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俺の名前を呼んで求めてくれる。でも、俺の手を取ることはしてくれない。幸慈の中で、何かがそれを邪魔をしてる。その何かすら、俺には解らない。腕の中の幸慈が怯え疲れて眠った後、未だに俺の上着の裾を微かに掴んだままの手に愛しさが増す。うるさい携帯を手にとって画面に目を向ける。同じ未登録アドレスからメールが送られ続けてた。
ロッカーは綺麗になった?今日は遅いね。遅刻しちゃうよ。教室で待ってるね。まだ出ないの?寝坊かな?寝顔可愛いだろうな。檜山に脅されてるんでしょ。守ってあげるからね。そばにいるよ。すぐ隣にいるからね。ずっと見てるよ。
幸慈を追い詰めるメールを黙らせるのに電源を切った。本当はぶち壊したいけど、発信源を見つけるためにそれは避けるしかない。幸慈をベッドに寝かせて、前髪の上からキスをする。濡れた睫毛が痛々しい。カーテンと窓を開けて、ベランダに出て外を見回す。気配はない、か。俺が顔を出せば、相手が慌ててボロを出すと思ったんだけど、そう簡単にはいかせてくれないみたいだ。部屋に戻って窓とカーテンを閉めた後、改めて幸慈の部屋を確認して、変化は無いと判断する。施錠はされてたし、カーテンも物も動かされた痕跡は無い。でも、何でまだ家に居るなんて知ってたのか謎だ。やっぱり近辺に居るとしか思えないな。
昨日のロッカーのありさまは本当に酷かった。精液があっちこっちにかけてあって、鞄の中も制服も使い物にならない状態でロッカーの中に置かれていた。冷静になれと言う方が無理だ。秋谷もミーちゃんが薫達と話してる隙にロッカーを見に来たけど、言葉を無くしてたくらいだし。無数に投げ入れられてた幸慈の写真は全て精液がかけられて、カッターで幸慈以外の人間の顔が切り取られてた。気を付けないとミーちゃん達にまで被害が行きそうだ。それは幸慈が望まない。念のため葵にも連絡を入れておこう。悔しいけど、場数が上な分、俺と違って上手く立ち回ってくれるはず。携帯の件はオジィに言うしかないな。ロッカーのことも、上手な言い回しが出来ないから全部話してるけど。昨日のオジィとのやり取りを思い出して、息を吐く。あんな顔をしたオジィは久々に見たと思う。
「ストーカー?」
「うん。写真撮ってきた」
携帯の画面を見て、険しい顔をしたオジィは、メモに何かを走り書きして、付き人を呼び出してそれを渡した。オジィの理解速度と対応力の速さが尋常じゃない気がする。
「ロッカーに入っていた物は?」
「証拠はゴミ袋にいれて、庭に置いてある。幸慈のだから捨てたくないけど。今回は諦めないと駄目かな。ノートだけは新しいのに書き写せたら良いな、とは思ってる」
「そうか。幸慈くんの様子は?」
「平静を装ってるけど、父親の面影がチラつくみたいで、怖がってるよ」
オジィは深く溜め息を吐いて、辛そうに眉を寄せた。
「何故幸慈くんばかり。親御さんは?」
聞かれた事に首を左右に振って答える。
「知られたくないって」
「まぁ、そうだろうな」
オジィはしばらく考え込んだ後、幸慈に警護を付けると言った。遠くからなら問題ないかも知れないけど、気付かれたら幸慈になんて言えば良いんだろう。でも、このまま放置してたら悪化するだけで、幸慈が救われることはない。それに、これはもう、子供だけで解決できる範囲を越えてる。
「明日は迎えに行くんだろ?」
「もちろん!」
「(鹿沼くんからの報告を聞く限り、茜もかなりのストーカーなんだが。今回は責めていられないな。目には目を、ストーカーにはストーカーで対抗してみようじゃないか)」
オジィは少し考え込んだ後、新しい制服と教材を朝までに用意するから届けるように言ってきた。そういうのって、朝までに用意出来るものなの?それから、知り合いの警察を呼ぶと言って部屋を出ていく。ノートが無事ならすぐに返してもらえるよう、話してくれるみたい。良かった。頑張ってきた証みたいな物だから、簡単には捨てたくないんだよね。それを簡単に踏みにじられた。俺の宝物を傷付けた罪は、命がけで償わせないと。あー、切り刻みてぇ。
昨日の殺意に呑まれかけていると、携帯が震えて黒い思考が引っ込み、冷静な思考に戻された。鹿沼からのメールで、ミーちゃんと学校に着いたって報告に、息を吐きだして安堵する。昨日の今日で、何かが起きてるのは、俺と幸慈だけみたい。とりあえず、メールの事だけ伝えておこう。オジィにも連絡入れておかないとね。それから、盗聴機とカメラの付いたペンを部屋に設置する。オジィにバレたら殺されるなぁ。でも、それも覚悟のうち。幸慈を守るためなら手段は選ばないって決めたからね。穏やかに眠る姿に目を細めていると、携帯がオジィからの連絡を告げて、渋々部屋を出て通話ボタンを押す。オジィの声からは、心配と苛立ちが混ざってた。護衛からの報告が無い事を知ると、こことは違う場所から見てることになる。あるいは、前もって幸慈の動きを把握していて、別の場所で待ち伏せをしている可能性も。それなら、いつまで経っても来ない事に対して、今日は遅い、という言葉が送られてきても可笑しくない。ただ、個人携帯からメールを送ってるかどうかは怪しいと、オジィが言った。オジィとの電話が終わると、今度は千秋から電話があった。誕生日で幸せ一杯な所を邪魔するのは、あまり好かないんだけど、今回は仕方ない。結局、携帯のアラームがなる直前まで連絡のやり取りを繰り返した。その結果、幸慈に背負われて学校に行くはめになった挙げ句、どうやってたどり着いたのか記憶にないまま、席に座ってすぐに眠りに付く事になる。
今何時かな?なんて、ぼんやりする頭で考えた。外はまだほんのり明るい気がするけど、これが教室の電気だったらもっと眩しいだろうな。遠くの方に聞こえるやり取りはミーちゃんと幸慈だね。幸慈の声を間違えるなんて有り得ないし。うっすらと目を開けると、遠くに感じた声がすぐそばから聞こえてきた。ずっと同じ姿勢で居たのか、体はギシギシと音を立てて、錆びた鉄ように動かし難かった。
「おぉ、起きたか」
「おはようヒーくん」
「うぅー、おはよう。ミーちゃん。今何時?」
「十九時だよ。最終下校時間前に起きて良かった。起きなかったらどうしようって心配してたんだ」
十九時って、俺どんだけ寝てたんだよ。最高記録並みに寝てるじゃん。
「平均睡眠時間位は寝てた?」
「そうなるな。多木崎にしがみつきながら教室に入ってきたのは面白かった」
「秋谷くん、そんな事言ったら駄目だよ。ヒーくん、本当に心配したんだからね」
あ、ミーちゃんが秋谷の事名前で呼んでる。こっちが苦労してる間に凄い進歩だな。なんて思いながら秋谷を見ると少し口角が上がった。これはあれか?ついに階段を上っちゃったやつ?
「ミーちゃん、大人になっちゃったのね」
「えっ?まだ成人してないよ」
さすがミーちゃん。素晴らしい返し。
「幸慈ー、負けてられないねー」
「話しかけるな」
「酷い!」
ミーちゃんが補足するには、左手でノートを書き写すのに疲れてるからそっとしといた方が良い、との事でした。確かに利き手とは違う方で生活をしてるから、ストレスが溜まりやすいのも仕方ないか。
「葵から電話合ったぞ」
「ん?んー、本当だ」
ポケットから携帯を取り出して着信を見ると、葵から恐ろし数の着信履歴が残ってた。千秋とオジィの二人から連絡がいったのかもなぁ。折り返す気力がない。
「葵さんって、ヒーくんのお兄さんだよね?」
さんを付ける程の人間じゃないよ。
「産まれた順だとそうなるね。電話してくる」
立ち上がった俺は、後ろから幸慈のネクタイを襟下から少し引き出して、GPSの存在を確認した。
「おい」
まさか新しいのにも付いてるのか、と俺を見上げて言う顔に、俺はニッコリと笑う事で答えた。付ける前に確認しない所がさすがだよね。本当、自分の事は無関心なんだから困ったものだよ。そのお陰で盗聴機とか設置しやすいんだけど。
「幸慈可愛いー」
「鹿沼、保護者の番号教えてくれ」
「いやいやいや、今のやり取りにオジィは関係ないよね!?」
幸慈に教えるために携帯を取り出した秋谷の手を、必死に抑えながらミーちゃんに救いを求めるも、笑顔のままで助けてくれそうにない。幸慈を宥めながら、秋谷の動きを阻止してると、乱暴に教室のドアが開いた。
「人からの電話無視して楽しそうにしてるとか、人間として終わってると思うのは当然だよなぁ」
予想だにしなかった不機嫌丸出しの葵の登場に、俺達は動きを止めた。正確には幸慈以外だけどね。ドアが壊れそうな位の音だったのに、それを無視して勉強優先の姿勢はさすがです。
「だからって乗り込むのも手間だと思うけど」
正論を言う千秋に続いて大和も入ってきた。
「良い子達ー、こっちだよー」
良い子達?大和の言葉に首を傾げると、仲良し三人組が入ってきた。
「はーい」
「無許可で入ってる時点で良い子じゃないだろ」
「ま、雅に賛成」
俺も賛成。てか、大所帯で来たなー。この学校、警備態勢どうなってるのさ。普通捕まるでしょ。ぞろぞろと教室に入ってくる姿に、俺は溜め息を深く吐き出す位しか出来なかった。
「溜め息はこっちか吐きてぇんだけど」
感じ悪っ。何でこんなのと兄弟なんだろ。お腹の中に優しさ全般忘れてきたんじゃねぇの。
「光臣、これから、だーいじな話があるから、皆とここで待っててねー」
「は、はい。一人じゃないから、平気、です」
好きな子限定で優しさの大安売りしてるし。
「行くぞ」
どこにだよ。自分の学校みたいに歩き回りやがって。
「幸慈、ミーちゃん、俺達が戻ってくるまで教室から出たら駄目だよ」
「ヒーくんは過保護だね。大丈夫、ちゃんと居るよ。ね、幸慈」
「あぁ、もう少しで写し終わる」
「ほら、ちゃんと居るって」
うん、聞いてないね。その場をミーちゃんに託して、俺は葵の後ろを追いかけた。暗黙のルールとやらかは知らないけど、皆迷わず屋上に行くのは何故でしょうか。ドアを開けて屋上に出ると、柵に寄り掛かったり、座り込んだりと自由に行動し始めた。纏まりないなぁ。
「メールの件だけど、現状を知りたい」
千秋からの言葉に、俺は頷いてから幸慈の携帯を取り出す。電源を入れて少しすると、受信を告げる音が屋上に鳴り響く。現在も送ってきてるのか、その終わらない音に、葵が苛立ってきたのを見て電源を切った。
「これはまた、かなりの者だね」
本当にね。千秋の感想に俺は頷く。
「最初は死神関連の嫌がらせが多かったんだけど……」
ネクタイがなくなり始めた最初は、ボロボロになったのを俺が見つけてた。でも、ある日を境にGPSだけが見つかる様になった事を伝えると、千秋は小さく頷いてから口を開く。
「境になった日に起こった出来事は?」
「薫に巻き込まれたのを迎えに行った」
「ピアノ弾いてたやつな。雅の周りで異常がないところを見ると、大所帯と言うより、個人プレーの可能性が高いか」
前々から好意を持っていたヤツが、その時の光景を見たのが引き金になって、抑えていたものが今回の形として現れたんだろう、と、千秋は推測したみたい。大方その通りだろうね。幸慈に好意持ってるヤツなんてゴロゴロ居るよ。全然犯人候補が絞れない。あの時間の駅なら学生がウジャウジャ居ただろうし。
「俺と光臣関係無ぇじゃん。かーえろ」
投げやって帰ろうとする葵を秋谷が止める為に口を開く。
「そうでもねぇ」
秋谷の言葉に葵は足を止めて視線を向ける。
「その根拠は?」
「多木崎のバイト先だ」
「……」
秋谷の言うことの意味を理解したかのように、葵はスッと目を細めた。バイト先のロッカーから出てきた顔のない写真、その場にいたメンバーと幸慈の親しそうな姿、それを見たストーカーの捌け口として、目をつけられる危険がある事を改めて伝える。きっと弱いところから狙うだろうね。例えば、葵のお気に入りの子とか。
「大所帯ではない。けど、個人プレーと言い切る事も出来ない」
「確かに、少人数の否定は出来ねぇな。メールの件を考えると、何処かで待ち伏せしてる可能性があるけど、ボディーガードの報告に無いなら、何人かで見張ってる可能性も捨てきれない」
秋谷の言葉に千秋が捕捉するように続ける。確かに、今回の事は大人数じゃなくても出来るな。
「携帯のGPSを利用してる可能性は?」
大和の疑問に千秋の視線が俺に向く。
「茜、電源を切ったのはいつ?」
「今日の朝。メールが届いてから幸慈の様子がおかしくなったから、それまでは静かだったと思う。さっき電源入れるまでは何もしてない」
「……番号さえ解れば出来なくはない。慣れてない相手なら痕跡が残ってるかも」
それって、犯人を見つけられるって事だよね!千秋の言葉に手に持っていた携帯を強く握り締める。
「オジィに頼んで、その相手を探してもらう」
「それは俺も噛ませてもらう。解るのは早いに越したことはない。面倒な噂が広がりきる前にね」
チラリと動いた千秋の視線の意味を察して息を吐く。
「光臣の周りで不穏な奴等が増えてきてるのは確かだ。元々の問題が片付いた後に変だと思ってたら、こういうことか。クソ茜」
「俺のせいじゃねぇし!」
「あ?テメェの物の問題は、テメェの責任だろうが」
「幸慈をその辺の物と同じにすんな!」
「はいはい、兄弟喧嘩は今度にしような」
大和が間に入りながら、これからの生活においての約束事を決めることにした。
パートナーの側を離れない。離れるときは、この中の誰かがいる場所に預ける。
喫茶店にはしばらく行かない。行くのは俺と秋谷のみ。
メールの送り主がわかるまで千秋と薫は俺の家に泊まる。
各自、その日の報告を千秋にメールで送る。
途中問題に接触したら、パートナーを何よりも優先する事。
以上が、定めたルールだ。
「GPSは外さない様に説得しとけよ」
葵の忠告に、モチロン!って言い返したら、大和が溜め息を吐いた。
「つーかGPSって、やりすぎだろ」
「幸慈が心配なだけだし!巻き込まれ体質の凄さを知らないから言えるんだよ!」
「まぁ、今回は使わせてもらうけど。それ原因で関係が悪化することも有るからね」
さらりと恐ろしい事を言う千秋に言葉を失った。幸慈がオジィに連絡しようとしなくなったら、それはそれで氷河期の危険が有るってこと!?俺に対する興味の低下とか!?
「氷河期怖っ!」
「何言ってんだオマエ。そう言う千秋も付けてんじゃん」
マジでか!大和の言葉に同類の期待を込めて千秋を見ると、何食わぬ顔で携帯を操作し始めた。
「こっちは付け合ってんの。一緒にすんな」
その手が合ったか!
「俺もそうする!」
「多木崎が逃げやすくなるのは間違いないな」
「逃げられるの前提!?」
秋谷の言葉に肩を落とす。
「遊び人のレッテルは無くならないからな」
ケタケタと笑う葵の顔を睨み付けながらも、言い返せないでいると、千秋がドアの方へ歩き始める。大和は伸びをして、葵は千秋の後を追うようにゆっくり歩き始めるも、俺の横で一度止まって、携帯を手渡してきた。
「ヘマすんなよ。死ぬ気でやれ」
「鏡の前に立って言え」
俺が言い返すと、千秋が屋上のドアを開ける。それを待っていたように、薫が抱き付く。抱き付くなんて、幸慈は絶対にしないやつだ。いつも俺から抱き付いてる記憶しかないし。
「薫、教室に居るんじゃなかったの?」
「デブラが来るから早く帰れって」
千秋の質問に雅が答えた。
「デブラ?」
「あぁ、あれね。今なら校庭徘徊してんじゃねぇの」
千秋の疑問に俺が答える。幸慈の武勇伝としてメタボリック教師を蹴散らしたってのが、その日の内に広まって、生徒の間で体育教師がデブラと呼ばれるようになった。
「どれどれ……ハハハッ!確かにデブ!」
「ラはどこから来たんだ?」
爆笑する大和の横で、雅が冷静に疑問を口にする。
「ランニング中に蹴られたからだろ」
「なるほど」
秋谷の暢気な返答に、雅だけでなく俺も納得した。
「汚いな。薫、見たら駄目だよ。目が腐る」
「えー、どんなのだよー」
「俺以外に興味持たないで」
「わー、良い男っ」
「うん。ありがとう」
千秋が薫にベタ惚れなのは子供の頃から変わらないけど、しばらく文通だけの期間もあったせいか、束縛レベルが高くなってる気がする。幸慈も千秋や薫みたいに、気持ちが素直に口から出てくれれば良いんだけど。俺限定で。あれ、葵が居ない。
「葵は?」
「とっくに戻ったぞ」
「えっ!」
秋谷ってば何を当たり前のように言ってんのさ!急いでドアを抜けて階段を転びそうな勢いで走り降りた。教室の中に入っていった葵の姿に足を速める。教室に入ると、予想してたより暢気な光景が待っていた。
「てなわけで、この問題の答えは二となります。解りましたか?」
「「「はーい」」」
なんだろう、この良い子代表が先生の言葉に声を揃えて返事をする姿は。肩で息をする俺が場違いに思えるよ。
「いやー、困るんだよね。無断で友達呼ぶのは非常に困る。しかも今日の宿直は噂のデブラ先生なんだよ。そんな日に招待されると多木崎先生は困っちゃうなー」
「ご、ごめんなさい先生。次からちゃんと言います」
「そうしてくれると助かるよ。はーい、多木崎先生の臨時教室はここまで。寄り道せず帰るように」
「「「「「はーい」」」」」
多木崎先生を見送った後、改めて黒板を見ると、綺麗な字で分かりやすく問題と解説が書かれていた。さすが幸慈の伯父さん。
「先生は何しに来たの?」
俺の質問に、幸慈は怪我した右手を上げる事で答える。
「あー、自分でやるの大変だもんね。俺に言ってくれれば良いのに」
そう言って完璧に手当てされた親指をまじまじと見た。俺、こんなに綺麗に出来るかな。
「母さんに頼んだ方が良い」
「お医者さんだもんね」
「確かに」
幸慈とミーちゃんのやり取りに、あっさりと頷いてしまった。
「何賛同してんだよ」
呆れる葵の視線を受け流してると、廊下から賑やかな声が聞こえてきた。見つかって怒られる心配は全く無いんだろうな。教室に入ってくると、黒板に書かれている問題の解説に薫が食い付いて、千秋が薫限定特別授業を始めた。
「皆はどうやってバレずに帰るの?」
「その辺の塀を乗り越える」
ミーちゃんの素朴な疑問に、大和が当然の様に答えた。今の一言でどうやってここまで来たのか想像がつくよ。
「皆運動得意なんだね」
「皆じゃないぞ」
そう言って雅は京崎の方を見る。
「へ、塀を、乗り越える以外の、方法って無いのかな」
「だいじょーぶ。俺が抱っこしてあげるから。塀を乗り越えるなんて滅多に無いし」
「そ、そうなの?」
京崎は良い子だね。そのせいで葵にめちゃくちゃ丸め込まれてるよ。可哀想に。
「何か安心した」
良かったね、ミーちゃん。
「そうだ。幸慈、しばらく携帯これ使ってね」
「意味が解らない」
ですよね。
「だってー、壊しちゃったんだもん」
「は?」
怒ってらっしゃる。
「アドレスとかはコピー済みだからね!人数少なくて助かったよ!」
「ほぉ」
幸慈からの威圧に堪えられず、幸慈の隣の席から椅子を引き出してその上に正座した。
「個人情報保護法って言葉知ってるか?」
「はい」
「プライバシーの尊厳は知ってるか?」
「はい」
「この中に檜山家保護者の番号は入ってるか?」
「ん!?んー、そうねー……」
ヤバイ!今度こそオジィの連絡先が幸慈に渡ってしまう!どうにかしなければ!
「……あの、色々弁明をしたいのですが、解散した後でも宜しいでしょうか?」
「……覚えとけ」
「はい」
絶対零度とはこれくらいの環境に違いない。じゃなきゃ俺がこんなに震えるなんてあり得ない、はず。暢気に黒板を消す千秋と薫が恨めしい。両思いは心配する事が少なそうで羨ましい限りですなぁ!
「さーて、帰るよー」
葵は京崎の手を引いて教室のドアへ歩きだす。
「お、お邪魔しました」
葵とは正反対に礼儀のなってる子ですこと。
「またな。幸慈、未来」
「またねー」
「気を付けてな」
雅の挨拶にミーちゃんと幸慈が応える。
「秋谷、たまには母さんが顔見せろって」
「解った」
親戚ならではのやり取りに息を吐く。檜山家の親戚話ってあまり聞かないかもなぁ。興味ないせいか、どんな人が居るのかも解ってないや。葵達は何事も無かったかのように帰り、俺は長い息を吐く。
「多木崎、ノートは?」
「写し終わった」
「じゃあ帰るか。デブラの被害に遭う前に」
「「デブラ?」」
やっぱりというか、さすがというか。
「二人とも知らないんだね」
「多木崎が蹴った体育教師のアダ名」
「凄いアダ名だね」
「人として認識できないのはアダ名として成立するのか?」
「してるから皆が呼んでるんでしょ。ほら、机の上片して」
幸慈の使っていた道具を鞄へ入れて、大事な事に気が付く。
「俺の愛妻弁当どこ!?」
「オマエの鞄は誰も開けてないぞ」
秋谷の言葉に慌てて自分の鞄を覗き込む。ここよ、と、輝く存在を確認して鞄ごと抱き締める。
「無事だよー。良かったー」
「泣くなよ。面倒だな。食うなら早く食え」
「秋谷くん、優しくしてあげないと」
「「何で?」」
ミーちゃんのフォローに幸慈と秋谷の声が重なる。
「俺のどうでもよさに意気投合しないで!」
弁当袋から弁当箱を取り出して、椅子に座り直す。蓋を開けると、朝見たときと同じ姿で俺を出迎えてくれた。
「五分で食えよ。無理なら先に帰る」
「酷!」
秋谷なんて携帯でタイマー計りだしてるし。嬉しさより悲しさが上回りそうな状況で、口に入った炒り卵の甘さに口が緩む。
「美味すぎ!世界一幸せ者だよ!」
「未来も同じの食ってんぞ」
「幸慈結婚しよー」
「不気味な事言うな」
「不気味」
途端に味がしなくなりそうな程のショックに肩を落とす。
「ヒーくんの答案用紙は秋谷くんが持ってるからね」
答案用紙!悲しいとかの前に、乗り越えないといけない物があったのを忘れてた!
「秋谷、今すぐ出して!」
「食ってからでも良いだろ」
「俺の愛が試されてるんだよ!」
「誰にだよ」
秋谷は携帯のタイマーに目を向けてから、鞄の中からファイルを取り出す。
「後二分な」
「ミーちゃんから優しさ分けてもらいなよ」
「オマエに優しくして何の得があんだか。ほれ」
「損得で人間関係築いたら駄目でしょ。ね、幸慈」
答案用紙を受け取りながら幸慈に同意を求める。
「損得の判断は大事だろ」
「えー」
まさかの秋谷と同意見。
「因みに、俺から得る得は?」
「損しかない」
「そうですか」
こんな気持ちで答案用紙見て九十点以下があったらどうしよう。手元の答案用紙を一枚ずつ捲って点数を確認する。全部を確認し終わった俺は、幸慈に突進する勢いで抱き付く。そのまま椅子ごと倒れた後、幸慈を見下ろして答案用紙を見せる。
「進級出来るよ!」
「他の伝え方があるだろ」
「今の俺にとってこれが最善です」
「最悪だな」
最悪でも仕方ないよね。これが俺なんだから。
「何やってんだオマエは」
秋谷が力ずくで俺の体を幸慈から離す。ミーちゃんが幸慈に駆け寄って、怪我は無いかと確認する。その間に、秋谷の携帯は震え出して、五分経ったことを伝えた。秋谷は自分とミーちゃんの鞄を持って、帰る姿勢になる。幸慈とミーちゃんの帰ろうとし始める姿に慌てて、答案用紙を鞄に押し込んで、弁当箱と箸を片手に鞄を左肩に背負う。結局、弁当を食べ歩きという形で教室を出た俺は、デブラに遭うこともなく、門を出た。幸慈は、弁当箱を食べる俺から、距離をとって歩きたがった。まぁ、当然の反応なんだけど、寂しいは寂しい。まぁ、今回はボディーガードの役割も兼ねてるから、嫌でも家まで着いていくけどね。なんかバタバタしてた気がするけど、幸慈がいつも通り振る舞えてるなら、今はそれで良いかな。
覚えてろって言われてたなぁ。いや、覚えてたよ。お弁当食べるまではちゃんと。愛妻弁当の力って凄いよね。どんな困難も一瞬で忘れさせるなんて。そして、忘れたそれを思い出させたのも愛妻弁当だった。玄関のドアが開いて、持っていた弁当箱を幸慈に返した時、不機嫌な幸慈の顔に、あれ~?って悩みはしたんだけど、弁当を持つ幸慈の手を見て、プライバシーに関する説教が待ってたなぁ、なんて思い出した途端に泣きそうです。逃げたい気持ちを抑えながら家にお邪魔すると、部屋に行ってろと言われて、鞄を持たされる。洗い物をすると申し出たけど、瞬時に断られた。怪我してる手で洗うのは大変なのに。朝ゴム手袋して洗ってたのを見たから、俺に出来たらと思って聞いたんだけど、断られた。俺にさせたくないなんて、信用無いなぁ。渋々階段を上って幸慈の部屋に入る。幸慈の鞄を机に置いて、自分のはドア付近に置く。カーテンと窓を開けて、外を見回す。朝同様、変な動きは無い。オジィのボディーガードが上手く立ち回ってる成果と思っておきますか。部屋に戻って窓とカーテンを閉める。千秋に送り届けたって報告メールはしておかないと。メールを送ると、後ろで物音がして振り返る。幸慈が立っていて、その足元には臨時の携帯が転がっていた。落としたのかな。それを拾おうとしゃがむと、幸慈は何も言わずに椅子に座った。そしてゆっくりと足を組んで、ニッコリと微笑む。その無言の圧力に、自然と正座してしまった。
「始めようか。茜くん」
死刑宣告を受けた気分です。
「言え」
「今日もメチャクチャいい男です」
素直な感想が漏れてしまった。仕方ないよね。いい男はいい男なんだから。体の前で腕組みしてることで肘に添えられている綺麗な指。左足の上に乗るしなやかな右足のラインと微かに見える踝。最高です。
「そうか。言う気が無いなら仕方ない」
言うが早いか、左手が折り畳み式ナイフを手にして、刃を出して、俺の顔をジッと見てくる。どっから出したのそれ!?このままじゃマジで死刑じゃん!
「ど、どどど、ど、どこ、どこから話しますか!?」
幸慈はナイフの刃を人差し指でなぞって、わざと刃先を確認する様な仕草をしてから、それをしまって短く息を吐く。俺は盛大に息を吐き出したいところを我慢する。
「アイツ等が来た理由」
そこからだよね。デブラの由来なんて興味ない事くらい知ってますよ。本当は話さないで終わりたいな。ストーカーの事を話したと言えば、幸慈は嫌な顔をするに違いない。でも、幸慈の中では、それはもう知られている前提で俺と向き合ってるんだから、ちゃんと話さないと駄目、だよね。
「ストーカーの事を話したから」
幸慈の目が細められたけど、無言のままだったから、やっぱり想定内ってとこかな。
「喫茶店に居た皆だって安全とは言えないから。幸慈は自分が原因で周りに迷惑が、って思ってるかも知れないけど、実際のところは、周りに巻き込まれてるのが正解だから、気にするだけ損だよ。携帯は今日の朝にオジィに連絡して、用意してもらっただけ。届けたのは葵ね。アドレスとか登録したのは千秋。携帯を壊したのは嘘。送り主を見つけて罰を与えるために借りてる。決め事も作った」
俺は全部を幸慈に話した。GPSの事も、渋々だけど了承するしかないし。どんな気持ちで聞いているのか、とか心配にはなったけど、それでも話を止めることはしなかった。全部を知りたがってると思ったから。俺の口が閉じて静けさが部屋に戻ると、幸慈はゆっくりと瞬きをして、口を開く。
「全部か?」
「うん」
「そうか」
幸慈は黙ったまま俺を見た後、ポストを見に行け、と言ってきた。俺は首を傾げたけど、すぐに心当たりが出てきて部屋を出る。階段を下りる間も、幸慈が何を考えてるのか解らなかった。抱き締めて安心だと伝えたい。でも、それを望んでるのかも解らないままだ。こういう時、いつも以上に幸慈を知りたいと思う。欲しいもの、欲しい言葉をあげられるのに。ドアを開けて、門まで歩いて周りを見回す。特に変化はない。郵便受けを開けると、呆れるくらい分厚い茶封筒が一通だけ入ってた。今日の出来事を考えると当然か。幸慈もこれを危惧して、俺に取りに行けって言ったんだろうし。これはお母さんに知られたくないよね。かといって自分が見付けて触るの嫌だし、俺が触らせたくない。何より怖いもんね。俺に頼んでくれて良かった。幸慈の家の住所は、プリントアウトされた用紙が貼られていて、字で特定するのは無理だった。郵便窓口から出したのは切手を見て解ったけど、今日届いてるってことは、前もって発送してた事になる。ボディーガードも郵便物までは確認出来ない。郵便物を確認して不審者扱いされたら元も子もないし。用意周到なのかなんなのかは置いといて、とにかく切り刻みたい。俺は募る衝動を抑え込み、近くを警備しているボディーガードに連絡して、封筒をオジィに届けるように伝える。封筒を門の外に捨てて、玄関のドアを開けて中に入る。覗き穴から外を見て、ボディーガードが封筒を拾うのを見届けてから靴を脱ぐ。幸慈の部屋に戻った俺は、封筒が入ってた事を隠しておくつもりだったのに、何故か幸慈に知られてた。
「封筒拾ったのは、檜山家の関係者か?」
「ボディーガードの人だけど、何で知ってるの?」
「カーテンを少し開ければ良いだけだ」
なるほど。勝手に他人の手に渡るってのは、心底嫌な気分だよね。
「てか、嫌とか思う!?」
「はぁ?」
「思いますよね。すいません」
「?」
俺って本当に馬鹿。幸の目に触れたのはメールだけ。他の事は絶対に知られないように動いてる。でも、新しい教科書や制服を用意された時点で、何かしらを察したのは間違いない。現に郵便物を俺に確認させるなんて、普通だったら絶対に頼まない事だ。こんな不安定な状態の幸慈を一人にしないといけないなんて、マジで辛い。でも、守るためなんだよね。何とか自分に言い聞かせて、ドア近くに置いていた鞄を右手に持って、幸慈に笑いかける。
「千秋達が泊まりに来るのに、準備しないとだから帰るね。明日も迎えに来るから」
言うだけ言って、鞄を肩にかけながら部屋を出る。階段を降りて玄関で靴を履くと、足音が近付いてくるのが解った。また明日。なんて挨拶程度に振り向いたら、不安そうな顔に後ろ髪を引かれた。ずっとここに居たい。そんな我が儘も今は言えないから、せめて近くまで来たその姿を抱き寄せる。そのまま、当たり前のように幸慈の唇にキスをした。その直後、自分でもキスをしたことに驚いて咄嗟に離れる。
「ご、ご、ごめん!チークキスをしようと思ったんだけど!」
驚いた顔をしていた幸慈は、困ったように小さく笑ってから、俺にチークキスをした。
「明日、茜くんが笑顔でいてくれますように」
幸慈の願い事に、俺は人生を全うしたかのような、堪らない幸福感に襲われた。このまま幸慈の全てを奪えたらどんなに良いだろう。そんな欲に負けてしまいたい。床に押し倒して、服を引き裂いて全てをさらけ出したら、幸慈はどんな顔をするだろうか。恐ろしいと、涙を流して拒絶されそうで怖かった。
「幸慈が幸せな夢が見れますように」
これが、今の俺の精一杯。それでも、幸慈が嬉しそうに笑うから、俺もどうしようもなく笑顔になるんだ。簡単に笑わないでよ。拐いたくなっちゃうじゃん。拐ったら怒られるんだよ。オジィがどれだけ怖いか知らないでしょ。般若だよ。般若。神様だって怖がるよ。ねぇ、神様。オジィに怒られることはしないから、今だけ、今だけ世界中の時間を止めて下さい。この場所だけでも良いから。そうすれば、この笑顔をずっと見ていられるんです。ドアを開けなくて良いようにして下さい。止まったその間だけ、目の前の愛しい人を全て奪えるから。どうか、俺にこの時間を下さい。
ロッカーは綺麗になった?今日は遅いね。遅刻しちゃうよ。教室で待ってるね。まだ出ないの?寝坊かな?寝顔可愛いだろうな。檜山に脅されてるんでしょ。守ってあげるからね。そばにいるよ。すぐ隣にいるからね。ずっと見てるよ。
幸慈を追い詰めるメールを黙らせるのに電源を切った。本当はぶち壊したいけど、発信源を見つけるためにそれは避けるしかない。幸慈をベッドに寝かせて、前髪の上からキスをする。濡れた睫毛が痛々しい。カーテンと窓を開けて、ベランダに出て外を見回す。気配はない、か。俺が顔を出せば、相手が慌ててボロを出すと思ったんだけど、そう簡単にはいかせてくれないみたいだ。部屋に戻って窓とカーテンを閉めた後、改めて幸慈の部屋を確認して、変化は無いと判断する。施錠はされてたし、カーテンも物も動かされた痕跡は無い。でも、何でまだ家に居るなんて知ってたのか謎だ。やっぱり近辺に居るとしか思えないな。
昨日のロッカーのありさまは本当に酷かった。精液があっちこっちにかけてあって、鞄の中も制服も使い物にならない状態でロッカーの中に置かれていた。冷静になれと言う方が無理だ。秋谷もミーちゃんが薫達と話してる隙にロッカーを見に来たけど、言葉を無くしてたくらいだし。無数に投げ入れられてた幸慈の写真は全て精液がかけられて、カッターで幸慈以外の人間の顔が切り取られてた。気を付けないとミーちゃん達にまで被害が行きそうだ。それは幸慈が望まない。念のため葵にも連絡を入れておこう。悔しいけど、場数が上な分、俺と違って上手く立ち回ってくれるはず。携帯の件はオジィに言うしかないな。ロッカーのことも、上手な言い回しが出来ないから全部話してるけど。昨日のオジィとのやり取りを思い出して、息を吐く。あんな顔をしたオジィは久々に見たと思う。
「ストーカー?」
「うん。写真撮ってきた」
携帯の画面を見て、険しい顔をしたオジィは、メモに何かを走り書きして、付き人を呼び出してそれを渡した。オジィの理解速度と対応力の速さが尋常じゃない気がする。
「ロッカーに入っていた物は?」
「証拠はゴミ袋にいれて、庭に置いてある。幸慈のだから捨てたくないけど。今回は諦めないと駄目かな。ノートだけは新しいのに書き写せたら良いな、とは思ってる」
「そうか。幸慈くんの様子は?」
「平静を装ってるけど、父親の面影がチラつくみたいで、怖がってるよ」
オジィは深く溜め息を吐いて、辛そうに眉を寄せた。
「何故幸慈くんばかり。親御さんは?」
聞かれた事に首を左右に振って答える。
「知られたくないって」
「まぁ、そうだろうな」
オジィはしばらく考え込んだ後、幸慈に警護を付けると言った。遠くからなら問題ないかも知れないけど、気付かれたら幸慈になんて言えば良いんだろう。でも、このまま放置してたら悪化するだけで、幸慈が救われることはない。それに、これはもう、子供だけで解決できる範囲を越えてる。
「明日は迎えに行くんだろ?」
「もちろん!」
「(鹿沼くんからの報告を聞く限り、茜もかなりのストーカーなんだが。今回は責めていられないな。目には目を、ストーカーにはストーカーで対抗してみようじゃないか)」
オジィは少し考え込んだ後、新しい制服と教材を朝までに用意するから届けるように言ってきた。そういうのって、朝までに用意出来るものなの?それから、知り合いの警察を呼ぶと言って部屋を出ていく。ノートが無事ならすぐに返してもらえるよう、話してくれるみたい。良かった。頑張ってきた証みたいな物だから、簡単には捨てたくないんだよね。それを簡単に踏みにじられた。俺の宝物を傷付けた罪は、命がけで償わせないと。あー、切り刻みてぇ。
昨日の殺意に呑まれかけていると、携帯が震えて黒い思考が引っ込み、冷静な思考に戻された。鹿沼からのメールで、ミーちゃんと学校に着いたって報告に、息を吐きだして安堵する。昨日の今日で、何かが起きてるのは、俺と幸慈だけみたい。とりあえず、メールの事だけ伝えておこう。オジィにも連絡入れておかないとね。それから、盗聴機とカメラの付いたペンを部屋に設置する。オジィにバレたら殺されるなぁ。でも、それも覚悟のうち。幸慈を守るためなら手段は選ばないって決めたからね。穏やかに眠る姿に目を細めていると、携帯がオジィからの連絡を告げて、渋々部屋を出て通話ボタンを押す。オジィの声からは、心配と苛立ちが混ざってた。護衛からの報告が無い事を知ると、こことは違う場所から見てることになる。あるいは、前もって幸慈の動きを把握していて、別の場所で待ち伏せをしている可能性も。それなら、いつまで経っても来ない事に対して、今日は遅い、という言葉が送られてきても可笑しくない。ただ、個人携帯からメールを送ってるかどうかは怪しいと、オジィが言った。オジィとの電話が終わると、今度は千秋から電話があった。誕生日で幸せ一杯な所を邪魔するのは、あまり好かないんだけど、今回は仕方ない。結局、携帯のアラームがなる直前まで連絡のやり取りを繰り返した。その結果、幸慈に背負われて学校に行くはめになった挙げ句、どうやってたどり着いたのか記憶にないまま、席に座ってすぐに眠りに付く事になる。
今何時かな?なんて、ぼんやりする頭で考えた。外はまだほんのり明るい気がするけど、これが教室の電気だったらもっと眩しいだろうな。遠くの方に聞こえるやり取りはミーちゃんと幸慈だね。幸慈の声を間違えるなんて有り得ないし。うっすらと目を開けると、遠くに感じた声がすぐそばから聞こえてきた。ずっと同じ姿勢で居たのか、体はギシギシと音を立てて、錆びた鉄ように動かし難かった。
「おぉ、起きたか」
「おはようヒーくん」
「うぅー、おはよう。ミーちゃん。今何時?」
「十九時だよ。最終下校時間前に起きて良かった。起きなかったらどうしようって心配してたんだ」
十九時って、俺どんだけ寝てたんだよ。最高記録並みに寝てるじゃん。
「平均睡眠時間位は寝てた?」
「そうなるな。多木崎にしがみつきながら教室に入ってきたのは面白かった」
「秋谷くん、そんな事言ったら駄目だよ。ヒーくん、本当に心配したんだからね」
あ、ミーちゃんが秋谷の事名前で呼んでる。こっちが苦労してる間に凄い進歩だな。なんて思いながら秋谷を見ると少し口角が上がった。これはあれか?ついに階段を上っちゃったやつ?
「ミーちゃん、大人になっちゃったのね」
「えっ?まだ成人してないよ」
さすがミーちゃん。素晴らしい返し。
「幸慈ー、負けてられないねー」
「話しかけるな」
「酷い!」
ミーちゃんが補足するには、左手でノートを書き写すのに疲れてるからそっとしといた方が良い、との事でした。確かに利き手とは違う方で生活をしてるから、ストレスが溜まりやすいのも仕方ないか。
「葵から電話合ったぞ」
「ん?んー、本当だ」
ポケットから携帯を取り出して着信を見ると、葵から恐ろし数の着信履歴が残ってた。千秋とオジィの二人から連絡がいったのかもなぁ。折り返す気力がない。
「葵さんって、ヒーくんのお兄さんだよね?」
さんを付ける程の人間じゃないよ。
「産まれた順だとそうなるね。電話してくる」
立ち上がった俺は、後ろから幸慈のネクタイを襟下から少し引き出して、GPSの存在を確認した。
「おい」
まさか新しいのにも付いてるのか、と俺を見上げて言う顔に、俺はニッコリと笑う事で答えた。付ける前に確認しない所がさすがだよね。本当、自分の事は無関心なんだから困ったものだよ。そのお陰で盗聴機とか設置しやすいんだけど。
「幸慈可愛いー」
「鹿沼、保護者の番号教えてくれ」
「いやいやいや、今のやり取りにオジィは関係ないよね!?」
幸慈に教えるために携帯を取り出した秋谷の手を、必死に抑えながらミーちゃんに救いを求めるも、笑顔のままで助けてくれそうにない。幸慈を宥めながら、秋谷の動きを阻止してると、乱暴に教室のドアが開いた。
「人からの電話無視して楽しそうにしてるとか、人間として終わってると思うのは当然だよなぁ」
予想だにしなかった不機嫌丸出しの葵の登場に、俺達は動きを止めた。正確には幸慈以外だけどね。ドアが壊れそうな位の音だったのに、それを無視して勉強優先の姿勢はさすがです。
「だからって乗り込むのも手間だと思うけど」
正論を言う千秋に続いて大和も入ってきた。
「良い子達ー、こっちだよー」
良い子達?大和の言葉に首を傾げると、仲良し三人組が入ってきた。
「はーい」
「無許可で入ってる時点で良い子じゃないだろ」
「ま、雅に賛成」
俺も賛成。てか、大所帯で来たなー。この学校、警備態勢どうなってるのさ。普通捕まるでしょ。ぞろぞろと教室に入ってくる姿に、俺は溜め息を深く吐き出す位しか出来なかった。
「溜め息はこっちか吐きてぇんだけど」
感じ悪っ。何でこんなのと兄弟なんだろ。お腹の中に優しさ全般忘れてきたんじゃねぇの。
「光臣、これから、だーいじな話があるから、皆とここで待っててねー」
「は、はい。一人じゃないから、平気、です」
好きな子限定で優しさの大安売りしてるし。
「行くぞ」
どこにだよ。自分の学校みたいに歩き回りやがって。
「幸慈、ミーちゃん、俺達が戻ってくるまで教室から出たら駄目だよ」
「ヒーくんは過保護だね。大丈夫、ちゃんと居るよ。ね、幸慈」
「あぁ、もう少しで写し終わる」
「ほら、ちゃんと居るって」
うん、聞いてないね。その場をミーちゃんに託して、俺は葵の後ろを追いかけた。暗黙のルールとやらかは知らないけど、皆迷わず屋上に行くのは何故でしょうか。ドアを開けて屋上に出ると、柵に寄り掛かったり、座り込んだりと自由に行動し始めた。纏まりないなぁ。
「メールの件だけど、現状を知りたい」
千秋からの言葉に、俺は頷いてから幸慈の携帯を取り出す。電源を入れて少しすると、受信を告げる音が屋上に鳴り響く。現在も送ってきてるのか、その終わらない音に、葵が苛立ってきたのを見て電源を切った。
「これはまた、かなりの者だね」
本当にね。千秋の感想に俺は頷く。
「最初は死神関連の嫌がらせが多かったんだけど……」
ネクタイがなくなり始めた最初は、ボロボロになったのを俺が見つけてた。でも、ある日を境にGPSだけが見つかる様になった事を伝えると、千秋は小さく頷いてから口を開く。
「境になった日に起こった出来事は?」
「薫に巻き込まれたのを迎えに行った」
「ピアノ弾いてたやつな。雅の周りで異常がないところを見ると、大所帯と言うより、個人プレーの可能性が高いか」
前々から好意を持っていたヤツが、その時の光景を見たのが引き金になって、抑えていたものが今回の形として現れたんだろう、と、千秋は推測したみたい。大方その通りだろうね。幸慈に好意持ってるヤツなんてゴロゴロ居るよ。全然犯人候補が絞れない。あの時間の駅なら学生がウジャウジャ居ただろうし。
「俺と光臣関係無ぇじゃん。かーえろ」
投げやって帰ろうとする葵を秋谷が止める為に口を開く。
「そうでもねぇ」
秋谷の言葉に葵は足を止めて視線を向ける。
「その根拠は?」
「多木崎のバイト先だ」
「……」
秋谷の言うことの意味を理解したかのように、葵はスッと目を細めた。バイト先のロッカーから出てきた顔のない写真、その場にいたメンバーと幸慈の親しそうな姿、それを見たストーカーの捌け口として、目をつけられる危険がある事を改めて伝える。きっと弱いところから狙うだろうね。例えば、葵のお気に入りの子とか。
「大所帯ではない。けど、個人プレーと言い切る事も出来ない」
「確かに、少人数の否定は出来ねぇな。メールの件を考えると、何処かで待ち伏せしてる可能性があるけど、ボディーガードの報告に無いなら、何人かで見張ってる可能性も捨てきれない」
秋谷の言葉に千秋が捕捉するように続ける。確かに、今回の事は大人数じゃなくても出来るな。
「携帯のGPSを利用してる可能性は?」
大和の疑問に千秋の視線が俺に向く。
「茜、電源を切ったのはいつ?」
「今日の朝。メールが届いてから幸慈の様子がおかしくなったから、それまでは静かだったと思う。さっき電源入れるまでは何もしてない」
「……番号さえ解れば出来なくはない。慣れてない相手なら痕跡が残ってるかも」
それって、犯人を見つけられるって事だよね!千秋の言葉に手に持っていた携帯を強く握り締める。
「オジィに頼んで、その相手を探してもらう」
「それは俺も噛ませてもらう。解るのは早いに越したことはない。面倒な噂が広がりきる前にね」
チラリと動いた千秋の視線の意味を察して息を吐く。
「光臣の周りで不穏な奴等が増えてきてるのは確かだ。元々の問題が片付いた後に変だと思ってたら、こういうことか。クソ茜」
「俺のせいじゃねぇし!」
「あ?テメェの物の問題は、テメェの責任だろうが」
「幸慈をその辺の物と同じにすんな!」
「はいはい、兄弟喧嘩は今度にしような」
大和が間に入りながら、これからの生活においての約束事を決めることにした。
パートナーの側を離れない。離れるときは、この中の誰かがいる場所に預ける。
喫茶店にはしばらく行かない。行くのは俺と秋谷のみ。
メールの送り主がわかるまで千秋と薫は俺の家に泊まる。
各自、その日の報告を千秋にメールで送る。
途中問題に接触したら、パートナーを何よりも優先する事。
以上が、定めたルールだ。
「GPSは外さない様に説得しとけよ」
葵の忠告に、モチロン!って言い返したら、大和が溜め息を吐いた。
「つーかGPSって、やりすぎだろ」
「幸慈が心配なだけだし!巻き込まれ体質の凄さを知らないから言えるんだよ!」
「まぁ、今回は使わせてもらうけど。それ原因で関係が悪化することも有るからね」
さらりと恐ろしい事を言う千秋に言葉を失った。幸慈がオジィに連絡しようとしなくなったら、それはそれで氷河期の危険が有るってこと!?俺に対する興味の低下とか!?
「氷河期怖っ!」
「何言ってんだオマエ。そう言う千秋も付けてんじゃん」
マジでか!大和の言葉に同類の期待を込めて千秋を見ると、何食わぬ顔で携帯を操作し始めた。
「こっちは付け合ってんの。一緒にすんな」
その手が合ったか!
「俺もそうする!」
「多木崎が逃げやすくなるのは間違いないな」
「逃げられるの前提!?」
秋谷の言葉に肩を落とす。
「遊び人のレッテルは無くならないからな」
ケタケタと笑う葵の顔を睨み付けながらも、言い返せないでいると、千秋がドアの方へ歩き始める。大和は伸びをして、葵は千秋の後を追うようにゆっくり歩き始めるも、俺の横で一度止まって、携帯を手渡してきた。
「ヘマすんなよ。死ぬ気でやれ」
「鏡の前に立って言え」
俺が言い返すと、千秋が屋上のドアを開ける。それを待っていたように、薫が抱き付く。抱き付くなんて、幸慈は絶対にしないやつだ。いつも俺から抱き付いてる記憶しかないし。
「薫、教室に居るんじゃなかったの?」
「デブラが来るから早く帰れって」
千秋の質問に雅が答えた。
「デブラ?」
「あぁ、あれね。今なら校庭徘徊してんじゃねぇの」
千秋の疑問に俺が答える。幸慈の武勇伝としてメタボリック教師を蹴散らしたってのが、その日の内に広まって、生徒の間で体育教師がデブラと呼ばれるようになった。
「どれどれ……ハハハッ!確かにデブ!」
「ラはどこから来たんだ?」
爆笑する大和の横で、雅が冷静に疑問を口にする。
「ランニング中に蹴られたからだろ」
「なるほど」
秋谷の暢気な返答に、雅だけでなく俺も納得した。
「汚いな。薫、見たら駄目だよ。目が腐る」
「えー、どんなのだよー」
「俺以外に興味持たないで」
「わー、良い男っ」
「うん。ありがとう」
千秋が薫にベタ惚れなのは子供の頃から変わらないけど、しばらく文通だけの期間もあったせいか、束縛レベルが高くなってる気がする。幸慈も千秋や薫みたいに、気持ちが素直に口から出てくれれば良いんだけど。俺限定で。あれ、葵が居ない。
「葵は?」
「とっくに戻ったぞ」
「えっ!」
秋谷ってば何を当たり前のように言ってんのさ!急いでドアを抜けて階段を転びそうな勢いで走り降りた。教室の中に入っていった葵の姿に足を速める。教室に入ると、予想してたより暢気な光景が待っていた。
「てなわけで、この問題の答えは二となります。解りましたか?」
「「「はーい」」」
なんだろう、この良い子代表が先生の言葉に声を揃えて返事をする姿は。肩で息をする俺が場違いに思えるよ。
「いやー、困るんだよね。無断で友達呼ぶのは非常に困る。しかも今日の宿直は噂のデブラ先生なんだよ。そんな日に招待されると多木崎先生は困っちゃうなー」
「ご、ごめんなさい先生。次からちゃんと言います」
「そうしてくれると助かるよ。はーい、多木崎先生の臨時教室はここまで。寄り道せず帰るように」
「「「「「はーい」」」」」
多木崎先生を見送った後、改めて黒板を見ると、綺麗な字で分かりやすく問題と解説が書かれていた。さすが幸慈の伯父さん。
「先生は何しに来たの?」
俺の質問に、幸慈は怪我した右手を上げる事で答える。
「あー、自分でやるの大変だもんね。俺に言ってくれれば良いのに」
そう言って完璧に手当てされた親指をまじまじと見た。俺、こんなに綺麗に出来るかな。
「母さんに頼んだ方が良い」
「お医者さんだもんね」
「確かに」
幸慈とミーちゃんのやり取りに、あっさりと頷いてしまった。
「何賛同してんだよ」
呆れる葵の視線を受け流してると、廊下から賑やかな声が聞こえてきた。見つかって怒られる心配は全く無いんだろうな。教室に入ってくると、黒板に書かれている問題の解説に薫が食い付いて、千秋が薫限定特別授業を始めた。
「皆はどうやってバレずに帰るの?」
「その辺の塀を乗り越える」
ミーちゃんの素朴な疑問に、大和が当然の様に答えた。今の一言でどうやってここまで来たのか想像がつくよ。
「皆運動得意なんだね」
「皆じゃないぞ」
そう言って雅は京崎の方を見る。
「へ、塀を、乗り越える以外の、方法って無いのかな」
「だいじょーぶ。俺が抱っこしてあげるから。塀を乗り越えるなんて滅多に無いし」
「そ、そうなの?」
京崎は良い子だね。そのせいで葵にめちゃくちゃ丸め込まれてるよ。可哀想に。
「何か安心した」
良かったね、ミーちゃん。
「そうだ。幸慈、しばらく携帯これ使ってね」
「意味が解らない」
ですよね。
「だってー、壊しちゃったんだもん」
「は?」
怒ってらっしゃる。
「アドレスとかはコピー済みだからね!人数少なくて助かったよ!」
「ほぉ」
幸慈からの威圧に堪えられず、幸慈の隣の席から椅子を引き出してその上に正座した。
「個人情報保護法って言葉知ってるか?」
「はい」
「プライバシーの尊厳は知ってるか?」
「はい」
「この中に檜山家保護者の番号は入ってるか?」
「ん!?んー、そうねー……」
ヤバイ!今度こそオジィの連絡先が幸慈に渡ってしまう!どうにかしなければ!
「……あの、色々弁明をしたいのですが、解散した後でも宜しいでしょうか?」
「……覚えとけ」
「はい」
絶対零度とはこれくらいの環境に違いない。じゃなきゃ俺がこんなに震えるなんてあり得ない、はず。暢気に黒板を消す千秋と薫が恨めしい。両思いは心配する事が少なそうで羨ましい限りですなぁ!
「さーて、帰るよー」
葵は京崎の手を引いて教室のドアへ歩きだす。
「お、お邪魔しました」
葵とは正反対に礼儀のなってる子ですこと。
「またな。幸慈、未来」
「またねー」
「気を付けてな」
雅の挨拶にミーちゃんと幸慈が応える。
「秋谷、たまには母さんが顔見せろって」
「解った」
親戚ならではのやり取りに息を吐く。檜山家の親戚話ってあまり聞かないかもなぁ。興味ないせいか、どんな人が居るのかも解ってないや。葵達は何事も無かったかのように帰り、俺は長い息を吐く。
「多木崎、ノートは?」
「写し終わった」
「じゃあ帰るか。デブラの被害に遭う前に」
「「デブラ?」」
やっぱりというか、さすがというか。
「二人とも知らないんだね」
「多木崎が蹴った体育教師のアダ名」
「凄いアダ名だね」
「人として認識できないのはアダ名として成立するのか?」
「してるから皆が呼んでるんでしょ。ほら、机の上片して」
幸慈の使っていた道具を鞄へ入れて、大事な事に気が付く。
「俺の愛妻弁当どこ!?」
「オマエの鞄は誰も開けてないぞ」
秋谷の言葉に慌てて自分の鞄を覗き込む。ここよ、と、輝く存在を確認して鞄ごと抱き締める。
「無事だよー。良かったー」
「泣くなよ。面倒だな。食うなら早く食え」
「秋谷くん、優しくしてあげないと」
「「何で?」」
ミーちゃんのフォローに幸慈と秋谷の声が重なる。
「俺のどうでもよさに意気投合しないで!」
弁当袋から弁当箱を取り出して、椅子に座り直す。蓋を開けると、朝見たときと同じ姿で俺を出迎えてくれた。
「五分で食えよ。無理なら先に帰る」
「酷!」
秋谷なんて携帯でタイマー計りだしてるし。嬉しさより悲しさが上回りそうな状況で、口に入った炒り卵の甘さに口が緩む。
「美味すぎ!世界一幸せ者だよ!」
「未来も同じの食ってんぞ」
「幸慈結婚しよー」
「不気味な事言うな」
「不気味」
途端に味がしなくなりそうな程のショックに肩を落とす。
「ヒーくんの答案用紙は秋谷くんが持ってるからね」
答案用紙!悲しいとかの前に、乗り越えないといけない物があったのを忘れてた!
「秋谷、今すぐ出して!」
「食ってからでも良いだろ」
「俺の愛が試されてるんだよ!」
「誰にだよ」
秋谷は携帯のタイマーに目を向けてから、鞄の中からファイルを取り出す。
「後二分な」
「ミーちゃんから優しさ分けてもらいなよ」
「オマエに優しくして何の得があんだか。ほれ」
「損得で人間関係築いたら駄目でしょ。ね、幸慈」
答案用紙を受け取りながら幸慈に同意を求める。
「損得の判断は大事だろ」
「えー」
まさかの秋谷と同意見。
「因みに、俺から得る得は?」
「損しかない」
「そうですか」
こんな気持ちで答案用紙見て九十点以下があったらどうしよう。手元の答案用紙を一枚ずつ捲って点数を確認する。全部を確認し終わった俺は、幸慈に突進する勢いで抱き付く。そのまま椅子ごと倒れた後、幸慈を見下ろして答案用紙を見せる。
「進級出来るよ!」
「他の伝え方があるだろ」
「今の俺にとってこれが最善です」
「最悪だな」
最悪でも仕方ないよね。これが俺なんだから。
「何やってんだオマエは」
秋谷が力ずくで俺の体を幸慈から離す。ミーちゃんが幸慈に駆け寄って、怪我は無いかと確認する。その間に、秋谷の携帯は震え出して、五分経ったことを伝えた。秋谷は自分とミーちゃんの鞄を持って、帰る姿勢になる。幸慈とミーちゃんの帰ろうとし始める姿に慌てて、答案用紙を鞄に押し込んで、弁当箱と箸を片手に鞄を左肩に背負う。結局、弁当を食べ歩きという形で教室を出た俺は、デブラに遭うこともなく、門を出た。幸慈は、弁当箱を食べる俺から、距離をとって歩きたがった。まぁ、当然の反応なんだけど、寂しいは寂しい。まぁ、今回はボディーガードの役割も兼ねてるから、嫌でも家まで着いていくけどね。なんかバタバタしてた気がするけど、幸慈がいつも通り振る舞えてるなら、今はそれで良いかな。
覚えてろって言われてたなぁ。いや、覚えてたよ。お弁当食べるまではちゃんと。愛妻弁当の力って凄いよね。どんな困難も一瞬で忘れさせるなんて。そして、忘れたそれを思い出させたのも愛妻弁当だった。玄関のドアが開いて、持っていた弁当箱を幸慈に返した時、不機嫌な幸慈の顔に、あれ~?って悩みはしたんだけど、弁当を持つ幸慈の手を見て、プライバシーに関する説教が待ってたなぁ、なんて思い出した途端に泣きそうです。逃げたい気持ちを抑えながら家にお邪魔すると、部屋に行ってろと言われて、鞄を持たされる。洗い物をすると申し出たけど、瞬時に断られた。怪我してる手で洗うのは大変なのに。朝ゴム手袋して洗ってたのを見たから、俺に出来たらと思って聞いたんだけど、断られた。俺にさせたくないなんて、信用無いなぁ。渋々階段を上って幸慈の部屋に入る。幸慈の鞄を机に置いて、自分のはドア付近に置く。カーテンと窓を開けて、外を見回す。朝同様、変な動きは無い。オジィのボディーガードが上手く立ち回ってる成果と思っておきますか。部屋に戻って窓とカーテンを閉める。千秋に送り届けたって報告メールはしておかないと。メールを送ると、後ろで物音がして振り返る。幸慈が立っていて、その足元には臨時の携帯が転がっていた。落としたのかな。それを拾おうとしゃがむと、幸慈は何も言わずに椅子に座った。そしてゆっくりと足を組んで、ニッコリと微笑む。その無言の圧力に、自然と正座してしまった。
「始めようか。茜くん」
死刑宣告を受けた気分です。
「言え」
「今日もメチャクチャいい男です」
素直な感想が漏れてしまった。仕方ないよね。いい男はいい男なんだから。体の前で腕組みしてることで肘に添えられている綺麗な指。左足の上に乗るしなやかな右足のラインと微かに見える踝。最高です。
「そうか。言う気が無いなら仕方ない」
言うが早いか、左手が折り畳み式ナイフを手にして、刃を出して、俺の顔をジッと見てくる。どっから出したのそれ!?このままじゃマジで死刑じゃん!
「ど、どどど、ど、どこ、どこから話しますか!?」
幸慈はナイフの刃を人差し指でなぞって、わざと刃先を確認する様な仕草をしてから、それをしまって短く息を吐く。俺は盛大に息を吐き出したいところを我慢する。
「アイツ等が来た理由」
そこからだよね。デブラの由来なんて興味ない事くらい知ってますよ。本当は話さないで終わりたいな。ストーカーの事を話したと言えば、幸慈は嫌な顔をするに違いない。でも、幸慈の中では、それはもう知られている前提で俺と向き合ってるんだから、ちゃんと話さないと駄目、だよね。
「ストーカーの事を話したから」
幸慈の目が細められたけど、無言のままだったから、やっぱり想定内ってとこかな。
「喫茶店に居た皆だって安全とは言えないから。幸慈は自分が原因で周りに迷惑が、って思ってるかも知れないけど、実際のところは、周りに巻き込まれてるのが正解だから、気にするだけ損だよ。携帯は今日の朝にオジィに連絡して、用意してもらっただけ。届けたのは葵ね。アドレスとか登録したのは千秋。携帯を壊したのは嘘。送り主を見つけて罰を与えるために借りてる。決め事も作った」
俺は全部を幸慈に話した。GPSの事も、渋々だけど了承するしかないし。どんな気持ちで聞いているのか、とか心配にはなったけど、それでも話を止めることはしなかった。全部を知りたがってると思ったから。俺の口が閉じて静けさが部屋に戻ると、幸慈はゆっくりと瞬きをして、口を開く。
「全部か?」
「うん」
「そうか」
幸慈は黙ったまま俺を見た後、ポストを見に行け、と言ってきた。俺は首を傾げたけど、すぐに心当たりが出てきて部屋を出る。階段を下りる間も、幸慈が何を考えてるのか解らなかった。抱き締めて安心だと伝えたい。でも、それを望んでるのかも解らないままだ。こういう時、いつも以上に幸慈を知りたいと思う。欲しいもの、欲しい言葉をあげられるのに。ドアを開けて、門まで歩いて周りを見回す。特に変化はない。郵便受けを開けると、呆れるくらい分厚い茶封筒が一通だけ入ってた。今日の出来事を考えると当然か。幸慈もこれを危惧して、俺に取りに行けって言ったんだろうし。これはお母さんに知られたくないよね。かといって自分が見付けて触るの嫌だし、俺が触らせたくない。何より怖いもんね。俺に頼んでくれて良かった。幸慈の家の住所は、プリントアウトされた用紙が貼られていて、字で特定するのは無理だった。郵便窓口から出したのは切手を見て解ったけど、今日届いてるってことは、前もって発送してた事になる。ボディーガードも郵便物までは確認出来ない。郵便物を確認して不審者扱いされたら元も子もないし。用意周到なのかなんなのかは置いといて、とにかく切り刻みたい。俺は募る衝動を抑え込み、近くを警備しているボディーガードに連絡して、封筒をオジィに届けるように伝える。封筒を門の外に捨てて、玄関のドアを開けて中に入る。覗き穴から外を見て、ボディーガードが封筒を拾うのを見届けてから靴を脱ぐ。幸慈の部屋に戻った俺は、封筒が入ってた事を隠しておくつもりだったのに、何故か幸慈に知られてた。
「封筒拾ったのは、檜山家の関係者か?」
「ボディーガードの人だけど、何で知ってるの?」
「カーテンを少し開ければ良いだけだ」
なるほど。勝手に他人の手に渡るってのは、心底嫌な気分だよね。
「てか、嫌とか思う!?」
「はぁ?」
「思いますよね。すいません」
「?」
俺って本当に馬鹿。幸の目に触れたのはメールだけ。他の事は絶対に知られないように動いてる。でも、新しい教科書や制服を用意された時点で、何かしらを察したのは間違いない。現に郵便物を俺に確認させるなんて、普通だったら絶対に頼まない事だ。こんな不安定な状態の幸慈を一人にしないといけないなんて、マジで辛い。でも、守るためなんだよね。何とか自分に言い聞かせて、ドア近くに置いていた鞄を右手に持って、幸慈に笑いかける。
「千秋達が泊まりに来るのに、準備しないとだから帰るね。明日も迎えに来るから」
言うだけ言って、鞄を肩にかけながら部屋を出る。階段を降りて玄関で靴を履くと、足音が近付いてくるのが解った。また明日。なんて挨拶程度に振り向いたら、不安そうな顔に後ろ髪を引かれた。ずっとここに居たい。そんな我が儘も今は言えないから、せめて近くまで来たその姿を抱き寄せる。そのまま、当たり前のように幸慈の唇にキスをした。その直後、自分でもキスをしたことに驚いて咄嗟に離れる。
「ご、ご、ごめん!チークキスをしようと思ったんだけど!」
驚いた顔をしていた幸慈は、困ったように小さく笑ってから、俺にチークキスをした。
「明日、茜くんが笑顔でいてくれますように」
幸慈の願い事に、俺は人生を全うしたかのような、堪らない幸福感に襲われた。このまま幸慈の全てを奪えたらどんなに良いだろう。そんな欲に負けてしまいたい。床に押し倒して、服を引き裂いて全てをさらけ出したら、幸慈はどんな顔をするだろうか。恐ろしいと、涙を流して拒絶されそうで怖かった。
「幸慈が幸せな夢が見れますように」
これが、今の俺の精一杯。それでも、幸慈が嬉しそうに笑うから、俺もどうしようもなく笑顔になるんだ。簡単に笑わないでよ。拐いたくなっちゃうじゃん。拐ったら怒られるんだよ。オジィがどれだけ怖いか知らないでしょ。般若だよ。般若。神様だって怖がるよ。ねぇ、神様。オジィに怒られることはしないから、今だけ、今だけ世界中の時間を止めて下さい。この場所だけでも良いから。そうすれば、この笑顔をずっと見ていられるんです。ドアを開けなくて良いようにして下さい。止まったその間だけ、目の前の愛しい人を全て奪えるから。どうか、俺にこの時間を下さい。
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