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1巻

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 フロアはしんとしていた。ゆりはロイヤルスイートのドアの前に立ち、チャイムを鳴らす。ややあって足音が聞こえ、両開きドアの片側がいきなり開いた。ゆりは一礼し、ゆっくりと顔を上げる。

「フロントの長谷部と申します。高津様のご依頼でお迎えにあがりました」
「ああ、聞いてますよ」

 低いが朗々ろうろうとした声だ。
 そこにいたのはシンプルな白いTシャツに、濃紺のクロップドパンツをはいた長身の男だった。部屋に備え付けのスリッパを足につっかけ、Tシャツのえりにサングラスをぶら下げている。髪は洗いざらしといった雰囲気で、無造作にかき上げた前髪がはらりとひたいにかかっている。
 ロールアップした袖口からのぞく両腕がしなやかなのにたくましく、つい目を奪われる。

「靴が決まらないんで、少し待って……」

 足元を指さした彼は、ゆりを見つめたまま途中で言葉を切った。
 服も髪もプロが仕上げる前の、の福山一樹がそこにいる。でもこちらをドキドキさせるオーラは健在だ。そんな彼があまりにも熱心に自分を見つめるので、ゆりもまた言葉が出なくなる。
 そういえば、こんなふうに強い視線を、以前にも誰かに向けられたことがあるような気がする。
 何事にも動じなくなった自分が、こんな気持ちになるのは久しぶりだった。なんとなく落ち着かなくて、逃げ出したい感覚に襲われる。やがて、形のいい彼の唇が意外な言葉をつむいだ。

「ゆり……、ゆりか?」

 最初に気づいたのは彼のほうだった。

「俺だよ、カズキ。お前んちの隣に住んでた、屋代やしろ一樹だよ。忘れたのか……?」
「やしろ……一樹? え? カ、カズくん……?」

 声が上ずった。屋代一樹は子どもの頃、隣家に住んでいた、あの苦手な幼なじみだ。最後に会ったのは彼が大学二年生で、ゆりが高校三年生のとき。記憶の中の一樹と目の前の男の顔がゆっくりと重なり、やがてぴたりと一致した。
 ――なんということか。イケメン俳優福山一樹の正体が、幼なじみのカズくんだったとは!

「うそ……、でも福山って言うんじゃ……」
「福山は芸名だよ。本名が違うなんて、よくある話だろ……。まあいい、とりあえず入れ」

 一樹はゆりの肩に手をかけ、なかば強引に室内に招き入れた。そんな仕草もまた、ゆりが知っている一樹だった。

「あの、カズ……、いえ福山様……」

 背後でドアを閉められて、思わずそう口にする。この部屋は、入ってすぐ狭いホールになっていて、コンソールテーブルや大型のシューズラックがある。正面にはリビングルームに続くドアがあり、今は開け放たれたままだ。

「一樹でもカズくんでもいいよ。まさかこんなところでお前に会えるなんてな。うちのおふくろが知ったら泣いて喜ぶぞ」
「え、あの……!」

 言うなり、一樹は強引にゆりにハグした。

「――っ!」

 ゆりは声にならない叫びを上げる。記憶している限りでは、こんなふうに誰かにペースを乱されたことはなかった。仕事柄、過去にもお客様に声をかけられた経験はある。そんなときでも淡々とかわして、動揺することはなかった。しかも、強引に接触を持とうとする行為はセクハラ……のはずなのだが、あらがえない。身体に回されたたくましい腕、体温の高い肌、ほのかな甘い香り。頭がくらくらし、心臓がばくばく高鳴り始める。
 なつかしい一樹。自分の顔が、ぽおっと熱くなるのを感じた。
 しかし次の瞬間、がばりと身体が引きはがされる。

「十年ぶりだよな。ていうかお前、きれいになった……」

 一樹はゆりの両肩に手を置いて、真上から見下ろした。まつ毛が長く、こちらの心を支配してしまいそうな印象的な瞳が、じっとゆりを見つめる。

「こんなふうに見つめられると、ドキドキするぞ」
「いえ、だから……」

 見つめているのはあなたのほうで――。そう訴えたいが声にならない。ハグされて穴が開くほど見つめられて、ゆりの心は乱れに乱れた。

「お前のことはずっと気にしてたんだ。どうして連絡してこなかったんだよ」
「それは……」
「引っ越したきり音信不通だし、そのうち誰かが日比谷のホテルでお前を見たっていうから、探しに行ったんだ。けど会えなくて」
「は、はい……以前は日比谷に……。それで、おととしの夏からここのスタッフに」

 うまく言葉が出ない。かろうじてそう答えたゆりは、自分をふるい立たせようと、両手をぎゅっと握りしめる。

「そうか。元気そうだし、少し安心した。にしても、すごい偶然だな」

 一樹は相手を堕落だらくさせるような甘いほほ笑みを浮かべた。まるで過ぎ去った十年などなかったかのようになれなれしい。でもゆりはまだ、今をときめく人気俳優になった幼なじみにどう接したらいいかわからないでいた。
 彼に見つめられると、ふたたび無力な少女時代に戻ってしまいそうで、不安にすらなる。あんなふうに弱い自分には戻りたくない。この十年で必死に築き上げてきた、何事にも動じない強い自分。それを簡単に崩されたくはなかった。

「仕事、何時に終わるんだ? あとで飯でも……」

 彼がそんな提案をしたとき、上着のポケットに入れていたゆりの携帯がぶるぶると振動した。それでようやく我に返る。

「は、長谷部です」

 ゆりは一樹の腕から逃れ、電話に出た。高津からだ。彼の関西なまりの話し声を聞いたおかげで、ようやく仕事のスイッチが入る。

「……今、お支度したくをされています。はい……、すぐに降りますので……」

 すでに車を回したという報告だった。ゆりは電話を切ってから目を閉じて深呼吸し、いちにのさん、で一樹を振り返った。

「高津様が下でお待ちです。急ぎましょう」
「今の電話、うちのマネージャーか? なんでりょうさんがお前の番号を知ってるんだよ」

 亮さん……、というのは高津のことらしい。悪態をつく一樹に、ゆりは冷静に伝える。

「宿泊中の連絡をスムーズにするため、わたしの番号をお伝えしております。さあ早く」
「早くって……。なんなんだよ、急に……」

 不満そうな一樹だが、ゆりの腕をつかんで彼女の腕時計を確認すると、急いでリビングルームのほうに引っ込んだ。すぐに彼は、スマートフォンとミネラルウォーターのボトルを手に戻ってくる。

「お荷物は?」
「これだけ。ほかはマネージャーが持って先に行ったよ」
「失礼いたしました」
「さっきの質問にまだ答えてもらってない。俺は初日だから早めに撮影が終わるんだ。夕飯に付き合えよ?」
「できません」
「なんで」
「な、なんでって……」

 ふたたび一樹が目の前をふさぐように立ったが、ゆりはぐっと踏ん張る。

「福山様はお客様だからです。わたしは従業員ですから私的なお付き合いはできません」
「私的なお付き合いって……。硬いなあ、お前」

 一樹は不服そうだったが、すぐに苦笑いした。それからスリッパを脱ぎ捨て、シューズラックからパンツと同じ色のスリッポンを取り出し素足を入れると、生成きなり色のストローハットを頭に乗せる。
 ゆりは黙ってしゃがみ、一樹が脱ぎ捨てたスリッパをそろえた。

「でも、気が利く女になったんだな」
「あの頃のわたしではありませんので」
「ほーお」

 冷やかすような口ぶりだが、時間が押しているのはわかっているらしく、素直に部屋を出てくれた。廊下を少し歩き、カードキーで従業員用のドアを開け奥にあるエレベーターに乗り込んだ。

「会えて嬉しいよ、ゆり。今日の撮影、頑張れそうだ」

 エレベーターの壁に背を預け、一樹は腕組みしながらつぶやく。そのまま不躾ぶしつけなほどじろじろと、ゆりの頭のてっぺんからつま先までながめ回した。

「お前の制服姿を見るのは高校のとき以来だな。あのときもだけど、その制服もよく似合ってる」

 ゆりは無言を貫いたが、一樹は勝手に話し続けた。

「どうしてお前が他人行儀なのかはわからないが、俺は違う。今のお前のことをもっと知りたい。だから、うんと言ってくれるまで食事に誘うからな。だって俺たちは幼なじみなんだし」

 ようやく一階に着いたので、ゆりはほっとしながら、一樹を伴いエレベーターを降りる。
 廊下を進むと警備員の詰め所と通用口があり、高津はドアの手前で待っていた。

「長谷部さん、どうも……。一樹、よしいや!」
「はいはい」

 一樹は帽子を深くかぶり直したが、通用口を出る寸前で少しつばを上げ振り返った。

「今夜、電話するからな。ゆり。絶対に出ろよ」

 ドアに手をかけようとした高津が、きょとんとした顔でゆりを見る。

「違うんです。これは……」
「こいつ、俺の幼なじみなんですよ。学年は違うけど幼稚園から高校までずっと一緒で、両親も公認の仲」

 一樹はゆりの隣に立ち、気取ったしぐさで彼女を指さす。

「幼なじみ? 公認の仲っておい……」
「大丈夫。週刊誌にタレこんだりするような奴じゃないから。だろ?」

 一樹は能天気に笑うと、少しかがんでゆりの顔をのぞき込む。
 目が合わせられない。ずかしすぎて、ホテルの客でなければ突っぱねただろう。

「福山様。お時間が……」

 羞恥しゅうちに耐えて彼をうながす。

「わかったよ。……じゃあ、行ってくる」

 一樹はちらりとゆりを見てからサングラスをかけ、戸惑い気味の高津を伴い、日差しの下へ出ていく。
 ふたりの乗った大型SUV車が通りに出ていくのを、ゆりはくらくらしながら見送った。


 ランチタイムの社員食堂では、ついにやってきたイケメン俳優の話題で持ちきりだった。

「背がすっごく高くて顔が小さいの。一樹すてきー!」

 彼に朝食を運んだというウェイトレスが興奮気味に話している。ゆりはそう話していた彼女たちの一団に食事中のテーブルをぐるりと取り囲まれ、一樹について質問攻めにあい、彼を担当できることをうらやましがられたりした。
 ゆっくりご飯も食べられない。
 それでなくても頭が混乱しているというのに。
 流し込むように食事をとっていると、静香から電話があった。あとでオフィスに寄れとのことなので、食事もそこそこに逃げるように社食を出た。

「週刊誌の記者が来たんですってね?」
「ええ、はい……」

 昼時のオフィスはがらんとしていた。静香はミーティングスペースにゆりを招き、コーヒーを振る舞ってくれた。

「ゆりちゃんが追い払ってくれて助かったわ。警備のほうは手を打ったから」
「そうですか。あの、マネージャー」
「なに?」
「……いえ。なんでもありません」

 一樹の担当をはずしてほしい。過去を知る人物と顔を合わせたくない――。そう伝えたかったができなかった。自分を信じて任された仕事だ。きちんとまっとうしなくては。

「まだお迎えしたばかりだけど、福山さんが快適に過ごして東京に帰ってくれたら、きっと今後につながるわ。お互い精一杯のことをしましょう」
「……わかりました」

 上司の言葉に、ゆりはただうなずくしかできなかった。
 そのあとどうやって時間が過ぎたかよく覚えていない。就業中も、一樹の顔がちらついてならなかった。たった数分話しただけでこんなに動揺してしまうなんて、ゆりは自分で自分が信じられなかった。とにかく定時に仕事を終え、寮に帰ったのは午後三時半頃だった。ワンルームマンションを借り上げた独身寮は部屋が広いわりに寮費が安く、駅にも近いのでなにかと便利だ。
 エアコンのスイッチを入れたゆりは、キッチンで手を洗うと、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、立ったまま半分ほど一気飲みした。
 ――ありえない。こんなことって。
 幼なじみのカズくんこと屋代一樹はゆりより二歳年上だから、今年で三十歳になる。福山一樹もそれくらいだ。メディアで何度も顔を見ていたのに、どうして同一人物だと気づかなかったのだろう。
 お互いの実家は神奈川県鎌倉市かまくらしにあった。ゆりはひとりっ子で、一樹には二歳上の兄がいた。母親同士が親しくしていたため、ゆりは屋代家の兄弟とは幼い頃よく一緒に遊んだ。ピアノやスイミング、英会話のレッスンなど、習い事もすべて同じ教室に通っていた。
 今日話した印象では、一樹はあまり変わっていない。昔から自信家で生意気で、けれどゆりにはいつも優しかった。兄のようでもあったし、王子様のような雰囲気を漂わせた自慢の幼なじみでもあった。
 けれど大きくなるにつれて、彼はどんどん遠い存在になっていく。
 中学ではあっという間にサッカー部のエースとなり、女子にモテモテ。成績優秀で誰からも一目置かれる存在となった。高校に入学すると彼の人気はさらに過熱し、他校の女子も含めたファンクラブが結成された。平凡で内向的な性格の自分との違いを思い知らされ、ゆりは彼とうまく話せなくなる。
 一樹自身も、あまり話しかけてこなくなった。地味な幼なじみに周りをうろつかれたくなかったのかもしれない。こんなふうにして、ふたりは疎遠そえんになった。
 そして高校三年生の秋――。両親が交通事故で他界し、ゆりは千葉の親類に引き取られた。鎌倉の家は人手に渡り、屋代家の人々ともそれを機に会っていない。
 それからの十年は生きることに必死で、いつまでも引っ込み思案な少女ではいられなかった。相手に付け入られないよう愛想笑いをやめ、課された仕事はなんでもやる。そんな女へと変わった。
 今さら一樹と語り合いたいとは思わない。
 容姿にも環境にも恵まれた彼と自分は進む道が違ってしまったのだから。
 残った缶ビールを手にソファに腰を下ろし、まとめてあった髪をほどいて仰向あおむけに寝そべる。エアコンが効いて涼しくなったせいでつい、うとうとしてしまうと、テーブルに放ったバッグの中で社用電話が鳴っていることに気づいた。
 ゆりは乱れた髪をかき上げ、シンプルなスマートフォンを手にする。

「はいっ、ホテル……エトワール。は、長谷部、でございます」
「なんだその間抜けな声は。お前、寝てただろう」

 笑いのまじった声。一樹だ。十年ぶりの電話でもすぐにわかる。優しいけど、よくこんなふうにからかわれもした。部屋の時計は夕方の六時を過ぎている。たっぷり二時間は寝たようだ。

「寝不足なんです。ゆうべ、残業でしたから」
「……そうか、悪かったよ。手間は取らせない。少し話したら切るから」
「あ、いえ……」

 ない返事をしたのに謝られてしまい、なんだか戸惑う。

「今日の撮影は完了。さっきホテルに戻ったとこだ。木下さんに聞いたらお前はもう帰ったって言われてさ。どこに住んでる? 近くなのか?」
「申し訳ないのですが、今から言う番号にかけ直していただけますか? この番号は仕事用なので」

 いつ、呼び出しの電話がかかってくるかわからない。だから不本意だが、プライベート用のスマートフォンの番号を教えることにした。しつこくされたら着信拒否をすればいいし。
 番号を告げると一樹はすぐに電話をかけ直してきた。

「嬉しいよ、ゆり。これで毎日気兼きがねなくお前に電話ができる」
「シフト勤務ですので、いつも出られるとは限りません」
「じゃあ、留守電残す。暇になったらかけ直してくれ、お前から」

 遠回しに拒否したつもりだが、彼には通じないようだ。面倒なので、ゆりは話題を変える。

「今、おひとりなんですか? 高津様は?」
「自分の部屋で事務所に電話してる。お前にフラれたから、晩飯はほかの出演者たちとこの部屋で食べることにしたよ。木下さんがレストランに手配してくれてさ。あの人、親切だな」
「ええ……。面倒見のいい方です。わたしもよくしてもらってます」
「で、どこに住んでるんだ?」

 ちゃっかり話を戻される。あきらめて、ゆりはしばしの間、彼に付き合うことにした。

「……社員寮です。ホテルの近くに借り上げのワンルームマンションがあるんです」

 実家は十年前に他人の手に渡った。だからゆりには帰る家がない。寮を完備しているホテルは多いので、この仕事を選んだようなものだ。

「なるほど。ホテルって夜勤があるだろう? そういえばお前、ご飯作れるのか?」
「月に一度くらいは夜勤をしますし、自炊じすいもしています。こんなお答えでよろしいでしょうか」
「ふーん。しっかりやってるんだな」
「あの、福山様」
「一樹だよ。呼び方もだが、そのビジネスライクな口調をなんとかしろ」
「できません。お客様ですから」
「手ごわいなあ、お前……。いつからそんな頑固がんこになったんだか」

 あきれたような物言いだが、声は穏やかだった。

「俺はただ、ゆりともっと話がしたいだけだよ。離れていた間どうしていたか、今のお前がどう過ごしているかとか、飯でも食いながら聞かせてほしいだけなんだ。お前が親戚に引き取られたあと、うちの家族はみんな、お前を心配してたんだから」

 そう言われると、胸がきゅっとする。屋代家の人々は優しくて、いい人たちだった。大きな家、大型犬が走り回る庭、四季折々の花や野菜を作る家庭菜園もあった。
 でも、もう十年も前の話だ。ゆりは脳裏に浮かんでくる優しい隣人たちの面影おもかげを追い払う。

「お聞かせするほどのことでもないし、お食事をご一緒する時間もとれません」
「なんだその、かわいげのない返事は」
「もう、昔のわたしではないので」
「へえー」

 一樹はうなり、しばらく黙り込む。

「強くなったんだな。俺の知ってるゆりは、いじめられても言い返せないような女の子だったのに。わかった、この話はまた今度にしよう。明日の朝も会えるよな」
「え、はい……。朝はわたしがお部屋にお迎えにうかがいます」
「よかった。じゃあゆり、少し早いがおやすみ。疲れてるところを悪かったな。ぐっすり寝ろよ」
「福山様……!」
「だーかーら。……一樹だ」

 名前の部分をささやくように言うと、彼は電話を切った。
 も、もう――!
 ゆりはつかんでいたスマートフォンを床に置く。くすぐったいようなもどかしいような、なんともいえない気持ちが込み上げる。仕事漬けの日々を過ごす自分が、久々に感じた心のざわつきのようなもの。
 でも彼はホテルが迎えたVIPだ。公私混同はできない。自分の役目は彼を丁重ていちょうにもてなし、満足して東京へ帰ってもらうこと。
 二週間の我慢だと自分に言い聞かせた。撮影が終われば彼は東京に帰る。それまでの間、心を無にして過ごせばいいだけだ、と。


 翌朝出勤すると、七時過ぎに一樹の部屋からコールがあった。彼は昨日とは違って、身体にぴたりとフィットする黒いTシャツに、くるぶし丈のスリムなジーンズ姿でスイートのドアを開けてくれた。

「おはよう、ゆり」
「おはようございます、福山様」

 ゆりは普段どおりに挨拶あいさつしたが、顔を上げたとき目の前に盛り上がる胸筋があり、ドキリとする。一樹はぱっと見は細身なのに、こんなシャツを着るとびっくりするほどたくましい。そして今日も、控え目ながらもうっとりしそうな甘い香りをまとっている。

「またフクヤマ様……。嫌がらせか、それ」
「いえ、お仕事です」
「ふーん。プロ意識が高いな」
「ありがとうございます」

 やり取りが聞こえるのだろう、リビングのほうから高津の忍び笑いが聞こえた。

「九州は残暑が厳しいから、正直このロケは気が重かったんだ。けどこうして毎日、仏頂面ぶっちょうづらとはいえお前に会えるから元気が出るよ。この仕事、受けてよかった」

 ――わたしと会うと元気が出る?
 一樹はとろけるような笑顔をゆりに向けた。またしても心が乱れそうになる。
 落ち着け、ゆり――
 相手はプロの俳優なのだ。甘い表情を浮かべるなどお手のもの。仕事柄、染み着いた癖のようなもので、自然とこういう顔をしてしまうに違いない。もしもほかの従業員だったら、勘違いさせてしまう可能性がある。まったく人気俳優とは、罪作りな存在だ。
 ゆりは小さく咳払せきばらいすると、なるべく一樹と目を合わせないようにして男たちを階下へ案内する。通用口を出ようとした一樹に笑顔で手を振られ、こっそり「今晩、また電話する」と耳打ちされても、いつもどおりのお辞儀じぎで見送った。
 夜になり、ゆりが自宅で寝る準備をしていると、予告どおりに一樹から電話があった。

「なにかお困りのことでも?」
「別に。ゆりの声を聞きたいだけだよ。撮影が長引いたんだ。いやしがほしいから少し付き合えよ」

 彼の声には疲れがにじんでいた。残暑が続く中、早朝からこんな時間までの撮影はさぞ大変なことだろう。これも仕事のうちだと割り切り、撮影の様子について語る彼に一時間ほど付き合った。やがて――

「……で、飯はいつにする?」
「ご一緒できません。何度誘われても答えは同じですから」

 ゆりは丁重ていちょうに断りの言葉を告げる。

「ブレない奴だな。いいさ、また明日誘うから。じゃあ、おやすみ。ゆり」
「おやすみなさいませ……」

 カズくん……、なぜだかその名を口にしそうになり、慌てて呑み込んだ。 


 こんな調子で一週間が過ぎた。木曜日の朝、いつもの時間にスイートに向かう。

「毎日すみません、長谷部さん。フロントのお仕事もあるってのに」

 顔を合わせるなり、高津におびされる。一樹はベッドルームで着替え中だった。

「いえ。これも業務の一部ですから」
「そう言ってくれはると助かります。あいつも長谷部さんが毎朝見送ってくれるのが嬉しいらしくて、撮影でもほとんどNG出さずに頑張ってるんですよ。ほんまに単純な奴です。ははは……」

 単純って……。一樹と高津は、まるで友達のように気安い間柄だ。それはお互いに信頼し合っているからこそ成り立つものだと思うし、昔から形式にとらわれない一樹らしい関係だと感じた。
 ドラマというのは一樹が扮する一流シェフが、旅先で次々起こる殺人事件を解決していくという、シリーズ物のミステリードラマだ。
 ここから車で二十分ほどの場所にある高級旅館の離れを借りて撮影がおこなわれている。そちらでメディア対応もしているので、ファンやマスコミ関係者も向こうに集まるらしい。だからだろう。あれ以来、記者は見ていない。

「しかし長谷部さんが一樹の幼なじみだったとは、驚きです。食事の件ですが、都合がつくなら付き合ってやってください。こちらとしては、まったく問題ありませんから」

 あまりにも呑気のんきな発言を聞き、ゆりは目を丸くする。問題、大ありだろう。一樹も高津も脇が甘すぎて心配になってくる。俳優は人気商売なのだから、イメージ維持のために、たゆまぬ努力をするべきではないのか。ゆりは高津を見据みすえて言った。

「お言葉は嬉しいのですが福山様はお客様ですので、その件は辞退させていただきます。万一マスコミ関係者にキャッチされて、面倒な事態になっても困りますし」

 高津は目を丸くした。まるで福山一樹の誘いを断るなんて、どうかしてるぞとでも言いたげだ。

「はは、ははは……。おっしゃるとおりです……。でも噂になっても、長谷部さんならええんちゃうかな……?」
「はい?」
「ああ、いえ、こっちの話です。おーい、一樹。そろそろ時間やぞ」

 相変わらずのほほんとした調子で、高津は一樹を呼びにいった。


 ふたりが無事に出発したのを見届けオフィスに戻ってみると、中園綾子が待っていた。綾子はこの一週間、休暇をとっていたようで久しぶりに顔を見た気がする。一樹のお世話係をさせてもらえないと知った彼女は、不貞腐ふてくされてバカンスに出かけたと風の噂で聞いていた。

「ずいぶんカズキと仲良いんだねー。見てたよ? 通用口で」

 彼女は腕組みして、ゆりをにらむ。

「彼、毎朝アンタに手を振りながら出かけていくんだってね。すっかり気に入られてるって、警備の人が言ってた。もしかして最初から彼に取り入るつもりだったの?」
「毎朝顔を合わせるうちに打ち解けてくださっただけよ。気さくな人みたいで」


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