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3章
1話
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それから一ヶ月ほどの時が流れてすっかり秋めいた空気になってきた。
数日前から消化器学会で胃癌の患者に胃摘出の前後に行う腹腔内化学療法についての論文を発表するために、2週間の日程でボストンに沢村は出張中であった。
論文発表が近付いた最近では仕事の合間にも熱心に論文を書き上げていた。その姿を高弥はぼんやりと思い出してしまう。これにより腹膜への転移が多いスキルス胃癌の治療が大幅に進化する。大学病院と連携しながらもうずっと何年も手掛けてきたものだ。
病院で働く姿だけでなく、パソコンを打つ姿にさえも不覚にも高弥はドキドキしてしまった。
(ほんともう末期症状だな……)
そんな沢村が大量に残して行った書類仕事をナースステーションで高弥は片付けていた。
あのラットを起こした夜の後の沢村は、まるであんな狂乱じみた夜は幻想だったではと思うほどにいつもと変わりなく、出張に発つ前もふらりと高弥の部屋に訪れて、セックスをして行った。沢村はあのときのように狂ったように激しく抱くことはなかったが、高弥は引き寄せられるだけで、沢村の匂いに恋しさと愛しさが募って、こんなことやめなくてはいけないと思うのに止められず、それどころが、 達するときは甘えるように腕や脚を沢村にぎゅっと絡み付けてキスをねだってしまい苦笑される始末だった。
彼の匂いを感じると甘えたくて、くっつきたくてどうしようもなくなる。ここのところ益々ひどい。恋心をいよいよ酷く拗らせてしまったとしか思えない。あんな身勝手な男に。
「はぁ……」
思わず重たいため息を漏らしてしまう。そして更に高弥の気持ちを重くさせていたことはいくつもあった。沢村は部屋にやってくることはやって来るが、来る時間はぐっと遅くなったのだ。これまでのように、ご飯を一緒に食べたりテレビを見たりするようなことはこの1ヶ月は殆どなく、高弥が寝静まってからやって来て、ベッドにするりと潜り込んできてヤるだけヤったらすっきりして寝る。それだけだった。
ふわりと香る女物の香水が時折感じられ、きっと此処に来る前は噂の婚約者と過ごしているのではないかと否が応にも邪推してしまう。
(いよいよマジで都合のいい相手じゃんか……もう本当にいい加減にしないといけないのに)
「はぁ……」
もう一度ため息を吐いたときだった。
ぽん、と高弥の頭の上にてのひらが置かれた。
「まぁーた溜め息ですか、高弥さん」
回診から戻って来たらしい北岡が爽やかな笑顔を浮かべて傍らに立っていた。こちらもあんなことがあった後だが清々するほどにこれまでどおりだ。いや気持ちを打ち明けたことで前より大胆になっているところもある。
「北岡、回診お疲れ様。山村さんどうだった?まだ痛むって?」
「山村さん大丈夫そうでした。痛み止もよく効いてるし、 傷口の炎症も治まってました。 夜の点滴は無しの方向で。それより。 沢村先生のことなんですが」
沢村の名前を出されて、高弥はパソコンから思わず顔を上げた。
高弥に視線を合わせたまま北岡は続ける。
「沢村先生、出張前に住所変更の届け総務に出したらしいですよ。で、そのとき結婚したときは何を総務に出せばいいか聞いて行ったらしく総務大騒ぎらしいです…… ねぇ、高弥さん。俺だったら高弥さんに溜め息なんて吐かせないのに」
「ははは、総務個人情報漏らしすぎだろ。総務の女の子にも恨みかってそうだもんな、沢村先生……っぅ」
高弥が無理して笑ってそこまで言ったとき。
「高弥さん?」
突然湧き上がってきた耐え難い吐き気に、高弥は慌てて席を立った。
「高弥さん!どうしたんですかっ?」
北岡が訝しむ声を背中に受けたが、どうしても話せる状況になく、そのまま走り去った。
走って走って職員用のトイレに走り込む。
「う……っごほっ……」
胃の中のものを全て出してしまっても、むかむかと気分が悪いのが止まらない。
ここのところずっと吐き気があって食欲がない。体も怠い。風邪なのかと思ったが、熱はいつもよりやや高い程度で仕事を休むほどではない。高弥は洗面台で冷たい水をてのひらに掬って口を濯いだあと、鏡に映った自身を見ると酷くやつれて顔色も悪かった。
「高弥さん、また吐いてたんですか?」
トイレから出ると背中から声が掛かって高弥はギクリと躯を強張らせた。
「また、って…… ?」
声の主である北岡に引き攣った笑顔で聞き返すと
「この前食堂でお昼食べた後もでしたよね。ちゃんと病院行った方がいいっすよ」
と指摘された。どうやら隠せなかったならしい。
「心配かけてごめん。今日帰りにでも寄って帰るよ」
少しばかり体調不良に心当たりがあった高弥は、想いを寄せてくれている後輩の気遣わし気な声に何だか目を合わせられなくて俯く。そのとき高弥の少し襟足の伸びた黒髪がさらりと顔のラインに合わせて流れた。背の高い北岡の目の前に高弥の白いうなじが視界に入って、北岡は息を飲んだ。
「う……わ……」
思わずといった体で漏れてしまった北岡の声に高弥が驚いて顔を上げる。
「北岡?」
「や………何でもないです」
不思議そうな声の高弥に 思わず漏れ出た声を否定するからのように、北岡はぶんぶんと振って見せた。北岡のポケットに入っていた呼び出し用の電話が揺れると
「仕事中でも体調悪かったら無理しないでくださいね」
と言い、北岡は仕事に戻って行った。
不安に思っていることが的中しないといいと思いながら、高弥はそっと溜め息を吐いて廊下の壁に凭れた。
数日前から消化器学会で胃癌の患者に胃摘出の前後に行う腹腔内化学療法についての論文を発表するために、2週間の日程でボストンに沢村は出張中であった。
論文発表が近付いた最近では仕事の合間にも熱心に論文を書き上げていた。その姿を高弥はぼんやりと思い出してしまう。これにより腹膜への転移が多いスキルス胃癌の治療が大幅に進化する。大学病院と連携しながらもうずっと何年も手掛けてきたものだ。
病院で働く姿だけでなく、パソコンを打つ姿にさえも不覚にも高弥はドキドキしてしまった。
(ほんともう末期症状だな……)
そんな沢村が大量に残して行った書類仕事をナースステーションで高弥は片付けていた。
あのラットを起こした夜の後の沢村は、まるであんな狂乱じみた夜は幻想だったではと思うほどにいつもと変わりなく、出張に発つ前もふらりと高弥の部屋に訪れて、セックスをして行った。沢村はあのときのように狂ったように激しく抱くことはなかったが、高弥は引き寄せられるだけで、沢村の匂いに恋しさと愛しさが募って、こんなことやめなくてはいけないと思うのに止められず、それどころが、 達するときは甘えるように腕や脚を沢村にぎゅっと絡み付けてキスをねだってしまい苦笑される始末だった。
彼の匂いを感じると甘えたくて、くっつきたくてどうしようもなくなる。ここのところ益々ひどい。恋心をいよいよ酷く拗らせてしまったとしか思えない。あんな身勝手な男に。
「はぁ……」
思わず重たいため息を漏らしてしまう。そして更に高弥の気持ちを重くさせていたことはいくつもあった。沢村は部屋にやってくることはやって来るが、来る時間はぐっと遅くなったのだ。これまでのように、ご飯を一緒に食べたりテレビを見たりするようなことはこの1ヶ月は殆どなく、高弥が寝静まってからやって来て、ベッドにするりと潜り込んできてヤるだけヤったらすっきりして寝る。それだけだった。
ふわりと香る女物の香水が時折感じられ、きっと此処に来る前は噂の婚約者と過ごしているのではないかと否が応にも邪推してしまう。
(いよいよマジで都合のいい相手じゃんか……もう本当にいい加減にしないといけないのに)
「はぁ……」
もう一度ため息を吐いたときだった。
ぽん、と高弥の頭の上にてのひらが置かれた。
「まぁーた溜め息ですか、高弥さん」
回診から戻って来たらしい北岡が爽やかな笑顔を浮かべて傍らに立っていた。こちらもあんなことがあった後だが清々するほどにこれまでどおりだ。いや気持ちを打ち明けたことで前より大胆になっているところもある。
「北岡、回診お疲れ様。山村さんどうだった?まだ痛むって?」
「山村さん大丈夫そうでした。痛み止もよく効いてるし、 傷口の炎症も治まってました。 夜の点滴は無しの方向で。それより。 沢村先生のことなんですが」
沢村の名前を出されて、高弥はパソコンから思わず顔を上げた。
高弥に視線を合わせたまま北岡は続ける。
「沢村先生、出張前に住所変更の届け総務に出したらしいですよ。で、そのとき結婚したときは何を総務に出せばいいか聞いて行ったらしく総務大騒ぎらしいです…… ねぇ、高弥さん。俺だったら高弥さんに溜め息なんて吐かせないのに」
「ははは、総務個人情報漏らしすぎだろ。総務の女の子にも恨みかってそうだもんな、沢村先生……っぅ」
高弥が無理して笑ってそこまで言ったとき。
「高弥さん?」
突然湧き上がってきた耐え難い吐き気に、高弥は慌てて席を立った。
「高弥さん!どうしたんですかっ?」
北岡が訝しむ声を背中に受けたが、どうしても話せる状況になく、そのまま走り去った。
走って走って職員用のトイレに走り込む。
「う……っごほっ……」
胃の中のものを全て出してしまっても、むかむかと気分が悪いのが止まらない。
ここのところずっと吐き気があって食欲がない。体も怠い。風邪なのかと思ったが、熱はいつもよりやや高い程度で仕事を休むほどではない。高弥は洗面台で冷たい水をてのひらに掬って口を濯いだあと、鏡に映った自身を見ると酷くやつれて顔色も悪かった。
「高弥さん、また吐いてたんですか?」
トイレから出ると背中から声が掛かって高弥はギクリと躯を強張らせた。
「また、って…… ?」
声の主である北岡に引き攣った笑顔で聞き返すと
「この前食堂でお昼食べた後もでしたよね。ちゃんと病院行った方がいいっすよ」
と指摘された。どうやら隠せなかったならしい。
「心配かけてごめん。今日帰りにでも寄って帰るよ」
少しばかり体調不良に心当たりがあった高弥は、想いを寄せてくれている後輩の気遣わし気な声に何だか目を合わせられなくて俯く。そのとき高弥の少し襟足の伸びた黒髪がさらりと顔のラインに合わせて流れた。背の高い北岡の目の前に高弥の白いうなじが視界に入って、北岡は息を飲んだ。
「う……わ……」
思わずといった体で漏れてしまった北岡の声に高弥が驚いて顔を上げる。
「北岡?」
「や………何でもないです」
不思議そうな声の高弥に 思わず漏れ出た声を否定するからのように、北岡はぶんぶんと振って見せた。北岡のポケットに入っていた呼び出し用の電話が揺れると
「仕事中でも体調悪かったら無理しないでくださいね」
と言い、北岡は仕事に戻って行った。
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