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1巻
1-1
しおりを挟む第一章
初めてレオンと出会ったとき、シンの背中を幾筋もの冷や汗が伝った。
強い抑制剤を飲んでいたことに、これほど安堵したことはない。
服用していなければたちまち男の足もとに跪き、好きにしてくれと自分の全てを捧げていただろう。
この世には『男と女』という性だけではなく、ダイナミクスと呼ばれる第二の性が存在していた。
ダイナミクスはDomとSubとUsualという三つに分けられる。
ほとんどの者はUsualと呼ばれる性で、凡庸な性格を持ち、特殊な性衝動に左右されることはない。
一部の者はDomという性で、世の中の上に立ち、組織を治めることに長けている。性的にも支配することを好み、サディスティックな性衝動を持つ。
厄介なのはSubという性であった。
Subの持つ性格は人ごとに異なるが、往々にして支配されることを非常に強く好む。
命令に従い、支配され、褒められることに大きな悦びを感じてしまう。
特にDomの持つフェロモンや、怒りのオーラであるグレアに当てられてしまうと、性衝動を抑える薬――抑制剤を服用していなければ、SubはDomに逆らえず、身も心も全て支配されてしまうのだ。
シンはそういった危険な性質を持つ、Subだった。
仕事柄、シンはDomと接することにも抑制剤の使い方にも慣れているつもりであった。だが、このレオンというDomの男から醸し出される圧倒的な王者のフェロモンは、恐怖を覚えるほど強いものであった。
レオンはただのDomではない。おそらくどのダイナミクスにかかわらず、本気でコマンドを発せば、誰も彼もが男の前に平伏すだろう。
Subであるシンがそうなるのは目に見えていた。
この世に男性と女性という二つの性別しか存在しないか、もしくはダイナミクスが特殊な性衝動に影響されないUsualであったのならば、どれほど生きやすかったことであろう。
考えても仕方ないことを、シンはレオンに出会ってから何度も考えずにいられなかった。
この男には、自分が支配されることに快楽を覚える性であることを決して気取られてはいけない。
万が一にも気取られれば、きっと全てを失い、全てを支配されてしまう――
◆
シンは組織に出向くと、いつも同じ部屋に通される。
豪奢な執務用テーブルが奥に、応接用のソファとテーブルが手前に置かれたこの部屋は、一見すると企業の役員室のようであった。
だが窓がないこの部屋は仄暗い雰囲気を醸し出していて、ここがただの企業ではないことを物語っていた。
「これは、現在警察がこちらの取引現場と疑い、捜査線を張ると考えられる場所のリストです」
シンがUSBを放ると、向かい側のソファに座る組織のNO.2であるユンファンが、パシッと乾いた音を立てて受け取った。
この組織は西の国の出が多い中、ユンファンは黒髪に黒い瞳を持つ人多い東の国の出だ。
敵を倒すときも、組織の戦略を考えるときも、彼の黒い瞳が眼鏡の奥で鋭く光っている。そんな男がノートパソコンにUSBを差し込んだ。
画面を見るユンファンは、前かがみになると首元から翡翠色の不気味な目の刺青が覗く。その不気味な刺青は、人間には見えないものを見ているようで、シンはいつも不気味さを感じてしまう。
知的な雰囲気を持つユンファンだが、その刺青の存在が堅気の男ではないという匂いを醸し出していた。
部屋の隅にあるソファでUSB内のファイルを確認し、ユンファンは片眉を上げた。
「ボス。カタルーナの裏通りもバレていますね」
ユンファンにボスと呼ばれた男――レオンは、部屋の奥にある豪奢な執務用テーブルに着いていた。大きな革張りの椅子に座っていても彼の背は高く、脚が長いことが見てとれる。ダークブラウンの髪を後ろに纏めあげたレオンは、仕立てのいいブラックのスーツに身を包んでいた。
すらりと通った鼻筋に完璧なラインを描く唇。美しい造作の中でもその瞳は、堅気でないと誰でも一目で見抜けるほど鋭利な光を宿していた。
触れただけですっぱりと切れるナイフのようなその眼光。
「他には?」
周りの全てを従わせるような、レオンの低い声が部屋に響く。その声にシンはびくりと背筋が震えそうになるのを、強い精神力で抑えつけ、何も感じていない素振りを装った。
「逆にカタルシアの倉庫裏はバレていないですね。ここを使うのが得策のように思えます」
ユンファンの答えに、レオンは満足そうに笑った。
「よくやった。シン」
レオンに褒められると薬を服用しているとはいえ、くらりとするほどの酩酊を覚えそうになる。
Domに褒められると悦びを感じてしまう、厄介なSubという性が恨めしかった。
「じゃ、用が済んだなら俺は帰ります」
シンはさっと身を翻した。必要以上に彼の前にいるのは危険だ。
「ちょっと待て、シン」
レオンに呼び止められ、シンは足を止め、渋々といった体で振り返る。
「いい加減うちに入らないか。うちに入ればお前の親父の面倒を見てやってもいいぜ」
「悪いがアビスに入るつもりはありません」
『アビス』とは、この国の裏社会を一手に取り仕切る結社のことだ。レオンはそのアビスのリーダーに君臨している。彼はそれ以外にも、ゲリラや軍が使用する兵器や、裏社会に流通する武器を製造するPlatinum
Bullet社――通称『P・B』と呼ばれる武器製造会社のトップでもある。
表社会で強い権力を持つレオンが率いているからか、アビスはただの荒くれ者の集団ではなく、裏社会を牛耳る力を持った組織だった。
だがシンは顔色を変えず、レオンの誘いを断った。
「じゃあ俺のオンナになれ。そしたらお前の嫌いな『殺し』はしないで済むぜ?」
くくっと楽しそうにレオンは笑う。
「はっ! あなたのオンナになるくらいなら百人殺して自分も死んだほうがマシですね」
シンは美しい素肌に配置された柳眉を苦々しく歪め、吐き捨てた。
その瞬間、部屋の出入り口に立っていた若い屈強な男たちが、にわかに色めき立った。
「貴様! 言わせておけば、ボスに向かってなんて口をっ……」
そのうちの一人が叫んで、シンに殴りかかる。
傍から見ればボクシングのプロのような男の拳を、シンはしなやかな身のこなしで躱し、男の首もとに蹴りを落とし込む。
グキリ、と嫌な音を立てて男は床に沈んだ。
「はははっ、殺すんじゃねぇよ、シン」
レオンの笑い声が、うってかわって静寂に包まれた部屋に響く。
「殺してない」
「そいつ、先週からようやくボスの護衛に昇格したばっかりなんだ。悪いが大目に見てやってくれ」
組織の荒くれ者を纏める役割をも果たすユンファンが、肩を竦めた。
「躾がなってないですね。ユンファン」
気怠く視線だけ動かして、シンは冷たい声で言い放つ。
「おいおい、ユンファンをたらしこむんじゃねぇよ」
そんなシンの様子に、レオンは再び笑い声をあげた。
「もう用がないのなら、帰ります」
「用事はまだある」
「……まだあるんですか?」
「そう嫌そうに溜め息吐くんじゃねぇよ。これでも一応お前のクライアントだぞ? 少しはそのお綺麗な面使って、愛嬌でも振り撒いたらどうだ?」
「そんな営業をしてほしいのなら、他のヤツに依頼してください」
未だ笑い続けるレオンに、シンは吐き捨てるように言った。
レオンに向かってそんな態度を取れる者がほとんどいないからか、面白いのだろう。サディスティックな笑みが彼の顔に浮かんだ。
「まぁいい、仕事の話をしよう。シン、保守党のルドルフ議員、知っているな?」
切り替えて仕事の話を始めたレオンに、シンは頷いた。
「ええ。何度もアビスに情報を提供してくれる、組織にとってはありがたい方ですよね?」
「さすがだ、そこまで知っていたか。だがどうやら警察に感付かれたらしい。ルドルフ逮捕に向けて、警察が証拠集めに動き出している。捕まって余計なことを吐く前に、あいつの口封じを頼みたい」
「わざわざ俺に頼まなくても、あなたの優秀な部下でもできそうな仕事ですが?」
黒壇のように深みのある黒いシンの瞳が、レオンの視線に噛みつく。
「殺るだけならな。今回は殺るだけじゃなく、あいつのパソコンに入っている情報と漏洩の痕跡もろとも消して、その上で殺ってもらいたい」
ふぅ、とシンは溜め息を吐いた。
「殺したあと、パソコンを盗ってくればいい話じゃないですか?」
「パソコンが消えていたらサツが探すだろうが。あえて現場に残したパソコンの中に証拠が何もなけりゃ、あいつはシロってことで話は終わりだ」
「面倒くさ……高くつきますよ?」
シンは嫌そうな顔を隠しもせずに言う。それを見て、また楽しそうにレオンは笑った。
「お前が高額をふっかけるのは、いつものことだろうが」
そして、その場で取り出した小切手に数字を書き込みシンに見せた。
「金額はこれでどうだ?」
いくつもゼロが並んだ金額に、シンは満足して頷く。
「いいですね、これなら引き受けます」
シンは小切手を奪うように受け取ると、今度こそ身を翻して豪奢な扉を開け、部屋を出た。
◆
シンの香りは部屋に全く残らない。
そう、いっそ不自然な程であったが、現場に香りを残さないように細心の注意を払っているのだと言われれば、そのとおりだとも言えた。
「シンのやつ、本当に金が好き過ぎやしませんか?」
バタン、とけたたましい音を立てて扉が閉まったのち、笑いを含んだ声でユンファンが言う。
「親父の治療費のために、やりたくもない仕事をしているのかと思うと泣けるだろ? それも血の繋がりはない育ての親だ。あんなに仕事では冷酷なくせに、一皮剥けば情に厚いなんて、可愛いじゃねぇか」
「だったらさっさと実力行使して、手に入れたらいいじゃないですか」
呆れた顔でユンファンは呟く。レオンはそれを聞き、その恐ろしく整った顔にシニカルな笑みを浮かべる。
「無理矢理犯すのもいいが、あのじゃじゃ馬を組み敷くのは命がけだ。だからと言って薬漬けにするのも面白くない。それにアイツに代わるほど仕事ができるやつを探すのも骨が折れる。少なくともこの国にはいやしねぇから海外まで探す必要があると考えると、な」
だが、レオンが強引にシンを手中に収めない理由はこれだけではなかった。
「それに、プライドの高いアイツが自分から俺の足もとに縋りついて俺を求めるってほうが、興奮しないか?」
「シンはSubじゃなさそうですよ。俺たち幹部以上はほとんどDomなのに、誰もシンがSubだと感じた者はいない。いくら抑制剤を服用しても、多少は香りが漏れますからね。だからいつまで経ってもDomの支配欲はシンじゃ満たせませんよ。いつもどおり適当なSubで晴らすしかないと思うんですがね」
ユンファンはシルバーフレームの眼鏡を押し上げて言葉を返す。
「わかっている。だがあそこまで何も香らんのも不自然に思えてな……っと」
レオンは低く呟くと、腕にある豪奢な腕時計に目を遣った。
「そろそろ時間だ。行くぞ」
その声はほんの数秒前に笑っていたとは信じられないくらい、冷たい声だった。
ガタリと音を立ててレオンが立つ。部屋にいた屈強な男たちは、部屋の外へ歩みを進める美しい王に従い、その後ろを歩き出した。
◆
アビスのアジトから外に出ると、シンはほっと一息吐く。
アジトの外に停めておいたバイクに跨がると、アクセルを全開にして走り出した。
昔からあそこは苦手だった。
そこかしこにDomがゴロゴロ転がっている上に、巨大な暗黒の組織を束ねるレオンは、まさにそのDomの中でも頂点、王者の資格を持つ男だからだ。
抑制剤を飲まない状態でレオンにひとたびコマンドを発動されれば、Subが逆らう術など一切ない。
それどころかUsualと呼ばれる平凡な人種も、支配層であるはずのDomでさえも、きっと彼に逆らうことはできないかもしれない。
とはいえ、レオンの依頼は金払いが良く、受けないわけにはいかない。いつもレオンのもとに訪れる前に抑制剤を大量に飲むのだが、その副作用なのか、それとも長年Subとしての欲求を薬で抑えつけているせいなのか、近頃シンは眩暈に悩まされることが多かった。
今も気を抜けば倒れてしまいそうなほどの眩暈に襲われているが、一刻も早くここを離れたかった。
――あの男の近くは危険すぎる。
しばらくバイクを駆ると、にぎやかな商店が並び、人が溢れ返る街に着いた。
シンはある古びたアパートの前にバイクを停め、階段を一気に駆け上がり、三階の一室に滑り込んだ。
部屋に入るとすぐに、身に付けていた黒いシャツやズボンを脱ぎ捨て、部屋に置かれたTシャツとジーンズに着替える。続けて、黒髪を隠すために金髪のウィッグを被り、眼鏡とキャップを身に付けた。
着替えを終えたシンは脱ぎ捨てた服はそのままに、隣室に接する壁を静かに押す。壁が開き隣室に誰もいないことを確認すると、シンはその部屋に滑り込みそのまま入った場所とは異なる玄関を通り、外に出た。
わざわざアパートを隣並びで二つ借り、中で変装して、別の部屋の扉から外へ出る。長い間シンが裏社会と仕事をするにあたって学んだ、身を守る方法の一つだ。
変装したシンは、今度はバイクではなく近くに置いていた自転車に跨がり、人混みを避けて裏通りを疾走する。
生温い風に混じる、食べ物の腐臭やゴミの入り交じった臭いに眉を顰めながら、いくつかの複雑な細い路地を通り抜け、煉瓦造りの古い建物の前でシンは自転車を停めた。
建物の中に入り、エレベーターで五階に上がる。
シンが手をかけたのは一番奥の部屋のドア。一見普通のアパートの扉に見えるが、指紋認証をしないと開かないシステムになっている。
「ただいま」
シンは奥の部屋のドアを開け、部屋の中の人物へ帰宅を知らせた。
奥の部屋の端にはベッドがあり、そこに一人の男が横たわっていた。シンの育ての親である如月恭介だ。
「おかえり」
如月はシンの姿を見て微笑を浮かべ、掠れた声で返事をした。
かつての美声からは信じられないほど嗄れてしまったその声。いや、変わってしまったのは声だけではなかった。
長身で逞しい筋肉がついていた如月は、とても男らしい顔立ちということも相まって、女性によくモテていた。
しかし今では見る影もない。顔は土気色で、頬骨が浮くほどに痩せこけてしまっていた。
「あ、恭介さん、また昼ごはん食べてない」
テーブルに置かれたまま手が付けられていない食事を見て、シンは頬を膨らます。そしてウィッグを脱ぎ、如月のベッドの側まで近づいた。情けないと自嘲するように如月が話す。
「食欲がなくてな」
「食欲なくても食べないと手術ができなくなるって、説明したじゃないですか」
そうなったらどうしよう、と眉尻を下げたシンの泣きそうな顔は幼い子供のようで、冷たい美貌を持ち冷酷無比に仕事をこなす、という噂からは想像できない表情だ。
「手術って言ってもなぁ。したところで寿命はそう延びねぇよ」
「でもっ……」
「馬鹿、二十二にもなって泣くんじゃねぇよ」
如月の声を聞き逃すまいとベッドの側で膝立ちするシンの頭を、如月は痩せ細った手で撫でた。
「泣いてないです……っ」
シンには親から撫でられた記憶などないが、シンの頭を何度も撫でてくれる如月の優しい手の感触に目頭が熱くなってしまう。
死神と恐れられた稀代の暗殺者とはとても思えない優しい手つき。
「そんなことより、俺の治療代を稼ぐために、レオンのところで無茶な仕事ばかり引き受けているな?」
「無茶なんてしていません。俺、仕事はできます。恭介さんが教えてくれたんでしょう」
「馬鹿野郎。狙われたときの護身用に教えたんだ。俺と同じ仕事をさせるためじゃねぇ。お前は語学もコンピューターも堪能なんだ。いくらでも真っ当な生き方がある。何しようとも治んねぇ病気のために、金稼ぎする必要なんかねぇんだ」
「語学もコンピューターも、恭介さんの役に立ちたくて学んだんですよ。真っ当な仕事を探すためじゃない。そんなことより、どんなご飯なら食べられる? かぼちゃのポタージュなら飲めそう?」
「……あぁ、それなら飲めそうだ」
如月が答えると、シンはキッチンに向かった。
食事を用意しながら、弱っていく如月が心配で再び溢れてしまいそうな涙を、ぐっと堪える。
シンが如月に拾われたとき、如月は今のシンと同じ二十二歳で、シンは七歳であった。
シンの黒髪と黒い瞳は人を魅了する不思議な輝きを持っていたらしく、東の国の人身売買組織によって西の国の富豪に売られるところだったのだ。
たまたま如月が、その組織に拐われたとある人物を救出するという仕事を請け負っていて、彼が組織に潜入したときに二人は出会った。
わずかに会話しただけで、シンが子供ながらすでに西の国の言葉だけでなく、東にある如月の母国の言葉さえも操れることに、如月は気付いてくれた。
そして彼がその組織を脱出するときに、売られる運命のシンを哀れんでくれたのだろう、シンに手を差し伸べて聞いたのだ。
――俺と一緒に来ないか?
その言葉にシンは頷いて手を取った。不思議と迷いはなかった。
翻弄されるような波に呑み込まれるばかりだったシンが、初めて自分の意志で選び取ったものだった。
その後、共にいると危険が多いからと、如月は幼いシンに体術を教えた。
さらに数ヵ国の語学やコンピューターについては、如月の力になれるかもしれないと期待して、シン自ら学んだ。
そして、いつしか如月の仕事のパートナーになった。二人でならどんな困難な仕事でも、難なくこなすことができた。
……だが、それも二年前までのこと。
二年前、如月は完治が難しいと言われる病に罹ってしまった。
しかし裏社会で生きてきた如月は、街の病院で診察してもらうことが叶わない。彼を法外な治療費を取る闇医者に診せるため、シンは金払いのいい危険な仕事ばかりを受けるようになったのだ。
加えてシンの持つSubというダイナミクスを完璧に隠すための薬は、非常に高価だった。多少抑える程度なら安価なものもあるが、完璧に隠すとなると相当の価格になってしまう。
荷物になる自分のことは見捨てて一人で生きていけ、と如月には何度も言われたが、首を縦に振れるわけがなかった。
シンにとって如月は父であり、兄であり、師であり、友人である。
唯一の家族という表現が一番近い彼を見捨てるのなら、死んだほうがマシだった。
そんなことを考えていると、鍋の中のスープにふつふつと小さな気泡が浮かんできた。スープが十分に温まったようだ。
「恭介さん、できましたよ」
ふわふわと湯気の立つスープを持って、シンは如月の待つベッドに戻った。
シンはスープをベッドサイドのテーブルに置き、手早く食事の準備をする。そんなシンを如月は何か言いたげな視線で見つめていた。
「恭介さん?」
「シン、レオンと会うのはお前にとって危険すぎる。俺の治療費のことだったらもう気にしなくていいから、レオンのもとに行くのはやめるんだ」
如月はいつもの如く、話を切り出した。
「レオンが危険なのはわかっていますよ。だから十分に抑制剤を飲んでから、彼のもとに行っています」
心配しないで、というようにシンは笑ってみせた。
「わかってない。お前はSubとしての欲求をずっと薬で抑えつけているだろう? 薬が効かなくなってくるかもしれない。薬が効かなくなってもお前なら大抵のDomから逃げられるだろうが、レオンから逃げられると思うか? それにずっと薬で抑えつけているせいで、最近体調も良くないだろう」
如月の言葉にシンはぎくりと身体を震わせた。
Subとしての欲求を抑えつけていることで起こる体調不良を、見抜かれているとは思わなかったのだ。
「……そんなことないですよ。体調はいたって良好ですし、危険を感じたらすぐにレオンから離れます。だから恭介さんは心配しないで」
だが、シンはできるだけ何でもないように笑ってみせた。
誤魔化せたのか、それとも恭介の治療については決して意志を曲げないことを知っているからか、如月は静かに、しかし深く息を吐いた。
「あの男は危険すぎる。誰もあいつには逆らえない。そのことを絶対忘れるな」
そう言って如月はシンの用意したスープを口にした。
◆
――しまった。
シンはルドルフ議員の暗殺のため、彼のセーフハウスにいた。
彼と親しくなりセーフハウスに連れていってもらうという計画は、言葉にすれば簡単だが、用心深いルドルフに取り入るのは困難を極めるものだった。さらに如月の懸念どおり、Subの欲求を薬によって誤魔化してきたせいで眩暈や頭痛に襲われる頻度が高くなり、任務に支障が出てかなり時間がかかってしまっている。
レオンに指定された期日はすでにオーバーし、何とか頼み込んで期限を延長してもらっている状態だった。
ただ暗殺すればいいのであれば簡単にできる。だが、セーフハウスにあるパソコンのデータを破壊するとなると話は変わる。
加えて、ルドルフを始末しパソコンのデータを破壊する前に、彼が警察に逮捕されてしまうようなことがあれば、今回の報酬はゼロになってしまう。それだけでなく次は報酬もないうえに、どんな仕事を提示されても引き受けなければいけない、というペナルティ付き。
――それって要するに、レオンの言うことを何でも一つ無条件で聞かなくちゃならないってことだろ、冗談じゃねぇ。
それに焦ったシンは、滅多に使わない禁じ手を使ってしまった。
「ねぇ………二人っきりになれるところに行きたいな。この意味……わかるでしょう?」
ルドルフの耳元でシンは囁く。ルドルフはそんなシンの身体を上から下へ舐めるように見て、ごくりと一つ喉を鳴らした。
シンは白人とは違う白い肌を持っている。蜂蜜を溶かしたミルクのような肌は、きめ細かく赤ん坊のように美しい。
黒く輝く瞳を縁取るのは、瞬きするたびにバサバサと音がしそうなほど密な睫毛。
濡れたように艶やかな唇。
シンは若く見える東洋人の中でもとりわけ若く見えるらしく、皆一様にティーンにしか見えないと口を揃える。
自分の見た目に無頓着なシンだが、それを聞き「どうやら上手く使えば武器になるらしい」と気付き、それ以降どうしようもなくなったときに使っている手であった。
そのとき相手がDomであれば、ほんの少しだけSubの香りを漂わすのが効果的であるため、抑制剤が切れかけている微妙な頃合いを狙って仕事に行くこともある。
案の定誘いに乗ったルドルフは気を良くして、ようやくシンをセーフハウスに連れていった。
ベッドのあるルドルフの自室に連れ込まれ、作戦の成功を喜んだのも束の間。連れ込まれた部屋はルドルフが愛人と遊ぶための部屋でしかないらしく、ベッド以外の家具はなくパソコンも見当たらない。
――薬も切れかけてきた……
シンの思惑を知らないルドルフは、厭らしくシンの体に腕を回す。
「ねぇ、もういいだろう?」
「あとちょっとだから……抑制剤の効き目が完全に切れてからのほうが愉しめるでしょう?」
やんわりとシンはルドルフを制したが、彼の目は血走っていてこちらの言葉など耳に入っていないようだ。
「もう、我慢できない、コマンドするよ。『Kne……』うぐっ」
しかしルドルフはコマンドを発する前に、床に崩れ落ちる。消音銃を片手にシンはふ……と安堵の吐息を漏らした。
「……っ、あぶね……こんなおっさんとなんざ冗談じゃねぇ」
薬の効果が切れかけている今、Domの前に跪くコマンドであるKneelを命じられていたら、きっと逆らえなかっただろう。膝がガクガクと震えて、Domの前に全てを曝け出して跪いてしまう。そうなれば、きっと任務どころではない。
シンは暗殺をしたあとには必ず震えてしまう利き腕を、ぐっと押さえつける。
――仕方ないんだ。恭介さんを守るために仕事は選んでいられない。
暗殺したあとの陰鬱な気持ちを切り替えて、データの入ったパソコンを早く探さなければならなかった。
シンは床に倒れるルドルフを振り返ることなく、部屋を後にした。
愛人との逢瀬を見られないようにするためか、ルドルフはセーフハウスに使用人をほとんど置いていなかった。
おかげで屋敷内は探索しやすかったが、いくつかあるパソコンのどれが対象のものなのか見極めるのは時間を要し、強い眩暈もあり手間取ってしまった。
もちろん仕事はきっちりとこなせたが、期限はオーバーしている。
――ヤバい。効き目が本当にあとわずかだ。まずは家に戻らないと……
薬の効き目が切れてきたうえに、先ほどから眩暈もよりひどくなってきた。中途半端にDomと触れ合ったのが、よくなかったのかもしれない。
早く帰りたい一心で、急いでルドルフのセーフハウスから抜け出す。建物を出て足早に現場を去ると、少し進んだ十字路で黒塗りの車がすっとシンの前についた。
どこから張られていたのだろうか。これに気付かなかったとなると、集中力が欠けていたことを認めざるを得ない。
現れた見覚えのあるナンバーの車に、シンは軽く舌打ちする。
車から男が一人降りてきた。
「ボスが報告に来るようにと。どうぞ車にお乗りください」
現れたのはレオンの運転手の男だった。
「いや、一度家に帰ってから出直す」
「大変恐縮ですが、この仕事の期限はとうに過ぎております。至急報告しなければペナルティを科す、とのことです」
シンは今度はあからさまに舌打ちしたが、この男に八つ当たりしたところで、どうしようもないことは分かっていた。
「……わかった」
シンは諦めて返事をして、後部座席に乗り込む。
運転手の男は、DomのフェロモンもSubのフェロモンも感じ取れないUsual。
狭い車内でもシンがSubであることに気付かれる心配はないし、アビスのアジトに着いて向こうの連中と会っても、さっと行ってさっと帰ってくれば何とかなる、そう安易に考えてしまった。
それに、こんな危ない目にあってまでやり遂げたのに、ペナルティを科されるのだけは勘弁だった。
だが、長年抑制剤で欲求を制しているSubが、薬の効き目が切れたときにDomのフェロモンに当てられると、体がフェロモンに激しく反応してしまうことをシンは軽視していた。
その危険性とペナルティを比べたとき、シンはプレイの経験不足から、Domのフェロモンに当てられるほうを選んだのだ。
そしてアビスのアジトにある広いレオンの部屋に入るなり、その軽率な選択を悔やんだ。
どうやら仕事を失敗したらしい部下を前にレオンは激しく怒っていて、Domが発する怒りのオーラであるグレアを撤き散らしていたところだったようだ。
いつも以上に部屋に満ちたDomの強いフェロモンに、シンはギクリと体を強張らせる。
努めて平静を装って、震えそうになる声を宥めながらシンはレオンに話しかける。
「すみません、レオン。悪いけど急用ができました。また出直します」
「いや、すぐ済む。入って中で待っていろ」
だが、殺気だったレオンは部屋を出ることを制した。
抑制剤がもう切れたのだろう。ドクン、と心臓が強く脈打つ。
――まずい。くそっ、今日に限ってレオンはなんでこんなに強いグレアを出してるんだ。ツイてない……
任務に失敗したらしい組織構成員の報告を聞いていたレオンだが、その部下の話が進むにつれ、彼のグレアはますます強くなっていった。
シンは深呼吸をして、平常心を保つように懸命に己に命じた、そのときだった。
「失敗しました、で許されるとでも思ってんのか? ああ?」
低く唸るような声でレオンは恫喝すると、ダンッと凄まじい音がして、失敗を報告した男が床に転がった。
転がった男の頭を、レオンは艶やかに磨かれた革靴で踏みつける。
その光景を見て、シンの背中が震えた。
脚もガクガクと震えだし、息をするのが苦しい。体が、熱い……
レオンはシンに対してではなかったが、今までにない凄まじいグレアを発したのだ。抑制剤が切れた今、たとえ自分に向いたものでなくとも、レオンのグレアは相当な威力を持っていた。
「いくら損失出したと思ってやがる。てめぇの命で払っても全然足りねぇんだよ」
レオンが苛立ちのままに男の腹部にその脚をめり込ませると、鈍い嫌な音がした。肋骨が折れたのだろう。床を這いつくばる男が呻き声を上げる。
もう一度蹴り上げようとしたところで、レオンはふと動きを止めた。
シンにとっては止まったのかと思えるほど、ゆっくりと時間が流れたように感じた。
――気付くな、気付くな……っ!
レオンは何かを探るように部屋を見渡す。さながら獲物に感づいた肉食獣のように。
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