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1巻
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ぴしゃりと言われて、麻里は再び震え上がる。
聡はどうしてもあのデパートにいたことを知られたくないようだ。昨日は、仕事を抜け出してスワンシューを買いに行ったのかもしれない。それを同僚に知られたら立場がない――ということだろうか。
あるいは同じ課に好きな女の子がいて、彼女に変な誤解をされたくない――とか?
菅谷課長の言葉どおり彼女募集中なのだとしたら、後者のほうがありそうだ。事情を知らない麻里が、
「主任、昨日のスワンシュー、おいしかったですぅ。ご馳走様でしたぁ」
なんて馴れ馴れしく話しかけたら、彼女が麻里と聡の関係を誤解してしまう可能性もある。
とにかく、麻里は早く彼に離れてほしくて、もう一度、はいと小さく返事した。
「オッケー」
すると、聡の顔に昨日麻里を助けてくれたときのような、優しそうな微笑みが浮かんだ。
「千葉支社へようこそ、庄野さん。これからガンガン働いてもらうからな」
聡は麻里の肩をぽんとたたくと、会議室のドアに向かった。
3
なんだか厄介な人が上司になっちゃったなあ……
目の前を歩く聡の背を見ながら、麻里は自分の前途に大きな不安を覚えた。
千葉支社のイケメン担当――。デパ地下では麻里を助けてくれたが、その直後にスワンシューを取り合った。それでも最終的に譲ってくれたから優しい人だと思っていたのに、今日の態度はどういうことなのだろう。麻里は彼に聞こえないよう、小さくため息をついた。
その後、一課の朝のミーティングで麻里は自己紹介をした。同僚たちは皆気さくで、麻里を温かく迎え入れてくれた。
営業一課には、営業部員とそのサポートをする営業事務がいる。営業部員はほとんどが男性で、唯一の女性は、先月から産休に入っているそうだ。一方、営業事務は全員が女性で、ショールームの受付業務も担当することから制服を着用している。
麻里は、産休に入った女性の代役として異動してきた。しかし、もともと女性の営業部員が少ないので、できればこの先も営業として一課に残ってほしい――。田村にはそう言われている。
麻里のデスクは聡の隣だった。またしても、ため息がもれそうになる。
ミーティング後、聡に連れられて、同じフロアに机を並べる営業二課と工事部、設計部にも挨拶をした。それからデスクに戻ると、聡は早口で言う。
「支社は火曜と水曜が休みだから、月曜は忙しい。特に営業は、土日のイベントに来場してくれたお客様のお宅への訪問、夕方には他部署との合同会議があるからね」
「わかりました」
「その他細かいことは、福田に聞いておけ。俺はちょっと出てくるから」
聡は、向かいの席に座る髪の長い女性を指差した。やや頬骨が高くて、目鼻立ちがはっきりとしている。先ほど営業事務のメンバーを紹介されたが、その中では年長に見えた人だ。
「昼過ぎには戻るから、その後、施工現場を案内する。出られる用意をしておけよ。じゃあ福田、頼んだぞ」
手早く荷物をまとめながら聡は言った。麻里は自分に注がれる彼女の視線を意識しつつ、足早に去っていく聡の背中に声をかける。
「わかりました。行ってらっしゃい」
「葉月、こっちも了解。安心して行っといでー」
は――?
意外なほどフランクな口調に驚き、麻里は振り返る。
「あたしは、福田沙織。よろしくね。庄野さん」
ワンレングスの髪をかき上げ、沙織は向かい側の席からひらひらと手を振った。
「庄野です、よろしくお願いします」
麻里は、ぺこりとお辞儀をする。
「細かいことって言っても、そんなに難しくないから安心して。あっちで話そうか」
資料を手に立ち上がった沙織が、パーティションで仕切られたブースを指差した。沙織の後を追ってオフィス内を移動していると、彼女が言う。
「あたし、葉月とは同期入社なんだ。だからつい、呼び捨てにしちゃう。葉月はあまり愛想がないけど、基本良い奴だから信用して大丈夫だよ」
へえー。主任と同期。
それなら沙織も三十歳にはなっていそうだ。道理で落ち着いて見えるはずだ。
「クールなキャラなんですか? 主任は」
「うん、職場ではね。けど責任感が強くて、しっかり後輩の面倒も見てくれるから安心して」
「はあ……」
「しかもお客様の前では、態度が変わるの。甘い顔でにっこり笑ってセールストークもできちゃうんだから、そりゃあ営業成績も良くなるよね。一課のホープよ」
褒めてるんだかけなしてるんだかよくわからないが、麻里は一応うなずいておく。
「まあ、見てれば追々わかるよ。じゃあ、一課の業務内容から簡単に説明しようか」
二人でブースに入ると、沙織は机に資料を広げて、住宅営業部の概要や売り上げなどをわかりやすく説明してくれた。
お昼までは沙織の話を聞き、その後は一課の女子社員たちと一緒に、近所のベーカリーカフェに行った。本社での業務内容や支社の情報などを含めた女子トークに花が咲く。楽しいランチタイムを過ごして職場に戻った。
聡が戻って来たのは、午後二時だった。ちょうどそのとき、一課の女子社員で共同購入したというお取り寄せスイーツが宅配便で届き、手の空いた女子たちが分配をしていた。
「主任の分は、給湯室にあります。冷蔵庫に生チョコレートが入ってるんで、忘れないでくださいね」
「ああ、サンキュ」
そんなやり取りが聞こえ、麻里は振り返った。女子社員たちは戻ったばかりの聡を囲んでいる。彼は人気があるようだ。麻里はふと、学生時代に人気のあった男子が、バレンタインのとき女子たちに囲まれていた光景を思い出した。
「葉月も誘われて、毎回買うのよ。ああ見えて、付き合いはいいんだから」
沙織の説明に、麻里は大きくうなずいた。共同購入しているのは、北海道の人気スイーツブランド『ホイス』の商品だ。
スイーツが大好きな人なら、ホイスには目がないだろう。
「あいつ自身は甘いもの苦手だけど、たまに遊びに来るお姉さんの子どもたちにあげるからって、女の子たちにまざって買ってるの」
ん? 今なんて? 甘いものが苦手?
「ちょっと待ってください」
麻里は沙織に尋ねた。
「自分が食べるために、買ってるんじゃないんですか?」
「違うよ。あいつは甘いの苦手。バレンタインの義理チョコだって受け取らないもの」
「ええっ?」
何かおかしい。しかしすぐに聡がやって来て、麻里の真後ろに立った。
「飯は済んでるか?」
「あ、はい!」
「じゃあ、行くぞ。用意しろ」
「はい。ただいま!」
沙織にはもっと聞きたいことがあったが、麻里は仕方なくバッグを抱えて聡の後を追った。
エレベーターで地下にある社員駐車場に降りて、聡の車だというホンダの白いセダンに案内される。聡はにこりともせずに助手席のドアを開け、麻里が乗ったのを確認してからドアを閉めてくれた。親切な行為だが、ずっと無言である。そして自分も乗り込み、黙ったまま車を発進させた。
「車、綺麗ですね」
「ああ」
返事はあったが不機嫌そうだ。
「もしかして、自分の車でお客様をご案内することもあるんですか?」
「あるよ」
「そうなんですか。それは綺麗にしておかないといけませんね」
今度は返事がなかった。沙織の言ったとおり、無愛想だ。とはいえ、車内に二人きりなのにずっとこの調子でいくつもりなのか。麻里は思い切って、気になっていたことを尋ねようとした。
「あの主任。もしかして……」
「ああ、そうだよ。君が思ってるとおりだ」
駅前の交差点。信号が赤に変わって、車は一時停止する。
「本当はスイーツが好きなのに、嫌いなふりをしてるんですか?」
「嫌いなふりなんかしてない。好きだと公言してないだけだ」
麻里は首をかしげる。
「でも、女の子たちとお取り寄せもしてるんですよね?」
「ホイスの生チョコは大好物なんだ」
「うわ、偶然。わたしも大好きです。でも、だったら普通に好きだって言えば……」
「言えるわけない。かっこ悪いだろ」
「かっこ悪い?」
「三十過ぎた男が、甘いものに目がない。白鳥の形のシュークリームを眺めて涎を垂らしそうにしてた。みっともないし、かっこ悪い。そう思わないか?」
確かに昨日の聡は、最後の一つとなったスワンシューを眺め、うっとりとした表情を浮かべていた。しかし、それを見てかっこ悪いとは思わなかった。
どちらかというと、自分と同じスイーツが好きなのかと親しみを感じた。
「そうでしょうか。三十だろうが四十だろうが、好きなものは好きでいいと思います。誰に迷惑かけるわけでもないんですから」
「嘘だな」
速攻で否定される。
「どうせ内心笑ってるんだろう。とにかく俺の中では、男はクールであるべきなんだ」
麻里に反論を許さず、それっきり聡は黙り込んだ。
十分も走らないうちに、車は千葉支社が施工、販売している分譲住宅の区画に到着した。
立ち並ぶ家の外観や植栽などがバランスよく整っていて美しい。現在分譲中の区画は八割がた成約済みだと、聡が説明してくれる。
彼は、モデルハウスの看板の出た家の前に車を止めた。桜田ハウスの主力商品である、モダンなデザインが売りの鉄骨系住宅だ。屋根に取り付けたソーラーパネルが、午後の日差しを反射して輝いている。
ふと麻里は、本社で最後に手がけたテレビCMを思い出した。カップルが手をつなぎながら一軒の美しい家を見上げている。やがて彼氏がプロポーズの言葉をつぶやき、「いつかは桜田ハウス」というフレーズが流れる――というものだ。
ロケ地は横浜だったが、あのCMで使ったのもこの商品だ。そして、麻里が想いを寄せていた坪内もこのCMに携わっていた。
彼を思い出し、急に切なくなる。
「庄野」
車外に出て屋根を見上げていると、聡が近づいてきた。
「どうかしたのか?」
「い、いいえ。別になんでもありません」
「そうか、ならいいんだが。それよりさっき話したとおり、俺が甘党だってことは職場には内緒にしておきたい」
「わかりました。皆には黙ってます」
「ほんとに?」
「はい、約束します。そのほうが主任は気が楽なんでしょう?」
「ああ」
「だったら、言いません」
聡の顔がぱっと明るくなる。
彼の価値観はよくわからないが、本人が嫌だと言う以上、まわりにばらすつもりはない。
「ありがとう、庄野。いや、庄野さん。黙っててくれるなら、そのうち埋め合わせをするから」
「庄野でいいです。それと、お礼もいりません。昨日スワンシューを譲ってもらいましたし」
「そうか。だったらこれは二人だけの秘密ということで」
二人だけの秘密。
胸の奥がくすぐったくなるような言葉を、彼はさらりと口にした。麻里は思わず、ドキッとしてしまった。一方の彼は、平然としている。
「じゃあ、向こうの家を案内する。今は内装工事をやってるとこだ」
聡は、桜田ハウスのロゴが付いたシートで覆われた家を指差した。確かに、工事の音が響いている。
麻里は返事をして、素直に彼の後を追った。
4
初日、麻里は少し遅くまで会社に残った。もちろん聡も一緒だ。今後の予定や、営業として身に着けておくべきスキルや資格について、アドバイスを受けたのだ。
資格かぁ……
入社から四年が過ぎたが、麻里は住宅営業に必要な資格を持っていなかった。麻里自身、営業部に転職するとは思っていなかったので、仕方がないのだが。
これから取得に向けて勉強しようと決める。聡が丁寧に説明してくれる事項を、ひと言ももらさぬようノートにメモしながら、麻里は自分なりにこれからの予定を頭の中で組み立てた。
その翌日の火曜日。休日だからと朝寝坊して起きたところに、実家の母の来訪を受けた。引越し祝いとして、名古屋で買ったという味噌カツを模したエクレアを持って来てくれた。
これって葉月主任が喜びそう!
保冷ケースに入ったエクレアを見た瞬間、麻里は聡の仏頂面を思い浮かべた。とそこで、我に返る。何故、彼が思い浮かんだのだろうか。
それから出かける準備をし、母と近所を散策した。昼には、駅前のデパートに入っている日本料理店で、懐石ランチをご馳走になった。その後、母に付き合ってもらって、仕事用の靴を選ぶ。
手持ちの靴でも外回りには十分耐えられるはずだが、気合を入れるためにも、「長時間履いても疲れない!」という機能性をアピールした、海外ブランドの靴を二足買い込んだ。
そして休日の二日目、水曜日。
明日以降の予習をしておこうと、麻里は休日のオフィスにやって来た。営業一課には誰もいないが、他の課にはちらほらと、カジュアルな服装で休日出勤している者の姿がある。
「あれ、庄野さん? 転勤早々、お休みなのに熱心だね」
パソコンを起動したところで話しかけてきたのは、ブルーのポロシャツに、膝下丈の涼しそうなパンツをはいた男性。確か営業二課だったはず。
一課が個人向けの住宅を担当するのに対し、二課は賃貸住宅の建設や経営などを担当している。
えーと、名前、名前……。誰だっけ……この人……
髪にやや強めのパーマをかけ、うっすらと顎髭を生やした彼の名前がすぐには思い出せない。
「おはようございます。はい、あの。覚えることが多いので」
仕方がないので曖昧な返事をすると、相手は顔をくしゃっとさせて笑った。
「吉祥寺敦だよ、これでも葉月と同期なんだ。覚えといてねー」
「あっ、そうでした。吉祥寺さん、わたしのほうこそ、よろしくお願いします」
麻里はぺこりとお辞儀した。
「そんな、かしこまらないでよ。俺は葉月と違ってフレンドリーだから、困ったことがあったら言ってね」
「はい、ありがとうございます」
「葉月もさ、仕事中はおっかない顔してるけど、根は良い奴だから安心して」
そう言い残すと、吉祥寺は麻里に手を振りながら自分の席に戻った。
人望があるのね……
沙織も聡のことを良い奴だと言っていた。一緒に仕事をしていくうちに、自分も彼を良い人だと感じる場面に出くわすだろうか。
そうなったらいいなと、麻里は仕事に取りかかりながら思った。
木曜日。今日から本格的に、聡と一緒に営業に出る。朝のミーティングが終わると、支給された新しい名刺と新しい社用携帯をバッグに入れ、聡の車で市内にある大手企業の社宅に向かう。
そしてそこに住む、注文住宅を検討中だという若い夫婦のもとを訪ねた。
「先日は桜田ハウスのショールームにお越しいただき、ありがとうございました」
聡は、赤ちゃんを抱いた女性に優しい語り口で挨拶すると、麻里を新しい営業だと紹介してくれた。
それから自社のサービス内容を玄関先で説明する。
「当社では資金計画から間取り図の作成まで、すべて無料でプランニングをいたしております。ぜひ一度、お客様のお住まいに対するご希望をお聞かせください。経験豊富なスタッフが全力を挙げて、お客様の夢の実現をお手伝いいたしますので」
ひととおり説明した後は、パンフレットやキャンペーンチラシと一緒に、小さな花の鉢植えを手渡し、その場を辞した。初めて訪問するお客様には鉢植えをプレゼントするのが、千葉支社の習わしだそうだ。
聡を前にして、若い母親の表情は終止晴れやかだった。朝からこんなイケメンがお花を持って現れたら、たいていの女性はウキウキしてしまうだろう。
沙織から聞いていたとおり、聡は営業の場では表情も声音もがらりと変わっていた。
さすが、一課のホープ。
感心して、彼の横顔を見ていると、
「次。行くぞ」
と、そっけない声が返ってきた。お客様に見せる顔と麻里に見せる顔は、別物のようだ。
その後も同じように訪問営業を行い、手軽なイタリアンレストランでサービスランチを食べて帰社した。
午後からは、ショールームでお客様に間取り図と見積書のご提案。それが終わると、プレゼン用の資料作成やキャンペーンの準備を手伝う。あいた時間には、関連部署との打ち合わせ。
麻里はそれから数日間、そんな感じで忙しく過ごすことになった。
再び月曜が来た。定例会議が早く終わり、同僚たちはそそくさと退社していった。麻里はまだ仕事が残っているので、休憩室の自販機でペットボトルのカフェラテを買い、残業の準備を整える。
思えば今週は、毎日残業だった。聡は無愛想ながらも仕事を丁寧に教えてくれるし、質問にも嫌な顔をせず答えてくれる。出先で一緒にランチをする機会が増えたが、先に食べ終えても麻里を急かしたりしない。
それらはとてもありがたいのだが、聡の冗談ひとつ言わない生真面目さが、だんだん苦痛になってきた。仕事とはいえ、こうも仏頂面をつきつけられると、もしかしてスワンシューの件をまだ根に持っているのではと、不安がよぎる。
しかも麻里が残っている間は、聡も帰ろうとしない。麻里は、付き合わせて申し訳ないと思うのと同時に、なんだか監視されている気分になる。麻里が彼の秘密を喋らないように、見張っているのではないだろうかと。
うー、やっぱり厄介な上司だよ。
しかし今夜の聡は、席に戻って来るなりデスクの上を片付け始めた。どうやら早めに帰るらしい。
「俺、田村課長の見舞いに行ってくるから」
「そうですか。あの、よろしく伝えてください」
田村は先日、痔の手術をしたそうだ。しかし経過が芳しくないようで、入院が長引くかもしれないと、田村の妻から連絡があった。
「ああ。お前もそのうち、連れて行くよ。今は手術したばかりだから、もう少し後でな」
「はい!」
そう言ってもらえると、ちょっとうれしい。一課の一員になれた気分だ。ほくほくしていると、片付けの手を止めた聡と目が合った。
「なんだ? わからないことがあるなら、聞け」
「いいんですか?」
「いいよ。面会時間にはまだ十分間に合うし」
聡は時間を確認し、麻里がデスクの上に広げたノートに視線を落とした。この数日間で、気づいたことやわからないことをまとめてある。厚意に甘えて順次尋ねていくと、聡はすらすらと答えてくれた。
うーん、さすがは葉月主任。
声に出して唸りそうになったがそれを呑み込み、麻里はせっせとノートに答えを書き留めた。
「……じゃあ、内装のお色決めの日程の変更は?」
「それはインテリア課の担当者の予定を確認してからだ」
「わかりました。最後に、ジシンサイとコウジセイブ契約書についてですけど……」
麻里がそう言うと聡の動きがはたと止まり、眉間に皺がよる。
「庄野」
「はい?」
「ジシンサイじゃなくて地鎮祭だ。あとコウジセイブ契約書も違う。工事請負契約書だから」
「ええーっ? そうでしたっけ? すっ、すみません」
恥ずかしい読み違いをしていたことに気づかされ、かぁーっと顔が火照る。たぶん過去にどこかで、間違った名称を口にしていたはずだ。ノートのページをめくると、地鎮祭にカタカナでジシンサイとルビを振ったページがあった。
恥ずかしい……。穴があったら入りたい――!
聡の冷ややかな視線が痛い。あの目は絶対に、「お前ほんとに住宅メーカーの社員かよ?」と思っているに違いない。だが、意外にもやわらかい口調で彼は言った。
「いいよ。一人で営業に出るようになるまでに、完璧にしておけ」
「はい、すみません……」
「毎年、お前みたいな新人が必ずいる。漢字の読み違いだけじゃなく、地理が苦手で、鳥取と島根の場所がわからないとか」
うう……。わたしも鳥取と島根の場所がわかりません。それに、新人といっても社会人になったばかりって訳じゃないのに……
麻里が唇を噛みそうになると、面倒くさそうに聡が言った。
「続きは木曜にしろ。お前、残業続きだろ? 先週の休みも出勤したって言うし」
「あ、はい……」
一応は麻里のことを気づかってくれているようだが、聡自身も今週は疲れたようだ。ただでさえ忙しいのに、麻里の指導もあるのだから。
「主任!」
「なんだ」
荷物を持って立ち上がった聡に言う。
「いろいろと無知ですみません。わたし、早く皆さんに追いつけるように努力しますから!」
聡はうなずくと、さっさと帰れと言い残し席を離れた。口数が少ないことが、麻里に対する彼の失望を表している気がして、麻里は急に自信を失くした。
住宅営業の仕事は、家を建てたい人の希望を聞き出しプランを提案することから始まり、資金計画を立てたり内装の相談に乗ったりもして、最後は入居後のアフターサービスにまで及ぶ。住宅に関する知識だけではなく、税金やローンに関する知識も身につけなくてはならない。だからこうして毎日残って勉強しているわけだが、早く覚えなくてはという気持ちが空回りするばかりだ。
やっぱり宣伝部に残ったほうが良かったのかな。
突然、そんな考えが湧いて出る。麻里がもう少し我慢強ければ、失恋を乗り越えられたかもしれない。そうすれば、気持ちも新たに次のCMの企画に参加できただろう。宣伝部は若い部員が多く、企画会議は楽しくて、やりがいがあった。
ダメ。そんな弱気なこと考えちゃ。
大きく頭を振って、マイナス思考を追い払う。転勤は自分の意志だ。少々の失敗で、尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。知識や経験の不足は、今後の努力で補えばいいのだから。
今夜は、もう帰ろう。帰って寝て、気持ちを切り替えよう――
麻里はノートに最後のメモを書き込んでから、パソコンの電源を落とした。そこで電話が鳴る。外線だ。急いで受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。桜田ハウス住宅営業部、庄野でございます」
「もしもし……、営業部の葉月さんをお願いしたいんですが」
聞こえてきたのは、困ったような女性の声だった。
「お宅の工事現場から、うちの庭にゴミが飛んでくるのよ」
電話の女性は自宅の隣で桜田ハウスの新築工事が行われていると前置きした上で、夕方の強風で、隣から発泡スチロールやビニール袋などが舞い込んで来て困ると訴えた。
現場は支社のすぐそばで、営業担当は聡だ。着工前に挨拶もしている。そのとき、聡から渡された名刺を見て電話をかけた、と女性は言った。
「職人さんはもう帰っちゃったし、何とかならないかしら」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。すぐに片付けにまいりますので」
麻里は丁重にお詫びを言うと電話を切り、まずは聡の指示を仰ぐべく、彼の携帯に電話をした。しかし出ないので留守電にメッセージを残し、続けて施工現場の管理をする工事部の現場監督に連絡を取った。
こちらはすぐにつかまったが、今は別の現場にいるため、急いで向かっても三十分ほどかかるとの返事だった。
「わかりました。現場は近くなので、先に行って片付けます!」
ゴミの片付けくらい、自分にだってできるだろう。
聡はどうしてもあのデパートにいたことを知られたくないようだ。昨日は、仕事を抜け出してスワンシューを買いに行ったのかもしれない。それを同僚に知られたら立場がない――ということだろうか。
あるいは同じ課に好きな女の子がいて、彼女に変な誤解をされたくない――とか?
菅谷課長の言葉どおり彼女募集中なのだとしたら、後者のほうがありそうだ。事情を知らない麻里が、
「主任、昨日のスワンシュー、おいしかったですぅ。ご馳走様でしたぁ」
なんて馴れ馴れしく話しかけたら、彼女が麻里と聡の関係を誤解してしまう可能性もある。
とにかく、麻里は早く彼に離れてほしくて、もう一度、はいと小さく返事した。
「オッケー」
すると、聡の顔に昨日麻里を助けてくれたときのような、優しそうな微笑みが浮かんだ。
「千葉支社へようこそ、庄野さん。これからガンガン働いてもらうからな」
聡は麻里の肩をぽんとたたくと、会議室のドアに向かった。
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なんだか厄介な人が上司になっちゃったなあ……
目の前を歩く聡の背を見ながら、麻里は自分の前途に大きな不安を覚えた。
千葉支社のイケメン担当――。デパ地下では麻里を助けてくれたが、その直後にスワンシューを取り合った。それでも最終的に譲ってくれたから優しい人だと思っていたのに、今日の態度はどういうことなのだろう。麻里は彼に聞こえないよう、小さくため息をついた。
その後、一課の朝のミーティングで麻里は自己紹介をした。同僚たちは皆気さくで、麻里を温かく迎え入れてくれた。
営業一課には、営業部員とそのサポートをする営業事務がいる。営業部員はほとんどが男性で、唯一の女性は、先月から産休に入っているそうだ。一方、営業事務は全員が女性で、ショールームの受付業務も担当することから制服を着用している。
麻里は、産休に入った女性の代役として異動してきた。しかし、もともと女性の営業部員が少ないので、できればこの先も営業として一課に残ってほしい――。田村にはそう言われている。
麻里のデスクは聡の隣だった。またしても、ため息がもれそうになる。
ミーティング後、聡に連れられて、同じフロアに机を並べる営業二課と工事部、設計部にも挨拶をした。それからデスクに戻ると、聡は早口で言う。
「支社は火曜と水曜が休みだから、月曜は忙しい。特に営業は、土日のイベントに来場してくれたお客様のお宅への訪問、夕方には他部署との合同会議があるからね」
「わかりました」
「その他細かいことは、福田に聞いておけ。俺はちょっと出てくるから」
聡は、向かいの席に座る髪の長い女性を指差した。やや頬骨が高くて、目鼻立ちがはっきりとしている。先ほど営業事務のメンバーを紹介されたが、その中では年長に見えた人だ。
「昼過ぎには戻るから、その後、施工現場を案内する。出られる用意をしておけよ。じゃあ福田、頼んだぞ」
手早く荷物をまとめながら聡は言った。麻里は自分に注がれる彼女の視線を意識しつつ、足早に去っていく聡の背中に声をかける。
「わかりました。行ってらっしゃい」
「葉月、こっちも了解。安心して行っといでー」
は――?
意外なほどフランクな口調に驚き、麻里は振り返る。
「あたしは、福田沙織。よろしくね。庄野さん」
ワンレングスの髪をかき上げ、沙織は向かい側の席からひらひらと手を振った。
「庄野です、よろしくお願いします」
麻里は、ぺこりとお辞儀をする。
「細かいことって言っても、そんなに難しくないから安心して。あっちで話そうか」
資料を手に立ち上がった沙織が、パーティションで仕切られたブースを指差した。沙織の後を追ってオフィス内を移動していると、彼女が言う。
「あたし、葉月とは同期入社なんだ。だからつい、呼び捨てにしちゃう。葉月はあまり愛想がないけど、基本良い奴だから信用して大丈夫だよ」
へえー。主任と同期。
それなら沙織も三十歳にはなっていそうだ。道理で落ち着いて見えるはずだ。
「クールなキャラなんですか? 主任は」
「うん、職場ではね。けど責任感が強くて、しっかり後輩の面倒も見てくれるから安心して」
「はあ……」
「しかもお客様の前では、態度が変わるの。甘い顔でにっこり笑ってセールストークもできちゃうんだから、そりゃあ営業成績も良くなるよね。一課のホープよ」
褒めてるんだかけなしてるんだかよくわからないが、麻里は一応うなずいておく。
「まあ、見てれば追々わかるよ。じゃあ、一課の業務内容から簡単に説明しようか」
二人でブースに入ると、沙織は机に資料を広げて、住宅営業部の概要や売り上げなどをわかりやすく説明してくれた。
お昼までは沙織の話を聞き、その後は一課の女子社員たちと一緒に、近所のベーカリーカフェに行った。本社での業務内容や支社の情報などを含めた女子トークに花が咲く。楽しいランチタイムを過ごして職場に戻った。
聡が戻って来たのは、午後二時だった。ちょうどそのとき、一課の女子社員で共同購入したというお取り寄せスイーツが宅配便で届き、手の空いた女子たちが分配をしていた。
「主任の分は、給湯室にあります。冷蔵庫に生チョコレートが入ってるんで、忘れないでくださいね」
「ああ、サンキュ」
そんなやり取りが聞こえ、麻里は振り返った。女子社員たちは戻ったばかりの聡を囲んでいる。彼は人気があるようだ。麻里はふと、学生時代に人気のあった男子が、バレンタインのとき女子たちに囲まれていた光景を思い出した。
「葉月も誘われて、毎回買うのよ。ああ見えて、付き合いはいいんだから」
沙織の説明に、麻里は大きくうなずいた。共同購入しているのは、北海道の人気スイーツブランド『ホイス』の商品だ。
スイーツが大好きな人なら、ホイスには目がないだろう。
「あいつ自身は甘いもの苦手だけど、たまに遊びに来るお姉さんの子どもたちにあげるからって、女の子たちにまざって買ってるの」
ん? 今なんて? 甘いものが苦手?
「ちょっと待ってください」
麻里は沙織に尋ねた。
「自分が食べるために、買ってるんじゃないんですか?」
「違うよ。あいつは甘いの苦手。バレンタインの義理チョコだって受け取らないもの」
「ええっ?」
何かおかしい。しかしすぐに聡がやって来て、麻里の真後ろに立った。
「飯は済んでるか?」
「あ、はい!」
「じゃあ、行くぞ。用意しろ」
「はい。ただいま!」
沙織にはもっと聞きたいことがあったが、麻里は仕方なくバッグを抱えて聡の後を追った。
エレベーターで地下にある社員駐車場に降りて、聡の車だというホンダの白いセダンに案内される。聡はにこりともせずに助手席のドアを開け、麻里が乗ったのを確認してからドアを閉めてくれた。親切な行為だが、ずっと無言である。そして自分も乗り込み、黙ったまま車を発進させた。
「車、綺麗ですね」
「ああ」
返事はあったが不機嫌そうだ。
「もしかして、自分の車でお客様をご案内することもあるんですか?」
「あるよ」
「そうなんですか。それは綺麗にしておかないといけませんね」
今度は返事がなかった。沙織の言ったとおり、無愛想だ。とはいえ、車内に二人きりなのにずっとこの調子でいくつもりなのか。麻里は思い切って、気になっていたことを尋ねようとした。
「あの主任。もしかして……」
「ああ、そうだよ。君が思ってるとおりだ」
駅前の交差点。信号が赤に変わって、車は一時停止する。
「本当はスイーツが好きなのに、嫌いなふりをしてるんですか?」
「嫌いなふりなんかしてない。好きだと公言してないだけだ」
麻里は首をかしげる。
「でも、女の子たちとお取り寄せもしてるんですよね?」
「ホイスの生チョコは大好物なんだ」
「うわ、偶然。わたしも大好きです。でも、だったら普通に好きだって言えば……」
「言えるわけない。かっこ悪いだろ」
「かっこ悪い?」
「三十過ぎた男が、甘いものに目がない。白鳥の形のシュークリームを眺めて涎を垂らしそうにしてた。みっともないし、かっこ悪い。そう思わないか?」
確かに昨日の聡は、最後の一つとなったスワンシューを眺め、うっとりとした表情を浮かべていた。しかし、それを見てかっこ悪いとは思わなかった。
どちらかというと、自分と同じスイーツが好きなのかと親しみを感じた。
「そうでしょうか。三十だろうが四十だろうが、好きなものは好きでいいと思います。誰に迷惑かけるわけでもないんですから」
「嘘だな」
速攻で否定される。
「どうせ内心笑ってるんだろう。とにかく俺の中では、男はクールであるべきなんだ」
麻里に反論を許さず、それっきり聡は黙り込んだ。
十分も走らないうちに、車は千葉支社が施工、販売している分譲住宅の区画に到着した。
立ち並ぶ家の外観や植栽などがバランスよく整っていて美しい。現在分譲中の区画は八割がた成約済みだと、聡が説明してくれる。
彼は、モデルハウスの看板の出た家の前に車を止めた。桜田ハウスの主力商品である、モダンなデザインが売りの鉄骨系住宅だ。屋根に取り付けたソーラーパネルが、午後の日差しを反射して輝いている。
ふと麻里は、本社で最後に手がけたテレビCMを思い出した。カップルが手をつなぎながら一軒の美しい家を見上げている。やがて彼氏がプロポーズの言葉をつぶやき、「いつかは桜田ハウス」というフレーズが流れる――というものだ。
ロケ地は横浜だったが、あのCMで使ったのもこの商品だ。そして、麻里が想いを寄せていた坪内もこのCMに携わっていた。
彼を思い出し、急に切なくなる。
「庄野」
車外に出て屋根を見上げていると、聡が近づいてきた。
「どうかしたのか?」
「い、いいえ。別になんでもありません」
「そうか、ならいいんだが。それよりさっき話したとおり、俺が甘党だってことは職場には内緒にしておきたい」
「わかりました。皆には黙ってます」
「ほんとに?」
「はい、約束します。そのほうが主任は気が楽なんでしょう?」
「ああ」
「だったら、言いません」
聡の顔がぱっと明るくなる。
彼の価値観はよくわからないが、本人が嫌だと言う以上、まわりにばらすつもりはない。
「ありがとう、庄野。いや、庄野さん。黙っててくれるなら、そのうち埋め合わせをするから」
「庄野でいいです。それと、お礼もいりません。昨日スワンシューを譲ってもらいましたし」
「そうか。だったらこれは二人だけの秘密ということで」
二人だけの秘密。
胸の奥がくすぐったくなるような言葉を、彼はさらりと口にした。麻里は思わず、ドキッとしてしまった。一方の彼は、平然としている。
「じゃあ、向こうの家を案内する。今は内装工事をやってるとこだ」
聡は、桜田ハウスのロゴが付いたシートで覆われた家を指差した。確かに、工事の音が響いている。
麻里は返事をして、素直に彼の後を追った。
4
初日、麻里は少し遅くまで会社に残った。もちろん聡も一緒だ。今後の予定や、営業として身に着けておくべきスキルや資格について、アドバイスを受けたのだ。
資格かぁ……
入社から四年が過ぎたが、麻里は住宅営業に必要な資格を持っていなかった。麻里自身、営業部に転職するとは思っていなかったので、仕方がないのだが。
これから取得に向けて勉強しようと決める。聡が丁寧に説明してくれる事項を、ひと言ももらさぬようノートにメモしながら、麻里は自分なりにこれからの予定を頭の中で組み立てた。
その翌日の火曜日。休日だからと朝寝坊して起きたところに、実家の母の来訪を受けた。引越し祝いとして、名古屋で買ったという味噌カツを模したエクレアを持って来てくれた。
これって葉月主任が喜びそう!
保冷ケースに入ったエクレアを見た瞬間、麻里は聡の仏頂面を思い浮かべた。とそこで、我に返る。何故、彼が思い浮かんだのだろうか。
それから出かける準備をし、母と近所を散策した。昼には、駅前のデパートに入っている日本料理店で、懐石ランチをご馳走になった。その後、母に付き合ってもらって、仕事用の靴を選ぶ。
手持ちの靴でも外回りには十分耐えられるはずだが、気合を入れるためにも、「長時間履いても疲れない!」という機能性をアピールした、海外ブランドの靴を二足買い込んだ。
そして休日の二日目、水曜日。
明日以降の予習をしておこうと、麻里は休日のオフィスにやって来た。営業一課には誰もいないが、他の課にはちらほらと、カジュアルな服装で休日出勤している者の姿がある。
「あれ、庄野さん? 転勤早々、お休みなのに熱心だね」
パソコンを起動したところで話しかけてきたのは、ブルーのポロシャツに、膝下丈の涼しそうなパンツをはいた男性。確か営業二課だったはず。
一課が個人向けの住宅を担当するのに対し、二課は賃貸住宅の建設や経営などを担当している。
えーと、名前、名前……。誰だっけ……この人……
髪にやや強めのパーマをかけ、うっすらと顎髭を生やした彼の名前がすぐには思い出せない。
「おはようございます。はい、あの。覚えることが多いので」
仕方がないので曖昧な返事をすると、相手は顔をくしゃっとさせて笑った。
「吉祥寺敦だよ、これでも葉月と同期なんだ。覚えといてねー」
「あっ、そうでした。吉祥寺さん、わたしのほうこそ、よろしくお願いします」
麻里はぺこりとお辞儀した。
「そんな、かしこまらないでよ。俺は葉月と違ってフレンドリーだから、困ったことがあったら言ってね」
「はい、ありがとうございます」
「葉月もさ、仕事中はおっかない顔してるけど、根は良い奴だから安心して」
そう言い残すと、吉祥寺は麻里に手を振りながら自分の席に戻った。
人望があるのね……
沙織も聡のことを良い奴だと言っていた。一緒に仕事をしていくうちに、自分も彼を良い人だと感じる場面に出くわすだろうか。
そうなったらいいなと、麻里は仕事に取りかかりながら思った。
木曜日。今日から本格的に、聡と一緒に営業に出る。朝のミーティングが終わると、支給された新しい名刺と新しい社用携帯をバッグに入れ、聡の車で市内にある大手企業の社宅に向かう。
そしてそこに住む、注文住宅を検討中だという若い夫婦のもとを訪ねた。
「先日は桜田ハウスのショールームにお越しいただき、ありがとうございました」
聡は、赤ちゃんを抱いた女性に優しい語り口で挨拶すると、麻里を新しい営業だと紹介してくれた。
それから自社のサービス内容を玄関先で説明する。
「当社では資金計画から間取り図の作成まで、すべて無料でプランニングをいたしております。ぜひ一度、お客様のお住まいに対するご希望をお聞かせください。経験豊富なスタッフが全力を挙げて、お客様の夢の実現をお手伝いいたしますので」
ひととおり説明した後は、パンフレットやキャンペーンチラシと一緒に、小さな花の鉢植えを手渡し、その場を辞した。初めて訪問するお客様には鉢植えをプレゼントするのが、千葉支社の習わしだそうだ。
聡を前にして、若い母親の表情は終止晴れやかだった。朝からこんなイケメンがお花を持って現れたら、たいていの女性はウキウキしてしまうだろう。
沙織から聞いていたとおり、聡は営業の場では表情も声音もがらりと変わっていた。
さすが、一課のホープ。
感心して、彼の横顔を見ていると、
「次。行くぞ」
と、そっけない声が返ってきた。お客様に見せる顔と麻里に見せる顔は、別物のようだ。
その後も同じように訪問営業を行い、手軽なイタリアンレストランでサービスランチを食べて帰社した。
午後からは、ショールームでお客様に間取り図と見積書のご提案。それが終わると、プレゼン用の資料作成やキャンペーンの準備を手伝う。あいた時間には、関連部署との打ち合わせ。
麻里はそれから数日間、そんな感じで忙しく過ごすことになった。
再び月曜が来た。定例会議が早く終わり、同僚たちはそそくさと退社していった。麻里はまだ仕事が残っているので、休憩室の自販機でペットボトルのカフェラテを買い、残業の準備を整える。
思えば今週は、毎日残業だった。聡は無愛想ながらも仕事を丁寧に教えてくれるし、質問にも嫌な顔をせず答えてくれる。出先で一緒にランチをする機会が増えたが、先に食べ終えても麻里を急かしたりしない。
それらはとてもありがたいのだが、聡の冗談ひとつ言わない生真面目さが、だんだん苦痛になってきた。仕事とはいえ、こうも仏頂面をつきつけられると、もしかしてスワンシューの件をまだ根に持っているのではと、不安がよぎる。
しかも麻里が残っている間は、聡も帰ろうとしない。麻里は、付き合わせて申し訳ないと思うのと同時に、なんだか監視されている気分になる。麻里が彼の秘密を喋らないように、見張っているのではないだろうかと。
うー、やっぱり厄介な上司だよ。
しかし今夜の聡は、席に戻って来るなりデスクの上を片付け始めた。どうやら早めに帰るらしい。
「俺、田村課長の見舞いに行ってくるから」
「そうですか。あの、よろしく伝えてください」
田村は先日、痔の手術をしたそうだ。しかし経過が芳しくないようで、入院が長引くかもしれないと、田村の妻から連絡があった。
「ああ。お前もそのうち、連れて行くよ。今は手術したばかりだから、もう少し後でな」
「はい!」
そう言ってもらえると、ちょっとうれしい。一課の一員になれた気分だ。ほくほくしていると、片付けの手を止めた聡と目が合った。
「なんだ? わからないことがあるなら、聞け」
「いいんですか?」
「いいよ。面会時間にはまだ十分間に合うし」
聡は時間を確認し、麻里がデスクの上に広げたノートに視線を落とした。この数日間で、気づいたことやわからないことをまとめてある。厚意に甘えて順次尋ねていくと、聡はすらすらと答えてくれた。
うーん、さすがは葉月主任。
声に出して唸りそうになったがそれを呑み込み、麻里はせっせとノートに答えを書き留めた。
「……じゃあ、内装のお色決めの日程の変更は?」
「それはインテリア課の担当者の予定を確認してからだ」
「わかりました。最後に、ジシンサイとコウジセイブ契約書についてですけど……」
麻里がそう言うと聡の動きがはたと止まり、眉間に皺がよる。
「庄野」
「はい?」
「ジシンサイじゃなくて地鎮祭だ。あとコウジセイブ契約書も違う。工事請負契約書だから」
「ええーっ? そうでしたっけ? すっ、すみません」
恥ずかしい読み違いをしていたことに気づかされ、かぁーっと顔が火照る。たぶん過去にどこかで、間違った名称を口にしていたはずだ。ノートのページをめくると、地鎮祭にカタカナでジシンサイとルビを振ったページがあった。
恥ずかしい……。穴があったら入りたい――!
聡の冷ややかな視線が痛い。あの目は絶対に、「お前ほんとに住宅メーカーの社員かよ?」と思っているに違いない。だが、意外にもやわらかい口調で彼は言った。
「いいよ。一人で営業に出るようになるまでに、完璧にしておけ」
「はい、すみません……」
「毎年、お前みたいな新人が必ずいる。漢字の読み違いだけじゃなく、地理が苦手で、鳥取と島根の場所がわからないとか」
うう……。わたしも鳥取と島根の場所がわかりません。それに、新人といっても社会人になったばかりって訳じゃないのに……
麻里が唇を噛みそうになると、面倒くさそうに聡が言った。
「続きは木曜にしろ。お前、残業続きだろ? 先週の休みも出勤したって言うし」
「あ、はい……」
一応は麻里のことを気づかってくれているようだが、聡自身も今週は疲れたようだ。ただでさえ忙しいのに、麻里の指導もあるのだから。
「主任!」
「なんだ」
荷物を持って立ち上がった聡に言う。
「いろいろと無知ですみません。わたし、早く皆さんに追いつけるように努力しますから!」
聡はうなずくと、さっさと帰れと言い残し席を離れた。口数が少ないことが、麻里に対する彼の失望を表している気がして、麻里は急に自信を失くした。
住宅営業の仕事は、家を建てたい人の希望を聞き出しプランを提案することから始まり、資金計画を立てたり内装の相談に乗ったりもして、最後は入居後のアフターサービスにまで及ぶ。住宅に関する知識だけではなく、税金やローンに関する知識も身につけなくてはならない。だからこうして毎日残って勉強しているわけだが、早く覚えなくてはという気持ちが空回りするばかりだ。
やっぱり宣伝部に残ったほうが良かったのかな。
突然、そんな考えが湧いて出る。麻里がもう少し我慢強ければ、失恋を乗り越えられたかもしれない。そうすれば、気持ちも新たに次のCMの企画に参加できただろう。宣伝部は若い部員が多く、企画会議は楽しくて、やりがいがあった。
ダメ。そんな弱気なこと考えちゃ。
大きく頭を振って、マイナス思考を追い払う。転勤は自分の意志だ。少々の失敗で、尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。知識や経験の不足は、今後の努力で補えばいいのだから。
今夜は、もう帰ろう。帰って寝て、気持ちを切り替えよう――
麻里はノートに最後のメモを書き込んでから、パソコンの電源を落とした。そこで電話が鳴る。外線だ。急いで受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。桜田ハウス住宅営業部、庄野でございます」
「もしもし……、営業部の葉月さんをお願いしたいんですが」
聞こえてきたのは、困ったような女性の声だった。
「お宅の工事現場から、うちの庭にゴミが飛んでくるのよ」
電話の女性は自宅の隣で桜田ハウスの新築工事が行われていると前置きした上で、夕方の強風で、隣から発泡スチロールやビニール袋などが舞い込んで来て困ると訴えた。
現場は支社のすぐそばで、営業担当は聡だ。着工前に挨拶もしている。そのとき、聡から渡された名刺を見て電話をかけた、と女性は言った。
「職人さんはもう帰っちゃったし、何とかならないかしら」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。すぐに片付けにまいりますので」
麻里は丁重にお詫びを言うと電話を切り、まずは聡の指示を仰ぐべく、彼の携帯に電話をした。しかし出ないので留守電にメッセージを残し、続けて施工現場の管理をする工事部の現場監督に連絡を取った。
こちらはすぐにつかまったが、今は別の現場にいるため、急いで向かっても三十分ほどかかるとの返事だった。
「わかりました。現場は近くなので、先に行って片付けます!」
ゴミの片付けくらい、自分にだってできるだろう。
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