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逆流
しおりを挟むカタカタカタカタ....
頭の中の音が爆音に近くなってきた。
まるで僕の身体が勝手に、全てを忘れる準備を始めたみたいに。
「初期化……した後は」
その音に負ける小ささで、僕が声を出す。
「一度は君を忘れたとしても……また、すぐに、僕は君を好きになるから」
「……」
「……待って、くれるかい?」
幸せな未来をいらないと言った君に、僕はもう口を出せない。
幸せの獲得よりも悲しみからの逃避を選んだ。そんな君を……僕は尊重しなくちゃいけない。
だったらせめて、全ての記憶を失った後も君の側にいたいと願うよ。
今の僕にとっては、まだ、君が世界で一番、魅力的な人だから。
でも君は……返事をしてくれなかった。
代わりに泣き出した。今度こそ肩を震わせて、嗚咽をまぜて泣き出した。
ブランコをこいでいた子供が止まって、笑いながら僕たちを指差す。母親は急いでたしなめていた。
カタカタ、カタカタ
カタカタカタカタ.......
僕の頭はいよいよおかしくなって、何かのネジが飛んだように騒ぎ出した。
僕は頭を抱え、効果もないのに耳を塞いだ。
そうか……これは
僕の頭で騒いでいるのは……
かつて、僕が消してきた記憶たちだ。
僕が、僕の都合でデリートしてきた記憶たち。
本当は消えていなかったんだね。
ごみ箱の中に詰め込まれていただけで、本当はずっと僕の中にいて……僕を少しずつ押し潰していたのか。
何年も、何十年も。ずっとずっと……僕を蝕みながら残っていたのか。
とんだ厄介者だ。
(ふ……、でもまぁ、仕方がないか……)
消せるわけなかったんだ。
君がいる景色は、君が生きるこの世界の景色は、どんな些細な事だろうと僕にとって価値がある。
君や僕にとって都合の悪い記憶だろうと。あった事を 全くなかったことに変える だなんて、そんな悲しい真似──できる筈がなかったんだ。
(悲しい……)
そうか、これが、感情なのかもしれないな。
おかげで自分の首を締める結果を招くだなんて、合理的とは程遠い。
僕は僅かでも自分が人間に近付けたような、そんな気になっていた。
「は、やく……初期化を」
耳を塞いだまま、僕は君を急かした。
あと半年という宣告だったけれど、そんな猶予も無さそうなんだ。
はやく、僕が、完全に停止する前に。
「初期化を……っ」
「……!」
君を怯えさせないように気を払う。そのために必要なのは……そうだ、笑顔だ。僕は微笑んだ。
カタカタカタカタ....
カタカタ
カタカタ
『 さぁ来い、637S。彼女がお前の主人だ 』
『 はい、承知しました 』
『 今日から懸命に遣えるのだぞ 』
『 はい、しっかりと務めます。お嬢様は僕がお仕えする大切なマスターですから、どんな命令にも従わせて頂きます 』
『 やだ──いわないで。
マスターだなんて……よばないで 』
脳裏を逆流する。
ああ……そうか、マスターとは君のことか。
この記憶は、僕が初めて君の家に連れてこられた日。君が僕のマスターになった日の、やりとりだ。
君が真っ先にデリートするよう命じた記憶──。君自身が最も忘れたくて、なのに、どうしても忘れられない記憶。
僕だけが忘れたつもりになっていたなんて卑怯だね。ごめんね……本当に。
「……ね……ぇ、……ねぇ」
ふと前を見ると、君が何か喋っていた。
僕は耳を塞いでいた手を離してその言葉を聞いた。
「……どうしたんだい?」
「お願いがあるの」
「……そう か。何でも、聞くよ」
僕が僕でいる間の、最後の願い。
全力で叶えてあげたいと思った。
今の僕にその力が残っているかは、わからないが。
「あなたを初期化したらね、わたし……」
「……?」
「たぶんあなたのマスターには、ならないわ」
嗚咽混じりの君の声は、聞き取るのが難しい。
しかも今の僕は異常事態。
……だからなんだ。君の願いを聞きいれるのは今しかないんだ。
僕は君の口許へ顔を寄せた。
同時に、肩を抱き寄せて──。
「まっさらになった貴方に、出会いたいの」
「……」
「マスターじゃない私を、愛してほしいの…っ」
まさかそんな言葉を聞くことになろうとは……思いも、せず。
.....
確かに君は、小さな頃から我が儘で、一度決めた事は曲げない強情者で、対処に困ったことが何度もあったさ。
でもこんな……こんなお願いをされたのは初めてだった。
マスターでない君を愛せるかなんて、そんな過去最大の無理難題を、このタイミングで言ってくるだなんて。
(そんな君だから……、僕は不安なんだ)
僕は抱き寄せていた肩を少しだけ押し戻して、君と目を合わせた。
君は……自分で頼み事をしておいて、僕の返事を聞くのをためらうように、肩を強張らせていた。
僕はもう一度微笑む。
「わかった。…約束、する」
約束。
僕がもうすぐ更新されようとする今、最も曖昧なこの言葉。
この言葉を使った僕は、やっぱり卑怯だね。
でもこれを聞いた君は、安心して笑い返してくれた。
……いや
安心したふりをして笑って見せてくれた。まどろむような目を向けて。
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