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記憶

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 その後、空になった皿を洗った僕たちは、何も置かれていない食卓で改めて向かい合った。

 僕と君はこうして時々、僕の記憶のデリートを行う。

 記憶、思い出──君がそう呼ぶ  は、僕にとっての  だ。

 毎日、毎日、僕の頭にはあらゆる情報が蓄積される。見た物の形や色、数メートル先で交わされる他人の会話、虫の羽音の周波数、肌にあたる空気の匂いや湿度まで。身の回りで起こる事象の全てがなだれ込む。

 そして多すぎる情報が僕の頭を圧迫しすぎると、動きや判断に支障を与えるんだ。

 僕も万能じゃあない。

 人間はわざわざデリートを行わなくても意思とは無関係に忘れていくものらしいが、僕はそれができなかった。

 だから、消す。

 消すには君の同意が必要だった。

「何から忘れようか?話してみて」

「……君が大学へ行っている間、いつもの公園でベンチに座っていたら、知らない女性たちからお食事どうですかと誘われたよ」

「えっ、それ本当? 許せない!」

「もちろん断ったから許してよ」

「あなたは悪くないのよ、でも…っ、うう」

「消してもいいかい?」

「ええ、忘れていいわ」

 優先順位の低そうなことを君に話して、君からの承認をひとつひとつ取っていく。

「君の帰りを待ちながら作った、チーズケーキのことだけれど……」

「それは忘れたらダメ。すごく嬉しかったから」

「わかった。……なら、同じ日に家にムカデが出てきたことは?」

「きゃあああー! 何それ!? どこ? どの部屋?」

「退治しておいたから平気さ」

 デリートには時間がかかる。

 でも僕はこの時間が苦痛でなかった。

 向かい合う君も、ころころと表情を変えながら楽しそうに聞いていた。

 君がいない間、僕が何をしていたのか。それを事細かに話して、共有して……忘れる。

 僕にとって君がいない景色は優先度が低いから、デリートの対象となるほとんどが僕ひとりの  だった。



 けれどごく稀に、君から選ぶ時もある。



「ほら、あれは? 先週……この家にお父様が来たでしょう?」

「そうだね」

「お父様があなたに酷いことを言ったじゃない。心無いことをよ」

「君はあの時怒った表情をしていたね」

「当然」

「どこからどこまでを消すべきかな」

「全部よ。あの日のことは全部、忘れて」

「……わかった」

 それは君にとって嫌な記憶で、君が忘れたくても忘れられない記憶で。

 ……君を不快にさせる記憶は、僕にとっても不快に違いない。きっと、そうだから

「今すぐ、忘れるよ」

 迷うことなく消去した。

 こうして君を笑顔にする記憶だけが残っていく。

 僕の動きを鈍くしていた邪魔者が、君の選択できれいに整理されて──記憶が煮詰まる。

 ちょうど、夕食の唐揚げに添えられていたポタージュのような。煮詰めれば煮詰めるほどに密度を上げて……舌触りを増すように。君のいる光景がその解像度を増して、僕の中により鮮明に象られていく気がする。

「よし、今日はこのくらいにしよっか」

 あっという間に壁掛け時計の針はニ周していた。

「一緒にお風呂……はいる?」

 パッと椅子から立ち上がり、バスルームに足を向けた君が背中越しに問いかける。

 赤い耳が黒髪から覗いていた。

「……」

 僕は声に出して返事をする代わりに、君にそっと近付いて──主人に身体を擦り付ける飼い猫と同じ意味を含んで、君の首筋にキスをした。



 気付けば、夜はふけていた。



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