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君の視線が絡み付く1

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 今日はクーラーが壊れているらしかった。

 今日にかぎって…と思わずにはいられない灼熱の真っ昼間。

 今にも空気が爆発しそうなくらい暑いのに、爆発する素振りを見せずにじっとりと床を這う重たい空気。

 せめてと思い窓を開けているけれど、外からなだれ込むセミの声は容赦なく、かえって暑さが増した気もする。

 そんな部屋で私は家庭教師のアルバイトをしていた。

「……ねぇ、ユウキくん」
  
 丸いローテーブルの上にノートを広げ、赤ペンを手に採点中の私は、ついに耐えられなくなって教え子の名を呼んだ。
  
「……なに?センセ」

「ユウキくんの視線が痒い」
 
 私は丸付けの手を止めず、ノートを見たまま隣の彼にそう告げた。

 彼のほうを見ているわけじゃない。

 けれど彼から私に向けられるこの視線だけは、不思議と感じ取れてしまうのだ。

 それはどれだけ逃げたくても逃げられない夏の暑さのように、無視しようにも無視できない視線だった。

「かゆい?何が?」

「なんだか首の後ろがムズムズするからっ……そんなにじっと見ないでほしいの。今日も最後に小テストするんだし、それの勉強してて?」

「メンドクサイ」

「……」

 私は本気で困っていたが、私の教え子であるユウキくんは、半笑いの声でさも可笑しそうに返事をする。

 わかっている。至近距離で見つめてくるこの行為に意味なんてない。

 彼はただ私を困らせて楽しんでいるだけだ。

 思えば……今日クーラーが壊れたという話だって、本当のところはどうなんだろうか。

 壊れているのが真実としても、なら下の階のリビングを使うなりの対処ができた筈だった。どうせ彼の唯一の肉親である父親はいま仕事で不在なのだし。

 けれどユウキくんは当然のようにこの自室へ私を迎え入れた後、「ちなみにクーラー壊れてるから」とケロリと言い放ったのだ。

 使うことを許されたのは小さめの扇風機だけ。

 それが今、私たち二人の背中に頼りない風を届けている。

「……ねぇ、センセ」

「……なに?」

「あのさ、センセの首」

「……?」

「蚊が止まってる」

「え…!どこ?」

「なーんちゃって、嘘」

「な……!」

「ごめんごめん。だって痒いとか言い出すから、つい」

「…そ、そう」

「センセって普段はトロいのにたまには俊敏な動きもできるんだね」

「……っ」

 思わず採点の手を止めてユウキくんに振り向いてしまった私は、悪戯めいて笑う彼を前に恥ずかしさで赤面する。

 まただ。からかわれた。

 こういう時に面白い返しができればいいのだけれど、あいにく口下手な私は黙り込む事しかできない。

 三つも年下の高校生に…

 また…馬鹿にされてる。

 学校の先生になるのが将来の夢なのに、家庭教師ですらこんな具合では先が思いやられる。

「あまり、ふざけないでね……っ」

 控えめに注意するだけで精一杯だ。

「もうすぐ採点が終わるから」

 結局強く言い返せられないから、私は大人しく採点に戻る。


「終わった…よ」

「ありがと、何点だった?」

「ほとんど正解──…その、最後以外、ね。……あの、ユウキくん?どうしていつも最後の1問だけ間違えるの?」

「知らないよそんなの」

「知らないなんておかしいよ…っ」

 採点の終わったノートはユウキくんに返した。

 けれど私を見ている彼は、返されたノートにチラリとも目を通さない。

 そんな彼は悪い顔で笑っている。

 これだって、いつものお決まり…。

 ユウキくんは頭は悪くないのに、解ける筈の問題をわざと間違えてくる。それも最後の1問だけ。わざとなのは明らかで。

 私以外の人だったら、真面目に解くようにきちんと叱れるんだろうな…。

 なのに私は…

「じゃあ間違えたところの解説するね……」

 私はこんなに、意気地なし。

「解説?しなくていいよ。それよりさ、もう勉強やめて休憩しない?」

「…っ…駄目」

 ちゃんと注意しないといけないのに…!

「いいじゃん、今日は親父も帰ってこないし。センセが好きそうな映画のDVD借りてきたんだよね」

「……いいから……それより……復習をしなきゃ」

「ちょっと前に流行ったからCMとかで見たことあるかも」

「…っ…ユウキくん駄目、……座って……!」

「どこ置いたっけな。……あー、あった」

「座って…」

「まぁ先生にホラー見せるのも楽しそうだな?とかも考えたけどね。絶対ホラー苦手でしょ?嫌がる先生面白いだろうなーって」

「……」

「でもそれはやめといたから大丈夫。何の映画かは見てのお楽しみってことで──」

「──座ってよ!!」

「…っ」

「あ…!!」


 注意しなきゃ

 注意しなきゃ

 そんな事ばかりが頭をぐるぐる回って

 私は思わず、声を荒げてしまった。


 “ そんな……叫んじゃ った…… ”

 腰を上げかけたユウキくんの動きが止まる。

 私はしまったという後悔から唇を噛んだ。

 確かに注意したかった。けど、こんなふうに叫んでしまったら元も子もない。

「……」

「……っ」

 気まずい空気になった。

 背中越しに、扇風機が首を振る音が聞こえだす。

 それを掻き消さん勢いで窓の外でセミが鳴く。

 ユウキくんは喋らない…。彼がどんな顔をしているのか見る勇気が無く、私は顔を俯かせた。


 どうして?


「…ご、ごめんね…大声だして」


 どうして私が謝ってるの?


「映画見るのは……っ、私が帰るまで我慢してね。今はほら、べん きょう、しなきゃ」


 どうしてこう…上手くいかないの?

 どうしてユウキくんは私の言う事を聞いてくれないの?

 どうして意地悪ばかりするの…?

 そんなに私が気に食わないの…?



 そんなに私は、嫌われてるの…?



「──…先生、泣いてる……?」

「……ッ…ぅ、ぅ…」

 対処のしようがなかった。

 大声を出したせいで興奮してしまったのか、突然涙が溢れてきた。

 泣くほどの事じゃないのはわかってる。でも止まらない。

 頭の中で自分を卑下する言葉が飛び交い、それらが鋭いトゲに変わって自分の胸に突き刺さる。

 これでは、駄目だ。

 ユウキくんがますます驚いている。変に思われてる。

 だから勉強を再開しなければと焦って、焦って

 焦って持ったペンの先が震えて…字なんて書けそうにない。

 “ 泣くの止めないとますます嫌われる… ”

 嫌な汗がどんどん出てきて、唇まで震えた。



 ....ギュッ



「‥‥‥!」


「どうして泣いてるの……、先生」


 その時──手の震えが止まった。


 いや、止まったのではなくて、止められたのだ。

 ペン先が定まらない私の右手を、ひと回り大きなユウキくんの手が握っている。それと同時に……

 どうして、どうしてと

 私の中で飛び交う言葉を、代わりに彼が口にした。


「何が悲しいの?つらいことあった?」

「何が…って、……それは……」

「……」

「ユウキくんが…!…イジワル…ばかり、すること」

「ああ、なんだ、……俺のせいか」


 テーブルから離れようとしていた彼が、私の隣に戻って座る。

 手を握っているほうと逆の指で、俯く私の頬にちょんと触れた。




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