2 / 9
二、虚無な日々
しおりを挟む
四年の時が過ぎた。
ハナは告白した一ヶ月後に身売りされ、辰巳は今も変わらない生活を送っている。
彼は秋田の阿仁マタギだった。
マタギは本州の北の地で狩猟を生業としている者で、鉄砲の扱いに長けている為、戊辰戦争では狙撃部隊として重宝されたこともあった。
マタギが独自の言葉を用いて山々を駆け回る姿は、まるで忍者のようだった。
豪雪が山々を支配していた季節は過ぎ去り、淡い陽光に起こされた熊が大木の洞から顔を出す季節――山の忍者たちが動き出す。
「熊が居たぞぉ! 勢子吠えろぉ!」
マタギの長が勢子に指示を飛ばす。
「ホーリャ、ホウ!」
「ホーウ! ホウ!」
熊の追い込み役である勢子たちは長の指示に従い、沢の方から各々に吠えて熊を追い込もうとする。コナガイという櫂のような道具を樹木に叩きつけて、大きい音を出している者もいる。
煩い、と言わんばかりに重さ二十五貫位ある熊は、のそりのそりと動き出した――徐々にその動きが速くなる。
マタギたちの思惑通りに動いた。
熊は追い込むと、尾根へ逃げる習性があることをマタギは知っている。尾根には数人のマタギが鉄砲を構えて身を潜めていた。
「熊が尾根さ行ったぞぉ! 一の射場、鉄砲撃て!」
長の声が響くと、待ってました、とばかりに――タァァァン……!
尾根の方から銃声が響いた。
熊は背に血を流しながら尾根に向かって猛進している。
「まんだ終わんねぇぞぉ! 二の射場、鉄砲撃てぇ!」
……銃声が聞こえない。
熊が猛進している先には、片膝を立ててしゃがみ込み、鉄砲を構えた青年の姿があった。
「辰巳ぃ!」
長が、撃てないなら逃げろ! と叫ぶ。熊と辰巳との距離、十間、六間、二間――熊が彼を狩るべく、仁王立ちになった。
タァァァン……。
その一発は熊の心臓に命中した。
熊は辰巳を押し潰すかのように倒れ込んだ。
「勝負! 勝負!」
仲間たちが叫びながら熊に駆け寄る。『勝負』という叫びは、獲物を仕留めた、という合図に近い。
倒れた熊の下から辰巳が這い出てきた。
「おめぇという奴は……本当に肝が座ってやがる。大したもんだ」
こっちの肝が冷えたよ、と笑いながら長が辰巳を労った。仲間たちも安心したかのように辰巳に声をかける。
皆は辰巳が撃った熊に興味を示し、山の授かり物に感謝をする『ケボカイ』という儀式で熊を供養し、賑やかに解体を始めていた。当の本人は自分の身体に穴が空いていくような気持ちで、熊の形が無くなっていく様を眺めていた。
ハナは告白した一ヶ月後に身売りされ、辰巳は今も変わらない生活を送っている。
彼は秋田の阿仁マタギだった。
マタギは本州の北の地で狩猟を生業としている者で、鉄砲の扱いに長けている為、戊辰戦争では狙撃部隊として重宝されたこともあった。
マタギが独自の言葉を用いて山々を駆け回る姿は、まるで忍者のようだった。
豪雪が山々を支配していた季節は過ぎ去り、淡い陽光に起こされた熊が大木の洞から顔を出す季節――山の忍者たちが動き出す。
「熊が居たぞぉ! 勢子吠えろぉ!」
マタギの長が勢子に指示を飛ばす。
「ホーリャ、ホウ!」
「ホーウ! ホウ!」
熊の追い込み役である勢子たちは長の指示に従い、沢の方から各々に吠えて熊を追い込もうとする。コナガイという櫂のような道具を樹木に叩きつけて、大きい音を出している者もいる。
煩い、と言わんばかりに重さ二十五貫位ある熊は、のそりのそりと動き出した――徐々にその動きが速くなる。
マタギたちの思惑通りに動いた。
熊は追い込むと、尾根へ逃げる習性があることをマタギは知っている。尾根には数人のマタギが鉄砲を構えて身を潜めていた。
「熊が尾根さ行ったぞぉ! 一の射場、鉄砲撃て!」
長の声が響くと、待ってました、とばかりに――タァァァン……!
尾根の方から銃声が響いた。
熊は背に血を流しながら尾根に向かって猛進している。
「まんだ終わんねぇぞぉ! 二の射場、鉄砲撃てぇ!」
……銃声が聞こえない。
熊が猛進している先には、片膝を立ててしゃがみ込み、鉄砲を構えた青年の姿があった。
「辰巳ぃ!」
長が、撃てないなら逃げろ! と叫ぶ。熊と辰巳との距離、十間、六間、二間――熊が彼を狩るべく、仁王立ちになった。
タァァァン……。
その一発は熊の心臓に命中した。
熊は辰巳を押し潰すかのように倒れ込んだ。
「勝負! 勝負!」
仲間たちが叫びながら熊に駆け寄る。『勝負』という叫びは、獲物を仕留めた、という合図に近い。
倒れた熊の下から辰巳が這い出てきた。
「おめぇという奴は……本当に肝が座ってやがる。大したもんだ」
こっちの肝が冷えたよ、と笑いながら長が辰巳を労った。仲間たちも安心したかのように辰巳に声をかける。
皆は辰巳が撃った熊に興味を示し、山の授かり物に感謝をする『ケボカイ』という儀式で熊を供養し、賑やかに解体を始めていた。当の本人は自分の身体に穴が空いていくような気持ちで、熊の形が無くなっていく様を眺めていた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
平凡令嬢の婚活事情〜あの人だけは、絶対ナイから!〜
本見りん
恋愛
「……だから、ミランダは無理だって!!」
王立学園に通う、ミランダ シュミット伯爵令嬢17歳。
偶然通りかかった学園の裏庭でミランダ本人がここにいるとも知らず噂しているのはこの学園の貴族令息たち。
……彼らは、決して『高嶺の花ミランダ』として噂している訳ではない。
それは、ミランダが『平凡令嬢』だから。
いつからか『平凡令嬢』と噂されるようになっていたミランダ。『絶賛婚約者募集中』の彼女にはかなり不利な状況。
チラリと向こうを見てみれば、1人の女子生徒に3人の男子学生が。あちらも良くない噂の方々。
……ミランダは、『あの人達だけはナイ!』と思っていだのだが……。
3万字少しの短編です。『完結保証』『ハッピーエンド』です!
吉原遊郭一の花魁は恋をした
佐武ろく
ライト文芸
飽くなき欲望により煌々と輝く吉原遊郭。その吉原において最高位とされる遊女である夕顔はある日、八助という男と出会った。吉原遊郭内にある料理屋『三好』で働く八助と吉原遊郭の最高位遊女の夕顔。決して交わる事の無い二人の運命はその出会いを機に徐々に変化していった。そしていつしか夕顔の胸の中で芽生えた恋心。だが大きく惹かれながらも遊女という立場に邪魔をされ思い通りにはいかない。二人の恋の行方はどうなってしまうのか。
※この物語はフィクションです。実在の団体や人物と一切関係はありません。また吉原遊郭の構造や制度等に独自のアイディアを織り交ぜていますので歴史に実在したものとは異なる部分があります。
【完結】雨上がり、後悔を抱く
私雨
ライト文芸
夏休みの最終週、海外から日本へ帰国した田仲雄己(たなか ゆうき)。彼は雨之島(あまのじま)という離島に住んでいる。
雄己を真っ先に出迎えてくれたのは彼の幼馴染、山口夏海(やまぐち なつみ)だった。彼女が確実におかしくなっていることに、誰も気づいていない。
雨之島では、とある迷信が昔から吹聴されている。それは、雨に濡れたら狂ってしまうということ。
『信じる』彼と『信じない』彼女――
果たして、誰が正しいのだろうか……?
これは、『しなかったこと』を後悔する人たちの切ない物語。
あなたなんて大嫌い
みおな
恋愛
私の婚約者の侯爵子息は、義妹のことばかり優先して、私はいつも我慢ばかり強いられていました。
そんなある日、彼が幼馴染だと言い張る伯爵令嬢を抱きしめて愛を囁いているのを聞いてしまいます。
そうですか。
私の婚約者は、私以外の人ばかりが大切なのですね。
私はあなたのお財布ではありません。
あなたなんて大嫌い。
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる