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「これでよしと」
庄野麻里は最後の段ボールをたたみ、すっきりと片付いた新居を見渡した。
女性用のおまかせ単身パックという便利な引越しプランのおかげで、家財の搬入、設置から洋服の収納まで、女性作業員が丁寧にやってくれた。
麻里がしたことと言えば、作業員に家具の設置場所を指示し、下着やその他、細々としたものを詰め込んだ段ボールの荷解きをしたくらいだ。
「うん。今夜はぐっすり眠れそう!」
空気清浄器のスイッチを入れ、ベッドの上に仰向けにダイブする。ぼわんと体がはずみ、お気に入りのルームコロンの香りがふわりと広がった。
六月最後の日となった日曜日、麻里は住み慣れた都内のマンションを引き払い、千葉の湾岸沿いにあるマンションへと引っ越した。四年とちょっとの本社勤務を終え、明日から葉浦市にある桜田ハウス千葉支社に異動するからだ。
麻里が勤務する株式会社桜田ハウスは、「SAKURADA HOUSE」というブランドを展開する、業界大手のハウスメーカーだ。住宅事業から都市開発、環境エネルギー事業まで、幅広く展開している。
そこで麻里は宣伝部に所属し、自社商品の新聞広告やテレビCMを企画する業務に就いていた。そして二十七歳になったばかりの今年の六月、千葉支社の住宅営業部に異動することが決まったのだ。
先週すでに、支社に出向いて新しい上司への挨拶を済ませてある。住宅営業部営業一課の田村課長は、体重が百キロはありそうな恰幅のいい男性で、口を開けば気さくな言葉や冗談がポンポン飛び出す、なかなかお茶目な人物だった。当面、課長自ら麻里の面倒を見てくれるそうだ。
明日からは初めての営業職。不安がないわけではないが、大学を出たばかりの新入社員というわけでもないし、きっとなんとかなるだろう。
「今夜はおいしいものを食べて、早く寝ようっと」
自らを奮い立たせるように、麻里は勢いよくベッドから起き上がった。
このマンションの最寄りの駅前には大きなデパートがある。オフィスで着られそうなカジュアルブランドの服から、生活雑貨、書籍、地下の食品売り場まで、店も充実している。
普段はきちんと自炊をしている麻里だが、今日くらいはデパ地下で夕飯を調達してもいいだろう。食事が済んだら、実家の両親に引越し完了の連絡をするつもりだ。
両親は麻里の突然の転勤に驚き、引越しを手伝いたいと言ってくれたが、大安吉日の今日は親戚の結婚式に呼ばれていたため名古屋に行っている。帰ってくるのは夜遅くだと聞いていた。
麻里はクローゼットを開け、着替えを引っ張り出した。そのとき、衣類の隙間から一枚の写真が足元に落ちた。
「あ……」
しゃがんでそれを拾い上げ、言葉をなくす。どうしてこんなものが――
写っていたのは、笑顔で肩を寄せ合う三人の男女。たぶん去年のクリスマスパーティーのときに撮ったものだ。向かって左が麻里、右が同期入社で宣伝部の同僚だった矢部智花。
そして二人の間で、くったくのない笑顔を見せているのが坪内明彦。広告代理店に勤務する、二十九歳のエリートだ。彼の会社が桜田ハウスの広告を請け負っている関係で、二年ほど前に知り合った。以来、智花も含めて公私にわたる付き合いをしてきたが、いつしか麻里は彼に片想いをしていた。
けれど今年のゴールデンウィーク、坪内は麻里の目の前で智花にプロポーズし、二人は間もなく婚約した。麻里は人知れず涙して、二人から少しでも距離をおこうと転勤を希望した……というわけだ。
失恋のたびに引っ越していたら、キリがない。わかってはいたが、こうでもしなくては立ち直れないほど、麻里が心に負った傷は大きかった。
もう、終わった恋よ。
思い切って写真を破くと、麻里はその紙くずをゴミ箱に押し込んだ。
麻里がマンションを出たのは、夕方の五時だった。ノースリーブのブラウスの上にニットのボレロを羽織り、ショートパンツにサンダル姿でのんびりと歩く。
デパートまでは十分もかからなかった。入口で館内パンフレットを取った麻里は、それを見ながら地下の食品売り場を目指す。最初に向かうのは、人気洋菓子店『マダム・ルブラン』だ。都内にも店舗を構えるこの人気店は品ぞろえが豊富で、とりわけ毎月末日にしか販売されないスワンシューが大人気だ。
スワンシューというのは、その名のとおり白鳥の形をしたシュークリームである。
常時販売されている丸いシュークリームと味は同じなのだが、その可憐な姿が人気を呼び、都内の店舗では毎月発売日になると開店直後から行列ができて、昼過ぎには完売してしまう。
だが、このデパートでは夕方まで残っていることが多い――。ネット上ではそんな情報が広まっていた。だから麻里は安心して、引越しの片付けを済ませてから来てみた。しかし日曜日ということもあってか、夕方のタイムサービスが始まった地下の食品売り場は予想以上に混んでいた。麻里は急に不安になる。
どうか、スワンシューが残っていますように!
一人で引越しを頑張ったご褒美に、ぜひとも食べたい。祈るような思いで急ぐ麻里だが、混雑のせいでなかなか前に進めない。おまけに突然誰かに背中を押されて、転倒しそうになった。
「きゃっ!」
体が前のめりになり、恐怖を感じた。次の瞬間、誰かが麻里の前に飛び出してくる。
「危ない!」
声と同時に腕が差し伸べられ、麻里はすんでのところでその人物に抱きとめられた。
「大丈夫ですか?」
頭上から、優しい言葉がかけられた。麻里が恐る恐る顔を上げると、引っ越し疲れも吹き飛ぶような、見目麗しい男がこちらを見下ろしていた。
「だ……、大丈夫です。ありがとうございました」
きりりとした涼しげな目、すっきりとした顎のライン。やや明るくて清潔感のある髪。あまりのイケメンぶりに、麻里の声は震えてしまう。
歳は三十くらいだろうか。世間はクールビズに移行しているが、彼はスーツの上着を着てきちんとネクタイを結んでいた。まるでドラマのような出会いに、ドキドキし過ぎて言葉が出てこない。
彼は麻里の手を取りその場に立たせてから、落としたバッグを拾ってくれた。
「はい、どうぞ」
「まあ、すみません!」
我に返った麻里は、財布の入った小さなトートバッグを受け取ると、腰を直角に曲げてお辞儀した。
彼は爽やかに笑う。
「いえいえ、怪我がなくて良かったです。この売り場は、夕方五時からのタイムセールに客が殺到するんですよ。しかも今日は週末特別セールなんかもやってるんで、フロアはいつも以上に混み合ってます」
「そうなんですか。お詳しいんですね」
「ええ、よく来るんです。近くに住んでますから」
うそ、ほんとに? もしかしたら、また会える?
「そんなわけですから、足元には十分に注意してくださいね」
「は、はいっ! ありがとうございました」
彼はもう一度にっこり微笑むと軽く会釈して、人ごみの中へと去って行く。
麻里はうっとりしながら、彼の凛々しい後ろ姿を見送った。広い肩、逆三角形の上半身、長い脚。声はちょっぴりセクシーで、優しくて頼もしそうな雰囲気の男性だった。しかも近所に住んでいるみたいだから、また会える可能性も高い。
大安吉日。良いことあった――!
うれしくて、舞い上がりそうになる。
失恋したばかりだというのに、イイ男を前にして浮かれるなんて、立ち直りが早過ぎるだろうか。だけど新しい出会いに見て見ぬふりをしていては、先に進めない。
新しい職場にも、あんな人がいたらいいな。仕事の励みになるよね。
そんなことを考えながら、麻里はマダム・ルブランの売り場に急いだ。すぐに「スワンシューまだあります!」という手書きのポップが見えてほっとした――はずなのだが。
先ほどのイケメンがショーケースの前に立っていて、麻里はびっくりした。彼は何を注文しようか、考えているようだ。
へえー。この人も、マダム・ルブランのスイーツがお目当てだったのか。
さっきはどうも……と彼に言いかけて、麻里は立ち止まる。ショーケースの中に並ぶスイーツを見つめる彼の横顔に、とろけるような甘い笑みが浮かんだのだ。
まるで愛おしい恋人を見守っているときのような、やわらかい笑み。
よ、よっぽどスイーツが好きなのかしら……
うっとりと自分の世界に入り込んでいる彼の横顔から、何故か目が離せない。そのとき、麻里の前に店員が立った。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「あ、はい……!」
麻里は慌てて、ショーケースの中をのぞき込む。そこにはいくつかのスイーツに交じって、最後の一つとなったスワンシューがあった。
その小さな白鳥は、黄金色に焼けたシューの羽をふんわりと左右に広げ、優雅な曲線を描く細い首を可憐にもたげていた。羽には白い粉砂糖が振りかけられ、シューの内側には雪のように真っ白なクリームがたっぷりと詰め込まれている。
あのクリームが、コクがありながらも後味がさっぱりとしていておいしいのだ。
一歩進み出ると、麻里は店員に向かって大きな声で言った。
「スワンシューください!」
すると、先ほどのイケメンも同時に同じ言葉を発していた。
「ええっ!」
驚いた麻里が横を向くと、彼の鋭い視線とぶつかった。
「ごめんなさい、そのスワンシューはわたしが……」
相手の不機嫌そうな表情に少し怯えながら、麻里は権利を主張する。すぐに彼は反論した。
「いや、俺のほうが先に並んでました。申し訳ないが、最後の一個は俺がもらいます」
「え? それは……」
確かに彼は先に来ていたし、麻里を助けてくれたときとは別人のような甘い表情を浮かべて、スイーツを眺めていた。
「でも、注文したのは同時でしたよね?」
麻里は言い返した。
普段の彼女ならあっさりと引き下がったかもしれないが、さっきはあんなに紳士的だった彼が、意地でも譲らないぞという態度を見せたことに驚き、つい応戦してしまったのだ。
「そうだ。じゃんけんにしませんか?」
それが最も公平だろう。店員たちも、ほっとしたようにうなずいている。だが彼は、大きく首を横に振った。
「お断りします」
「そんなぁ……。わたし、一か月ぶりのスワンシューを楽しみにしてたんですよ」
「俺は先月、残業で買いそびれました。だから二か月待ちです」
「でもでも、わたしは今日この町に引っ越して来たんです。これは自分への引越し祝いなんです!」
「へえー、じゃあ俺はこの町に五年住んでるから、転入五年祝いをしよう」
「な、なんですって?」
彼は意地悪く笑った。何がなんでも譲るつもりはないらしい。これ以上やりとりをしても店員たちを困らせるだけだし、もう諦めてしまおうか。
しかし、相手がスラックスのポケットからスタイリッシュな黒の財布を取り出した瞬間、やはりどうしてもスワンシューが食べたくなった。
「待って、やっぱりじゃんけんを……」
「やだね」
「そこをなんとか!」
「俺に泣き落としは通用しない!」
「な、泣き落としなんかじゃないわ! これを食べて英気を養って、明日から始まる新しい仕事に臨みたいんです。わたし、転勤になって……」
バカバカわたし! 初対面の相手に、いったい何を言ってるのよ!
麻里は喋り過ぎたことに気づいて口を両手で塞ぐ。彼は財布を手にしたまま麻里を一瞥すると、尋ねてきた。
「お仕事はなんですか? ずいぶんねばり強さが必要な業界なんですね」
「住宅関係ですが、何か?」
正直に答える必要はないのに、思わず口から出てしまった。相手がいっそうじろじろ見てきたので、麻里は居心地が悪くなる。
「いえ、だから……。じゃんけんをするチャンスだけでもください。負けたら諦めますから」
麻里が頭を下げると、彼はため息をもらして意外な返事をした。
「わかりました。だったら引越し祝いにお譲りします」
「え?」
「スワンシューを譲ると言ったんです」
「ほんとに?」
「ほんとです。俺の気が変わらないうちに、さっさと買ってください」
彼は店員に「スワンシューを彼女に」と伝え、他のケーキや焼き菓子をいくつか注文した。
「ありがとうございます」
「お礼なら結構です。それより、明日からの新しいお仕事、頑張ってください」
麻里が彼に礼を言うと、彼は支払いをしながら、そっけなく言った。理由はわからないが、麻里の口にした何かが彼の琴線に触れたのかもしれない。
麻里は胸がじんわりと温かくなった。キツいことも言われたが、最初の印象どおり、彼は優しい人のようだ。
「お土産……ですか? ずいぶんたくさん買われるんですね」
丁寧に箱詰めされていくケーキやタルト、フィナンシェにマドレーヌ、そしてカラフルなマカロンの数々。麻里は思わず彼に尋ねていた。
「いいえ」
彼はびしりと言った。そしてケーキと焼き菓子が詰まった二つの箱を受け取ると、麻里に視線を向ける。
「全部、俺一人で食べるんです。男が甘党だって、おかしくないでしょ」
そう言って、彼はその場を後にした。
2
おかしくないわ。うん、全然おかしくない。
翌日。麻里は支社の人事課で所属部署の上司を待ちながら、昨日、デパ地下で出会ったスイーツ男の言葉を思い出していた。何故それを思い出したかというと、目の前にお茶とマダム・ルブランのマドレーヌが置いてあるからだ。人事の担当は菅谷という課長職の男性で、上司を待つ麻里にお茶とお菓子を出してくれたのだ。
『男が甘党だって、おかしくないでしょ』
彼が最後に発した言葉からは、まるで自身がスイーツ好きであることにコンプレックスを持っているような印象を受けた。
気にすることかなぁ――
昨今は雑誌やテレビで甘いものが好きなスイーツ男子の特集が組まれ、話題になっている。甘党の男性は珍しいわけでもないのに、と麻里は思う。
「でね、庄野さん……庄野さん?」
「あ、は、はい!」
余計なことを考えていたせいで、菅谷の問いかけに気づくのが少し遅れた。
「庄野さんが配属になる住宅営業部の営業一課は、個人向けの戸建て住宅を担当しています」
「はい。存じております」
「一課はこのフロアの一つ下の三階で、ショールームは二階ですからね」
お茶とお菓子をすすめながら、菅谷はフロアの説明をしてくれた。
千葉支社は葉浦市の東部、大型ニュータウンからほど近い場所にある。五階建ての自社ビルの一階にはコンビニやカフェなどが入り、二階が住宅設備や内外装のサンプルを展示したショールーム、三階から上がオフィスになっていた。
駅からも近く、窓からは駅に向かって伸びる大通りが見下ろせる。
「東京と違って、会社帰りに飲み食いする場所は少ないんですが、まあ、住めば都と言いますし」
ふと窓の外に目をやった麻里に気づき、菅谷はそんなふうに言った。
「いいえ。大通りにはかわいい雑貨屋さんや服屋さんもありますし、街路樹も素敵だし……良い街だと思います」
「そうですか。だったらいいんですけどね。女性に人気のお店などは、一課の者が教えてくれるでしょう。おや、噂をすれば、迎えが来たようですよ」
菅谷は、麻里の背後に向かって手を上げた。麻里は新しい上司に改めて挨拶しようと立ち上がり、振り返って目が点になった。
てっきり田村課長が来るものと思っていたが、やって来たのはもっと若くて爽やかな長身の男性。しかも――
「遅くなりました」
男は麻里の前で立ち止まり、軽く会釈した。そして麻里と目が合うと、菅谷には気づかれないように、冷ややかな視線を送って来る。
うそ! 昨日の人?
声をあげそうになり、麻里は慌てて口元を押さえる。現れたのは、昨日デパ地下で会ったスイーツ男だ。昨日同様、きっちりとスーツを着こなしている。
「葉月、こちらが本社から異動して来た庄野麻里さんだよ。話は聞いてるよね」
「はい。田村課長から聞いてます」
「は、はじめまして、庄野です」
菅谷が紹介してくれたので、麻里は急いで挨拶した。初対面ではないが、「昨日はどうも」とは言えない空気がぷんぷんと漂っている。
「庄野さん、彼は一課主任の葉月聡。当面、あなたの教育係を担当します」
菅谷は、にこやかに言った。
「三十一歳、独身。営業成績かなり良好。剣道三段。見てくれがいいので、千葉支社のイケメン担当と呼ばれてます。だけどカノジョなし。目下のところ募集中……。だよなぁ、葉月」
菅谷がおどけた調子で続けると、聡はあからさまに眉をひそめた。
彼との突然の再会に、麻里は心がざわつく。それに、田村はどうしたのだろう。事前の挨拶では、田村が麻里の面倒を見てくれるという話だったはずだ。
その疑問に答えるかのように、聡が口を開いた。
「田村課長は急病で入院したから」
「入院?」
驚く麻里に、菅谷が補足する。
「そうなんだよ。言い忘れてすまないね。持病が悪化して、一昨日の土曜日に緊急入院したんだ」
ねっ……と、同意を求めるように、菅谷は聡を見た。聡は麻里をじっと見つめながら、「ええ」とだけ返事した。菅谷はそれに構わず続ける。
「たぶん今週中にも、手術をするはずです。復帰まで半月以上かかると聞いています」
「そうだったんですか。先週お会いしたときは、お元気そうだったのに……」
麻里は聡の鋭い視線から逃げるように、菅谷のほうを向いて言った。しかし聡は目をそらさない。剣道三段とのことだが、まるで対戦相手を威嚇するかのように、麻里をにらんでくる。何か恨みでもあるのだろうか。
恨み? まさか――
「それがねえ、大きな声では言えないんだけどね」
麻里の動揺に気づかない菅谷は、くすっと笑って声をひそめる。
「田村は『痔持ち』でねえ。我慢し過ぎて、悪化したんだ。ほらあの男、なかなか恰幅がいいだろう? 座るだけで相当負担がかかるんだよ……」
くくくっと菅谷は笑ったが、麻里はそれどころではなかった。聡は、昨日のスワンシューの件を根に持っているのではないだろうか。気前よく譲ったものの、家に帰ったらやっぱり後悔したのかもしれない。
「庄野さん、しばらくは俺の指示で動いてもらう。それでは、我々はこれで失礼します」
唐突に聡が会話を打ち切り、目だけで麻里に行くぞと促した。
「そうお? じゃあ、庄野さん。慣れないうちは大変だろうけど頑張ってね」
「はい、いろいろとありがとうございました」
「葉月。彼女をよろしくお願いしますよ」
そう菅谷が言ったところで麻里は、まだ聡によろしくのひとことも言ってなかったことに気がついた。
「葉月主任、これからよろしくお願いします」
麻里が勢いよく頭を下げると、聡はそっけなく「こちらこそ」と言った。
菅谷に一礼し、聡はその場を離れる。麻里もそれにならったが、聡は麻里を待たずに足早に行ってしまう。置いていかれまいと、麻里は小走りに彼の後を追った。
「あの、葉月主任」
「何?」
無言の空気が重過ぎて、麻里は声をかけた。聡は歩くスピードを緩めることなく答える。
「いえ、あの、昨日のことなんですが……」
「昨日は営業一課が担当するバス見学会があってさ。お客様を県内各所の分譲住宅に案内してた。うちは週末は忙しいよ。イベントや商談会があるから」
「そうなんですか」
改めてスワンシューのお礼を言おうと思ったのに、さらりとはぐらかされた。
でも、五時過ぎにはデパ地下にいたじゃない――そう突っ込んでみようと思ったが、言い出せそうにない。
廊下の突き当たりにあるエレベーターホールまで来て、聡が立ち止まる。エレベーターのボタンを押すのを見て、麻里は首をかしげた。一つ下の階に降りるのだから、階段を使えばいいのに。
「庄野さんは、本社でずっと宣伝部だったんですか?」
今度は彼から話を振ってきた。
「いえ、入社してすぐは総務でした。三年目から宣伝部です」
「そう。宣伝部って、WEBや新聞の広告を作ってるんだよね?」
「はい。わたしはずっとテレビCMの担当でしたけど」
「へえ、CMか。うちの会社のCMは、なかなか面白いよな。ところで、実家はどこ?」
エレベーターが到着すると、それに乗るよう手で促しながら、聡はそんなことを聞いてきた。
「県内です。実家から通えないこともないんですけど、ずっと一人暮らしだったんで、あのデパートの近くのマンションに……」
デパートと言った途端、聡の横顔が強張った。エレベーターには麻里と聡だけ。見れば聡はまだ階数のボタンを押していない。
「庄野さん」
「は、はいっ」
「スワンシューは、おいしかった?」
聡は顔を麻里に向け、鋭い目つきでぎろりとにらんだ。麻里は震え上がる。
「え、ええ……。とってもおいしかったです」
昨日の夕食の後、コーヒーと一緒に味わいながら食べた。
「へええ……、良かったねえ。俺なんてまた一か月待たなきゃならないのに」
ブラック過ぎる聡の笑みに、麻里は後ずさる。すると、聡もゆっくりと近づいてきた。麻里はすぐにエレベーターの隅に追いつめられてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
麻里は大きな声で謝った。彼はやっぱり怒っていたのだ。
聡は壁に両手をついて、麻里が逃げられないように腕の中に囲った。
「謝ることはないさ。俺が君に譲ったんだから」
「で、でもあの……、そうだ、次の発売日にはわたしが買ってお返しします。有休を取ってでも行きます。だから……」
許してと言いたかったのだが、聡がグッと顔を近づけたので、言葉が出なくなってしまう。
美形なだけに、怒ると迫力がある。これが彼の本性なのだろうか。食べ物の恨みは恐ろしいというし、これがきっかけでいじめられたらどうしよう。
しかし聡は無言で麻里から離れると、三階のボタンを押した。ふわっと体が浮く感覚があったが、エレベーターはすぐに止まる。ドアが開くと聡は麻里を促し、エレベーターを降りてすぐの会議室に連れ込んだ。
「悪いと思うなら、頼みがある」
聡は後ろ手にドアを閉めると麻里ににじり寄り、壁際に追いつめた。
「頼み……?」
「ああ。昨日、デパ地下で俺に会ったことは誰にも言わないでくれ」
聡は小声で言う。
「俺とは今日、初めて会った……。そういうことにしておいてほしいんだ」
「は、はい……。わかりました。余計なことは言いません」
「スワンシューのことも、俺が他のケーキを買っていたことも、一切内緒。わかった?」
麻里は、こくこくと首を縦に振る。話は見えないが、とにかく言うとおりにしたほうがよさそうだ。
「よろしい。約束だぞ。忘れるなよ」
聡の表情が和らいだので、麻里は思わず疑問を口にしてしまった。
「けど、どうして内緒にするんですか?」
「理由なんかどうでもいい。とにかく、余計なことは喋るなってこと」
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