抱えきれない思い出と共に…

文月

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義高様がいなくなる日[5]

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風向きが変わったのは昼下がり。
それまで、静かだった御簾がカタカタと揺れ、
その向こうでは、狂った桜が一本ザワザワと忙しげに騒いでいた。
姫の心もザワザワ揺れる。
なんだろう。
なんだか嫌な感じ。
良くないことが起こる気がした。
そして同刻、お屋敷内でもザワザワと囁きが交わされていたらしい。
その始めは、些細な事。
馬の世話をする使用人の小さな疑問。
〝いつも木曾馬の手入れを欠かさない倖氏殿の姿が今日はとんと見えぬが、どうされたのか?〟
そんな所から起こったらしい。
それが風に乗って噂となり、屋敷内を駆け抜け、
やがてお父様の耳に入る運びになったのだと、後から聞いた。
そこからは早かったようだ。
お父様が倖氏さんを探すように命じ、
その捜索の手が姫の部屋に伸びるまで、そう時間は掛らなかったらしい。
そこで、姫と遊んでいたのが他ならぬ倖氏さんであったのがバレ、
それは同時に義高様の不在を明るみにし、
〝では、本物の木曾義高はどこに行ったのか〟
そんな疑惑を孕んで、
〝代わりを務めていた、義高の従者である倖氏が知らぬはずはないだろう〟
という推測のもと、
姫の前で、倖氏さんは両脇を役人に抑えられて連行されて行った。
部屋を出る時、倖氏さんはニッコリ笑って言い残された。
「大姫、大丈夫ですよ。義高様の行方は心配なさらないでくださいね」って。
それは役人への目くらましであると同時に、
姫への励まし。
〝大姫は無関係〟
そう役人に示してみせると同時に、
〝大丈夫。義高様はきっと大丈夫です。だから心配なさらないでください〟
姫には、そう聞こえた。
ああ。
ああ、そうよね、倖氏さん。
義高様はきっと無事、お隠れになって逃げられたわ。
だって、義高様が出て行かれたのは今日の早朝。
もうあれから、かなり時間が経つもの。
きっと、もう山道を辿って木曾へと向かわれているはず。
でも。
でもね、倖氏さん。
倖氏さんは、どうなるの?
これから、どうなるの?
そして、どうして銅のような眼をして笑ってらっしゃるの?
それが悲しくて哀しくて、
それが恐ろしく怖くって、
「倖氏さんっ」
姫は手を伸ばして叫んだけれど、
姫の手は短くて届くことはなく、
もう倖氏さんが振り返ることもなく、
連れて行かれる倖氏さんの背中が、
姫の見た倖氏さんの最期の姿になった。
その時、上げられた御簾の外で狂い桜がまだ、ザワザワと揺れ続けているのが目に入った。
風は、とどまることを知らない。
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