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第5章 苦界

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「川上屋では、稼ぎの悪い蔭間は、懲らしめに食事を抜かれるんだ」

 お蘭は口を尖らせた。

「蔭間なんて毎日、嫌なことばっかり、辛抱することばっかり。たった一つだけ良いことがあるとすれば、ちゃんとご飯を食べられて、ひもじい思いをしないで済むことくらいしかないのに……食事を抜くなんてひどいよ」

 仙千代は、父が死んで知行を召し上げられてから、いろいろと惨めな経験はしたものの、食に関して、ひもじい思いをしたことはなかった。

 無論、白い米は滅多に食べられなくなり、食卓は質素になったが、食べるものがなにもなくて腹をすかせるような経験はなかったことに、今さらながら気がついてハッとした。

 子供たちにひもじい思いをさせぬがために、母は一体どれほど苦労に苦労を重ねたことか。

 その苦労を知らず、いかに己が世間知らずで、守られて、のほほんと過ごしていたかと考えて、自分が情けなくなった。

「その子は、ひもじさに耐えかねて、お客さんに食べ物をせがむことがあったみたい。お客さんの中には同情して、なにか食べさせてくれる人もいるだろうけど、皆が皆、そうそう優しいわけじゃない。それで、お客さんから苦情があると、また食事を抜かれて……」

「悪循環だね」

「そう、悪循環。そういう事情がある子だったから、見せしめに打ち殺されてしまったらしい」

「かわいそうに……」

 仙千代は、他者を哀れんでいられるような立場ではないのだが、そう嘆かずにはいられなかった。

 死ぬまで竹木で打ち叩かれるのは、死が唯一の恩寵に思えるほど、苛辣な重苦を味わわされる。

 折檻が始まってから死ねるまでの三日間は、まさに生き地獄だったに違いない。

 蔭間の過酷な日々に耐えうる体力のないことが、さように残酷な処罰に値するほどの大罪なのか。

 そこまで考えて、仙千代は、ここは苦界であると思い出した。

 蔭間の生きる世界は、私刑がまかりとおる、あらずの場。

 公の道理が通用するはずがなく、ましてや、武家社会で生まれ育った仙千代の考える公正、不正の概念など、糞の役にも立たぬのは自明であった。

「そういう場面を見てきて、足抜けした蔭間の悲惨さを知っていたはずなのに……お雪さんは何故、足抜けなんかしたんだろう?」

「魔が差したんじゃないのかな」

 お蘭は食事を終えて、茶碗に白湯を注いでいた。

「魔が差した、か……」

 仙千代はひとりごちた。
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