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2巻

2-2

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    ■


 週明けの平日。午後の授業は全て自主学習の時間だった。
 シュリは基本的に自主学習の時間を、全て闇魔法の特訓に充てていた。
 ミショーに学ぶことはまだまだたくさんある。
 卒業まであと半年。時間がなかった。
 だが、精神の安定が何より大事な闇魔法において、焦りは禁物だ。ミショーもシュリの性格はよくわかっており、普段から適切に休息の時間を取っていた。
 最初のうちは、もっと練習時間を増やした方がいいのではないかと思っていたが、最近はこれを含めて闇魔法の授業なのだと思うようになっていた。
 他愛ないおしゃべりの中で、ミショーはシュリが今抱えている悩みや不安がないかよく観察してくれている気がする。
 今日もまた、十五時になると休息を兼ねたティータイムが始まった。なぜか最近、その時間帯になるとコンラートが遊びに来るようになった。
 どうやら彼はミショーと茶飲み友達になったらしく、ティータイムだけでなくシュリの練習中も研究室に入りびたり、自主学習をしていることもある。
 おしゃべりなミショーにコンラートが加わると、研究室はすごく賑やかになる。エルンストの研究の邪魔になるのではないかとヒヤヒヤするが、今日彼は研究のため外出しているらしい。
 コンラートと共にハーブティーを用意してティーテーブルを囲むと、ミショーは嬉しそうにカップケーキのような焼き菓子を皿にのせてシュリたちの前に差し出した。

「エルンストがね、この間出張先から美味しいお菓子を買ってきてくれたのよ。珍しいこともあるものよねー」
「エルンスト先生が!?」

 信じられない想いで皿の上のカップケーキを見つめた。木の実とクリームがかかったそれはとても可愛らしく、エルンストの物静かなイメージからかけ離れていた。

「ミショー先生の教育のタマモノっすね」
「でしょー? 教育は大事よ」
(こうやって先生やコンラートたちとお茶ができるのも、あと半年か……)

 卒業したら、コンラートはアルシュタットの領地に戻ってしまうし、シュリもリンデンベルク城で暮らすようになったらそう滅多に外出もできなくなってしまう。寂しく思っていると不意にミショーが言った。

「ねえシュリ。結局ジークとギル、どっちが好きなの?」

 思わず紅茶を噴き出しそうになってせていると、コンラートが慌てた様子でシュリの背中をさすった。

「先生、俺でも聞きにくいことをおもいっきり聞きますねー」
「聞くに決まってるでしょー? 今一番気になってることよ。昨日はギルとデートしたのよね? 進展はあったのかしら」

 シュリはしばらくゴホゴホと咳き込んでいたが、ハンカチで汚れた口元を拭って顔を上げた。

「い、いえ。デートというか、勉強を見てもらっただけで……」
「そうなの。まだ恋には発展しなそう?」

 口をつぐんでしまうと、ミショーは慌てた様子で首を横に振った。

「ごめんなさい。追い詰める気はないのよ」
「……恋って……どういう状態なのか、よくわからなくなってしまって」

 思わずそう吐露すると、ミショーは少し驚いた顔をしたあとに笑った。

「恋かどうか判定するのってとても難しいわ。特に〝婚約者〟なんて形から入っちゃったら、頑張って好きにならなきゃって、肩肘張っちゃうものね。だからこれは、完全にアタシ独自の定義なんだけど……」

 ミショーは真っ赤なネイルの指先を伸ばしてティーカップを手にし、一口飲んでから話し始めた。

「〝誰か〟と幸せになってほしいじゃなくて、〝自分が〟相手を幸せにしたいと思ったら、それは恋じゃないかしら」
「……俺、それは違うと思いますね。恋してる相手には、どんな形であれ幸せになってほしいと思いますから」

 コンラートが間髪入れずにそう口を挟んだので、シュリは驚いた。

(そういえば、コンラートとそういう話したことないかも……)

 学校内ではチャラ男として有名なコンラート。
 出会ったばかりの頃、彼はろくに寮内に戻ってもこず、夜遊びばかりしていた。女遊びが激しいなどという噂が絶えない彼だが、その割に、この三年、コンラートから恋の相談を受けたことはない。
 コンラートの言葉に、ミショーはハッとした表情を浮かべる。

「……そうね。たしかに、アタシの仮説は間違ってる気がするわ。じゃあ、これならどう? 相手が自分以外の誰かと幸せになっている姿を見て、胸が痛くなったらそれは恋」
「あ~~~それっスね! 間違いない! さすが先生! それで論文書きましょ!」

 コンラートが胸を両手で押さえながら突っ伏して悶絶した。

(相手が自分以外の誰かと幸せになっている姿を見て……胸が痛くなったら……)

 たしかに以前、ジークフリートがリュカと二人で会っているのを見る度に、シュリは苦しいぐらいに胸が痛くなっていた。
 彼が自分ではなくリュカを選ぶと言った時もそうだ。心が粉々になりそうだった。

(じゃあ……もし、ギルとリュカが結ばれたら……)

 ふと昨日、ギルベルトがリュカの頬にキスしていたのを思い出してモヤモヤしたことを思い出した。

(いや、でも痛いっていうよりモヤモヤって感じだし……違うのか?)

 わからない、とグルグル思い悩んでいると、コンラートがカップケーキをかじりながらミショーに向かって、ピッと人差し指を立てた。

「つーか、そういう先生はどうなんスか? エルンスト先生と」
「エルンストと? アタシが?」

 ミショーは驚いた様子でキョトンと首を傾げた。

「気づいてないとは言わせないっすよ。エルンスト先生の熱~い視線に」

 途端、ミショーは「あっはっは」と大声で笑い出した。

「何言ってんのよ。……アタシはもう、顔も体も半分以上失くして、幽霊みたいなものよ。幽霊は恋なんてしないの」

 その言葉を聞いた瞬間、シュリは思わず立ち上がり、尻尾を大きく振りながら言った。

「違う! 先生は幽霊なんかじゃありません!」
「ごめんなさい。シュリ。冗談だから、そんなに怒らないで」

 そうなだめられて自分の全身の毛が逆立っていることに気づいた。慌てて席についたが、暴発したままの毛はなかなか収まらず、尻尾は大きく膨らんだままだ。
 冗談だと言っているが、きっとミショーは本気でそう思っているのだろう。
 彼はいつも穏やかで正しく導いてくれるけれど、その穏やかさは、どこか世捨て人のように達観している。顔や体を取り戻したら、ミショーはエルンストと向き合えるのだろうか。
 きっとエルンストも同じ気持ちで、だからこそミショーの体を元に戻そうと、研究に明け暮れているのだと思う。

(俺も勉強しよう。もっともっと……)

 シュリはいつか、なんとしても恩師の体を取り戻したいと思った。


    ■


 次の日の夕方、授業を終えたシュリは、ギルベルトとの待ち合わせ場所である広場のグラウプナー像の前に向かった。平日に会う時は、いつもお決まりの酒場に行くことになっていた。
 ──いいか? 来る時は必ず馬車を使って時間ギリギリに来いよ。夜の広場は治安があんまりよくないから、長い間突っ立ってるなよ。遅刻していいから――
 そう言われていたものの、忙しい彼の時間を一分でも無駄にする訳にはいかないと、シュリは五分だけ早めに着くようにした。
 人混みを縫うようにグラウプナーの像へと向かうと、ギルベルトはもうすでに来ていて、彼はシュリの姿を見つけると呆れたように溜め息をついた。

「早く来るな、って言っただろうが」
「でも、もう三分前だぞ」
「三分でもダメだ。こんなとこで待つな」

 酔っ払いたちで賑わう広場を見渡しながらギルベルトは言う。
 心配性だと思う一方で、彼が大切に気にかけてくれていることが嬉しかった。
 ジークフリートと破局して、婚約者がギルベルトに代わった時は、もっとひどい扱いを受けると思っていた。リュカが彼の婚約者ではなくなってしまったことを一生恨まれ、責め続けられるのだろうと。
 彼は自分をひどく嫌っていると思っていたから、告白を受けた時は全く信じられなかった。
 だが今は、最近は彼がとてもシャイで天邪鬼あまのじゃくなだけで、本当は自分を心の底から大事に思ってくれているのだと痛い程感じる。
 日頃から二人でよく行く酒場に入ると、食べ物とお茶を頼んだ。ギルベルトは以前派手に酔い潰れてからというもの、シュリの前では絶対に酒を口にしないようにしている。

(あの時はすごかったな……)

 思い出すとシュリは顔が真っ赤になった。
 彼は酔っても顔にはあまり出ないらしく、相当量の酒を呑んでも素面しらふと変わらない。

(なんだ、コンラートがギルは酔うと面白いって言ってたけど、全然変わらないじゃないか)

 と、密かに少し残念に思っていたが、そんな真剣な顔をした彼の口から飛び出した言葉に、シュリは思いきり噴き出しそうになった。

『お前の肉球舐めたい。嫌がっても絶対やめねえ』
『………………は!?』

 あまりに衝撃的な言葉に、シュリは全身の毛を逆立てて硬直してしまった。

『ちょっ、センパイその発言は完全アウト!! あとで後悔しますから! 店員さん、水お願いしまーす!』

 あわてふためくコンラートを傍目に、ギルベルトはシュリの両手をガシッと掴み、肉球を揉みしだきながら愚痴り始めたのだ。

『つーかお前そろそろいい加減、俺の膝の上にも乗れよマジで。なんのために毎日鍛えてると思ってんだ? 足が痺れても一生どかさねえから』
『ほらセンパイ、水飲んで水!』
『うるせえ。俺は疲れてるんだ。水なんていらねえ。酒とシュリだ。シュリを吸わせろ』
『もうダメだこの人……』

 思い出しながら密かに顔を赤らめていると、ギルベルトは「話したいことって?」とすぐに切り出した。今日も一時間ぐらいしか時間はない。シュリもできるだけ手短に話そうと思い、口を開いた。

「その……リュカのことで……」

 シュリはリュカが最近、部屋に籠りっぱなしで授業に出ないこと。どうやって授業に連れ出すべきか迷っていることをギルベルトに話した。
 上手く説明できなかったが、彼は急かすこともなく最後まで話を聞いてくれた。
 全てを聞き終わったあとに、彼は少し複雑な表情を浮かべた。

「……お前は何も言わない方がいいと思うぞ」
「え……」
「あいつは本当に授業に出ない方が勉強効率が良いって思ってるし、遊ぶことよりも、学力を取り戻したいって思ってんだろ」
「そうだけど……」
「それに、お前からしたら寂しそうに見えるのかもしれないけど、あいつは学生の思い出作りとかマジで気にするタイプじゃねーよ。……ただ、お前に言われたことはすごく気にする」
「え!」
「教師が見舞いに来るって言ってるなら、その教師に任せた方がいい。あいつは教師の言うことなんて聞くタマじゃねーけど、お前に心配されたり気を遣われたりされることが一番辛いと思うだろうよ」

 ──シュリ。お願いだから僕を可哀そうだとか、申し訳ないとか、そんなことを思わないでね。僕は僕のやりたいようにやったんだから。
 ゾネルデの事件後、目を覚ましたシュリに、リュカはそう言った。
 ギルベルトの言う通りだ。リュカが今、寂しいのではないかと思っているのは、シュリ自身が昔、独りぼっちで一日中勉強するのが寂しくて苦しかったからだ。
 人は自分の主観や経験を通してしか他者の気持ちを想像することはできない。自分が苦しいと思ったことはリュカも苦しいのではないかと思ってしまう。
 だがその考え方は独りよがりなのかもしれない。
 机の上でキュッと手を握り締めると、ギルベルトはそっぽを向きながら言った。

「ただ、あいつがお前のことが大好きなのは確かだから、声かけてやるのはまあ……普通に喜ぶとは思うけどな。素直に授業に出るかは別として」
「……そ、そうだな! 声だけはかけてみる」

 声をかけることすら独りよがりな行動なのではないかと思っていたから、その言葉に心が軽くなった。

「いつもありがとう、ギル」

 微笑みながら礼を言うとギルベルトは相変わらず顔を背けたまま「別に」と呟いた。食事を済ませて酒場を出ると、夕方四時だというのに辺りはすっかり暗くなっていた。
 冬のリンデンベルクは日照時間がとても短い。濃紺に赤銅が交じる空から粉雪が舞っていて、厚着をしていても物凄く寒かった。
 フードのあるコートを着てきたから雪避けにできると思ったが、ギルベルトは傘を持ってきてくれていたようだ。

「……ギル、いつも用意がいいな」
「普段だったら絶対持ち歩かねーけど。今日はお前いるし……」

 照れくさそうに黒い大きな傘を広げると、彼はシュリの肩を抱き寄せて中に一緒に入れてくれた。

「寒いな」

 ブルッと身体を震わせると尻尾についていた雪が飛び散った。
 ギルベルトはさほど寒そうにはしていない。幼い頃からこの国で過ごしているから、寒さには慣れているのだろう。
 身体をふるふると震わせていると、彼は無言でシュリの手を掴んで自分のポケットの中へと入れた。

「……お前の肉球、氷みたいだな」
「こ、氷ほど硬くないだろ!」
「はあ? ちげーよ。冷えてるって意味だ。大体、硬い肉球の何が悪いんだよ」
「……柔らかい方が、触り心地が良いだろ。知ってるんだぞ、みんなプニッとした肉球が好きだって」

 子供の頃、屋敷ではいつもリュカの肉球が大人気で、シュリの肉球は黒々として石みたいに硬くて触り心地が悪いと誰も触りたがらなかった。
 それを未だにコンプレックスに思っている。
 一時期、肉球が柔らかくなるというクリームを塗りたくっていたが、劇的な効果は見られなかった。
 尻尾と耳を下げていると、その落ち込み様にギルベルトが笑いを噛み殺しながら言った。

「俺は弾力がある方が好きだから、人それぞれだな」

 そんなフォローはいらないと不貞腐ふてくされつつも、頬が熱を持った。
 お世辞だとしても弾力がある方が好きだと言ってもらえたことが、とても嬉しい。
 ギルベルトは自分の白い手袋を外してから、もう一度シュリの手を握り込んだ。

「……ほら、俺の手のひらも硬いだろ。お前の肉球よりずっと硬い」
「!」

 ギルベルトは魔法も得意だが、剣の腕も並外れている。忙しい今でも毎日鍛練は欠かしていないらしく、重い剣を振るう手の皮は厚く、ゴツゴツとしていた。
 ジークフリートも剣は得意らしいが、どちらかというと魔法に力を入れていて、こんなに硬くはなかった。

「すごいな。ギル……」

 思わず彼の手を握る自分の手に力が籠る。

「……なんだよ。硬い手は嫌か?」

 ギルベルトが拗ねたようにぶっきらぼうに問うものだから、シュリはすぐに首を横に振った。

「嫌じゃないぞ」

 この大きな手で撫でられるのが心地よく、最近は条件反射のように喉がゴロゴロと鳴ってしまう。ぎこちない撫で方が不器用なギルベルトらしくて、とても愛おしくなる。

「俺……ギルの手大好き」

 少し恥ずかしく思いながらも顔を上げて笑うと、ギルベルトは不意にピタリと立ち止まった。

「……ギル?」

 不思議に思いながら彼の顔を覗き込む。
 傘の外は、いつの間にか本降りとなった雪が降り注いでいる。真っ白な息を吐き、どうしたんだともう一度問いかけようとしたその時だった。
 不意にギルベルトの手から傘が落ち、両手で肩を強く掴まれた。

「シュリ……」

 ささやくように名前を呼ばれ、それとほぼ同時に唇に熱い感触が触れた。

(……っ!)

 驚いて、目を見開く。
 ずっと友達の延長線上のようなことしかしてこなかったから、突然のキスに混乱し、全身の毛がブワワッと逆立つ。
 ギルとキスなんて想像もできない。そう思っていたのに。だが、そのキスは決して嫌ではなく、ドキドキと胸が高鳴っていく。抱きしめる腕の力は強く、身じろぎ一つできない。
 目をつぶり、その深いキスに応えようとした、その時だった。
 ──シュリを、愛してるよ。
 ──できない。王位が決まった今、俺はシュリを選べない。
 不意に全く同じ感触のキスを思い出した。同じ声で名前を呼ばれ、同じ強さで抱きしめられ、同じ声で突き放された。
 ──嘘つき! 俺のこと愛してるって言ったじゃないか! 何度も……っ、何度も……! 俺を選ぶ気がはなからなかったなら、なんであんなこと言ったんだ!
 耳鳴りのように頭に響く自分の悲鳴。それに交ざって、うわああんという、幼い頃の自分の泣き声の幻聴がする。
 ──お父様もお母様もみんな、俺のことが嫌いなんだ。
 窒息するような息苦しさと嘔気おうきにも似た強烈な痛みが鳩尾みぞおちから湧き上がって、シュリは目を見開いた。そしてとっさに、ギルベルトの体を思いきり突き飛ばしていた。

「っ!」
「はぁ……はぁ……」

 肩が微かに震えて、息が苦しくなって呼吸が乱れる。見開いた目には涙がこみ上げてきた。

「シュリ……」

 涙でぼやけた視界越しに、ギルベルトの傷ついたような表情が視界に入り、ハッとした。

「ご、ごめん。違うんだ。ギル……」

 ギルベルトはジークフリートではないのに。二人は全然似ていないのに。あの時の弱い自分とはもう決別したはずなのに。
 ジークフリートに対しても、もう怒りや悲しみの感情はない。彼はあの頃、本当に自分を愛してくれていた。決して、自分に与えてくれていた愛情は偽りではなかった。
 自分の中で気持ちの整理はついたはずだ。
 自分自身に言い聞かそうとするが、体の震えが止まらなかった。
 ギルベルトはしばらくの間呆然とシュリを見ていたが、やがてシュリの震える肩をさすると、「悪かった」と呟いた。

「お前が俺を好きになってくれるまで、そういうことはしないって言ったのに……約束を破った」
「ち、ちが……」

 嫌だったから拒絶した訳じゃない。少しも嫌じゃない。そう訴えたいのに声が出ず、自分の尻尾を握りしめてただただ震えていた。

(なんで……? なんで、俺……)
「ごめん……ギル、ごめん……」
「お前が謝ることは一つもねーよ。なんなら、俺の顔ぶん殴ってもいいんだ」

 ギルベルトは苦笑すると、降り積もった雪の中から傘を拾い上げた。それからは互いに無言のまま歩いて、シュリは寮に戻った。
 学校の前まで送ってもらい言葉少なに別れると、シュリは一人、寮へ続く雪深い小道を歩いた。

(雪の上を歩く時は……歩幅を狭くして……)

 昔ギルベルトから教わったことを思い出して慎重に歩いていたが、途中でふと足を止めて空を見上げた。暗い闇から降り注ぐ光のような白い雪を眺めながら、胸に手を当てる。
 今、好きだと言ってくれる人がいて、自分のために全てを捨ててくれるような弟がいて、闇魔法という武器を持って、友達にも恵まれて幸せに過ごせていて。
 それなのに、過去に受けた心の痛みに未だにおびえる臆病者でいるなんて、なんて情けないのだろう。
 ……もう立ち直れた。自分は強くなった。
 そう思っていたのに、全然ダメだ。なぜこんなにも怖いのかわからない。
 ギルベルトは間違いなく自分を愛してくれているはずだ。

(俺もしかして……もう一生、〝恋〟なんてできないんじゃないか?)

 心から愛し合って、想いが通じ合っても、ある日突然それが全てひっくり返されてしまうかもしれない。その痛みを思い出すと、もう二度と、耐えられる気がしなかった。
 漠然とした恐怖と不安を抱えながら、シュリは窓明かりが漏れるビオレット寮へと帰った。


    ■


 その日を境に、それまで一日置きに届いていたギルベルトからの手紙が、ぱったりと来なくなってしまった。
 当たり前だ。あんなひどい拒絶をしてしまって、もしシュリが彼の立場だったらきっと深く傷ついただろう。
 すぐに謝罪の手紙を書いたがそれに対する返事もなく、シュリは毎日そわそわしながら窓辺に立ち、一日中ピグルテの羽音に耳を澄ませていたが、一向に返事は来なかった。
 その日も、ポストが気になって談話室に行く気にもなれず自室で自主学習をしていると、遠くから微かにピグルテの羽音が聞こえてきた。

「あっ」

 シュリは慌てて立ち上がり、窓辺へと駆け寄った。半分猫の血が流れているシュリは動いているものを目で追うのが得意だ。
 遠くの方に見えるピグルテが持っているのはロイヤルメールで、リンデンベルク城から来た手紙だとわかった。

(ギル……!)

 少し安堵しながらも緊張気味に手紙を受け取り、封筒をろくに見もせずに中身を開けると、そこに並んだ筆跡はギルベルトのものではなかった。整っているけれど、少しだけ癖のある筆跡。

「これは……ジーク?」

 差出人名はジークフリートになっていて、シュリは思わず目をゴシゴシと擦った。
 二年前に破局してからというもの、四人で顔を合わせることはあったが二人で話したことは数えるほどしかない。手紙のやり取りも一度もしていなかった。

(な、なんだろう……)

 その名前が書かれた封筒を見ると、まだ胸の奥がジクジクと痛む。緊張しながら手紙を読んでみると、宛名は自分宛という訳ではなく、自分とリュカ宛だということに気づいた。きっと公的な用事の手紙だろうと思うと、少し緊張が和らぐ。大きく深呼吸しながらシュリは時計を見た。もうすぐ昼休みが始まる。
 午後からは聖魔法の授業もあり、どのみち声をかけに行こうと思っていたところだったので、リュカの部屋へと向かうことにした。リュカの部屋はシュリの部屋の斜め向かいだ。

「リュカ。俺だけど今入っていいか?」
「シュリ? もちろんだよ。入ってー」

 リュカの部屋はシュリの部屋と間取りも広さも変わらないはずだが、机の上にうず高く積まれた本がある以外は、物が少ないとてもシンプルな部屋で、そのせいか随分広く見える。
 出かけた先でつい買ってしまった置物だとか、騙されて買った毛並みが良くなるオイルだとか、肉球が柔らかくなるクリームだとかそういう物がたくさん並んでいる自分の部屋を思い出し、もう少し片付けようと密かに決意した。

「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない。……ジークから、俺たち宛に手紙が来てて」
「ジークから? 珍しいね。何の用?」
「まだ中は見てないんだ。一緒に読もうと思って」

 手紙を広げると、リュカはソファを指差して座るように言ってくれた。並んで腰かけて、一緒に手紙を読む。
 ジークフリートもギルベルトも二人とも字は上手いが、筆跡はかなり異なる。ジークフリートの字は、少し独特な癖があった。
 整っているけれど癖のあるその字が、子供の頃から大好きだったことを思い出して懐かしくなる。
 だが、彼らしい優しい語り口で綴られたその手紙の内容は、穏便なものではなかった。

「……え」

 昨今のリンデンベルク王国と隣国ルベレーの関係悪化に伴い、同盟国であるシュリたちの故郷リューペンにも影響が出ている可能性があるということ。
 また、リューペンの隣国であるラナイフ公国は、密かにルベレーと手を結んでいるという噂もあり、ラナイフ公国との国境にある街では、すでにルベレー絡みと思われる不可解なことが起きているという。

「……ラナイフとの国境で、何か起きてたなんて知ってたか?」
「初めて知った。新聞にも載ってなかったと思うよ。多分、ジークとギルが極秘に掴んだ情報だろうね」

 物騒な話題に、リュカも自分も自然と尻尾が揺れてしまう。
 手紙には、その調査も踏まえて一度リューペンと防衛強化などについて話し合う必要があり、春におこなわれる「ノノマンテ」の祭りを観に行くという名目でギルベルトと共にリューペンを訪問するということが書かれていた。
 そしてノノマンテには、シュリとリュカも参加してほしいということも。

「たしかに王子二人で急にリューペンを訪問したんじゃいかにも対ルベレーって感じで角が立つけど、ノノマンテの時期なら、婚約者の故郷の祭りを観に行くってことにすれば不自然じゃないからね」

 リュカが横で感心したように頷いている。

(ということは……帰るのか。リューペンに)

 無意識に肉球が汗ばんだ。シュリはもう長いことリューペンに帰っていなかった。
 リュカがシュリのせいで能力を失ったことについて、故郷に帰って説明しろという手紙が何度も来ていたけれど、返事すら出していない。
 きちんと説明しなければと思っていたけれど、怖くて帰れないのだ。
 ──リュカ様お一人だけで良かったのに……奥様がおいたわしい。
 ──あの黒い不吉な色は、生まれながらに邪悪な心を持ってるんじゃないか。
 ──どうしてリュカと同じように頑張れないの?
 その声を思い出すだけで耳を塞ぎたくなり、視線を思い出すだけでギュウッと締めつけられるように胃が痛くなってしまう。
 きっとみんな怒っている。リュカがシュリのせいで能力を失ってしまったことを。
 特に母にとってリュカは希望だった。シュリの不吉な容姿のせいで、母は周りからいつも責められていたが、一方でリュカのおかげで賞賛を浴びていた。
 彼女にとって救いでもあり宝物でもあったリュカの能力までも奪った自分を、母は絶対に許さないだろう。だが、自分たちが不在では彼らの訪問は不自然になってしまう。
 震える手を握りしめていると、リュカがシュリの尻尾に自分の尻尾を絡めた。

「……僕一人で帰るよ。さすがに、婚約者がリューペンに来るのに僕たちどっちも帰らないのは不自然になっちゃうけど、どっちかいれば十分でしょ」
「えっ!?」
「無能になっちゃったことについては僕の口から説明しとく。ついでに縁切り宣言してこよっかな」

 なんでもないことのように明るく、リュカは言った。今、一番大変な身の上にあるのはリュカなのに。
 屈託なく笑ったリュカの顔を見つめながら、シュリはしばらく尻尾を震わせていたが、やがて首を横に振って言った。

「リュカ……大丈夫。俺も帰る。久しぶりに一緒に帰ろう」

 幼い頃から慈しんでくれたレレラたちだって、あの国で暮らしている。
 それに、シュリたちの故郷を守るためにジークフリートたちが動いてくれるのに、その国の王子が逃げ出す訳にはいかない。
 今度は一人で帰る訳ではない。今はジークフリートも、ギルベルトも、リュカもいる。
 彼らが一緒ならきっと大丈夫だろうと思った。


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