カフェオレはありますか?

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 寝不足は体に悪いとよく言ったものだ。いつもより雑に片された教科書とノートに息を吐き、正しい場所にしまう。後ろで寝息をたてる姿は起きる気配がない。母さんが泊まりを勧めなければ、朝から溜め息を吐く事も無かったのに。右手で着替えを持ち部屋を出て、階段を下りる。脱衣場に行くと洗濯かごが山盛りになっていた。一人分増えただけなのに。未来の時もすぐに溜まったな。人が存在するというのは、なんだか不思議だ。軽い部屋着に着替えた後、脱いだものを、かごに入っていた物と一緒に洗濯機に入れ、洗剤を加えてスイッチを押す。洗面台で歯を磨き、今日の予定を頭の中で反復する。予定通りこなせるかは解らないが、こうして決めておくことで楽に過ごせると解ってから、日課のように続けている。檜山バカのお陰であまり睡眠が取れなかったな。ノート一つで騒ぎすぎなんだろ。頭を抱えながら、鹿沼が家に来た時、スムーズに作業が出来るよう、必要な道具を用意するため台所へ向かう。リビングにあった弁当箱が無いのを見て、忘れ物として届けに行く事は無さそうだと安堵する。台所で作業を始めるも、そんなに時間はかからなかった。それもそうか。道具を揃えるだけなら誰でも簡単に出来る。朝食変わりにコーヒーを淹れ、カップから香る匂いを鼻に通す。このコーヒーはバイト先で勧められただけあって、とても美味しくて気に入っている。天気知りたさにテレビをつけて、ニュース番組にチャンネルを合わせリモコンを置く。晴れか。外に洗濯物を干しても大丈夫そうだな。それから三十分後、来客を告げるチャイムが鳴る。玄関に行き、鍵を開けドアを開ける。門の向こうに立っていた鹿沼を家の中に招き入れた後、玄関にある大きい靴について聞かれたので、リビングに向かいながら昨日の出来事を話す。短い溜め息の後、労いの言葉をかけられた。
「そう思うなら未来と一緒に連れて帰ってくれ」
「その方が良さそうだな」
「全然良くないし!」
 朝から煩い奴だ。チャイムの音で起きたらしい。コーヒーの入っていたコップを片すために台所へ向かう間も、後ろにピッタリとくっついて来られて、正直邪魔だ。
「コンタクト」
「はっ」
 鹿沼の一言に男は慌ただしく二階へ戻って行く。左右で違うんだったな。興味がないから改めて見ようとも思わない。コーヒーを作り直し、鹿沼に渡してダイニングの椅子へ促す。香りを軽く嗅いでから一口飲んだ鹿沼は、短く息を吐く。
「美味いな」
「バイト先のオーナーから教わった豆なんだ。僕も最近はこれしか飲んでない」
「どこのやつだ?」
 豆の種類と売ってる店を教えていると、慌ただしい足音が帰ってきた。二度寝してくれると有難いんだが。そう願いながら、足音の方へ視線を向ける。
「何で秋谷がいるのか説明してほしいんだけど!ミーちゃんだけじゃなかった?」
 鹿沼の姿を見て不満を全面に出してくる姿に肩を落とす。
「彼氏でもねぇくせに煩い奴だな」
 全くだ。
「彼氏路線一直線だっつーの!」
 煩ささに耐えられなくなった僕は深く溜息を吐く。同時に洗濯機が終了の合図を告げる。
「悪い。洗濯物を干してからで良いか?」
「構わない。手伝える事があれば言ってくれ」
「はい!俺が全部干します!」
「来るな。触るな」
 やる気を全面に出してきた檜山おとこを睨み付け、リビングから出ないように告げる。その言葉の意図が解らないといった顔に、鹿沼が助け船を出す。
「親御さんの下着も入ってるからに決まってんだろ」
「はっ!幸慈ごめん!わざとじゃないからね!」
「わざとなら、とっくに殺してる」
「ですよね(殺気ヤバー)」
「オマエより長生き出来そうで良かった」
「ははは」
 取り合えず、煩い馬鹿の口に突っ込む食べ物を用意しよう。冷蔵庫の中から、昨日の夜ごはんの残り物を適当に見繕い、皿に盛り付けてテーブルに置く。
「黙って食べてろ」
「これ美味しかったんだよねー!いただきまーす!」
 大人しく椅子に座って食べ始める姿に頭を痛めながら、僕は鹿沼にB5サイズの紙を渡す。それを受け取った鹿沼は、真剣に内容に目を通し始める。二人をその場に残し脱衣場に向かう。静かになった洗濯機の蓋を開けると、洗い立て特有の香りが鼻を擽る。中身を取り出してかごに移し、廊下を挟んで正面の四畳部屋へ運ぶ。この場所は、母さんがどうしてもサンルームが欲しい、と、建て直すとき駄々を捏ねて出来た場所だ。洗濯するのは僕なのに。今では、下着の干す場所には困らないと気付き、今となっては、この四畳部屋は便利だと思う。バスタオルは外に干したいから、それ以外の物で下着を隠すように、洗濯ばさみで止める。干す作業はパズルみたいで好きだ。干し終わった後、棚に置かれているシーツを二枚と布団挟みを二個取って、バスタオルの残るかごを手にリビングへ向かう。リビングに行くと、鹿沼は席を立ち、手伝うと言ってきた。競うように檜山おとこも両手を差し出してくる。善意を無下にするのは良くない、と判断し、シーツ一枚と洗濯かごを渡す。
「先にシーツを竿にかけてくれ」
「竿の汚れが付かないわけか。俺も干す時そうしよう」
「なるほど」
「「(本当に解ってるのか?)」」
「そっちは?」
 興味津々に布団挟みに視線を向けて聞いてくる姿に、知らないのか、と、疑ってしまう。
「これは布団を干す為のやつだ」
「布団って干すの?」
 知らないやつだった。
「「これだから箱入りは」」
 鹿沼と二人で呆れると、檜山おとこは不貞腐れて俺の手から、シーツと布団挟みを奪う。
「幸慈教えて!絶対に覚えて帰ってやる!」
「ちょっ、おいっ!」
 右腕を引っ張られてリビングを出ていく。
「秋谷に出来るなら、俺にも出来るし!」
 何と比べてるんだか。呆れながら部屋に連れていかれると、広げられたままの布団を持ち上げて、どう干すのか聞いてきた。本気で覚えて帰るつもりのようだ。布団挟みを返却してもらい、ベランダの方へ顔を向ける。
「ベランダの塀に干すんだ。だから、窓を開けて、このシーツを塀に掛けてから、布団を干す」
「窓を開けて、シーツを塀に掛けてから、布団を干す」
 俺の言った言葉を反復しながら布団を干す姿は少し面白い。まぁ、本人は珍しく真面目に取り組んでいるから、笑うことはしないでおこう。
「どう!?」
「横向きじゃなくて、縦向きにしろ」
 布団が横向きに干される姿を始めてみた。
「縦向き、縦向き」
 真面目に取り組んでいるのが不気味だ。
「どう!?」
「これで布団を止めれば終わりだ」
 布団挟みを手渡すと、開いて閉じてを繰り返し首を傾げる。
「これ何の意味があるの?」
「落下防止」
「なるほど」
 布団に二個取り付けた檜山おとこは、満足気に僕を見てきた。
「良くできました」
 頑張りを褒めると、檜山おとこはこれ以上無い位の笑顔になった。布団干しがそんなに楽しかったのだろうか。
「秋谷ー!褒められたー!」
 柵の下を覗いて、下でバスタオルを干している鹿沼に声をかけ出した。近所からクレームが来たらどうしてくれるんだ。
「そうか。だからって連れて帰るのは変わらないからな」
「全然置いてってくれて構わないんですけど」
 喜んでいたのに、次には不貞腐れて鹿沼に抗議を始める。下と上で何をやってるんだか。
「ちょっ、話は終わってないってば!もーっ、中に入られた。幸慈、早く戻ろ」
 僕と未来とは違う二人の関係性が少しだけ垣間見えた気がする。
「はっ、ガキ」
 子供過ぎて笑ってしまうな。未来が居なくて残念。来たときみたいに引っ張られたらたまらない、と、先に部屋を出るも、足音が追いかけてこない。不思議に思って振り返ると、顔を林檎のように赤くした檜山おとこと目が合う。檜山おとこは慌てた様子で部屋のドアを閉めてしまった。帰りたくないからって、立て籠りか?下に降りて鹿沼に礼を言った後、檜山おとこが上で立て籠ってる事を伝える。呆れた反応が帰ってきたが、飽きてすぐに出てくるだろうと判断して、洗濯かごを受け取り脱衣場に片す。さて、今日の目的を果たさないとな。リビングに戻ると鹿沼の姿は無く、台所でこれから使う道具を見ていた。どうしたのか聞くと、同じものを買いたいからメーカーを教えてほしい、と、予想外の事を頼まれる。ほとんどは百円均一だと伝え、計り等は買った店を教える事に留めておいた。同じ物が売ってる保証は無いからな。機能はどれも同じだと伝えたから、迷うことはないだろう。始めよう、と、一言言うと、鹿沼は俺の渡した紙を汚れない場所において、手を洗い始めた。その後、丁寧に頭を下げ、宜しく頼む、と言われる。本当に不良なのか?
「そこまで堅苦しくしないでくれ。じゃあ、まずは計量だな」
「俺がやっても良いか?」
「もちろん。0表示にするのを忘れるなよ」
「0表示……これか」
 計量カップを測りに乗せた鹿沼は、計量数を0にしてから牛乳を入れ始める。普段から鋭い目を更に鋭くしながら、真剣に計量する姿を誰が想像しただろうか。未来の何が、鹿沼を変えたんだろう。それを考える事も、今はもう必要ない。
「卵は片手で割らないと駄目か?」
 家庭科室での事を持ち出され、参った、と思い苦笑する。
「両手で大丈夫だ」
 些細なことにさえも疑問を抱くのは、未来の笑顔の為なんだと知っている。知っているから、僕もその事を悪く思わない。むしろ、感謝さえしている。恋を嫌っていたお陰で、未来の幸せを託す相手に出会えたんだから。
「カラメルってどれくらいの色が引き際なんだ?」
「色が付き始めたと思ったら火を止めた方がいい。焦げるのが早いからな」
「スピード勝負か。解った」
 本当か?心配で手元を見ていると、意外とフライパンの扱いに慣れている様で安堵する。初心者にしては手際が良過ぎないか。そう思っている間にも溶けた砂糖は色づき始め、鹿沼はすぐに火を止めて熱湯を加えた。
「思ったよりも跳ねるな。スプーンはどこだ」
 慎重に手際よく器にカラメルを流し込んだ後、鹿沼は大仕事をやり終えた後のように息を吐き出した。未来とは違う意味で大変そうだ。だが、筋は良い。
「一流料亭の一族の息子が洋菓子作りとかどうなのさ」
 僕に体重をかけるように後ろから抱き付き、呆れた声を発する檜山おとこは、長いようで短い立て籠りが終えてしまったようだ。残念さから息を吐き、重さに苛立ちを感じながら、一流料亭という鹿沼の家柄に驚いた。
「家は関係ない」
「跡取りの話とか来ないの?」
「そういうのは総本家の問題で、母が父の元に嫁いだ時点で跡取りとは無縁だ」
 総本家。僕には想像もできない話だ。無縁じゃなかったら鹿沼の人生は今と大きく違っていた事だろう。
「オーブンの使い方を聞いても良いか?」
「まず予熱温度の設定をするから……」
 何故か檜山おとこまで真剣にオーブンの使い方を聞いていた。何で檜山オマエが真剣になってるんだよ。オーブンの使い方を一通り説明し終わった後、鹿沼は鍋の中に用意した牛乳の半分を入れて火にかけた。
「沸騰する前にというのが想像できないんだが」
「周りに泡が出始めるから、それを合図に十秒位だな。かき混ぜる手は止めるなよ」
 僕の言葉に頷きながら手を動かす鹿沼は真剣で、僕もきちんと教えようという気になる。
「俺のプリンはいつ作ってくれんの?」
 いつまでくっついてるんだ檜山コイツは。
「作るわけないだろ」
「なんで!?」
 なんで檜山オマエのために作らないといけないのか、それが疑問だ。僕は鹿沼に火を止めるように言ってから、残りの牛乳を加えるように伝える。渡したレシピと、僕の指示を見聞きしながら作業する姿は、昔の自分によく似ていた。ボウルに移してからは特別難しい作業はなく、スムーズに工程が進んでいき、後はオーブンに入れるだけ。湯をはった鉄板にプリンカップを並べ、オーブンに入れスタートボタンを押す。待つだけとなった鹿沼は、片づけをしながら何度もオーブンを見る。
「オーブンが蒸し器の代わりになる時代が来るとはねぇ」
 檜山コイツはいつになったら僕から離れるんだ。
「そんなに見たらプリンが怖がって、何時いつまでたっても焼けないよー」
「んなわけねぇだろ」
 呆れ顔で止めていた手を動かし洗い物をする鹿沼の横で、僕は昼ご飯について考えていた。トマト缶がたくさんあるからパスタでも作るか。カルボナーラでもいいが、プリンの事を考えると卵料理は避けた方がいいだろう。後は適当にサラダを作れば問題ない。
「ミーちゃんの口に合うといいね」
「あぁ」
 未来を想って作ったんだから、美味いに決まってる。
「幸慈の料理は何でも俺の口に合うけどね」
 檜山バカは放っておこう。
「未来は何時ごろ来るんだ?」
「昼はこっちで食べるって言ってたから、十一時位に来ると思う」
「無視はやめてよ!」
 昨日の今日で鹿沼と通常通りに会話出来るか心配だったが、実際は何の問題もなく話すことが出来ている。そのことに安堵してはいるが、何故かそれではいけないような錯覚が付きまとっているようにも思えた。
「他にも、未来が好きなものとかあったら、教えてくれないか」
「僕の知ってる範囲でよければ」
 本当に全てを教えるのか?僕しか知らない事だってあるのに、そう簡単に教えていいのか?幸せにさせる為に教えた結果、それが悲しい思い出になったらどうする。前なら口から出そうになってた汚い言葉は、僕の中から消えている様に思えた。
「人頼みばっかりしてると、好きな子の表面しか見れなくなるよ」
 そう言いながら、檜山おとこは僕を更に強く抱き寄せた。いい加減離れてほしい。
「内面も見てる」
「例えば?」
「未来は……ちゃんと強い」
 その言葉に、僕の内側は強く波打った。とても強く叩きつけられる感情をなんて言おう。誇らずにはいられないこの気持ちを、なんて呼ぼう。
「充分だ」
「充分?」
 それが解ってれば、もう僕が教えることは一つもない。僕は右手で拳を作って鹿沼の胸に当てた。
「ありがとうな」
「多木崎?」
「鹿沼で良かった」
 きっと、だらしない顔をしているに違いない。それでも、身勝手に傷ついて涙した自分を、終わらせられるのだと感じてしまったら、伝えずにはいられなかった。
「駄目だよ」
「えっ、おいっ」
 突然体ごと後ろを向かされたと思ったら、顔を上に向かされる。正面に不機嫌な顔がやってきた。今度は何なんだと息を吐く。
「それ以上、秋谷に笑顔見せないで。心を開かないで」
 何を言っているのか解らない、と、目の前の体を押し返す。それが癇に障ったのか、僕の体を担ぎ上げた。制止を訴える鹿沼の声に反応する様子のない檜山おとこに苛立ちながらも、プリンが焼きあがったら、手で持てる位の温度になるまで常温で冷まして、冷蔵庫に入れるように、と、伝えることを忘れなかった自分を褒めたい。その間にもリビングから階段へ景色が変わる。担がれながら階段を上るのも、今回で何度目になるんだと溜息を吐き出す。僕の部屋に入ったのだと解って、すぐにベッドの上に降ろされた。担ぎ上げた時とは正反対に、優しく降ろすものだから気味が悪い。
「幸慈は誰よりも自分を一番解ってない」
「ふざけるな。僕の事は誰よりも解ってる」
「解ってない!」
「っ!」
 ベッドに押し倒された事で、反射的に目をつぶって身構えたが、それ以上に何かが起こるわけでは無く、そっと目を開けると悲しそうな顔がすぐそこにあった。何で、そんな顔してるんだ?
「俺が、幸慈を傷つけるわけないじゃん」
 そう言って僕の胸に顔を押し当てた。
「俺以外の前であんな風に笑わないで。俺の知らない幸慈を他の奴に教えないでよ。これ以上、秋谷と仲良くしないで」
「未来の恋人なんだから冷たくは出来ないだろ」
「冷たくて良い!」
 訳が解らないと体を起こそうとしたが、強い腕の力に諦めさせられた。いつもそうだ。こうやって力で押さえつけたりしてくるくせに、大事にしたいとか、傷付けないとか、矛盾な事ばかり言ってくる。そのせいで最終的に何が言いたいのか、僕には全く解らない。力だけじゃ、何も伝わらない事に檜山コイツは気付いているのだろうか。
「幸慈は、自分が思ってる何億倍以上も魅力的なんだよ」
 それは檜山オマエが物好きなだけだろ。
「重い、退け」
「今日も泊まりたい」
「女でも捕まえて泊めてもらえよ」
 そう言うと、檜山おとこは顔を上げて僕を見下ろした。
「そう言う所が、残酷なんだよ」
 檜山コイツみたいにヘラヘラしてるやつも、下手くそに笑う事があるんだな。そんな顔してまで、僕を好きでいなくて良いのに。
「未来に慰めてもらえよ」
「秋谷に怒られない程度ってのが難しい」
 どんだけ慰めてもらうつもりでいるんだ。
「葵の恋人とは何でもないんだよね?」
「……あぁ、あの子か。ただの客と店員だ」
 というか、あの二人は恋人同士ではないぞ。本人に聞いたから確かだが、明らかに片想い状態だ。
「まだ葵の片想いって感じだから、幸慈が惚れたら困るなって思ったんだけど」
 片想いって知ってたのか。
「そういうのは嫌いだって言っただろ」
「嘘」
 何を根拠に嘘と言い切るんだ。
「自分の中の本当に蓋をして生きるのは楽かもしれないけど、それは偽りでしかないよ」
 まるで今の僕が間違って生きている、と、言われたようで気分が悪い。
「不愉快だ」
「イッ!」
 僕は檜山おとこの右頬をつまんで引っ張った。痛みから逃れようと体を起こした檜山おとこをベッドから蹴り落とし、服を整えながら立ち上がり、何事も無かったかのように部屋を出る。本当、嫌になるな。偽りって何だよ。僕じゃないくせに、解った風に言うな。僕じゃないくせに。深呼吸をして頭を冷静にしてから、鹿沼のいる台所へ戻った。プリンの焼き具合を見て、難しい行程は一つもなかったにしろ、初めてにしては大したものだと感心する。
「馬鹿の相手は大変だろ」
「そう思うならどうにかしてくれ」
 出来たらな、と言われた僕は、やっぱりか、と、思いながら肩をすくめた。どうすれば良いのか、その全てに答えが用意されていれば良いのに。
「聞いてよ秋谷ー。幸慈ってば酷いんだよー」
「自業自得な事をやらかしたからだろ」
「やらかしてないし!」
 その自信はどこからくるんだ。時計に目を向けて時間を確認する。そろそろ未来が家を出た頃か。
「手で持てるくらいにはなったんだが、冷蔵庫に入れて大丈夫か?」
「あぁ、問題ない」
 俺にも優しくして、と、訴えてくる人間は放っておくとして、そろそろ昼飯の下準備でもするか。
 冷蔵庫から玉ねぎを取り出し、まな板に乗せてから、煩いのをどこかに連れて行ってくれ、と、鹿沼に頼む。遠くなる声に溜息を吐き出しながら、ツナ缶も使おうと頭の隅でぼんやり考える。本当は未来にも手伝わせたいが、プリンの存在はギリギリまで隠しておいた方が良いだろう。玉ねぎの皮を剥いて微塵切りをしてる間、冷凍庫に買い溜めしておいた物の中で、今日は何を食べようかと考え、パスタだけはやめようと決めた。


 未来が来てからというもの、鹿沼は平静を装っていたが、内心は気が気じゃないだろうな、と、心の中で合掌する。何事も無く終わりますように。プリンの量も考えて、少なめに作ったナポリタンを食べ終わった未来の前に、プリンを用意する。僕が用意する方が、疑問を抱くこと無く食べてもらえるだろう、と判断し、鹿沼に了承を得た。鹿沼も未来に関しては躊躇する事が多いと知って、今後も今日みたいに、変な気遣いをする事があるのか、と考えて息を吐く。目を輝かせる未来の横で、固唾を飲んで見守る鹿沼の姿は、かなり貴重なものなんだろうな。左袖を引かれて檜山おとこを見ると、不満気な顔とぶつかる。
「俺のプリンは?」
 あるわけないだろ。
「いただきまーす」
 スプーンに山盛り掬ったプリンを頬張った未来は、幸せそうな顔をしながら一つ目のカップを空にした。そろそろ感想を言ってやれよ、と、呆れていると、ジッと僕を見てきた。何だ?と聞き返すと、いつもと同じように美味しいけど、僕が作ったものと少し違う気がする、と、ようやく感想を口にする。同じ材料と手順でやってるのによく解ったな、と感心した僕は、鹿沼を指さした。
「今日のは鹿沼が作ったからそう思うんだろ」
「鹿沼くんが!?」
 驚いた未来は鹿沼の方へ顔を向ける。鹿沼は気まずそうに視線を逸らした後、ゆっくり未来の方を見た。
「好きと言っていたから、俺にも作れたらと思って、多木崎に頼んだんだ」
「そうだったんだ。ありがとう、すっごく美味しい!」
「そうか」
 ようやく安心できたと言わんばかりに肩の力を抜いた鹿沼は、未来と一緒に残りのプリンを食べ始めた。これで鹿沼のプリン問題は解決したらしい。鹿沼の為にもスーパーでプリン片手に悩んでた事は言わないでおこう。
「幸慈ー!俺も食べたいー!」
「家政婦に作ってもらえよ」
「秋谷は黙ってろし!前に作ってもらったけど、家政婦のじゃ物足りなかったんだよ!」
「作ってもらってたんだ」
 未来の言葉に僕と鹿沼は同時に溜息を吐いた。
「俺の前で以心伝心とかやめて!」
 やめて、と、言う檜山オマエがそうさせてる事に、気が付く日は来ないんだろうな。鹿沼と冷めた目で見ていると、檜山おとこは頭を抱えて机に突っ伏した。
「最近心配事が増えて頭パンクしそうだよー」
「じゃ、じゃあ、今は目の前の期末試験の心配してみたら?」
「それはしてないかな。三回までなら留年出来るし……そうなったら幸慈が先輩かぁ、良い響きかも」
 どうやら留年する気満々らしい。僕としては全く構わないが、保護者としてはどうなんだろう。まぁ、学校側にしてみれば、さっさと卒業してほしいだろうが、僕としては、関わる時間が目に見えて減るのが解るから有難い。
「じゃあ、一緒に卒業出来ないんだね」
「卒業?」
 未来の寂しそうな言葉に、檜山おとこは首を傾げる。その姿に僕は右手を額に当て肩を落とす。黙ってれば平和に留年させる事が出来たものを。
「……卒業!先輩は俺より先に卒業しちゃうじゃん!幸慈先輩留年して!」
 ふざけるな。泣きついてくる姿を蹴り倒した僕は、眼鏡を直し、空いたプリンカップを手に台所へ向かう。
「今更テストで奇跡的に全教科満点取れたところで、留年からは逃げられないよぉ」
 三回まで留年できると胸を張っていた人物はどこへいったんだ。床でメソメソと泣き出す高校男子に目もくれず洗い物を始めると、聞きなれない曲が聞こえた。どこからかと出所を探っていると、床で泣いていた檜山おとこの独り言が聞こえてきた。どうやら電話がかかってきたらしい。徐々に明るくなる声はいつ止まるのかと思っていると、立ち上がり携帯を片手に僕の傍までやってきた。
「お、俺が、子猫達を引き取ったら、駄目かな?」
 予想してなかった言葉に手が止まる。子猫達って、昨日の二匹の事だよな。でも、どうしていきなり。
「あそこの動物病院は、里親探しにも力を入れてるみたいで、もし俺達が飼えないなら早めに返事をくれって」
 そうか。それで今聞いてきたって事か。檜山コイツに育てられるのか不安だが、それを心配する前に、保護者の許可をもらうべきではないか、と、考えて息を吐く。何を言ったところで無駄だろうな。
「飼うなら責任持てよ。それと、保護者に反対されたら諦めろ」
「もちろん!やったー!ありがとう!」
「うわっ」
 檜山おとこは洗い物をしている僕に遠慮なく抱き付いてきた。思っていたよりも勢いが強くて、そのまま床に倒れ込んでしまう。別に感謝されることは一つも言ってないのに、何で檜山コイツは、ありがとうを言うのだろうか。
「痛ってー」
 床にぶつけた後頭部の痛みを訴えると、檜山おとこは慌てて僕の上半身を引っ張り起こす。後頭部を撫でる檜山おとこの右手の動きがぎこちない。
「ご、ごめん幸慈、怪我してない?」
 この程度でたんこぶは出来ないが、保護者への報告項目に追加しておこう。携帯の画面が通話中になっていると気付き、檜山おとこの体を押し返す。
「取り敢えず、電話終わらせろ」
「あ、うん」
 猫を引き取りたいと口に出して電話を続ける姿に、不安が無いと言えば、嘘になる。人とか動物とか関係ない。命なんだ。簡単に扱って良いものじゃない。それを、解っているんだろうか。
『今、触れてるのがそうだよ』
 解っていないのは、どっちだろうな。もしかしたら、檜山コイツの方が、ずっと解ってるのかもしれない。壊してばかりの僕なんかより、ずっと。電話を終わらせた檜山おとこは僕の両脇に手を入れ、軽々と持ち上げて立たせた。本当、馬鹿力だよな。
「幸慈、大丈夫?」
「まぁな」
 未来の言葉に返事をしながら、床に視線を落とす。濡れた所は後で拭いておくにして、取り敢えず、洗い物を再開したい。
「猫飼うのは、爺さんに相談してからの方が良いんじゃねぇのか」
「幸慈絡みなら何でも許してくれるから平気」
「まぁ、孫が迷惑かけまくってれば、爺さんも頭が上がらねぇか。つーか、何で猫?」
 空のプリンカップを持って首をかしげて聞いてきた鹿沼に、昨日の帰りに子猫を二匹見つけ、病院に連れて行った事を話す。その子猫を檜山おとこが引き取ることになったのが、今決まったと知った途端、未来は目を輝かせて子猫を見たいと言い出す。予想はしていたが、病院に大勢で行くのも迷惑になるのではないかと心配していると、鹿沼が全員で行くと子猫含め、他のペットも驚くから、退院してから見せてもらおうと上手く宥めてくれた。
「うー、そうだね。退院したら絶対教えてね、ヒーくん!」
「まっかせてよ!名前も決めてあるから楽しみにしてて!」
 いつの間に決めたのかは知らないが、未来が楽しみにしてるのなら、行くな、とは言えない。それは鹿沼も同じらしく、しばらくは子猫の話で持ち切りになるのが目に見える。それでも、未来が笑顔でいてくれるなら、と思ってしまえば苦ではない。
「それじゃ、ミーちゃんは期末の心配を最優先するということで」
 檜山おとこの言葉に、未来は一瞬動きを止めた。
「そ、そうだね。頑張る!」
 猫の事ばかりでテストの事忘れてたな。
「オマエの方が頑張れよ」
 鹿沼の言葉に、どうせ留年だから、と、投げやりの人間に子猫を託して良いものか、と、一抹の不安を抱くのは仕方ないと思う。
「一緒に卒業する事にこだわるなら退学って形もあるぞ」
「オジィに殺される」
「留年は良いのかよ」
 変な矛盾に呆れる鹿沼に内心同意しながら、明日から再び始まる学校とバイトの日々に目を細めた。日常が変わっていく。予定とは違う事ばかりが起こる今、何が選択肢として正しいのか解らない。答えが無いのは嫌いだ。恋だの愛だの抱かないと生きていけない程の弱い人間でもない。でも、弱い人間にも強い部分はある。母さんは強い人だ。愛を選んで、あんな目に遭ってもまだ、恋や愛を捨てずに生きてる。僕には出来ない。否定することで、やっと生きている僕には。ここにいる僕以外の三人も、弱くはない。救えないくらいに弱いのは、僕だけ。産まれてからずっと一人なら良かった。そうすれば諦めも付いたのに。些細な愛に触れたせいで、こんなにも救われない人間になってしまった。救われる為の方法も解らない。嫌になる。救われたいと願っている意地汚さに、反吐が出そうで仕方ない。救いなんて、有りはしないのに。
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春色悠
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 喫茶店でアルバイトをしている鷹木翠(たかぎ みどり)。ある日、喫茶店に初恋の人、白河朱鳥(しらかわ あすか)が女性を伴って入ってきた。しかも朱鳥は翠の事を覚えていない様で、幼い頃の約束をずっと覚えていた翠はショックを受ける。  そして恋心を忘れようと努力するが、昔と変わったのに変わっていない朱鳥に寧ろ、どんどん惚れてしまう。  一方朱鳥は、バッチリと翠の事を覚えていた。まさか取引先との昼食を食べに行った先で、再会すると思わず、緩む頬を引き締めて翠にかっこいい所を見せようと頑張ったが、翠は朱鳥の事を覚えていない様。それでも全く愛が冷めず、今度は本当に結婚するために翠を落としにかかる。  そんな二人の、もだもだ、じれったい、さっさとくっつけ!と、言いたくなるようなラブロマンス。

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