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1巻
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長い静かなキスの最中、シュリが立てるゴロゴロという音だけが響いている。
どうしよう。もう、このあと勉強を見てもらっても集中できる気がしない。
誰かとキスをするのは初めてだけれど、これは友情や、親愛のキスではないと思った。もしそうだったら、こんなにも破裂しそうなぐらい心臓がドキドキするはずがない。
ジークフリートは、自分をただの政治的な婚約者ではなく、恋愛の相手として見てくれているということだろうか。そう思うと、嬉しくて幸せで、喉を鳴らすのが抑えられなかった。
「……ごめん。今日はこのまま勉強の続きはできないかもしれない」
「お、俺も」
そう言って瞳を揺らすと、彼は嬉しそうに目を細めた。
「シュリ、ここおいで」
ジークフリートに膝の上に乗るように促され、シュリは恐る恐るその上に乗った。猫の本能が、好きな人の膝の上を求めている。グルル、ゴロロ、と喉を鳴らしながら思わずその逞しい胸にすりすりと頬を寄せると、ジークフリートは少しくすぐったそうに笑った。
膝の上で、頭や喉を撫で回されているうちに、シュリはもう長いこと無縁となっていた幸せな眠気を感じていた。彼の心音や、温かい手の感触に、心から安心しきっていた。
隈のくっきり浮かぶ目元に、じわりと涙が滲む。
「眠いの?」
ネコ族は大好きな人の膝の上に乗ると眠くなると、リュカが言っていた。だが、シュリは今まで、リュカのように父の膝にも母の膝にも乗せてもらったことがなく、それが本当のことなのか知らなかった。
それが今、ようやく理解できた。
(眠、い……勉強、しなきゃいけないのに……)
ジークフリートは何も言わずにシュリの頭を撫で、時折耳や髪に愛おしそうにキスを落としてくれる。
(なんだろ……すごい、幸せ……)
本当の猫のようにただ喉をゴロゴロと激しく鳴らして、ジークフリートの腕に顔や体を擦り寄せることしかできない。彼はそんなシュリの頭をひどく優しい手つきで長いこと撫でていた。
そして眠りに落ちるのとほぼ同時に耳元で、苦しげに呟いた。
「ごめん、シュリ」
■
目を覚ました時、コンラートは遠くで雷が鳴っているのかと思った。
こんな朝早くに? 今はもしかすると夕方なのだろうか。寝ぼけた頭でそんなことを考えながら身を起こすと、薄暗闇の向こうで、デスク周りに明かりがついているのが見えた。
勤勉なルームメイトのシュリが机にかじりつくようにして勉強をしているのは日常の光景だ。いつもと違うのは、その横顔に、何かに追われているような悲壮感がなく、随分機嫌が良さそうだということだ。
耳もピンと立っているし、尻尾も一定のリズムでゆっくりと揺れている。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……
(えっ、喉鳴らしてる? なんで? かわい……)
よほど良いことがあったのだろうかと、珍しい光景にへらっと顔が緩んでしまう。
コンラートは自他共に認める無類の猫好きだった。あえて好みを言うとしたらハチワレが好きだが、色や柄によるこだわりはなく、全ての猫を等しく可愛いと思っていた。世界中の猫に幸せでいてほしい。
伯爵家当主になったら、領地内の野良猫を全て引き取って城に住まわせたい。もちろん一人だけでは世話はできないから、行き場のない孤児を引き取って猫の世話係の職を与えたいと思っている。
無類の猫好きだからもちろん、半獣の猫も大好きだ。
レイオット学院に半獣の生徒は珍しく、しかも未来の王妃ということで、シュリとリュカは編入前から大騒ぎになっていた。
〝白猫の半獣のリュカ〟というのは海外ニュースに疎いコンラートでも知っていた。
十歳で上級聖魔法士の資格を取った天才児ということで話題になり、その容姿の神秘的な可憐さも相まって世界的な人気者だ。
双子だと知らなかったから、〝例の半獣の編入生〟と同室と言われた時はリュカと同室なのだろうと勝手に思い込み、そんな有名人と同室なんてひどく名誉なことだと思っていた。
部屋にいた彼はなぜか黒猫の半獣だった。だが、ハッとするほど綺麗な顔をしていたから、彼が〝リュカ〟だと信じて疑わなかった。
『まさか君みたいなアイドルと同室なんて!! 光栄だよ!』
コンラートが興奮しながら言うと、シュリは困ったように視線を泳がせて耳をぺたんと後ろに下げた。
『……ごめん。俺、リュカ〝じゃない方〟なんだ』
がっかりさせてごめん、と言ったその時の、シュリの何とも言えない悲しそうな顔が忘れられない。
あんな顔をさせてしまうなんて、猫好きとしてあるまじきことだ。
シュリはあまり自分からそれを言うことはないが、リュカに対してひどく引け目を感じているようだ。
痛々しいほどに、寝る間も惜しんで必死に勉強しているのも、双子の弟に追いつきたいからに違いない。
リュカはたくさんの友達やファンに囲まれ、授業時間以外はスポーツをしたりゲームをしたりと青春を謳歌しているが、シュリは彼の婚約者が見かねて街にでも連れ出さない限り、遊んでいるところを見たことがなかった。
人と比較され続ける人生の苦しさはいかほどなのだろう。
コンラート自身、幼少期はできの良い弟とよく比較されていた。弟が先に生まれてきたら家督を継がせられたのに、と何度も父に嘆かれ、なんとか見返してやろうと頑張った時もあった。
だが結局、努力は才能に勝てない。
頑張って手を伸ばして少しだけ相手に手が届いても、向こうはさらにまた先に行ってしまう。勝ち目がなく終わりのない追いかけっこだ。
コンラートは早々に馬鹿馬鹿しいと諦めてボンクラ息子としてやっていくことにしたが、それでも幼少期は深く傷ついた。シュリは双子だから余計に比べられているだろうし、この先も一生、同じ王室に入って周りや国民から比べられ続ける。
正直、彼がジークフリートの王妃になったら心が壊れてしまうのではないかと心配だった。
王妃なんて無理に目指さなくても、シュリにはリュカとは違った魅力がある。
シュリは不器用で人見知りだが、一度心を開くととても一途で愛情深く、他人思いで優しい。照れ屋で純粋で可愛らしく、何よりも彼は努力家だ。
コンラートはそんなシュリが大好きで、心から尊敬していた。誰よりも幸せに生きてほしいとさえ思っていた。
いつも思い詰めてストレスを抱え、どこか辛そうにしているそんな彼が、上機嫌に喉まで鳴らしているのは初めて見る光景で、コンラートもまた上機嫌に話しかけた。
「シューリたんっ」
「うわっ、な、なんだよいきなり……」
「ゴロゴロ言っちゃって~~。なんか良いことあった?」
「なっ、鳴ってたのか!?」
どうやら今気づいたらしく彼は恥ずかしそうに耳を下げる。このシャイな所が本当に可愛いなあと思いながら彼が気にしている少し硬い毛の髪を撫でる。
「お、お前が……」
「え? 俺?」
「……いや、なんでもない」
彼は何か文句を言いたげだが、口に出せないようですぐに顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。いつもクールな横顔が妙に色っぽい。ブンッブンッと尻尾が激しく揺れており、動揺が顕著だ。何よりどう考えても昨日までのシュリとはどこか違う。
「マジか……ショック……俺のシュリたんの処女が……」
一線を越えてしまったのだと思い込み、思わず絶望しながら呟くと、途端に黒い尻尾で頬を殴られた。
「何言ってんだ、そんな訳ないだろ!!」
「え、でも王子と熱い夜を過ごしたんじゃないの?」
すると、途端に彼の顔は真っ赤になり、目を泳がせた。ほらやっぱり、と言おうとするとシュリはひどく恥ずかしそうに、だが嬉しそうに言った。
「………キ」
「き?」
「キス、したんだ。ジークと」
大層もったいぶって言われた言葉に、コンラートは思わず「なあんだ」と言いそうになってしまったが、いつも血の気の失せているその顔が綺麗な桃色に染まっているのを見て、ハッとした。
彼がこんなに幸せそうにしているのを見るのは、初めてかもしれない。たかがキスだと思ったが、彼にとっては、本当に嬉しいことだったのだろう。そのことに、無意識に手を握りしめてしまった。
「どうだった? ジークフリート様のキスは。やっぱり上手だった? 優しかった?」
「……そんなの聞いてどうするんだ」
「大事なシュリたんの初キッスが乱暴なキッスだったら俺としては王子が相手だろうと一発ぶん殴らせて頂かないといけないから」
「……ジークが、乱暴なことなんかするわけないだろ」
言いきったあと、シュリは真っ赤になって黙り込むと、再びゴロゴロと激しく喉を鳴らした。
(シュリが幸せそうで良かった~)
その日の午後、コンラートはビオレット寮の装飾過多なホールを通り、長い廊下を機嫌良く歩いていた。
シュリが幸せそうにしていると、自分まで幸せな気分になる。こんなことは初めてだった。
ちょうどその時、階段の手前の大きな窓の前で、ジークフリートが珍しくぼんやりと外の景色を眺めているのが目に入った。
コンラートは自分が彼にあまりよく思われていないことをわかっていた。シュリに悪影響を与えるとでも思われているのだろう。普段なら会釈して素通りするところだが、その時はふと足を止めて言った。
「どうでした~? シュリたんの唇は」
「………」
「あれだけ恋人ムーブでしょっちゅう部屋に呼んでたのに今までキスもしてなかったなんてビックリですよ。何か理由でもあるんですか?」
シュリは彼に、他に好きな人がいるのではないかと心配しているようだったが、それは絶対にない。
「だってジークフリート様って、婚約とか関係なく、シュリのこと大好きじゃないですか。俺のこともあからさまに大嫌いですもんね。ちょっとでも俺がシュリに抱きついたりしてると、射殺しそうな目で見てるの気づいてますよ。その割に、シュリに手出さないのなんでかなーって。婚約者同士、後ろめたいことないのに。やっぱりアレですか? かっこつけたいお年頃?」
「…………」
「あれ? 聞こえてない?」
窓に映った自分にでも見惚れているのかと煽ろうとしたその瞬間、ジークフリートがゆっくりとこちらを振り返った。その視線は、氷のように冷たく、コンラートは背筋がぞくりとするのを感じた。
「……え? 何スか……」
「妙なところで勘が良いな、フレーベル。身の振り方には気を付けろよ」
普段誰に対しても人当たりの良いジークフリートの、低く冷たい声にコンラートは驚いた。
「はぁ? どういうことですか?」
「俺とシュリが婚約者同士だと、一度でもお前に言ったことがあるか? 決まっているのはあの半獣の双子が俺たち双子と婚約しているというだけだ」
「……? シュリが……婚約相手じゃないんですか」
ジークフリートはその質問に答えなかった。
「俺は王位に一番ふさわしい相手を選ぶ。……わかったら、二度とシュリに余計なことを言うな」
そう言い放つと、呆然と立ち尽くすコンラートに見向きもせず、ジークフリートは三階へと続く階段を足早に上がって行ってしまった。
(なんだ、今の……どういう、ことだ。シュリがあいつの婚約者じゃないのか? そうじゃないなら、シュリは一体、何のために……あんなに必死に……)
まるで金縛りにでもあったように、コンラートはその場から動けなくなっていたが、ふと、柔らかい尻尾が頬を撫でる感触にハッと我に返った。
「コンラート、ジークと何話してたんだ? ……何かあったのか?」
心配そうに聞く彼の腕には、たくさんの魔法書が抱えられている。
おそらく、今夜も彼は眠い目を擦りながら、必死に勉強をするのだろう。ジークフリートの隣で、王妃になる未来を目指して。
もし、そんな未来がハナからないのだとしたら。
「コンラート?」
「…………なんでもない。男と男の喧嘩だよ」
「え、喧嘩したのか!?」
「そ。シュリたんのモフモフ権を巡っての決闘~。俺の完全勝利だよ」
「真面目に答えろ」
パシッと尻尾で殴られ、コンラートはいつも通り笑顔を浮かべたが、喉はカラカラに乾いていた。
■
リンデンベルクの冬は寒い。
体の芯まで刺すような寒さから逃れるように、シュリは毛布の中で丸くなった。
ネコ族にとって冬はつらい季節だが、この国の気候は殊更堪えた。リューペンではどんなに冷え込んでも雪は降らないが、リンデンベルクでは雪だるまが作れるほど厚く積もっている。五日ほど前には、リュカが初めての雪に興奮して周りのみんなと雪合戦をしたり大きな雪だるまを作ったりしていたのを見た。
シュリのことも誘ってくれたが、試験期間中で遊んでいる余裕はなかった。
だからシュリにとってこの国の冬は、本当にただ寒いだけの辛い季節だった。
コンラートが昨晩「一緒の毛布に入る?」と言ってくれたが、さすがに十五にもなって友達と一緒に寝るのはおかしいだろうと断った。
子供の頃はリュカとくっついて寝ていた時期もあったが、今は一人で寝なければならない。
(ジークなら……一緒に寝てもいいんだよな。婚約者だし)
膝の上の温かさを思い出すと、泣きたいぐらいに幸せになって、シュリは思わず毛布を手繰り寄せて抱きついた。
ようやく地獄の期間が終わり、明日からは冬休み。そして今日は成績の発表日だ。
試験から解放された昨日は久しぶりに少し早めにベッドに入ったが、不安と寒さと緊張ですぐに起きてしまい寝られなかった。結果のことを考えると、怖くて胃の辺りがジクジクと痛んだ。
あれだけ頑張ったのだから、きっと大丈夫だ。いきなりリュカを抜くのは無理でも、五位以内ぐらいには入れるはずだ。
自分の尻尾を握りしめながらシュリは故郷の神様に必死に祈りを捧げた。
昼前の校舎のホールには多くの生徒たちが押し寄せていた。
テスト用紙も成績も個々に配られるが、最初に成績を知ることができるのはこの発表の場だ。
個々に配られるのを待とうかとも思ったが、気が気ではなくて熱狂のホールまで見に来てしまった。
正午の鐘と同時に、ホールには巨大な羊皮紙が現れ、順位と名前と点数が魔法で浮かび上がった。最上学年から順番に発表されていき、次に第六学年。ジークフリートとギルベルトは、なんと同点で一位だった。彼らはこの場に見に来てもいないから、もはや当然の結果なのだろう。
次は、シュリたちの第五学年だ。
(大丈夫……大丈夫……)
耳も尻尾も恐怖で限りなく垂れ下がっている。俯いて震えていたが、やがてワァッという歓声に驚いて目を開けた。
「リュカすげえ! さすが、編入生なのにさっそく一位かよ!」
「ほぼ満点じゃん、さすがだな」
たくさんの友人たちに囲まれて、リュカが白く美しい髪を撫で回されている。リュカは一位を取るだろうということはわかっていた。自分はどうだろう。彼とどれだけ、差を縮めることができたのか。恐る恐る顔を上げるが、リュカの名前の次にはいない。
その次には……その次は……。
ドクドクという心臓の音がうるさかった。
――十二位。
その結果にグニャリと視界が揺らいだ。
ここ数日の疲れのせいか、惨憺たる結果に対する眩暈だろうか。ふらっと後ろに倒れそうになったところで、後ろにいた誰かが支えてくれた。
「編入生で十二位ってすごー!! 前例がないぐらいの快挙だよ。俺の下から十二番目と交換してくんない?」
でも、リュカは一位なんだ。同じタイミングで入学して、同じ日に生まれて、同じ顔をして、同じ声をして、同じ環境で育って一位なんだよ。
そう言いたかったけれど、言ったら泣き出してしまいそうで何も言えなかった。やっとの思いで「ありがとう」と呟くと、コンラートは少し眉尻を下げて笑った。
「今日は勉強禁止で、俺と部屋に戻って昼寝して過ごそう」
「……それ、コンラートが昼寝したいだけだろ」
「そう。一緒の毛布でさ、モフモフ昼寝させてよー、頼むよー」
その時、「コンラート! コンラート・フレーベル!」という厳しい声がした。ひどく怒った様子の先生が、悲喜こもごもの生徒たちを押しのけて鬼の形相で向かってきている。
「やば!」
そう叫んで逃げ出そうとする彼の手をパシッと掴む。
「ちょっとシュリたん手離して!? あっ、やば、肉球きもちい」
コンラートはシュリに掴まれた手を振り払いもせず、極楽というような顔でモミモミと揉み始めた。
「ちゃんと先生に指導してもらってこい」
「やだぁ~~俺はシュリたんとモフモフ昼寝するんだぁ~~」
「先生の呼び出しバックレて、卒業できなかったらどうするんだ。一緒に卒業するって約束しただろ」
そう言うと、コンラートはぐっと低く呻いて喚くのをやめた。
「いや、でもほんと、シュリはちゃんと寝て。一日ぐらい休んだって大丈夫だから」
真剣な顔で言われ、シュリは瞳を揺らした。そんなにひどい顔をしていただろうか。
「お前は休みすぎだ!!」
「ぎゃーっ、先生いつの間に背後に!」
寝ないとダメだからねーっ、と叫びながら教師に引きずられていくコンラートに手を振り、シュリはその場から去る。さすがに今日は休もうかと思ったが、足は自然と図書室へ向かっていた。
一日ぐらい休んでも変わらない。頭ではわかっているのにどうしても怖い。少し寝て起きた時、もう絶対に追いつけないぐらいリュカに引き離されてしまうような気がするのだ。
図書室は一日中開放されているため、いつ来てもまばらに人はいる。
隅の席に座り図書室に籠って試験の復習をしていたら、いつの間にか外が真っ暗になっていた。室内には光魔法で明かりが灯されているため、日が暮れたことに気づかなかったようだ。
(やばい。夕飯の時間過ぎちゃったかな?)
思えば昼も食べていなかったことに今更気づいた。食堂は時間厳守だから、今から行ったところで閉めきられているだろう。さすがに部屋に戻ろうと参考にしていた本を棚に返していると、一番下に置かれた黒い本が気になった。生徒以外には触れないように魔法で鍵がかかっている。
『闇魔法の世界へ』
背表紙にはそう書かれていた。
シュリは昔から、闇魔法との相性がいいと家庭教師に言われていた。
今回の試験でも、唯一――二点だけだが――リュカに勝てたのは闇魔法だ。イメージの良い魔法ではないため馬鹿にされているが、強力な魔法だ。危険が多いため学校では基本的に入門編しかやらないが、ここは世界トップの王立学校なだけあり、希望を出せば専門的に学ぶことができる。
(……これならリュカに勝てるかな)
そう考えていた時、後ろの棚から話し声が聞こえてきた。
「リュカ様はやっぱりすごいな。入って早々に一位とは……」
「半獣がヒト族より頭いいってほんとかな? 野生のカンみたいなやつがあるとか?」
「でもリュカ様じゃない方の……黒い出来損ないはもっと下だったぞ。リュカ様が特別なんだろう」
(あれだけ勉強しても、結局出来損ない……か)
本を返す手を止めて聞いていると、突如話をしていた彼らが「「うわっ」」と声を上げた。本棚があるから様子はわからないが、誰かが背後に現れたようだ。
「ぎ、ギルベルト様……」
「お前ら全員その〝出来損ない〟よりも順位が下だろう。半獣の方がヒト族より賢いっていうのは本当かもな」
「は、はい! その通りだと思います!」
「失礼します!」
彼らは怯えた様子で走り去って行ってしまったようだ。
(なんだ今の……まさか庇ってくれたのか?)
ギルベルトとは極力話したくないが、もし庇ってくれたのなら礼を言わない訳にもいかない。隣の棚に顔を出すと、彼は「いたのか」とあからさまに嫌そうな顔をした。
「……ありがとう」
「礼を言われる覚えがないが」
「フォローしてくれたんじゃないのか?」
「フォローのつもりはない。ただ、あの馬鹿共よりはマシだと思っただけだ」
「……そうか」
それならもう礼は言ったし用はないと立ち去ろうとすると、ギルベルトがこちらを見つめて言った。
「顔色が真っ青だ」
「……いつも通りだ」
「あがいたところでお前は一位にはなれないし、まぐれでなったとしても卒業まで続かないぞ」
そして彼はいつものようにシュリに「無駄な努力はやめろ」と言った。言われ慣れていることなのに、今日はいつも以上に、無性に腹が立った。
「無駄かどうかなんて……っ、まだわからないだろ!」
「わかる。……ジークはお前を王妃にするつもりはないし、お前の頑張り次第でジークが王になるってこともない。俺があいつに負けて、あいつが王になったとしたら、その横にいるのはリュカだ」
シュリは思わず毛を逆立てた。
「お前のことなんか、誰が信じるか」
「……じゃあ勝手にしろ。あとで痛い目見るのはお前だ」
ギルベルトは本を棚に返して歩き出し、途中で何かを思い出したように振り返った。
「さっきリュカがジークの部屋に入っていくのを見たぞ。……中で何してるのかは知らないが」
シュリはそれを聞くなり目を見開いて駆け出した。
(部屋で、二人きりで何をしているんだ?)
ジークフリートとキスした時のことを思い出した。あの晩、彼にキスされていた自分が、頭の中で全く同じ顔をした白く美しい弟に置き換わる。
──あいつが王になったとしたら、その横にいるのはリュカだ。
そんなはずない。信じない。そう思うのに不安で足が止まらなかった。
眩暈のせいで目が回りそうになりながら螺旋階段を上りきり、部屋のドアを開けようとして手を止めた。
中から話し声がする。自分と同じ声であるリュカの声と、ジークフリートの声だった。
リュカが「ここにいると思った」というようなことを言っているのが聞こえる。
「俺も今から見て回る。……それにしてもさすがだな、編入早々に一位なんて」
「おかげ様で。借りてたやつ返すね。すごく役に立った」
「俺でも難しいのに、本当に二日で読んだの?」
「うん。まあ正確には三日弱かな」
「リュカが王室にいたら、この国の未来も安泰だな」
邪推していたようなことはしていなそうだ。それなのに心臓がズキズキと痛むのは、走ってきたせいだろうか。それとも鼓動が速いせいだろうか。
結局、彼の部屋に入れないまま来た道を戻ると、テストから解放されたことや明日からの冬休みに沸き立つ生徒たちの部屋から、笑い声が漏れ聞こえた。
シュリは喧噪から逃れるようにふらっと寮の外へ出た。外出が許可されている時間はとっくに過ぎていた。外気は凍るように冷たく、誰一人外に出ていない。
シュリのよく聞こえる耳でもなんの物音も拾えないぐらいの静寂で、校舎へと続く煉瓦道は一面銀世界になっていた。
遠くの方には、リュカたちが作っていた雪だるまが並んでいるのが見える。
「これが雪か……」
夢のように綺麗な世界だった。
目を瞠るほど美しいのに、ひどく冷たい世界。
……故郷とはまるで別世界のような場所に来てしまった。この先ずっと、この国で死ぬまで生きていくのだと思うと、急に心細くなってぶるりと尻尾を震わせた。
そっと、雪の上を歩いてみるとザクザクと小気味良い音がして、足跡が残っていく。寮から離れれば離れるほど、さらに無音になっていく。時折、どこかのモミの木からどさっと雪が落ちる音がするだけで、どれだけ耳をそばだてても、他には何も聞こえない。
リュカへの賛美も、自分への嘲笑も。
さらなる無音を求めて奥へ奥へ進んでいった。
不思議と寒さは感じずに、シュリはしばらく無意味に歩き回っていたが、途中に意外と厚く積もっている場所があり、足を取られて転んでしまった。
頬が雪に触れ、痛いぐらいに冷たいが、疲れきった体を起こすことができず、俯せのままどこまでも続く白い地面を見つめて、シュリは思わず呟いた。
「やっぱり、白って綺麗だな……」
黒い毛の上に、白い雪が降り積もり、徐々に白くなっていく。
「このまま寝て、目が覚めたら俺も白猫になってたりしないかな……」
そう呟いてしばらく目を閉じていると、段々眠くなってきた。頬は物凄く痛いが、その痛みよりも疲労の方が勝っていた。そのままウトウトとしていると、不意に誰かに腕を掴まれて引っ張り起こされた。
「シュリ! シュリ! しっかりしろ!」
ジークフリートが物凄い剣幕でシュリの肩を掴み、揺すっている。状況を知らなければ、雪の中で行き倒れているように見えただろう。いや、本当に行き倒れていたのかもしれない。
あのままジークフリートが来なかったら、どうなっていただろう。
「わ、悪い……紛らわしかったよな。ごめん、ちょっと寝っ転がってただけ。大丈夫だから」
バツの悪い顔で言うと、ジークフリートは脱力したようにその場に膝をつき、片手で額を覆った。
「大丈夫じゃない! こんなところで寝たら凍傷になるし、低体温で死ぬぞ」
「……ジーク、よくここにいるってわかったな」
「捜してたんだ。俺はさっきまで街に出てて知らなかったけど、夕食の時、ホールに来なかったってリュカが俺の部屋に捜しに来たんだ」
「リュカが……?」
──ここにいると思った。
ああそうか、あの時。
リュカはわざわざ捜しに来てくれていたのに、変な勘違いをしていたことにバツが悪くなる。
「多分図書室だろうって思って見に行ったら図書室にもいないし、寮内を捜してもどこにもいないからさすがに焦って外を捜してたら、シュリがいきなり雪の中で倒れ込んでそのまま動かなくなって……」
心臓が止まるかと思った、ときつく抱きしめられた。本当に心配をさせてしまっていたみたいだ。
「ごめん。リューペンに帰る前に少しだけ雪に触ってみたくなって……」
「だからってこんな時間に一人で……。手袋もしてないし、肉球が傷ついたらどうするんだ!」
そう言ってジークフリートは雪まみれになったシュリの体を軽くはたいて雪を落とし、氷のように冷えきった肉球や頬を自分の手で包み込んだ。
「心配かけて悪かった……俺、雪を見るのは初めてで……」
珍しく怒っている様子の彼に思わず耳をぺしょんと下げて謝ると、ジークフリートは「うっ」と呻いて溜め息をついた。
「シュリがリューペンから帰ってくる頃も、まだ雪は降ってるよ。だから今日は部屋に戻ろうよ」
そう言ってジークフリートはシュリに自分の上着を着せると、背中を押した。先ほどまで感じていなかったが、体は物凄く冷たくなっていて、暖かい寮の中に入っても震えが止まらない。
シュリは半ば抱えられるようにして彼の部屋に連行されると、魔石をたくさん燃やした暖炉の傍に座らされ、毛布でぐるぐる巻きにされた。
「ジーク……ごめん」
魔石が色とりどりに光っては爆ぜるのをボーッと見つめながら、シュリは力なく呟いた。
「何が?」
「試験十二位だった。あんなに教えてくれたのに」
「十分すごいじゃないか。うちの学校、世界一の難関って言われてるんだよ」
頑張ったねと言われて頭を撫でられると、瞼が熱くなる。
──リュカが王室にいたら、この国の未来も安泰だな。
慰めでも、労いでもなく、あんな風に言われるだけの能力が自分にもあればよかったのに。
俯いていると、ジークフリートはシュリの頭を撫でながら優しい声で言った。
「シュリ、本当によく頑張ったから何でもお願いごと聞いてあげるよ。欲しい物があったら何でも言って。冬休み中は会えないから郵便で送る。何が欲しい?」
何もいらないと思ったが、今、一つだけシュリはどうしてもジークフリートにしてほしいことがあった。
「……膝に、乗せてくれないか」
そこ以上に、安心できる場所をシュリは知らなかった。
寒くて、不安で、苦しくて毎晩ろくに寝られないのだ。シュリの申し出に、ジークフリートは少し驚いたように目を見張ったが、黙ってシュリの両脇に手を入れて持ち上げ、自分の膝に乗せた。
「シュリ?」
ぐにゃりと力が抜けて俯いているシュリを、ジークフリートは心配そうに覗き込んだ。
「ジークは……本当は俺を、どう思ってるんだ?」
「……え?」
「婚約者だから、俺にキスしたのか? 俺は……俺は嬉しかったんだ。ジークがキスしてくれた時。ジークのこと、本当に好きだから……婚約者としてってだけじゃなくて……愛してるから」
膨らみ続けた不安をぶつけるように想いを打ち明けると、彼は微かに右手の指をぴくりと震わせた。
「でもジークは……本当は違うんじゃないか? ……他に、好きな人がいるとか。例えば……本当は、リュ、リュカを好きとか……」
心臓が張り裂けそうになりながら言うと、彼は少しの迷いもなく被せるように「シュリを愛してるよ」と言った。
「え……」
「愛しているからキスしたんだ。俺、結構潔癖なところあるから、シュリ以外にキスなんてできないよ」
冗談ぽくジークフリートはそう言ったが、真剣な声だった。
迷いのないその答えに今まで抱えていた不安の塊がどろりと溶けていくような気がして、安堵のあまり涙ぐんでしまった。こんな状況なのに、喉がまた性懲りもなくゴロゴロと音を立て始めてしまう。
(もう嫌だこの喉……)
ジークフリートは必死に喉を押さえているシュリを見て笑いながら愛おしげに抱きしめた。
温かい腕に抱かれながらゴロゴロと大きな音で喉を鳴らし、数週間ぶりに訪れた眠気に微睡んだ。やっと、長い間抱えていた大きな不安から解放されたような気がした。
「シュリを愛してるよ」
耳元で囁かれ、何度もキスをされる。
中毒性のある、甘い毒を刷り込まれたように、シュリはそのキスに溺れた。
(ジークが……俺を、愛してるって……)
ゴロゴロと喉が鳴っているのに、なぜか涙が零れて頬を伝った。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
彼が大好きだ。彼を愛している。この温かい腕の中にいられるなら、どんなことでもできる。
「ジーク……俺、次は五位以内目指す。卒業までには、一位になるから……」
極度の眠気に今にも夢の世界に旅立ちそうになりながら譫言のように言うと、彼は少しの間黙り込んだあと、「シュリならできるよ」と暗示をかけるように囁き、忌まわしいと言われる黒い髪にキスをした。
どうしよう。もう、このあと勉強を見てもらっても集中できる気がしない。
誰かとキスをするのは初めてだけれど、これは友情や、親愛のキスではないと思った。もしそうだったら、こんなにも破裂しそうなぐらい心臓がドキドキするはずがない。
ジークフリートは、自分をただの政治的な婚約者ではなく、恋愛の相手として見てくれているということだろうか。そう思うと、嬉しくて幸せで、喉を鳴らすのが抑えられなかった。
「……ごめん。今日はこのまま勉強の続きはできないかもしれない」
「お、俺も」
そう言って瞳を揺らすと、彼は嬉しそうに目を細めた。
「シュリ、ここおいで」
ジークフリートに膝の上に乗るように促され、シュリは恐る恐るその上に乗った。猫の本能が、好きな人の膝の上を求めている。グルル、ゴロロ、と喉を鳴らしながら思わずその逞しい胸にすりすりと頬を寄せると、ジークフリートは少しくすぐったそうに笑った。
膝の上で、頭や喉を撫で回されているうちに、シュリはもう長いこと無縁となっていた幸せな眠気を感じていた。彼の心音や、温かい手の感触に、心から安心しきっていた。
隈のくっきり浮かぶ目元に、じわりと涙が滲む。
「眠いの?」
ネコ族は大好きな人の膝の上に乗ると眠くなると、リュカが言っていた。だが、シュリは今まで、リュカのように父の膝にも母の膝にも乗せてもらったことがなく、それが本当のことなのか知らなかった。
それが今、ようやく理解できた。
(眠、い……勉強、しなきゃいけないのに……)
ジークフリートは何も言わずにシュリの頭を撫で、時折耳や髪に愛おしそうにキスを落としてくれる。
(なんだろ……すごい、幸せ……)
本当の猫のようにただ喉をゴロゴロと激しく鳴らして、ジークフリートの腕に顔や体を擦り寄せることしかできない。彼はそんなシュリの頭をひどく優しい手つきで長いこと撫でていた。
そして眠りに落ちるのとほぼ同時に耳元で、苦しげに呟いた。
「ごめん、シュリ」
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目を覚ました時、コンラートは遠くで雷が鳴っているのかと思った。
こんな朝早くに? 今はもしかすると夕方なのだろうか。寝ぼけた頭でそんなことを考えながら身を起こすと、薄暗闇の向こうで、デスク周りに明かりがついているのが見えた。
勤勉なルームメイトのシュリが机にかじりつくようにして勉強をしているのは日常の光景だ。いつもと違うのは、その横顔に、何かに追われているような悲壮感がなく、随分機嫌が良さそうだということだ。
耳もピンと立っているし、尻尾も一定のリズムでゆっくりと揺れている。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……
(えっ、喉鳴らしてる? なんで? かわい……)
よほど良いことがあったのだろうかと、珍しい光景にへらっと顔が緩んでしまう。
コンラートは自他共に認める無類の猫好きだった。あえて好みを言うとしたらハチワレが好きだが、色や柄によるこだわりはなく、全ての猫を等しく可愛いと思っていた。世界中の猫に幸せでいてほしい。
伯爵家当主になったら、領地内の野良猫を全て引き取って城に住まわせたい。もちろん一人だけでは世話はできないから、行き場のない孤児を引き取って猫の世話係の職を与えたいと思っている。
無類の猫好きだからもちろん、半獣の猫も大好きだ。
レイオット学院に半獣の生徒は珍しく、しかも未来の王妃ということで、シュリとリュカは編入前から大騒ぎになっていた。
〝白猫の半獣のリュカ〟というのは海外ニュースに疎いコンラートでも知っていた。
十歳で上級聖魔法士の資格を取った天才児ということで話題になり、その容姿の神秘的な可憐さも相まって世界的な人気者だ。
双子だと知らなかったから、〝例の半獣の編入生〟と同室と言われた時はリュカと同室なのだろうと勝手に思い込み、そんな有名人と同室なんてひどく名誉なことだと思っていた。
部屋にいた彼はなぜか黒猫の半獣だった。だが、ハッとするほど綺麗な顔をしていたから、彼が〝リュカ〟だと信じて疑わなかった。
『まさか君みたいなアイドルと同室なんて!! 光栄だよ!』
コンラートが興奮しながら言うと、シュリは困ったように視線を泳がせて耳をぺたんと後ろに下げた。
『……ごめん。俺、リュカ〝じゃない方〟なんだ』
がっかりさせてごめん、と言ったその時の、シュリの何とも言えない悲しそうな顔が忘れられない。
あんな顔をさせてしまうなんて、猫好きとしてあるまじきことだ。
シュリはあまり自分からそれを言うことはないが、リュカに対してひどく引け目を感じているようだ。
痛々しいほどに、寝る間も惜しんで必死に勉強しているのも、双子の弟に追いつきたいからに違いない。
リュカはたくさんの友達やファンに囲まれ、授業時間以外はスポーツをしたりゲームをしたりと青春を謳歌しているが、シュリは彼の婚約者が見かねて街にでも連れ出さない限り、遊んでいるところを見たことがなかった。
人と比較され続ける人生の苦しさはいかほどなのだろう。
コンラート自身、幼少期はできの良い弟とよく比較されていた。弟が先に生まれてきたら家督を継がせられたのに、と何度も父に嘆かれ、なんとか見返してやろうと頑張った時もあった。
だが結局、努力は才能に勝てない。
頑張って手を伸ばして少しだけ相手に手が届いても、向こうはさらにまた先に行ってしまう。勝ち目がなく終わりのない追いかけっこだ。
コンラートは早々に馬鹿馬鹿しいと諦めてボンクラ息子としてやっていくことにしたが、それでも幼少期は深く傷ついた。シュリは双子だから余計に比べられているだろうし、この先も一生、同じ王室に入って周りや国民から比べられ続ける。
正直、彼がジークフリートの王妃になったら心が壊れてしまうのではないかと心配だった。
王妃なんて無理に目指さなくても、シュリにはリュカとは違った魅力がある。
シュリは不器用で人見知りだが、一度心を開くととても一途で愛情深く、他人思いで優しい。照れ屋で純粋で可愛らしく、何よりも彼は努力家だ。
コンラートはそんなシュリが大好きで、心から尊敬していた。誰よりも幸せに生きてほしいとさえ思っていた。
いつも思い詰めてストレスを抱え、どこか辛そうにしているそんな彼が、上機嫌に喉まで鳴らしているのは初めて見る光景で、コンラートもまた上機嫌に話しかけた。
「シューリたんっ」
「うわっ、な、なんだよいきなり……」
「ゴロゴロ言っちゃって~~。なんか良いことあった?」
「なっ、鳴ってたのか!?」
どうやら今気づいたらしく彼は恥ずかしそうに耳を下げる。このシャイな所が本当に可愛いなあと思いながら彼が気にしている少し硬い毛の髪を撫でる。
「お、お前が……」
「え? 俺?」
「……いや、なんでもない」
彼は何か文句を言いたげだが、口に出せないようですぐに顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。いつもクールな横顔が妙に色っぽい。ブンッブンッと尻尾が激しく揺れており、動揺が顕著だ。何よりどう考えても昨日までのシュリとはどこか違う。
「マジか……ショック……俺のシュリたんの処女が……」
一線を越えてしまったのだと思い込み、思わず絶望しながら呟くと、途端に黒い尻尾で頬を殴られた。
「何言ってんだ、そんな訳ないだろ!!」
「え、でも王子と熱い夜を過ごしたんじゃないの?」
すると、途端に彼の顔は真っ赤になり、目を泳がせた。ほらやっぱり、と言おうとするとシュリはひどく恥ずかしそうに、だが嬉しそうに言った。
「………キ」
「き?」
「キス、したんだ。ジークと」
大層もったいぶって言われた言葉に、コンラートは思わず「なあんだ」と言いそうになってしまったが、いつも血の気の失せているその顔が綺麗な桃色に染まっているのを見て、ハッとした。
彼がこんなに幸せそうにしているのを見るのは、初めてかもしれない。たかがキスだと思ったが、彼にとっては、本当に嬉しいことだったのだろう。そのことに、無意識に手を握りしめてしまった。
「どうだった? ジークフリート様のキスは。やっぱり上手だった? 優しかった?」
「……そんなの聞いてどうするんだ」
「大事なシュリたんの初キッスが乱暴なキッスだったら俺としては王子が相手だろうと一発ぶん殴らせて頂かないといけないから」
「……ジークが、乱暴なことなんかするわけないだろ」
言いきったあと、シュリは真っ赤になって黙り込むと、再びゴロゴロと激しく喉を鳴らした。
(シュリが幸せそうで良かった~)
その日の午後、コンラートはビオレット寮の装飾過多なホールを通り、長い廊下を機嫌良く歩いていた。
シュリが幸せそうにしていると、自分まで幸せな気分になる。こんなことは初めてだった。
ちょうどその時、階段の手前の大きな窓の前で、ジークフリートが珍しくぼんやりと外の景色を眺めているのが目に入った。
コンラートは自分が彼にあまりよく思われていないことをわかっていた。シュリに悪影響を与えるとでも思われているのだろう。普段なら会釈して素通りするところだが、その時はふと足を止めて言った。
「どうでした~? シュリたんの唇は」
「………」
「あれだけ恋人ムーブでしょっちゅう部屋に呼んでたのに今までキスもしてなかったなんてビックリですよ。何か理由でもあるんですか?」
シュリは彼に、他に好きな人がいるのではないかと心配しているようだったが、それは絶対にない。
「だってジークフリート様って、婚約とか関係なく、シュリのこと大好きじゃないですか。俺のこともあからさまに大嫌いですもんね。ちょっとでも俺がシュリに抱きついたりしてると、射殺しそうな目で見てるの気づいてますよ。その割に、シュリに手出さないのなんでかなーって。婚約者同士、後ろめたいことないのに。やっぱりアレですか? かっこつけたいお年頃?」
「…………」
「あれ? 聞こえてない?」
窓に映った自分にでも見惚れているのかと煽ろうとしたその瞬間、ジークフリートがゆっくりとこちらを振り返った。その視線は、氷のように冷たく、コンラートは背筋がぞくりとするのを感じた。
「……え? 何スか……」
「妙なところで勘が良いな、フレーベル。身の振り方には気を付けろよ」
普段誰に対しても人当たりの良いジークフリートの、低く冷たい声にコンラートは驚いた。
「はぁ? どういうことですか?」
「俺とシュリが婚約者同士だと、一度でもお前に言ったことがあるか? 決まっているのはあの半獣の双子が俺たち双子と婚約しているというだけだ」
「……? シュリが……婚約相手じゃないんですか」
ジークフリートはその質問に答えなかった。
「俺は王位に一番ふさわしい相手を選ぶ。……わかったら、二度とシュリに余計なことを言うな」
そう言い放つと、呆然と立ち尽くすコンラートに見向きもせず、ジークフリートは三階へと続く階段を足早に上がって行ってしまった。
(なんだ、今の……どういう、ことだ。シュリがあいつの婚約者じゃないのか? そうじゃないなら、シュリは一体、何のために……あんなに必死に……)
まるで金縛りにでもあったように、コンラートはその場から動けなくなっていたが、ふと、柔らかい尻尾が頬を撫でる感触にハッと我に返った。
「コンラート、ジークと何話してたんだ? ……何かあったのか?」
心配そうに聞く彼の腕には、たくさんの魔法書が抱えられている。
おそらく、今夜も彼は眠い目を擦りながら、必死に勉強をするのだろう。ジークフリートの隣で、王妃になる未来を目指して。
もし、そんな未来がハナからないのだとしたら。
「コンラート?」
「…………なんでもない。男と男の喧嘩だよ」
「え、喧嘩したのか!?」
「そ。シュリたんのモフモフ権を巡っての決闘~。俺の完全勝利だよ」
「真面目に答えろ」
パシッと尻尾で殴られ、コンラートはいつも通り笑顔を浮かべたが、喉はカラカラに乾いていた。
■
リンデンベルクの冬は寒い。
体の芯まで刺すような寒さから逃れるように、シュリは毛布の中で丸くなった。
ネコ族にとって冬はつらい季節だが、この国の気候は殊更堪えた。リューペンではどんなに冷え込んでも雪は降らないが、リンデンベルクでは雪だるまが作れるほど厚く積もっている。五日ほど前には、リュカが初めての雪に興奮して周りのみんなと雪合戦をしたり大きな雪だるまを作ったりしていたのを見た。
シュリのことも誘ってくれたが、試験期間中で遊んでいる余裕はなかった。
だからシュリにとってこの国の冬は、本当にただ寒いだけの辛い季節だった。
コンラートが昨晩「一緒の毛布に入る?」と言ってくれたが、さすがに十五にもなって友達と一緒に寝るのはおかしいだろうと断った。
子供の頃はリュカとくっついて寝ていた時期もあったが、今は一人で寝なければならない。
(ジークなら……一緒に寝てもいいんだよな。婚約者だし)
膝の上の温かさを思い出すと、泣きたいぐらいに幸せになって、シュリは思わず毛布を手繰り寄せて抱きついた。
ようやく地獄の期間が終わり、明日からは冬休み。そして今日は成績の発表日だ。
試験から解放された昨日は久しぶりに少し早めにベッドに入ったが、不安と寒さと緊張ですぐに起きてしまい寝られなかった。結果のことを考えると、怖くて胃の辺りがジクジクと痛んだ。
あれだけ頑張ったのだから、きっと大丈夫だ。いきなりリュカを抜くのは無理でも、五位以内ぐらいには入れるはずだ。
自分の尻尾を握りしめながらシュリは故郷の神様に必死に祈りを捧げた。
昼前の校舎のホールには多くの生徒たちが押し寄せていた。
テスト用紙も成績も個々に配られるが、最初に成績を知ることができるのはこの発表の場だ。
個々に配られるのを待とうかとも思ったが、気が気ではなくて熱狂のホールまで見に来てしまった。
正午の鐘と同時に、ホールには巨大な羊皮紙が現れ、順位と名前と点数が魔法で浮かび上がった。最上学年から順番に発表されていき、次に第六学年。ジークフリートとギルベルトは、なんと同点で一位だった。彼らはこの場に見に来てもいないから、もはや当然の結果なのだろう。
次は、シュリたちの第五学年だ。
(大丈夫……大丈夫……)
耳も尻尾も恐怖で限りなく垂れ下がっている。俯いて震えていたが、やがてワァッという歓声に驚いて目を開けた。
「リュカすげえ! さすが、編入生なのにさっそく一位かよ!」
「ほぼ満点じゃん、さすがだな」
たくさんの友人たちに囲まれて、リュカが白く美しい髪を撫で回されている。リュカは一位を取るだろうということはわかっていた。自分はどうだろう。彼とどれだけ、差を縮めることができたのか。恐る恐る顔を上げるが、リュカの名前の次にはいない。
その次には……その次は……。
ドクドクという心臓の音がうるさかった。
――十二位。
その結果にグニャリと視界が揺らいだ。
ここ数日の疲れのせいか、惨憺たる結果に対する眩暈だろうか。ふらっと後ろに倒れそうになったところで、後ろにいた誰かが支えてくれた。
「編入生で十二位ってすごー!! 前例がないぐらいの快挙だよ。俺の下から十二番目と交換してくんない?」
でも、リュカは一位なんだ。同じタイミングで入学して、同じ日に生まれて、同じ顔をして、同じ声をして、同じ環境で育って一位なんだよ。
そう言いたかったけれど、言ったら泣き出してしまいそうで何も言えなかった。やっとの思いで「ありがとう」と呟くと、コンラートは少し眉尻を下げて笑った。
「今日は勉強禁止で、俺と部屋に戻って昼寝して過ごそう」
「……それ、コンラートが昼寝したいだけだろ」
「そう。一緒の毛布でさ、モフモフ昼寝させてよー、頼むよー」
その時、「コンラート! コンラート・フレーベル!」という厳しい声がした。ひどく怒った様子の先生が、悲喜こもごもの生徒たちを押しのけて鬼の形相で向かってきている。
「やば!」
そう叫んで逃げ出そうとする彼の手をパシッと掴む。
「ちょっとシュリたん手離して!? あっ、やば、肉球きもちい」
コンラートはシュリに掴まれた手を振り払いもせず、極楽というような顔でモミモミと揉み始めた。
「ちゃんと先生に指導してもらってこい」
「やだぁ~~俺はシュリたんとモフモフ昼寝するんだぁ~~」
「先生の呼び出しバックレて、卒業できなかったらどうするんだ。一緒に卒業するって約束しただろ」
そう言うと、コンラートはぐっと低く呻いて喚くのをやめた。
「いや、でもほんと、シュリはちゃんと寝て。一日ぐらい休んだって大丈夫だから」
真剣な顔で言われ、シュリは瞳を揺らした。そんなにひどい顔をしていただろうか。
「お前は休みすぎだ!!」
「ぎゃーっ、先生いつの間に背後に!」
寝ないとダメだからねーっ、と叫びながら教師に引きずられていくコンラートに手を振り、シュリはその場から去る。さすがに今日は休もうかと思ったが、足は自然と図書室へ向かっていた。
一日ぐらい休んでも変わらない。頭ではわかっているのにどうしても怖い。少し寝て起きた時、もう絶対に追いつけないぐらいリュカに引き離されてしまうような気がするのだ。
図書室は一日中開放されているため、いつ来てもまばらに人はいる。
隅の席に座り図書室に籠って試験の復習をしていたら、いつの間にか外が真っ暗になっていた。室内には光魔法で明かりが灯されているため、日が暮れたことに気づかなかったようだ。
(やばい。夕飯の時間過ぎちゃったかな?)
思えば昼も食べていなかったことに今更気づいた。食堂は時間厳守だから、今から行ったところで閉めきられているだろう。さすがに部屋に戻ろうと参考にしていた本を棚に返していると、一番下に置かれた黒い本が気になった。生徒以外には触れないように魔法で鍵がかかっている。
『闇魔法の世界へ』
背表紙にはそう書かれていた。
シュリは昔から、闇魔法との相性がいいと家庭教師に言われていた。
今回の試験でも、唯一――二点だけだが――リュカに勝てたのは闇魔法だ。イメージの良い魔法ではないため馬鹿にされているが、強力な魔法だ。危険が多いため学校では基本的に入門編しかやらないが、ここは世界トップの王立学校なだけあり、希望を出せば専門的に学ぶことができる。
(……これならリュカに勝てるかな)
そう考えていた時、後ろの棚から話し声が聞こえてきた。
「リュカ様はやっぱりすごいな。入って早々に一位とは……」
「半獣がヒト族より頭いいってほんとかな? 野生のカンみたいなやつがあるとか?」
「でもリュカ様じゃない方の……黒い出来損ないはもっと下だったぞ。リュカ様が特別なんだろう」
(あれだけ勉強しても、結局出来損ない……か)
本を返す手を止めて聞いていると、突如話をしていた彼らが「「うわっ」」と声を上げた。本棚があるから様子はわからないが、誰かが背後に現れたようだ。
「ぎ、ギルベルト様……」
「お前ら全員その〝出来損ない〟よりも順位が下だろう。半獣の方がヒト族より賢いっていうのは本当かもな」
「は、はい! その通りだと思います!」
「失礼します!」
彼らは怯えた様子で走り去って行ってしまったようだ。
(なんだ今の……まさか庇ってくれたのか?)
ギルベルトとは極力話したくないが、もし庇ってくれたのなら礼を言わない訳にもいかない。隣の棚に顔を出すと、彼は「いたのか」とあからさまに嫌そうな顔をした。
「……ありがとう」
「礼を言われる覚えがないが」
「フォローしてくれたんじゃないのか?」
「フォローのつもりはない。ただ、あの馬鹿共よりはマシだと思っただけだ」
「……そうか」
それならもう礼は言ったし用はないと立ち去ろうとすると、ギルベルトがこちらを見つめて言った。
「顔色が真っ青だ」
「……いつも通りだ」
「あがいたところでお前は一位にはなれないし、まぐれでなったとしても卒業まで続かないぞ」
そして彼はいつものようにシュリに「無駄な努力はやめろ」と言った。言われ慣れていることなのに、今日はいつも以上に、無性に腹が立った。
「無駄かどうかなんて……っ、まだわからないだろ!」
「わかる。……ジークはお前を王妃にするつもりはないし、お前の頑張り次第でジークが王になるってこともない。俺があいつに負けて、あいつが王になったとしたら、その横にいるのはリュカだ」
シュリは思わず毛を逆立てた。
「お前のことなんか、誰が信じるか」
「……じゃあ勝手にしろ。あとで痛い目見るのはお前だ」
ギルベルトは本を棚に返して歩き出し、途中で何かを思い出したように振り返った。
「さっきリュカがジークの部屋に入っていくのを見たぞ。……中で何してるのかは知らないが」
シュリはそれを聞くなり目を見開いて駆け出した。
(部屋で、二人きりで何をしているんだ?)
ジークフリートとキスした時のことを思い出した。あの晩、彼にキスされていた自分が、頭の中で全く同じ顔をした白く美しい弟に置き換わる。
──あいつが王になったとしたら、その横にいるのはリュカだ。
そんなはずない。信じない。そう思うのに不安で足が止まらなかった。
眩暈のせいで目が回りそうになりながら螺旋階段を上りきり、部屋のドアを開けようとして手を止めた。
中から話し声がする。自分と同じ声であるリュカの声と、ジークフリートの声だった。
リュカが「ここにいると思った」というようなことを言っているのが聞こえる。
「俺も今から見て回る。……それにしてもさすがだな、編入早々に一位なんて」
「おかげ様で。借りてたやつ返すね。すごく役に立った」
「俺でも難しいのに、本当に二日で読んだの?」
「うん。まあ正確には三日弱かな」
「リュカが王室にいたら、この国の未来も安泰だな」
邪推していたようなことはしていなそうだ。それなのに心臓がズキズキと痛むのは、走ってきたせいだろうか。それとも鼓動が速いせいだろうか。
結局、彼の部屋に入れないまま来た道を戻ると、テストから解放されたことや明日からの冬休みに沸き立つ生徒たちの部屋から、笑い声が漏れ聞こえた。
シュリは喧噪から逃れるようにふらっと寮の外へ出た。外出が許可されている時間はとっくに過ぎていた。外気は凍るように冷たく、誰一人外に出ていない。
シュリのよく聞こえる耳でもなんの物音も拾えないぐらいの静寂で、校舎へと続く煉瓦道は一面銀世界になっていた。
遠くの方には、リュカたちが作っていた雪だるまが並んでいるのが見える。
「これが雪か……」
夢のように綺麗な世界だった。
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そっと、雪の上を歩いてみるとザクザクと小気味良い音がして、足跡が残っていく。寮から離れれば離れるほど、さらに無音になっていく。時折、どこかのモミの木からどさっと雪が落ちる音がするだけで、どれだけ耳をそばだてても、他には何も聞こえない。
リュカへの賛美も、自分への嘲笑も。
さらなる無音を求めて奥へ奥へ進んでいった。
不思議と寒さは感じずに、シュリはしばらく無意味に歩き回っていたが、途中に意外と厚く積もっている場所があり、足を取られて転んでしまった。
頬が雪に触れ、痛いぐらいに冷たいが、疲れきった体を起こすことができず、俯せのままどこまでも続く白い地面を見つめて、シュリは思わず呟いた。
「やっぱり、白って綺麗だな……」
黒い毛の上に、白い雪が降り積もり、徐々に白くなっていく。
「このまま寝て、目が覚めたら俺も白猫になってたりしないかな……」
そう呟いてしばらく目を閉じていると、段々眠くなってきた。頬は物凄く痛いが、その痛みよりも疲労の方が勝っていた。そのままウトウトとしていると、不意に誰かに腕を掴まれて引っ張り起こされた。
「シュリ! シュリ! しっかりしろ!」
ジークフリートが物凄い剣幕でシュリの肩を掴み、揺すっている。状況を知らなければ、雪の中で行き倒れているように見えただろう。いや、本当に行き倒れていたのかもしれない。
あのままジークフリートが来なかったら、どうなっていただろう。
「わ、悪い……紛らわしかったよな。ごめん、ちょっと寝っ転がってただけ。大丈夫だから」
バツの悪い顔で言うと、ジークフリートは脱力したようにその場に膝をつき、片手で額を覆った。
「大丈夫じゃない! こんなところで寝たら凍傷になるし、低体温で死ぬぞ」
「……ジーク、よくここにいるってわかったな」
「捜してたんだ。俺はさっきまで街に出てて知らなかったけど、夕食の時、ホールに来なかったってリュカが俺の部屋に捜しに来たんだ」
「リュカが……?」
──ここにいると思った。
ああそうか、あの時。
リュカはわざわざ捜しに来てくれていたのに、変な勘違いをしていたことにバツが悪くなる。
「多分図書室だろうって思って見に行ったら図書室にもいないし、寮内を捜してもどこにもいないからさすがに焦って外を捜してたら、シュリがいきなり雪の中で倒れ込んでそのまま動かなくなって……」
心臓が止まるかと思った、ときつく抱きしめられた。本当に心配をさせてしまっていたみたいだ。
「ごめん。リューペンに帰る前に少しだけ雪に触ってみたくなって……」
「だからってこんな時間に一人で……。手袋もしてないし、肉球が傷ついたらどうするんだ!」
そう言ってジークフリートは雪まみれになったシュリの体を軽くはたいて雪を落とし、氷のように冷えきった肉球や頬を自分の手で包み込んだ。
「心配かけて悪かった……俺、雪を見るのは初めてで……」
珍しく怒っている様子の彼に思わず耳をぺしょんと下げて謝ると、ジークフリートは「うっ」と呻いて溜め息をついた。
「シュリがリューペンから帰ってくる頃も、まだ雪は降ってるよ。だから今日は部屋に戻ろうよ」
そう言ってジークフリートはシュリに自分の上着を着せると、背中を押した。先ほどまで感じていなかったが、体は物凄く冷たくなっていて、暖かい寮の中に入っても震えが止まらない。
シュリは半ば抱えられるようにして彼の部屋に連行されると、魔石をたくさん燃やした暖炉の傍に座らされ、毛布でぐるぐる巻きにされた。
「ジーク……ごめん」
魔石が色とりどりに光っては爆ぜるのをボーッと見つめながら、シュリは力なく呟いた。
「何が?」
「試験十二位だった。あんなに教えてくれたのに」
「十分すごいじゃないか。うちの学校、世界一の難関って言われてるんだよ」
頑張ったねと言われて頭を撫でられると、瞼が熱くなる。
──リュカが王室にいたら、この国の未来も安泰だな。
慰めでも、労いでもなく、あんな風に言われるだけの能力が自分にもあればよかったのに。
俯いていると、ジークフリートはシュリの頭を撫でながら優しい声で言った。
「シュリ、本当によく頑張ったから何でもお願いごと聞いてあげるよ。欲しい物があったら何でも言って。冬休み中は会えないから郵便で送る。何が欲しい?」
何もいらないと思ったが、今、一つだけシュリはどうしてもジークフリートにしてほしいことがあった。
「……膝に、乗せてくれないか」
そこ以上に、安心できる場所をシュリは知らなかった。
寒くて、不安で、苦しくて毎晩ろくに寝られないのだ。シュリの申し出に、ジークフリートは少し驚いたように目を見張ったが、黙ってシュリの両脇に手を入れて持ち上げ、自分の膝に乗せた。
「シュリ?」
ぐにゃりと力が抜けて俯いているシュリを、ジークフリートは心配そうに覗き込んだ。
「ジークは……本当は俺を、どう思ってるんだ?」
「……え?」
「婚約者だから、俺にキスしたのか? 俺は……俺は嬉しかったんだ。ジークがキスしてくれた時。ジークのこと、本当に好きだから……婚約者としてってだけじゃなくて……愛してるから」
膨らみ続けた不安をぶつけるように想いを打ち明けると、彼は微かに右手の指をぴくりと震わせた。
「でもジークは……本当は違うんじゃないか? ……他に、好きな人がいるとか。例えば……本当は、リュ、リュカを好きとか……」
心臓が張り裂けそうになりながら言うと、彼は少しの迷いもなく被せるように「シュリを愛してるよ」と言った。
「え……」
「愛しているからキスしたんだ。俺、結構潔癖なところあるから、シュリ以外にキスなんてできないよ」
冗談ぽくジークフリートはそう言ったが、真剣な声だった。
迷いのないその答えに今まで抱えていた不安の塊がどろりと溶けていくような気がして、安堵のあまり涙ぐんでしまった。こんな状況なのに、喉がまた性懲りもなくゴロゴロと音を立て始めてしまう。
(もう嫌だこの喉……)
ジークフリートは必死に喉を押さえているシュリを見て笑いながら愛おしげに抱きしめた。
温かい腕に抱かれながらゴロゴロと大きな音で喉を鳴らし、数週間ぶりに訪れた眠気に微睡んだ。やっと、長い間抱えていた大きな不安から解放されたような気がした。
「シュリを愛してるよ」
耳元で囁かれ、何度もキスをされる。
中毒性のある、甘い毒を刷り込まれたように、シュリはそのキスに溺れた。
(ジークが……俺を、愛してるって……)
ゴロゴロと喉が鳴っているのに、なぜか涙が零れて頬を伝った。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
彼が大好きだ。彼を愛している。この温かい腕の中にいられるなら、どんなことでもできる。
「ジーク……俺、次は五位以内目指す。卒業までには、一位になるから……」
極度の眠気に今にも夢の世界に旅立ちそうになりながら譫言のように言うと、彼は少しの間黙り込んだあと、「シュリならできるよ」と暗示をかけるように囁き、忌まわしいと言われる黒い髪にキスをした。
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日本の大学生だった前世の記憶を持つクラフトクリフは異世界の王子に転生したものの、母親の身分が低く、同母の姉と共に継母である王妃に虐げられていた。そんなある日、父王が獣人族の国へ戦争を仕掛け、あっという間に負けてしまう。戦勝国の代表として乗り込んできたのは、なんと獅子獣人の王太子のリカルデロ! 彼は臣下にクラフトクリフを戦利品として側妃にしたらどうかとすすめられるが、王子があまりに痩せて見すぼらしいせいか、きっぱり「いらない」と断る。それでもクラフトクリフの処遇を決めかねた臣下たちは、彼をリカルデロの後宮に入れた。そこで、しばらく世話をされたクラフトクリフはやがて健康を取り戻し、再び、リカルデロと会う。すると、何故か、リカルデロは突然、クラフトクリフを溺愛し始めた。リカルデロの態度に心当たりのないクラフトクリフは情熱的な彼に戸惑うばかりで――!?
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
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