バズる間取り

福澤ゆき

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10.胸が苦しい

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一体、何年振りだろう。

極度の緊張の糸が解けたのと、もうずっと、売れなくなった自分は捨てられたのだとばかりに思っていたから、信じられない思いで瞼が熱くなった。

「もしもし、母さん!?」
「伊織? あたし。久しぶりね」
「母さん! どこ行ったんだよ。急にいなくなっちゃって……いくら電話かけても出ないで。新しい住所ぐらい教えてくれればいいのに。事件に、巻き込まれたんじゃないかって……ずっと、心配、して、たのに……っ」
「やだ、あんたまさか泣いてるの?」

ずっと鼻をすすり、目元に溜まった涙を指先で拭いながら、伊織は「風邪気味なだけ」と答えた。

「そう。ならいいわ」
「母さんは元気?」
「ええ、元気よ」

良かった、と伊織は嘆息のような声を出した。
捨てられたのだと思う一方で、病気だったら、

「ねえ、それよりテレビ見たわよ。こないだのゴールデンのバラエティ。びっくりしちゃった」

伊織は、尚も静かに溢れる涙を手の甲で拭いながら何度も頷いた。

「うん……、うん、出たよ。ゴールデン。今度、連ドラにも重要な役で出させてもらう。明日から撮影……セリフたくさんあるから、覚えるの、たいへん」
「そう。じゃあ電話も手短に終わらせた方がいいわね」
「あ、全然、大丈夫。大丈夫だから、まだ…て」

まだ切らないでと、言うより先に母が遮った。

「いいの。あたしも忙しいから。今ちょっと生活苦しいのよ。それでね。口座番号教えるから、振り込んでおいてくれない?」
「え……」

ああ、そうか。
ストン、と認めたくない考えが胸に滑り落ちてきた。

母はきっと、長いこと伊織の存在を忘れていたのだ。世間が、伊織の存在を忘れていたのと同じように。
そして、テレビで目にしてようやく自分の子供の存在を思い出し、金の無心の候補先として電話をしてきた。

それだけのことだ。
それだけのことなのに胸がズキズキと痛く、呼吸が苦しくなるのを歯を食いしばって耐え、まるでドラマで演技をするような声音で言った。

「……うん、分かった。任せて。振り込んでおくよ」
「ありがとう。助かるわ。じゃあ……」
「待って。今、誰と暮らしてるの? あっくんと? 殴られてない? 大丈夫なの?」

あっくんは、母の彼氏で伊織が物心ついたときから家にいた。籍入れておらず、そのことでよく揉めていた。
酒癖が悪く怒りっぽく、子供の頃、伊織はよく殴られていたが、芸能界に入ってからはよほど泥酔している時出ない限り、殴られることは無くなった。

「……あーいたわね。そんな最低男。とっくに別れたわよ」
「じゃあ今一人? 今度、休みのとき遊びに行っていい?」
「………」

その沈黙に、伊織は膝上で手を握り締めた。

「今、別の人と結婚してるの。子供も生まれた。やっとちゃんと家庭ができたの。だから……家に来られるのは困るわ」
「……そっか。うん、分かった。口座番号、あとでLIMEしといて。俺も、最近また仕事貰えるようになったばかりであんまり余裕がないけど、これからもっと入るはずだから……だから、また電話ぐらいしてくれよ。心配だから」

それに対する返答はなく、通話がすでに切れていることを告げる無機質な電子音が響いた。

程なくして、母から口座番号だけが書かれたLIMEが届いた。アイコンは遊園地で微笑む母と、結婚相手と思われる男と、幼い子供だった。

(遊園地かあ……仕事でしか行ったことなかったな)

幼い子供を抱きしめる母の手つきは優しい。ちゃんとした家庭が出来た。母は嬉しそうにそう言っていた。

どこの誰との相手に生まれたか分からない伊織は、ちゃんとした子供ではかったのだろうか。

(でも俺にも、優しかったよな……)

物心ついてからの記憶の中で、大部分、母は優しかった。芸能活動が忙しかった時、母は献身的に自分を支えてくれていたし、あっくんの暴力からも守ってくれた。

でもきっと、母が愛していたのは〝いおりん〟と呼ばれて日本中から愛されていた虚像の自分だった。あるいは、その虚像が稼いでくる金か。

伊織自身のことは、長いこと存在すら忘れていて、テレビに出るまで思い出しても貰えなかった。

胸が潰れてしまいそうな寂しさに耐え切れず、伊織はスマホを取り出した。

三笠伊織、と検索をすると、自分の出演したテレビ番組を見た視聴者の感想がいくつも引っ掛かる。伊織はそれを見ていつになく安堵した。
自分はちゃんと存在しているのだと、認識することが出来た。
何かに取り憑かれたようにエゴサーチをして、無心でスクロールをしていると、不意にアンチコメントが目に留まった。

『最近また見かけるようになったけど、もう全然可愛くなくて痛々しい。あんな醜態晒すぐらいなら、さっさと死ね』

死ね。
その言葉に、魂を吸い取られるような気がした。
生きている限り、人は成長し、劣化していく。劣化するたびに〝いおりん〟の虚像は剥がれ落ちていき、三笠伊織という、ただの孤独な成人の姿が明確になっていく。

その時、不意にエントランスホールの方でエレベータが開く音がした。きっと狗飼が帰ってきたに違いない。

(帰ってくるのおせーんだよ!)

彼にとっては全く理不尽なことだろうと思うが、今はどうしてもそんな八つ当たりをせずにはいられなかった。

だが、狗飼一人が帰って来たにしては随分足音が賑やかだ。もしかすると、別の部屋のファミリー層だろうか。だとしたら、こんなひどい顔を見られるのは憚られて、部屋に引っ込むべきか迷ったが、それよりも早く、彼らはこちらにやってきてしまった。

狗飼は、同い年ぐらいの男女数人と歩いていた。おそらく友人達だろう。皆、腕には「秀成高校同窓会」と書かれた揃いの紙袋を下げている。

「なんで俺ん家が三次会会場なんだよ。ふざけんな」

狗飼はこちらにまだ気づいていないようだ。
いつも伊織に対するやけに丁寧な態度とは打って変わって、ごく普通の学生らしい口調で友人達に小声で抗議していた。

「一番広い良い部屋で一人暮らししてるからー」
「早馬の部屋なら絶対幽霊出るから盛り上がりそうじゃん。修学旅行の時もさー俺幽霊とか初めて見たし」

学生たちは皆すでにどこかで飲んできたらしく、わいわいと楽し気だった。

一部は当酔っぱらっているようで、一人の女子は足元もおぼつかないようで、狗飼がひどく嫌そうな顔をして肩を貸してやっていた。

学生たちは喋りながら廊下を歩いていたが、狗飼の部屋の前にしゃがみ込んでいた伊織の存在に気づき、足を止めた。

「え、誰? 早馬の友達?」

(やばい……)

泣いたせいで目は腫れぼったいし、髪はぐしゃぐしゃ、服は部屋着という最悪な状態だった。
三笠伊織だとバレないよう、無言で部屋に戻ろうとしたが、伊織が立ち上がった瞬間、彼らのうちの一人が叫んだ。

「〝いおりん〟!?」
「誰、いおりんって?」
「ほら、最近つぶったーですごいバズってた事故物件の放送事故の人。テレビにも出てるじゃん」
「昔子役でよく出てて、性癖歪むぐらい超絶可愛かったよなー」
「えっ、うそ、じゃあ芸能人ってこと!?」
「つぶったーやってないから分かんない。テレビなんか見ないし」
「早馬事故物件の隣に住んでるって言うのは聞いてたけど、いおりんの部屋の隣だったの!? じゃあここが噂の物件?」
「お前らうるさい。騒ぐな。ここ共用廊下」

狗飼は伊織に「すみません、また後で」と頭を軽く下げ、友人達をいさめたが、ああもうこれは、他人の振りは出来ないと伊織は仕方なく挨拶だけはきちんとすることにした。

「こんばんはー。お隣の部屋の三笠伊織です。狗飼くんのお友達ですかぁ?」

場が白けたらどうしようかと思いながらもテレビに出るときと同じテンションでそう話しかけると、彼らは顔を見合わせた。

「えー、実物お肌すごい綺麗で可愛いー! 握手いいですか?」
「はい、もちろんです~」
「お、俺も……いいっすか!?」

思いのほか学生たちに喜ばれて、伊織はどん底まで落ちていた気分が少しだけ回復した気持ちになった。
その時、狗飼の肩で泥酔していた女性がむくっと顔を上げ、酒焼けした大声で言った。

「私早馬と小学校から一緒だったから覚えてるけど、早馬って、いおりんのガチオタだったよね~~」
「えっ」

驚いて狗飼の方を見ると、彼はひどく動揺し、ギョッとした顔をして、自分の肩口で笑う女性を見やった。

「おい加菜! それは……」
「え、早馬ドルオタだったの? それも男の? 嘘でしょ?」
「マジマジー。一時期、〝いおりんと結婚する!〟とか言ってたし笑えるよね。あの頃の早馬すげー根暗な心霊オタクでさーマジ典型的な高校デビューだから」
「えー想像つかない!」

(なんで言わねーんだよ……)

そんな素振り、今まで一度も見せなかった。むしろ鬱陶しがられていると思っていたぐらいだ。
だが、狗飼の動揺っぷりを見る限り、その泥酔女性が言っていることがまるきり嘘ではなさそうだ。

それに、狗飼は伊織のことに異様に詳しかった。はるか昔にインタビューで答えたようなことをいちいち知っている。

ファンなのだとしたらかなり熱心なファンだ。

伊織は何とも言えない気恥ずかしさに頬が熱くなっていくのを感じた。

(うわー……そうだったのか、うれし……いや、最悪だ! ファンだって知ってたらちゃんと猫被っておいたのに!)

今更取り繕いようもない。
後でサインでも書いてやろうかと思っていると、加菜が笑いながら続けた。

「……でもいおりん成長してフツーの男になっちゃったからねー。途中から黒歴史扱いでファン辞めしてたけど、あの時すごかったよね。騙されたー、とかマジ泣きしてんの。てゆーか、だから最近、早馬引っ越し先探してたのか~。ここ住んでたらあの時の黒歴史思い出しちゃうもんねー」

火照っていた頬が、急速に冷えていくのを感じた。持っていたスマホが手から滑り落ちそうになり、慌てて掴み直す。

(……そっか。そうだよな)

どうして今でも、ファンのままだと思ったのだろう。
自分はあの頃の容姿とはまるで違うのに。

未だに芸能界にしがみついて、放送事故でトレンドに載って大喜びする自分を見て、元ファンの狗飼はどう思っていたのだろう。

あのアンチコメントのように、惨めで醜いと思っていたのだろうか。今の伊織の姿を、見たくなかっただろうか。
だから、伊織と距離を取りたがっていたのかもしれない。そうとも知らずに何度も無理やり部屋に上がり込んでいた。
だがまさか、引っ越し先を探すほどだったとは。

伊織は震える手を握り締めながら俯いた後、自分を納得させるように何度かゆっくり頷き、「そうだったんだね」と静かに微笑んだ。

「……加菜、黙れ」

狗飼が凄むような剣幕で制した。少し恐怖を覚えるぐらい怒りに満ちた声だった。

「早馬キレてるからもうやめとけよ加菜。第一、失礼だろ……あの、スミマセンこいつすげえ酔ってて」

男子学生の一人がいさめるようにそう言って、伊織に謝罪した。

狗飼は険しい顔で加菜の肩を掴んで引き離すと、隣に立つ友人に押し付けるように乱暴に渡した。

「今日は解散で。お前ら今すぐ帰ってくれ。……絢斗悪い。後頼む」

えーっとブーイングが上がるが、絢斗と呼ばれた男が、「朝4時までやってる居酒屋、この近くにあるから行こうぜ」といさめた。

「三笠さん!」

話があると小声で言われたが、伊織は静かに首を振り、自室の部屋のドアノブを掴んだ。

「じゃあ、俺はこれで。三次会、楽しんで下さいね」

狗飼の制止を振り切って、自分の部屋へと戻り、乱暴に鍵を閉めてチェーンまでかけた。

今日はもう、これ以上どんな言葉も聞きたくなかった。
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