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2巻
2-3
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手紙を読み終えて昼食を取りに食堂ホールに行くと、席を取っていたコンラートを交えて三人でランチを取った。
今日の午後は、ライナーの授業がある。欠席したら、〝見舞い〟に来ると言われたことはリュカにも伝えたが、居留守を決め込むと言っていた。
ランチの帰り道、校舎と寮への分かれ道に差し掛かると、シュリはおずおずと切り出した。
「リュカ、午後の授業本当に休むのか? ライナー先生の授業、わからなくても面白いぞ」
間違いなく高度な技術を教わっているにもかかわらず、彼の授業は終始笑いが絶えない楽しいものとなっていた。
「俺も聖魔法苦手だからちんぷんかんぷんだけどー、それでも笑えるからオススメだよ」
コンラートも頷きながら賛同したが、リュカはきっぱりと首を横に振った。
「いいや。今日は僕、基礎呪文を百個覚えるって決めてるし。せっかく誘ってくれたのにごめんね」
「そ、そうか……」
断られてしまったことに耳と尻尾があからさまに垂れてしまうが、リュカがそう望んでいる以上仕方がない。そう思っていた。その時だった。
「いやいや、授業は出てもらわないとなあ。単位あげないぞー?」
ニコニコと笑いながら、ライナーが立っていたので、シュリは驚いて尻尾を膨らませた。
「ラ、ライナー先生! なんでここに?」
「部屋にお見舞いに行ったところで、居留守を使われちゃうかなーって思ったから、先回りして来たんだ」
リュカは冷めた目をしてライナーを見上げると、淡々と言った。
「すみません。今日は僕、具合が悪いので」
「さっきランチ中に骨付き肉に元気にかぶりついてたとこ見たけど?」
「……は?」
なんで見てるのと、リュカは苛立たしげに呟く。
「まあ体調不良は胃腸の不調とは限らないからな。でも、基礎呪文百個覚えるぐらいなら、俺の授業をボーッと聞いてる方が体に負担は少ないと思うけど」
「お言葉ですが、今の僕が授業に参加する意味ありますか? 授業の内容などまるでわからないのに教室にいても意味ないでしょう。それなら部屋で勉強していた方が時間を有効的に使えると思うんです」
「りゅ、リュカ……」
さすがに教師に面と向かってその言い分はまずいだろうとハラハラしながら尻尾を揺らす。素行不良と言われるコンラートでさえも、リュカの強い口調にギョッとしていたが、ライナーは怒った様子もなく笑ったままだ。
「それは大変だ。最高学年にもなって授業の内容を全く理解できないというのなら、卒業の資格は与えられないなぁ」
「先生、リュカは事情があるんです」
シュリは慌てて口を挟んだ。
「それはよく知ってる。聖魔法を研究している身として、俺が一番その事情とやらにはショックを受けたぐらいだ。世界を圧倒させた天才少年の聖魔法をいつかこの目で見たいとずっと思っていたんだからな」
たしかに、リュカのことはリンデンベルク中に知れ渡っていたし、特に教師陣の間ではゾネルデの事件は有名だ。赴任してきたばかりとはいえ、ライナーもリュカの事情は知っているはずだ。
「みんな〝事情〟を知ってるから、リュカが卒業できなかったとしても誰もバカにしたりはしないと思うぞ。でも、卒業の資格が足りてなければいかなる事情があろうと卒業できない。それだけのことだ」
「……学院長は、僕の卒業を保証してくださいました」
「学院長がなんと言おうと、俺は今の君に卒業資格を与える気はないよ。この学校のシステム上、一人でも教師が及第点を与えなかったら卒業の資格は与えられないから」
「ええっ、そうなんスか!?」
やっべえとコンラートが慌てたように言った。彼は最近、すっかり成績上位者として定着しているが、昔から素行が悪かったため未だに一部の教師からは目を付けられているらしい。
「そうだぞー。この学校は厳しいぞ。でもまあ、俺の採点基準は至って簡単。この学院の卒業生に値する魔法の実力があるかどうかの一点に尽きる。正直生徒の素行なんて俺にとっちゃどうでもいいんだよ。その先の人生の責任なんて持てないし」
いつも教室で見せる明るく気さくな表情とは違う、どこか冷めたライナーの顔にシュリは驚いたが、彼はすぐにいつもの笑顔を浮かべ、話を続けた。
「でも完全実力主義にしちゃうと、聖魔法が属性的に不得意な子が可哀そうだから、救済措置として出席日数を加味してるんだ。全部出席さえしてくれてたら大分素行点でプラスしてあげるとこなんだけど、リュカは俺の授業をもう五回サボってるからなぁ。卒業に必要なレベルの聖魔法の実力を卒業試験で発揮してもらうしかないな」
(そんなの、できる訳がない……)
この学校の魔法教育は世界最高水準で、授業も試験も難易度が桁違いだ。シュリも編入したての頃はあまりの難しさに何から手を付けたらいいのかわからず、心を壊しかけた。
基礎から全て忘れた状態で、数カ月で卒業レベルに達するなど不可能な話だ。
「……僕はこの国の王子と婚約してる。卒業させないなんて、国が認めないと思いますが」
リュカの言葉にライナーは笑みを浮かべたまま、ひどく残酷な言葉を放った。
「〝以前の君〟なら、婚約者としてなんの遜色もなかった。国の宝だったからどんな特例も認められただろうけどね。果たして今の君は国の宝と言えるかな」
その言い方にシュリは思わず怒りに駆られ、尻尾をぶわりと膨らませた。
「先生!」
抗議しようとすると、リュカが手を出してシュリを止めた。リュカの尻尾が激しく揺れていて、噛みしめた口からは低い唸り声が漏れていた。
「おお、猫って怒るとイカ耳になるって本当なんだ。可愛い可愛い」
ライナーはのんびりと言って笑ったあと、少し身を屈めてリュカの顔を覗き込んだ。
「過去の栄光は過去のものだよ。今何もないなら君には何もないってことさ。自分の力だけで這い上がろうなんて思っても、今の君には這い上がる力もない。何がわからないのかもわからないなら聞きにおいで。欠席が増えれば増えるほど、卒業は難しくなる。授業にはできるだけ出ておくことだ」
それだけ言い残すと、「遅刻するんじゃないよー」と言ってライナーは足早に校舎の方へと歩き出した。
「……教室ではトモダチ先生みたいな感じなのに、結構シビアでびっくりしちゃった」
ライナーの姿が見えなくなるなり、コンラートが小声で言った。
「リュカ、大丈夫か?」
心配しながら顔を覗き込むと、リュカはいつも通りのけろっとした顔で笑った。
「あー大丈夫大丈夫。全っ然気にしてない。ま、悔しいけど何一つ間違っちゃいないしね。でもあいつはムカつくからやっぱ今後も授業は出ない」
バシッバシッとリュカが白く長い尻尾で雪に埋もれた地面を叩く。相当苛々している証拠だ。
「ええっ、でも……」
「要は、出席日数の点数がゼロでも、卒業までに実力出せばいいんでしょ?」
まるで簡単なことのようにリュカは言った。以前の状態なら、どんな逆境でもリュカならやり遂げるだろうと思えた。だが今はそうではないはずだ。
「大丈夫。僕は一人で這い上がれるから。まだ卒業試験まで時間はある。やってみせる。やってやるよ」
やはりリュカなら不可能と言われることも成し遂げられるのではないかと思わせるようなそんな笑顔だった。
それからリュカは、ますます部屋に閉じこもるようになってしまった。シュリが夜遅くまで起きていた時も、早朝目覚めてしまった時も、いつもリュカの部屋からは明かりが漏れていた。
食事に誘っても断られてしまい、彼は一日に一度、食堂横にある売店でパンなどを買い込んでは部屋で齧りながら勉強や魔法の練習をしているようだった。
(心配だ……)
ああいうがむしゃらな姿勢は、自分にも身に覚えがある。あれでは体を壊してしまうし、心も壊れる。
だがギルベルトが言っていたようにシュリが何かを言うのは良くないのだろうと思うと、どういう言葉をかけたらいいのかわからず、強く止めることができなかった。
ギルベルトからも相変わらず手紙は来ず、後はもう、ハーフターム中に話し合うしかない。様々な不安を抱えながら、シュリは期末試験を迎えた。
■
刺すような寒さが少し和らぎ、曇天から春の陽光が差し込むようになってきた。
毎年この雪解けの時期を楽しみにしていたが、今年はコンラートと作ったリュカの巨大雪だるまが溶けてしまうことを憂い、少し寂しくなってしまう。だがそれでも、温かい陽射しは心地いい。
(よし……!)
シュリは顔を洗うと、頬を叩いて自分自身に気合を入れた。今日は期末試験の結果が張り出される日だ。
夏にある最後の試験は「卒業試験」と呼ばれる少し特殊なものだから、これが実質最後の期末試験だ。シュリはもう、以前のように成績発表のストレスで体調を崩すようなことはない。
自分の努力は自分自身が一番よくわかっているから、点数はあくまで目安に過ぎないと思えるようになっていた。
だが、だからと言って、成績を見にすら行かないという境地にはまだ達することができず、コンラートと共にドキドキしながらホールに見に行った。
案の定、成績発表の場所は発表を見に来た生徒たちでごった返している。
なかなか目当ての成績表に辿り着くことができず、背伸びをしていると、コンラートがシュリの肩をポンと叩いた。
「シュリたん、俺の肩乗っていいよ~。で、ついでに俺の成績も見てー」
コンラートが珍しく少し緊張気味に言った。彼も最近、前よりも随分勉強に対してやる気を出しているようだった。彼の肩によじ登ろうとしていると、それよりも先に、興奮したような同級生たちの声が周りから上がった。
「シュリ、すごいじゃん! 学年首席だよ! ほら」
「………え?」
学生たちの頭で成績表はほとんど隠れて見えないが、唯一、一番上だけかろうじて見えた。自分の名前が、たしかにそこに書かれている。
「うそ……だ……」
あまりの衝撃に膝から力が抜けて、ふらりとよろめいた。
(やっと……、やっとここまで……っ)
だが、倒れそうになる寸前、コンラートがシュリの体を抱き止め、そのままきつく抱きしめた。
「おめでとう! シュリ! シュリは本当にすごい」
抱きしめてくれる彼の腕は力強く、少し涙声になっていた。本当に喜んでくれているのだと、シュリはまだ実感が湧かないのに瞼が熱くなるのを感じた。
すると、同級生たちが集まってきて、コンラートの頭をグリグリと撫でながら少し非難するように言った。
「つーかコンラート! お前も五位ってどうなってんだよ。去年までろくに授業も受けてなかったくせに」
「お前、前までいつも下から五位とかじゃなかったか?」
「え……うっそマジ? 五位とか俺天才じゃん」
コンラートが心底驚いたという声を上げた。自分でも信じられないようだ。
彼は元々、とても頭が良い。だが、才能とカンだけでここまで上り詰めた訳じゃない。彼がこの一年間、猛勉強をしていたことは一緒に勉強してきたシュリが一番よく知っていた。
「コンラート、おめでとう。本当に、おめでとう。お前も……本当に、すごい奴だ」
コンラートを抱きしめ返すと、彼はいつものように茶化すことなく「ありがとう、シュリ」とただ静かに言った。
しばらくの間、コンラートと共にテストでベストを尽くせた余韻に浸っていたが、ふと、周りがざわざわとしていることに気づいた。
(……?)
「うそだろ、リュカ。リュカが聖魔法で最下位なんて……」
「しょうがないだろ。〝あんなこと〟があったんだから」
「リュカから才能を奪っておいて、あいつは一位か」
そんな声が聞こえてきて、シュリは目を見開いた。
「え……」
成績表の一番下に、リュカの名前が書いてある。
「リュカ……」
シュリは呆然とそう呟き、ハッとした。人混みの中に、リュカの白い尻尾がちらりと見えた。彼はいつも成績を見に来なかったが、今回は密かに見に来ていたのだ。
「リュカ!」
「えっ、ちょっとシュリたん!?」
シュリは人混みをかき分け、リュカを追いかけた。
「リュカ!」
廊下でようやく追いついて呼び止めると、リュカは少し驚いた様子で立ち止まり、振り返った。以前より少し痩せて、顔色も悪いように見える。その姿に、シュリは瞳を揺らした。シュリの表情を見て、リュカは明るく笑いながら言った。
「あー……ごめん。心配させちゃったよね。あいつムカつくから、結構頑張ったつもりだったんだけど、予想以上にボロボロだったよー」
「リュカ……」
「シュリ、一位おめでとう」
屈託のない笑顔でそう言った後、リュカは「ちょっと悔しい」と笑った。
「マジで留年になるかもしれないってこと、ハーフタームでジークとギルに話してみるよ」
「リュカ………」
その時、背後から声がした。
「君にハーフタームはないぞ。リュカ」
「は?」
「やあ。やっと会えたな」
ライナーがいつの間にか背後に立っていて、シュリは驚いた。リュカは慣れていることなのかうんざりした様子でライナーを睨みつけた。
「僕にハーフタームがないって、どういうことですか」
「言葉の通り。君は惨憺たる成績を取った。このままじゃ卒業は百パーセント不可能。だからお休み返上で毎日俺の補習を受けてもらいます」
「……補習を受けたら、卒業させてくれるんですか?」
「まさか。卒業試験で平均以上を取らなければ、卒業させる気はない。でも、この間も言ったけど、一人の力で這い上がるのは無理だ」
「補習って、他に生徒はいるんですか?」
シュリは思わず聞いた。この学校はよくも悪くも実力主義で、補習などという救済措置を各教師が実施するのは聞いたことがなかった。
「いないよ。完全特例措置。俺だって忙しいんだから、感謝してほしいなぁ」
(先生……熱心だな)
人気者で面白いけれど、どこか掴みどころのない先生というイメージがあったから、彼の熱意に驚いた。
不意に、自分にとってのミショーの存在を思い出した。
(リュカにも……親身になって味方してくれる大人が必要だ)
ライナーはシュリよりもずっと上手に、リュカを支えてくれるのかもしれない。するとリュカがライナーを睨むように見上げて言った。
「じゃあいいです。留年で。どのみち今年中に卒業レベルに達するのは無理だ」
「そんなこと言ってたら君は来年も再来年も卒業できないよ? 俺はしばらく、この学院で聖魔法教師を務めるつもりだから」
リュカの尻尾が不機嫌に揺れた。
「でもどちらにしろ、ハーフタームは無理です。僕、リューペンに帰らないといけないんで」
「補習中も追試は随時受け付けるから、合格レベルに達することができたら、休みを取ってもいいよ。一日でも多く、休みが欲しければ、頑張って勉強に励んで合格するしかないね」
「頑張れよー」と言いながら、ライナーは手をひらひらさせながら去って行ってしまった。
その背中を見ながら、リュカが一際大きく尻尾をブンッと音を立てて振った。彼の真っ白な耳は後ろに反らされてひどく怒っていることがわかる。
「シュリ、ごめん。僕すぐに追試終わらせてリューペンに行くけど……もしかしたら無理かも」
リュカはいつになく弱気な声で、シュリの顔を見てひどく申し訳なさそうに言った。
「……ああ。大丈夫だ。俺、行ってくる」
レレラの優しい手、緑豊かな風景。狭くて猫にとって快適な城。
あの場所が戦禍に巻き込まれるのはシュリとしても避けたい。ただ、リュカを一人残していくのは心配だった。
(あれ、でも……)
リュカがリューペンに帰らないということは、ジークフリートとギルベルトの三人きりになってしまう。
「りゅ、リュカ、でも……」
すると彼は、シュリの困惑をくみ取り、笑いながら言った。
「逆にジークとギル、どっちと結婚するのか決めるいい機会じゃないかな」
心底興味がないというように笑ったリュカにシュリは思わず黙り込んだ。もし逆の立場だったら、嫌だと思うからだ。リュカと彼らが過ごすことを。
(考えると、なんかモヤモヤする……)
これが、ミショーの言っていた恋の定義というものに当てはまるのかはわからないが、少なくともリュカほど何も気にせずにはいられない。
「……なあ、リュカは、本当にいいのか?」
シュリはこれまでずっと思っていて言えずにいたことを聞いた。
「……何が?」
「全く恋愛感情のない相手と結婚すること」
リュカはジークフリートにもギルベルトにも、一切の恋愛感情がないと言っていた。そんな相手と結婚して、不幸にはならないだろうか。
「全然平気。結婚ってそういうもんじゃないのかな。ジークたちの親も、僕たちの親も全然愛し合ってると思えなかったけど、僕たちは生まれて、王族の血筋を絶やさないっていう役割は果たされてるんだし」
(役割……か)
恋愛感情がない結婚というものに、ずっと後ろめたさを抱えていたが、今ならリュカの言うことも少しだけわかる。
シュリ自身も、結婚相手にかかわらず、もう恋というものができないかもしれないと思い始めていた。もしそうなら、完全に〝役割〟としての政略結婚という形になる。
それは、彼らを不幸にしてしまうことにならないだろうか。
第二章 傷痕に触れる
外は陽光、抜けるような空の青さ。
それにもかかわらず、リンデンベルク城からリューペン行きの王室馬車の中は気まずい空気が充満していて落ち着かない。
(……なんでギル、いないんだ?)
馬車の中はジークフリートと二人きりだ。ギルベルトとはキスを拒絶したあの日からずっと気まずいがジークフリートとは二年前からもっと気まずい。リンデンベルクを発ってからもう長いこと馬車に揺られているが、自分たちの間に会話は全くなかった。
色々と聞きたいこともあるが、自分たちの関係を思うとこちらから話しかけにくい。シュリは落ち着かなさに激しく揺れる尻尾の先をギュッと掴み、なんでもないフリをして本を読んでいた。
ジークフリートの方はというと気まずげな様子もなく車内でも書類に目を通して溜まっている仕事を片付けていたが、途中、見かねたように顔を上げて、青い目を細めて言った。
「シュリ。尻尾楽にしてていいよ」
「えっ!?」
今この暴れ回る尻尾を野放しにしたら彼の顔面を強打してしまうだろう。だが彼は、そんなシュリの心情を見透かしたように言った。
「俺としては大歓迎だから」
「……変態」
反射的に悪態をついてしまった。
ジークフリートはその反応に笑うと、書類をしまいながらシュリに声をかけた。
「……ごめん。落ち着かないよね。まさかリュカが補習になるなんて思わなかったから。というか、レイオット学院に補習なんてシステムあったんだね」
「ああ。新任の先生が特別措置でって」
「ライナー先生か。高名な聖魔法士だね。俺も城の結界のことで時々世話になってるけど……でもあんなに忙しい人がわざわざ一人の生徒の卒業のために補習をするなんて驚いたよ。そんなに教育熱心なイメージはないから」
「……やっぱり、そうなのか」
──世界を圧倒させた天才少年の聖魔法をいつかこの目で見たいとずっと思っていたんだからな。
ライナー自身がああ言っていたように、彼はリュカに対して並々ならぬ思い入れがありそうだ。
「……俺と二人きりだとシュリも落ち着かないだろうし別の馬車に乗ることもできたけど、シュリを一人にするのもそれはそれで心配だし」
(一人?)
護衛はたくさんついているのに、一人とはどういう意味だろうかとシュリは思った。
「いや、別に……落ち着かなくはないけど、ギルはどうしたんだ?」
「ああ。ギルは後ろの馬車で来てるよ。片付けなきゃいけない書類が溜まりすぎて、車内に思いきり広げてやりたいんだって」
「そ、そうか……」
(やっぱり……避けられてる)
わざわざ別の馬車で来るほど避けられているのかと思うと、自分が原因とはいえ耳と尻尾がしょんぼりと垂れさがる。再び沈黙しそうになり、シュリは慌てて聞きたかったことを聞くことにした。
「あのさ、リューペンで起きてる不審なことってなんなんだ? 俺もリュカも把握してなくて……」
「ああ。そのことはリューペンに着いてから折を見て話すよ」
ジークフリートはちらりと窓の外を見ながら言った。彼はかなり周りを警戒しているようだ。
迂闊に聞くべきではなかったと慌てて口を塞ぐと、ジークフリートが気にするなというように優しい笑みを浮かべて首を横に振った。
「ごめん、気になるよね。大丈夫。ちゃんとあとで話すよ」
「……ありがとう」
話題がなくなってしまい、今度こそ完全な沈黙に戻った。
シュリはジークフリートと普通に話すことができて安堵すると同時に、少し眠くなってきてしまった。久しぶりに故郷へ帰ることへの不安があり、昨日の夜はあまりよく眠れなかったのだ。
だが、眠るには少しだけ肌寒い。馬車内には防寒用の毛布が用意されていて、それを被ってはいたのだが、曇天ということもあり想定以上に馬車内は冷えていた。
(一枚じゃ足りない……もう一枚……持ってくればよかった)
そう思いながらも目を閉じると、不意に体が温かくなった。薄く目を開くと、毛布がもう一枚重ねられている。
(ジークの匂いだ……)
懐かしさにシュリはしばらくウトウトとしながら尻尾の先をゆっくり揺らしていたが、やがてハッとした。
「これ、ジークの毛布だろ。なんで俺にかけてるんだよ」
「毛布が足りないのはこっちの不手際のせいだし。……それに俺は別に寒くないから」
「……いや、寒いだろ」
たしかにシュリはネコ族の血が流れているということもあり人間以上に寒がりではあるが、それを加味しても馬車内はかなり冷え込んでいる。
シュリは尻尾を大きく揺らしながらジークフリートを睨むように見て言った。
「前にも言ったよな。ジークが自分を大事にしない限り、俺は絶対にお前を許さないって」
「……そうだったね」
少し苦笑いを浮かべてそう言ったジークフリートに、シュリは尻尾を大きく振って眉を吊り上げた。シュリは以前のように彼に対して激しい怒りをぶつけたり、警戒して怒ることもなくなってきている。
ゾネルデの日、瀕死の彼が血を吐きながら絞り出すように口にした『愛している』を聞いて、胸が潰れるほど苦しくなった。
彼と破局してからずっと、ジークフリートは自分という出来の悪い婚約者に困っていたのだろうと思っていた。優しくしてくれていたのも、婚約者として仕方なくそうしてくれていたのだと。
だがそうではなかったのだと、あの時やっとわかった。彼は自分の立場を考え、自分の気持ちを殺して、国のことを優先したのだ。別れを告げた時、きっと彼もまたシュリと同じぐらい痛くて苦しかったのではないかと。それに気づいた時、彼への怒りや裏切られた悲しみよりも自分自身への怒りが上回った。
自分のことでいっぱいいっぱいで、長い間、彼が抱えていた苦しみにも葛藤にも何も気づかずにいた自分自身に、シュリは腹を立てていた。
ジークフリートはあの時瀕死だったから、シュリに『愛している』と言ったことを覚えていないようだ。
だからその本心は確かめようがないが、シュリは彼に、もっと自分自身を大事にしてほしいと思っていた。
「本当は寒いんだろ」
「……好きな子の前でぐらい、かっこつけさせてほしかったな」
白い息を吐いて、ジークフリートが困ったように笑った。
シュリは呆れたように溜め息をついて、毛布を突き返した。
「これはジークが使うものだ」
突き返して再び寝ようと目を閉じて、寒さをやりすごそうとしていると、またしてもそっと毛布を掛けられてしまう。それを押し返して、というやり取りを何度か続けていたが、シュリは根負けしたように立ち上がると、彼の隣に移動してボスンと腰かけた。そして二枚の毛布のうち半分を、ジークの体に被せた。
「……半分ずつだ。これで実質、二人とも二枚毛布を着てることになるだろ」
窓の外を向いたままそう言うと、ジークフリートは少し驚いたような声を上げた。
「シュリが隣に座ってくれるとは思わなかった」
「仕方がないからだ。それ以上一センチも近寄るなよ」
隣同士とはいえ、可能な限り距離を取り、耳を後ろに下げて威嚇すると、ジークフリートは「手厳しいね」と笑いながらも、半分の毛布の端を嬉しそうに握った。
「ありがとう。シュリは優しいね」
その声に、少しくすぐったいような気持ちになり、シュリは窓の外を眺めたふりを続けた。毛布が二枚になったことで、ようやく寒さが和らぐと、いつの間にか国境付近に差し掛かっていた。少しずつ変わっていく車窓を眺めながら、シュリはついに眠気に負けた。
(リューペン……久しぶりだな……今の季節、あったかいんだろうなぁ)
瞼を閉じると、草花の生い茂る故郷の青々とした丘陵が目に浮かんだ。
■
子供の頃の夢を見た。
温かい陽だまりのような部屋で、和気藹々と楽しく家族団らんが行われている中、自分がその中に入ろうとすると途端に母から笑顔が消え、父は険しい顔になる。兄と姉はそんな両親の様子に困ったように顔を見合わせる。
リュカだけがきょとんとして、「シュリもおいでよ」と屈託なく笑っていた。急激に部屋の温度が冷えていくような感覚に胸がギュッと痛くなったが、どうにか気づかないふりをした。
無理やり家族の仲間に入れてもらおうと、他の兄弟たちのように母の膝の上に乗ろうとするが、なぜかいつもその度に〝シュリはダメ〟と言われて床に下ろされてしまった。
幼心ながらにその拒絶には、シュリはひどく傷ついた。
『……俺、お父様とお母様に嫌われてるのかな』
ずっと気づかないふりをしていたけれど、ある日レレラに相談したことがあった。
怖くてタブーにしていた言葉を一度口にしてしまうと、それは一気に現実味を帯びる。喉元まで熱い物がこみ上げてきて、シュリは目にいっぱいの涙を浮かべた。
『そんなことある訳ないじゃないですか』
『でも、今日も俺だけ膝の上にのせてもらえなかったんだ。……兄弟の中で、俺だけ。リュカはのせてもらえるのに。お父様も昨日公務から戻ってきてお土産をみんなに買ってきてくれたけど、俺の分だけなかった』
するとレレラは言葉を失い、ひどく悲しそうに目を細めた。
『……やっぱり、お父様もお母様もみんな、みんな俺のことが嫌いなんだ。なんで、だろ……なんで、俺だけ……っ、仲間、外れ……っ、なんだろ……っ』
ひっくひっくとしゃくりあげながら、涙が止まらない目元を両手で拭っていると、レレラがそっとシュリを自分の胸の中に抱き寄せた。
『こんなに良い子で可愛らしいシュリ様を、誰が嫌うというのですか。それに、子供を嫌う母親などいませんよ。親にしてみたらどんな子供でも可愛いんです』
『黒い毛をしていても?』
『当然です』
使用人のレレラは主人たちの前に顔を出すことはできない。シュリと両親が話しているところを実際に見たことはない。だから彼女は信じていたのだと思う。子供を嫌う親が、この世に存在するはずがないと。幼かったシュリはレレラの優しい言葉を信じたかった。
それでも涙が止まらないでいるシュリに、レレラは名案を思い付いたとばかりに尻尾を立てて言った。
『そうだ! お二人に、美味しいラポリャの贈り物をしてみませんか? きっとお喜びになると思いますよ』
『や、やってみる!』
そうして、レレラに手伝ってもらい、シュリはラポリャを作る練習を始めた。
最初はまったく上手くいかず、生地がボロボロになってしまったり、魚の形にならなかったり、焼きムラが酷かったりしたが、何度も何度も特訓を重ねて上手なパイが作れるようになった。
自分が作った証である肉球印を入れて、綺麗なリボンをかけて、ありったけの大好きの気持ちを込めたカードを書いて添え、両親にプレゼントをした。
きっと喜んでくれるだろうと思った。これで父も母も、自分を少しは好きになってくれるのではないか。そんな風に期待していたが結果は散々だった。
国の王子ともあろう子供が、使用人たちに交ざって厨房に出入りするなど言語道断ということで、罰としてその晩の夕食は抜きだった。
だがそれでも、きっとラポリャは食べてもらえたと信じていた。心を籠めて作った美味しいパイの味に、両親も少しだけ、シュリを好きになってくれるだろうと願っていた。
翌日、シュリはドキドキしながら母の膝の上に乗ろうとしたが、やはり降ろされてしまった。
『なんで……? なんで俺だけダメなの?』
理由がわからず涙声でそう訴えながら母を見上げると、彼女は目を逸らした。
『怠け者にお膝には乗る資格はないの』
その言葉に、シュリはひどく驚いた。
(怠け者……? 俺が?)
『怠けてないよ。昨日だってリュカよりたくさん勉強した』
『長い間机に向かっていればいいっていう訳じゃないでしょう。リュカの半分も魔法を覚えられてないのに、使用人に交じって料理なんてして遊んで』
その分朝、早起きした。早起きして勉強して、夜料理の練習をしていたのだ。勉強時間は削っていない。そう訴えても、言い訳としか受け取ってもらえなかった。
『……じゃあ頑張れば、リュカよりたくさん魔法を覚えたらお膝に乗ってもいいの?』
『そうね。リュカと同じぐらい頑張って良い子になったらね』
ラポリャを渡した効果がなかったことに落胆し、レレラに話しに行こうと階下へ向かうと、キッチンメイドたちの話し声がした。
『それじゃあ、陛下も王妃様もシュリ様がお作りになったラポリャを召し上がらなかったって言うの?』
『一口も口にされなかったって……どうして』
『かわいそうに……。シュリ様になんと説明すればいいかしら……』
シュリはふらりとその場を離れると、部屋に駆け込んで、ベッドの中に潜り込み散々泣いた。
大好きだという気持ちを籠めて作ったラポリャを一口も食べてもらえなかったことも、怠け者だと言われたことも悲しくて悔しくてたまらなかった。
今日の午後は、ライナーの授業がある。欠席したら、〝見舞い〟に来ると言われたことはリュカにも伝えたが、居留守を決め込むと言っていた。
ランチの帰り道、校舎と寮への分かれ道に差し掛かると、シュリはおずおずと切り出した。
「リュカ、午後の授業本当に休むのか? ライナー先生の授業、わからなくても面白いぞ」
間違いなく高度な技術を教わっているにもかかわらず、彼の授業は終始笑いが絶えない楽しいものとなっていた。
「俺も聖魔法苦手だからちんぷんかんぷんだけどー、それでも笑えるからオススメだよ」
コンラートも頷きながら賛同したが、リュカはきっぱりと首を横に振った。
「いいや。今日は僕、基礎呪文を百個覚えるって決めてるし。せっかく誘ってくれたのにごめんね」
「そ、そうか……」
断られてしまったことに耳と尻尾があからさまに垂れてしまうが、リュカがそう望んでいる以上仕方がない。そう思っていた。その時だった。
「いやいや、授業は出てもらわないとなあ。単位あげないぞー?」
ニコニコと笑いながら、ライナーが立っていたので、シュリは驚いて尻尾を膨らませた。
「ラ、ライナー先生! なんでここに?」
「部屋にお見舞いに行ったところで、居留守を使われちゃうかなーって思ったから、先回りして来たんだ」
リュカは冷めた目をしてライナーを見上げると、淡々と言った。
「すみません。今日は僕、具合が悪いので」
「さっきランチ中に骨付き肉に元気にかぶりついてたとこ見たけど?」
「……は?」
なんで見てるのと、リュカは苛立たしげに呟く。
「まあ体調不良は胃腸の不調とは限らないからな。でも、基礎呪文百個覚えるぐらいなら、俺の授業をボーッと聞いてる方が体に負担は少ないと思うけど」
「お言葉ですが、今の僕が授業に参加する意味ありますか? 授業の内容などまるでわからないのに教室にいても意味ないでしょう。それなら部屋で勉強していた方が時間を有効的に使えると思うんです」
「りゅ、リュカ……」
さすがに教師に面と向かってその言い分はまずいだろうとハラハラしながら尻尾を揺らす。素行不良と言われるコンラートでさえも、リュカの強い口調にギョッとしていたが、ライナーは怒った様子もなく笑ったままだ。
「それは大変だ。最高学年にもなって授業の内容を全く理解できないというのなら、卒業の資格は与えられないなぁ」
「先生、リュカは事情があるんです」
シュリは慌てて口を挟んだ。
「それはよく知ってる。聖魔法を研究している身として、俺が一番その事情とやらにはショックを受けたぐらいだ。世界を圧倒させた天才少年の聖魔法をいつかこの目で見たいとずっと思っていたんだからな」
たしかに、リュカのことはリンデンベルク中に知れ渡っていたし、特に教師陣の間ではゾネルデの事件は有名だ。赴任してきたばかりとはいえ、ライナーもリュカの事情は知っているはずだ。
「みんな〝事情〟を知ってるから、リュカが卒業できなかったとしても誰もバカにしたりはしないと思うぞ。でも、卒業の資格が足りてなければいかなる事情があろうと卒業できない。それだけのことだ」
「……学院長は、僕の卒業を保証してくださいました」
「学院長がなんと言おうと、俺は今の君に卒業資格を与える気はないよ。この学校のシステム上、一人でも教師が及第点を与えなかったら卒業の資格は与えられないから」
「ええっ、そうなんスか!?」
やっべえとコンラートが慌てたように言った。彼は最近、すっかり成績上位者として定着しているが、昔から素行が悪かったため未だに一部の教師からは目を付けられているらしい。
「そうだぞー。この学校は厳しいぞ。でもまあ、俺の採点基準は至って簡単。この学院の卒業生に値する魔法の実力があるかどうかの一点に尽きる。正直生徒の素行なんて俺にとっちゃどうでもいいんだよ。その先の人生の責任なんて持てないし」
いつも教室で見せる明るく気さくな表情とは違う、どこか冷めたライナーの顔にシュリは驚いたが、彼はすぐにいつもの笑顔を浮かべ、話を続けた。
「でも完全実力主義にしちゃうと、聖魔法が属性的に不得意な子が可哀そうだから、救済措置として出席日数を加味してるんだ。全部出席さえしてくれてたら大分素行点でプラスしてあげるとこなんだけど、リュカは俺の授業をもう五回サボってるからなぁ。卒業に必要なレベルの聖魔法の実力を卒業試験で発揮してもらうしかないな」
(そんなの、できる訳がない……)
この学校の魔法教育は世界最高水準で、授業も試験も難易度が桁違いだ。シュリも編入したての頃はあまりの難しさに何から手を付けたらいいのかわからず、心を壊しかけた。
基礎から全て忘れた状態で、数カ月で卒業レベルに達するなど不可能な話だ。
「……僕はこの国の王子と婚約してる。卒業させないなんて、国が認めないと思いますが」
リュカの言葉にライナーは笑みを浮かべたまま、ひどく残酷な言葉を放った。
「〝以前の君〟なら、婚約者としてなんの遜色もなかった。国の宝だったからどんな特例も認められただろうけどね。果たして今の君は国の宝と言えるかな」
その言い方にシュリは思わず怒りに駆られ、尻尾をぶわりと膨らませた。
「先生!」
抗議しようとすると、リュカが手を出してシュリを止めた。リュカの尻尾が激しく揺れていて、噛みしめた口からは低い唸り声が漏れていた。
「おお、猫って怒るとイカ耳になるって本当なんだ。可愛い可愛い」
ライナーはのんびりと言って笑ったあと、少し身を屈めてリュカの顔を覗き込んだ。
「過去の栄光は過去のものだよ。今何もないなら君には何もないってことさ。自分の力だけで這い上がろうなんて思っても、今の君には這い上がる力もない。何がわからないのかもわからないなら聞きにおいで。欠席が増えれば増えるほど、卒業は難しくなる。授業にはできるだけ出ておくことだ」
それだけ言い残すと、「遅刻するんじゃないよー」と言ってライナーは足早に校舎の方へと歩き出した。
「……教室ではトモダチ先生みたいな感じなのに、結構シビアでびっくりしちゃった」
ライナーの姿が見えなくなるなり、コンラートが小声で言った。
「リュカ、大丈夫か?」
心配しながら顔を覗き込むと、リュカはいつも通りのけろっとした顔で笑った。
「あー大丈夫大丈夫。全っ然気にしてない。ま、悔しいけど何一つ間違っちゃいないしね。でもあいつはムカつくからやっぱ今後も授業は出ない」
バシッバシッとリュカが白く長い尻尾で雪に埋もれた地面を叩く。相当苛々している証拠だ。
「ええっ、でも……」
「要は、出席日数の点数がゼロでも、卒業までに実力出せばいいんでしょ?」
まるで簡単なことのようにリュカは言った。以前の状態なら、どんな逆境でもリュカならやり遂げるだろうと思えた。だが今はそうではないはずだ。
「大丈夫。僕は一人で這い上がれるから。まだ卒業試験まで時間はある。やってみせる。やってやるよ」
やはりリュカなら不可能と言われることも成し遂げられるのではないかと思わせるようなそんな笑顔だった。
それからリュカは、ますます部屋に閉じこもるようになってしまった。シュリが夜遅くまで起きていた時も、早朝目覚めてしまった時も、いつもリュカの部屋からは明かりが漏れていた。
食事に誘っても断られてしまい、彼は一日に一度、食堂横にある売店でパンなどを買い込んでは部屋で齧りながら勉強や魔法の練習をしているようだった。
(心配だ……)
ああいうがむしゃらな姿勢は、自分にも身に覚えがある。あれでは体を壊してしまうし、心も壊れる。
だがギルベルトが言っていたようにシュリが何かを言うのは良くないのだろうと思うと、どういう言葉をかけたらいいのかわからず、強く止めることができなかった。
ギルベルトからも相変わらず手紙は来ず、後はもう、ハーフターム中に話し合うしかない。様々な不安を抱えながら、シュリは期末試験を迎えた。
■
刺すような寒さが少し和らぎ、曇天から春の陽光が差し込むようになってきた。
毎年この雪解けの時期を楽しみにしていたが、今年はコンラートと作ったリュカの巨大雪だるまが溶けてしまうことを憂い、少し寂しくなってしまう。だがそれでも、温かい陽射しは心地いい。
(よし……!)
シュリは顔を洗うと、頬を叩いて自分自身に気合を入れた。今日は期末試験の結果が張り出される日だ。
夏にある最後の試験は「卒業試験」と呼ばれる少し特殊なものだから、これが実質最後の期末試験だ。シュリはもう、以前のように成績発表のストレスで体調を崩すようなことはない。
自分の努力は自分自身が一番よくわかっているから、点数はあくまで目安に過ぎないと思えるようになっていた。
だが、だからと言って、成績を見にすら行かないという境地にはまだ達することができず、コンラートと共にドキドキしながらホールに見に行った。
案の定、成績発表の場所は発表を見に来た生徒たちでごった返している。
なかなか目当ての成績表に辿り着くことができず、背伸びをしていると、コンラートがシュリの肩をポンと叩いた。
「シュリたん、俺の肩乗っていいよ~。で、ついでに俺の成績も見てー」
コンラートが珍しく少し緊張気味に言った。彼も最近、前よりも随分勉強に対してやる気を出しているようだった。彼の肩によじ登ろうとしていると、それよりも先に、興奮したような同級生たちの声が周りから上がった。
「シュリ、すごいじゃん! 学年首席だよ! ほら」
「………え?」
学生たちの頭で成績表はほとんど隠れて見えないが、唯一、一番上だけかろうじて見えた。自分の名前が、たしかにそこに書かれている。
「うそ……だ……」
あまりの衝撃に膝から力が抜けて、ふらりとよろめいた。
(やっと……、やっとここまで……っ)
だが、倒れそうになる寸前、コンラートがシュリの体を抱き止め、そのままきつく抱きしめた。
「おめでとう! シュリ! シュリは本当にすごい」
抱きしめてくれる彼の腕は力強く、少し涙声になっていた。本当に喜んでくれているのだと、シュリはまだ実感が湧かないのに瞼が熱くなるのを感じた。
すると、同級生たちが集まってきて、コンラートの頭をグリグリと撫でながら少し非難するように言った。
「つーかコンラート! お前も五位ってどうなってんだよ。去年までろくに授業も受けてなかったくせに」
「お前、前までいつも下から五位とかじゃなかったか?」
「え……うっそマジ? 五位とか俺天才じゃん」
コンラートが心底驚いたという声を上げた。自分でも信じられないようだ。
彼は元々、とても頭が良い。だが、才能とカンだけでここまで上り詰めた訳じゃない。彼がこの一年間、猛勉強をしていたことは一緒に勉強してきたシュリが一番よく知っていた。
「コンラート、おめでとう。本当に、おめでとう。お前も……本当に、すごい奴だ」
コンラートを抱きしめ返すと、彼はいつものように茶化すことなく「ありがとう、シュリ」とただ静かに言った。
しばらくの間、コンラートと共にテストでベストを尽くせた余韻に浸っていたが、ふと、周りがざわざわとしていることに気づいた。
(……?)
「うそだろ、リュカ。リュカが聖魔法で最下位なんて……」
「しょうがないだろ。〝あんなこと〟があったんだから」
「リュカから才能を奪っておいて、あいつは一位か」
そんな声が聞こえてきて、シュリは目を見開いた。
「え……」
成績表の一番下に、リュカの名前が書いてある。
「リュカ……」
シュリは呆然とそう呟き、ハッとした。人混みの中に、リュカの白い尻尾がちらりと見えた。彼はいつも成績を見に来なかったが、今回は密かに見に来ていたのだ。
「リュカ!」
「えっ、ちょっとシュリたん!?」
シュリは人混みをかき分け、リュカを追いかけた。
「リュカ!」
廊下でようやく追いついて呼び止めると、リュカは少し驚いた様子で立ち止まり、振り返った。以前より少し痩せて、顔色も悪いように見える。その姿に、シュリは瞳を揺らした。シュリの表情を見て、リュカは明るく笑いながら言った。
「あー……ごめん。心配させちゃったよね。あいつムカつくから、結構頑張ったつもりだったんだけど、予想以上にボロボロだったよー」
「リュカ……」
「シュリ、一位おめでとう」
屈託のない笑顔でそう言った後、リュカは「ちょっと悔しい」と笑った。
「マジで留年になるかもしれないってこと、ハーフタームでジークとギルに話してみるよ」
「リュカ………」
その時、背後から声がした。
「君にハーフタームはないぞ。リュカ」
「は?」
「やあ。やっと会えたな」
ライナーがいつの間にか背後に立っていて、シュリは驚いた。リュカは慣れていることなのかうんざりした様子でライナーを睨みつけた。
「僕にハーフタームがないって、どういうことですか」
「言葉の通り。君は惨憺たる成績を取った。このままじゃ卒業は百パーセント不可能。だからお休み返上で毎日俺の補習を受けてもらいます」
「……補習を受けたら、卒業させてくれるんですか?」
「まさか。卒業試験で平均以上を取らなければ、卒業させる気はない。でも、この間も言ったけど、一人の力で這い上がるのは無理だ」
「補習って、他に生徒はいるんですか?」
シュリは思わず聞いた。この学校はよくも悪くも実力主義で、補習などという救済措置を各教師が実施するのは聞いたことがなかった。
「いないよ。完全特例措置。俺だって忙しいんだから、感謝してほしいなぁ」
(先生……熱心だな)
人気者で面白いけれど、どこか掴みどころのない先生というイメージがあったから、彼の熱意に驚いた。
不意に、自分にとってのミショーの存在を思い出した。
(リュカにも……親身になって味方してくれる大人が必要だ)
ライナーはシュリよりもずっと上手に、リュカを支えてくれるのかもしれない。するとリュカがライナーを睨むように見上げて言った。
「じゃあいいです。留年で。どのみち今年中に卒業レベルに達するのは無理だ」
「そんなこと言ってたら君は来年も再来年も卒業できないよ? 俺はしばらく、この学院で聖魔法教師を務めるつもりだから」
リュカの尻尾が不機嫌に揺れた。
「でもどちらにしろ、ハーフタームは無理です。僕、リューペンに帰らないといけないんで」
「補習中も追試は随時受け付けるから、合格レベルに達することができたら、休みを取ってもいいよ。一日でも多く、休みが欲しければ、頑張って勉強に励んで合格するしかないね」
「頑張れよー」と言いながら、ライナーは手をひらひらさせながら去って行ってしまった。
その背中を見ながら、リュカが一際大きく尻尾をブンッと音を立てて振った。彼の真っ白な耳は後ろに反らされてひどく怒っていることがわかる。
「シュリ、ごめん。僕すぐに追試終わらせてリューペンに行くけど……もしかしたら無理かも」
リュカはいつになく弱気な声で、シュリの顔を見てひどく申し訳なさそうに言った。
「……ああ。大丈夫だ。俺、行ってくる」
レレラの優しい手、緑豊かな風景。狭くて猫にとって快適な城。
あの場所が戦禍に巻き込まれるのはシュリとしても避けたい。ただ、リュカを一人残していくのは心配だった。
(あれ、でも……)
リュカがリューペンに帰らないということは、ジークフリートとギルベルトの三人きりになってしまう。
「りゅ、リュカ、でも……」
すると彼は、シュリの困惑をくみ取り、笑いながら言った。
「逆にジークとギル、どっちと結婚するのか決めるいい機会じゃないかな」
心底興味がないというように笑ったリュカにシュリは思わず黙り込んだ。もし逆の立場だったら、嫌だと思うからだ。リュカと彼らが過ごすことを。
(考えると、なんかモヤモヤする……)
これが、ミショーの言っていた恋の定義というものに当てはまるのかはわからないが、少なくともリュカほど何も気にせずにはいられない。
「……なあ、リュカは、本当にいいのか?」
シュリはこれまでずっと思っていて言えずにいたことを聞いた。
「……何が?」
「全く恋愛感情のない相手と結婚すること」
リュカはジークフリートにもギルベルトにも、一切の恋愛感情がないと言っていた。そんな相手と結婚して、不幸にはならないだろうか。
「全然平気。結婚ってそういうもんじゃないのかな。ジークたちの親も、僕たちの親も全然愛し合ってると思えなかったけど、僕たちは生まれて、王族の血筋を絶やさないっていう役割は果たされてるんだし」
(役割……か)
恋愛感情がない結婚というものに、ずっと後ろめたさを抱えていたが、今ならリュカの言うことも少しだけわかる。
シュリ自身も、結婚相手にかかわらず、もう恋というものができないかもしれないと思い始めていた。もしそうなら、完全に〝役割〟としての政略結婚という形になる。
それは、彼らを不幸にしてしまうことにならないだろうか。
第二章 傷痕に触れる
外は陽光、抜けるような空の青さ。
それにもかかわらず、リンデンベルク城からリューペン行きの王室馬車の中は気まずい空気が充満していて落ち着かない。
(……なんでギル、いないんだ?)
馬車の中はジークフリートと二人きりだ。ギルベルトとはキスを拒絶したあの日からずっと気まずいがジークフリートとは二年前からもっと気まずい。リンデンベルクを発ってからもう長いこと馬車に揺られているが、自分たちの間に会話は全くなかった。
色々と聞きたいこともあるが、自分たちの関係を思うとこちらから話しかけにくい。シュリは落ち着かなさに激しく揺れる尻尾の先をギュッと掴み、なんでもないフリをして本を読んでいた。
ジークフリートの方はというと気まずげな様子もなく車内でも書類に目を通して溜まっている仕事を片付けていたが、途中、見かねたように顔を上げて、青い目を細めて言った。
「シュリ。尻尾楽にしてていいよ」
「えっ!?」
今この暴れ回る尻尾を野放しにしたら彼の顔面を強打してしまうだろう。だが彼は、そんなシュリの心情を見透かしたように言った。
「俺としては大歓迎だから」
「……変態」
反射的に悪態をついてしまった。
ジークフリートはその反応に笑うと、書類をしまいながらシュリに声をかけた。
「……ごめん。落ち着かないよね。まさかリュカが補習になるなんて思わなかったから。というか、レイオット学院に補習なんてシステムあったんだね」
「ああ。新任の先生が特別措置でって」
「ライナー先生か。高名な聖魔法士だね。俺も城の結界のことで時々世話になってるけど……でもあんなに忙しい人がわざわざ一人の生徒の卒業のために補習をするなんて驚いたよ。そんなに教育熱心なイメージはないから」
「……やっぱり、そうなのか」
──世界を圧倒させた天才少年の聖魔法をいつかこの目で見たいとずっと思っていたんだからな。
ライナー自身がああ言っていたように、彼はリュカに対して並々ならぬ思い入れがありそうだ。
「……俺と二人きりだとシュリも落ち着かないだろうし別の馬車に乗ることもできたけど、シュリを一人にするのもそれはそれで心配だし」
(一人?)
護衛はたくさんついているのに、一人とはどういう意味だろうかとシュリは思った。
「いや、別に……落ち着かなくはないけど、ギルはどうしたんだ?」
「ああ。ギルは後ろの馬車で来てるよ。片付けなきゃいけない書類が溜まりすぎて、車内に思いきり広げてやりたいんだって」
「そ、そうか……」
(やっぱり……避けられてる)
わざわざ別の馬車で来るほど避けられているのかと思うと、自分が原因とはいえ耳と尻尾がしょんぼりと垂れさがる。再び沈黙しそうになり、シュリは慌てて聞きたかったことを聞くことにした。
「あのさ、リューペンで起きてる不審なことってなんなんだ? 俺もリュカも把握してなくて……」
「ああ。そのことはリューペンに着いてから折を見て話すよ」
ジークフリートはちらりと窓の外を見ながら言った。彼はかなり周りを警戒しているようだ。
迂闊に聞くべきではなかったと慌てて口を塞ぐと、ジークフリートが気にするなというように優しい笑みを浮かべて首を横に振った。
「ごめん、気になるよね。大丈夫。ちゃんとあとで話すよ」
「……ありがとう」
話題がなくなってしまい、今度こそ完全な沈黙に戻った。
シュリはジークフリートと普通に話すことができて安堵すると同時に、少し眠くなってきてしまった。久しぶりに故郷へ帰ることへの不安があり、昨日の夜はあまりよく眠れなかったのだ。
だが、眠るには少しだけ肌寒い。馬車内には防寒用の毛布が用意されていて、それを被ってはいたのだが、曇天ということもあり想定以上に馬車内は冷えていた。
(一枚じゃ足りない……もう一枚……持ってくればよかった)
そう思いながらも目を閉じると、不意に体が温かくなった。薄く目を開くと、毛布がもう一枚重ねられている。
(ジークの匂いだ……)
懐かしさにシュリはしばらくウトウトとしながら尻尾の先をゆっくり揺らしていたが、やがてハッとした。
「これ、ジークの毛布だろ。なんで俺にかけてるんだよ」
「毛布が足りないのはこっちの不手際のせいだし。……それに俺は別に寒くないから」
「……いや、寒いだろ」
たしかにシュリはネコ族の血が流れているということもあり人間以上に寒がりではあるが、それを加味しても馬車内はかなり冷え込んでいる。
シュリは尻尾を大きく揺らしながらジークフリートを睨むように見て言った。
「前にも言ったよな。ジークが自分を大事にしない限り、俺は絶対にお前を許さないって」
「……そうだったね」
少し苦笑いを浮かべてそう言ったジークフリートに、シュリは尻尾を大きく振って眉を吊り上げた。シュリは以前のように彼に対して激しい怒りをぶつけたり、警戒して怒ることもなくなってきている。
ゾネルデの日、瀕死の彼が血を吐きながら絞り出すように口にした『愛している』を聞いて、胸が潰れるほど苦しくなった。
彼と破局してからずっと、ジークフリートは自分という出来の悪い婚約者に困っていたのだろうと思っていた。優しくしてくれていたのも、婚約者として仕方なくそうしてくれていたのだと。
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自分のことでいっぱいいっぱいで、長い間、彼が抱えていた苦しみにも葛藤にも何も気づかずにいた自分自身に、シュリは腹を立てていた。
ジークフリートはあの時瀕死だったから、シュリに『愛している』と言ったことを覚えていないようだ。
だからその本心は確かめようがないが、シュリは彼に、もっと自分自身を大事にしてほしいと思っていた。
「本当は寒いんだろ」
「……好きな子の前でぐらい、かっこつけさせてほしかったな」
白い息を吐いて、ジークフリートが困ったように笑った。
シュリは呆れたように溜め息をついて、毛布を突き返した。
「これはジークが使うものだ」
突き返して再び寝ようと目を閉じて、寒さをやりすごそうとしていると、またしてもそっと毛布を掛けられてしまう。それを押し返して、というやり取りを何度か続けていたが、シュリは根負けしたように立ち上がると、彼の隣に移動してボスンと腰かけた。そして二枚の毛布のうち半分を、ジークの体に被せた。
「……半分ずつだ。これで実質、二人とも二枚毛布を着てることになるだろ」
窓の外を向いたままそう言うと、ジークフリートは少し驚いたような声を上げた。
「シュリが隣に座ってくれるとは思わなかった」
「仕方がないからだ。それ以上一センチも近寄るなよ」
隣同士とはいえ、可能な限り距離を取り、耳を後ろに下げて威嚇すると、ジークフリートは「手厳しいね」と笑いながらも、半分の毛布の端を嬉しそうに握った。
「ありがとう。シュリは優しいね」
その声に、少しくすぐったいような気持ちになり、シュリは窓の外を眺めたふりを続けた。毛布が二枚になったことで、ようやく寒さが和らぐと、いつの間にか国境付近に差し掛かっていた。少しずつ変わっていく車窓を眺めながら、シュリはついに眠気に負けた。
(リューペン……久しぶりだな……今の季節、あったかいんだろうなぁ)
瞼を閉じると、草花の生い茂る故郷の青々とした丘陵が目に浮かんだ。
■
子供の頃の夢を見た。
温かい陽だまりのような部屋で、和気藹々と楽しく家族団らんが行われている中、自分がその中に入ろうとすると途端に母から笑顔が消え、父は険しい顔になる。兄と姉はそんな両親の様子に困ったように顔を見合わせる。
リュカだけがきょとんとして、「シュリもおいでよ」と屈託なく笑っていた。急激に部屋の温度が冷えていくような感覚に胸がギュッと痛くなったが、どうにか気づかないふりをした。
無理やり家族の仲間に入れてもらおうと、他の兄弟たちのように母の膝の上に乗ろうとするが、なぜかいつもその度に〝シュリはダメ〟と言われて床に下ろされてしまった。
幼心ながらにその拒絶には、シュリはひどく傷ついた。
『……俺、お父様とお母様に嫌われてるのかな』
ずっと気づかないふりをしていたけれど、ある日レレラに相談したことがあった。
怖くてタブーにしていた言葉を一度口にしてしまうと、それは一気に現実味を帯びる。喉元まで熱い物がこみ上げてきて、シュリは目にいっぱいの涙を浮かべた。
『そんなことある訳ないじゃないですか』
『でも、今日も俺だけ膝の上にのせてもらえなかったんだ。……兄弟の中で、俺だけ。リュカはのせてもらえるのに。お父様も昨日公務から戻ってきてお土産をみんなに買ってきてくれたけど、俺の分だけなかった』
するとレレラは言葉を失い、ひどく悲しそうに目を細めた。
『……やっぱり、お父様もお母様もみんな、みんな俺のことが嫌いなんだ。なんで、だろ……なんで、俺だけ……っ、仲間、外れ……っ、なんだろ……っ』
ひっくひっくとしゃくりあげながら、涙が止まらない目元を両手で拭っていると、レレラがそっとシュリを自分の胸の中に抱き寄せた。
『こんなに良い子で可愛らしいシュリ様を、誰が嫌うというのですか。それに、子供を嫌う母親などいませんよ。親にしてみたらどんな子供でも可愛いんです』
『黒い毛をしていても?』
『当然です』
使用人のレレラは主人たちの前に顔を出すことはできない。シュリと両親が話しているところを実際に見たことはない。だから彼女は信じていたのだと思う。子供を嫌う親が、この世に存在するはずがないと。幼かったシュリはレレラの優しい言葉を信じたかった。
それでも涙が止まらないでいるシュリに、レレラは名案を思い付いたとばかりに尻尾を立てて言った。
『そうだ! お二人に、美味しいラポリャの贈り物をしてみませんか? きっとお喜びになると思いますよ』
『や、やってみる!』
そうして、レレラに手伝ってもらい、シュリはラポリャを作る練習を始めた。
最初はまったく上手くいかず、生地がボロボロになってしまったり、魚の形にならなかったり、焼きムラが酷かったりしたが、何度も何度も特訓を重ねて上手なパイが作れるようになった。
自分が作った証である肉球印を入れて、綺麗なリボンをかけて、ありったけの大好きの気持ちを込めたカードを書いて添え、両親にプレゼントをした。
きっと喜んでくれるだろうと思った。これで父も母も、自分を少しは好きになってくれるのではないか。そんな風に期待していたが結果は散々だった。
国の王子ともあろう子供が、使用人たちに交ざって厨房に出入りするなど言語道断ということで、罰としてその晩の夕食は抜きだった。
だがそれでも、きっとラポリャは食べてもらえたと信じていた。心を籠めて作った美味しいパイの味に、両親も少しだけ、シュリを好きになってくれるだろうと願っていた。
翌日、シュリはドキドキしながら母の膝の上に乗ろうとしたが、やはり降ろされてしまった。
『なんで……? なんで俺だけダメなの?』
理由がわからず涙声でそう訴えながら母を見上げると、彼女は目を逸らした。
『怠け者にお膝には乗る資格はないの』
その言葉に、シュリはひどく驚いた。
(怠け者……? 俺が?)
『怠けてないよ。昨日だってリュカよりたくさん勉強した』
『長い間机に向かっていればいいっていう訳じゃないでしょう。リュカの半分も魔法を覚えられてないのに、使用人に交じって料理なんてして遊んで』
その分朝、早起きした。早起きして勉強して、夜料理の練習をしていたのだ。勉強時間は削っていない。そう訴えても、言い訳としか受け取ってもらえなかった。
『……じゃあ頑張れば、リュカよりたくさん魔法を覚えたらお膝に乗ってもいいの?』
『そうね。リュカと同じぐらい頑張って良い子になったらね』
ラポリャを渡した効果がなかったことに落胆し、レレラに話しに行こうと階下へ向かうと、キッチンメイドたちの話し声がした。
『それじゃあ、陛下も王妃様もシュリ様がお作りになったラポリャを召し上がらなかったって言うの?』
『一口も口にされなかったって……どうして』
『かわいそうに……。シュリ様になんと説明すればいいかしら……』
シュリはふらりとその場を離れると、部屋に駆け込んで、ベッドの中に潜り込み散々泣いた。
大好きだという気持ちを籠めて作ったラポリャを一口も食べてもらえなかったことも、怠け者だと言われたことも悲しくて悔しくてたまらなかった。
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不憫王子に転生したら、獣人王太子の番になりました
織緒こん
BL
日本の大学生だった前世の記憶を持つクラフトクリフは異世界の王子に転生したものの、母親の身分が低く、同母の姉と共に継母である王妃に虐げられていた。そんなある日、父王が獣人族の国へ戦争を仕掛け、あっという間に負けてしまう。戦勝国の代表として乗り込んできたのは、なんと獅子獣人の王太子のリカルデロ! 彼は臣下にクラフトクリフを戦利品として側妃にしたらどうかとすすめられるが、王子があまりに痩せて見すぼらしいせいか、きっぱり「いらない」と断る。それでもクラフトクリフの処遇を決めかねた臣下たちは、彼をリカルデロの後宮に入れた。そこで、しばらく世話をされたクラフトクリフはやがて健康を取り戻し、再び、リカルデロと会う。すると、何故か、リカルデロは突然、クラフトクリフを溺愛し始めた。リカルデロの態度に心当たりのないクラフトクリフは情熱的な彼に戸惑うばかりで――!?
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