、キャップを開けて、引き出しから取り出したストローを差す。唇を尖らせてちゅーっと吸い上げる姿は、妙にかわいく見えた。
残ったココアを聡が手にすると、麻里がじっと見つめてきた。
「誰も見てないし」
聡は室内を見渡し、自分たち二人しかいないことを確認してから、缶を開けた。甘くてホッとする味は、子どもの頃、母が作ってくれたミルクたっぷりのココアを思い出させた。
「明日は早出だし、これを飲んだら帰ろう」
「はい……。あの、主任」
「ん?」
「……ほんとに、何もないんですよね?」
心配そうに麻里は言う。叱られるのではと、勘違いしたのかもしれない。
聡は手にした缶を強く握りしめた。
違うよ、ただ声をかけて、話をしたかったんだ。
厳しくするのは、彼女が憎いからじゃない。
聡はココアを飲みながら、日に日に膨らんでいく麻里への思いを自覚した。
6
ふいに黙り込んでしまった聡を残し、麻里は一足先にオフィスを出た。疲れているのだろうか。今夜の聡は、虫の居所が悪いみたいだ。あの雨の施工現場で、聡は麻里の頭をぽんぽんと撫でてくれた。優しい人だなと思ったが、あれ以降、特別なことは何も起こらない。
以前の、クールな葉月主任に戻ってしまった。少し寂しい気もするが、麻里が今すべきことは彼と仲良くなることではなく、早く仕事を覚えることだ。
聡の仏頂面を見るたびに、麻里は自分の胸にそう言い聞かせた。
明日からの二日間、二階のショールームでは数か月に一度の大掛かりなイベントがある。営業は早朝に出勤して準備をしなければならず、今夜は皆、早めに退社していった。
もう少し勉強していきたかったが、麻里は聡の言葉に従うことにした。ところがホールでエレベーターに乗ろうとすると、背後からバタバタと足音が聞こえた。
「待て、俺も乗る」
バッグを小脇に抱えながら、聡が駆けて来る。
「あ、はい。どうぞ」
麻里はエレベーターの「開」ボタンを押し、聡を待った。
慌てた様子で乗り込んで来た聡は、麻里の背後に立ち息を整えていた。ふと、初出社の日にエレベーターの中で彼に脅かされたことを思い出し、ボタンを押す指が震えた。しかし彼は黙ったまま、エレベーターは一階に到着した。
良かった、怒られなくて。
ほっとした麻里はドアが開くのを待ったが、なかなかドアは開かない。
「あれ?」
驚いてドアの上部を見上げる。確かに一階に到着したようだが、ドアが開く気配はなく、エレベーターも止まったままだ。
「どうした」
聡が隣に立った。
「あの、ドアが開きません」
「嘘だろ」
聡が「開」のボタンを連打してみたが、ドアは閉ざされたままだ。さらに彼は直接手でこじ開けようとするが、びくともしない。
「もしかして、閉じ込められたんでしょうか――」
これまでに一度も、麻里はエレベーターに閉じ込められたことはない。
「しゅ、しゅにーん……」
頭の中が真っ白になり、つい情けない声をあげた。
「け、警察でしたっけ、それとも消防?」
麻里は急いでスマートフォンを取り出したが、画面をタッチする手が震える。
そのとき、後頭部にふわりと優しい手の感触がした。
「落ち着け。心配するなって」
声は疲れていたが、聡は優しい笑顔を見せてくれた。その表情にホッとし、何度もうなずいて、彼のそばに寄った。
「こういうときは、ここを押すんだ……」
麻里を安心させるように言うと、聡は階数ボタンの上部にある電話マークのボタンを押した。小さなコール音が鳴り響き、やがて女性オペレーターの「監視センターです」という声が聞こえた。
「良かった!」
歓喜の声をあげた麻里は、思わず聡の腕にしがみついてしまった。
とはいえ。
「今夜中に帰れるんでしょうか……」
静まり返ったエレベーターの中で、麻里はついそんな弱音を吐いた。
どうやらドアの故障らしく、すぐに作業員を向かわせるとオペレーターは言ってくれた。しかし、それまでここで待たなくてはならない。その後、聡が携帯でビルの管理室にも連絡を取ってくれたが、あちらでは何もできないそうだ。
幸い内部の照明はついたままで、空調も作動していた。だが、ここ数日は熱帯夜が続いている。閉じ込められたという焦りもあってか、麻里は額に汗が浮くのを感じた。
「大丈夫か?」
聡が尋ねてきた。
「はい、大丈夫です」
答えたものの、声は震えていた。聡は自分のバッグから扇子を取り出すと、麻里に向けて扇いだ。彼が普段、オフィスで使っている緑の扇子だ。表に金色の文字で「おきばりやす」と書いてある。たぶん京都のお土産だろう。
「騒いでも始まらん。のんびり待とう」
聡は麻里に扇子を持たせると、エレベーターの床に座り込んだ。背中を壁に預け、片膝を立てる。それから立っている麻里を見上げて、自分のハンカチを床に広げてくれた。
「ほら、お前も座れ。無駄な体力使うんじゃない」
「はい。けど、ハンカチなら自分のを……」
「せっかく広げたんだ。座れ」
「じゃ、じゃあ失礼して……」
きっぱりと言われ、麻里はそろそろと彼の隣に腰を下ろした。
「その扇子はお前に貸すよ。俺は暑さに慣れてるし、体力にも自信があるんだ。気分が悪くならないよう、俺の肩にもたれてもいいよ。とにかくリラックスしろ」
「はい……」
麻里は立てていた両膝を、ゆっくり斜め前に伸ばす。借りた扇子で顔をパタパタと扇ぐと、かすかに爽やかな香りがした。
もし聡に恋人がいたら申し訳ないが、彼の言葉に甘えて、麻里は少しだけ寄りかからせてもらった。とても安心できて、心が落ち着いた。
聡はしばらく無言で麻里に肩を貸してくれていたが、やがてバッグをごそごそと探り始め、ほら、と手を差し出した。そこには、二つのキャラメルがのっている。
「食べろよ。ホイスの半生キャラメルだ。一昨日、取り寄せたやつ」
口調はぶっきらぼうだが、行動には彼の優しさがにじみ出ていた。小さなキャラメルの魅力に抗えず、麻里は素直に手を伸ばした。
「ありがとうございます」
いただきますと礼を言い、麻里は包み紙をはがしてキャラメルを口に放り込んだ。ミルクの濃厚な風味が口に広がる。まったりとした幸福感に包まれて、頬が緩む。
「美味いだろ、それ。北海道に足を向けて寝られないよな」
その表現がおかしくて、麻里はつい声をあげて笑ってしまった。
「もしかして、いつもお菓子を持ち歩いてるんですか?」
「チョコはたいてい持ってるよ。ポケットに入れると溶けるから、バッグにしまってる」
「外回りの途中で食べるんですか? 会社の人が見てないから」
「まあ、そんな感じ。ちょっと小腹が空いたときの、おやつみたいなもんだ」
「虫歯になったりしませんか? それに、太っちゃいそう……」
「いや、虫歯もないし、体重も平均より少ないくらいだ」
「は、はあ……」
うらやましい。運動もしているのだろうか。先ほど、体力に自信があると言っていたし。彼の私生活は、どんなものなのだろう。急に興味が湧いてくる。
「この前、脅かして悪かった」
聡は唐突に言った。麻里がびっくりして彼を見ると、目が合う。だがすぐにそらされた。
「この前って?」
「初出勤の日。この前っていうより、結構前か。エレベーターの中で、キツくあたっただろう? デパ地下で会ったことをばらすなって」
「ああ、あれ……」
「甘党で悪いかと啖呵を切った相手が、同じ職場に来るとは思わなくて。正直、人事課でお前を見たとき、頭の中が真っ白になった」
「そんな風には見えませんでした。……ただ、会議室に連れて行かれたときは、びっくりしましたけど……」
「だよな。やっぱりビビらせてたか」
「いえ、そんな……」
「転勤早々、俺みたいなオッサンに脅かされたら、怖いよな。本当に悪かった」
「主任は、オジサンじゃありませんよ?」
麻里の声が大きくなる。聡は、麻里とたった四つしか違わない、素敵な男性だ。少々変わってはいるが。
「それはどうも」
彼は照れたように言うと、膝の上に頬杖をつき、ふうーっと息を吐いた。
「仕事のことも、少し飛ばし過ぎたと思ってる」
「飛ばし過ぎ?」
「ああ。最初はお前に秘密を知られたから、余計なことを喋らないか、仕事にかこつけて見張ろうと思った。だから毎日一緒に残業してたんだが、お前は言われたことはなんでもやっちまうんで、つい調子に乗ったんだ。もっとやらせてみようって……」
「調子に乗った……?」
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