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昨日今日で僕の周りはかなり煩くなったものだ。足音が聞こえくなった頃、ようやく溜め息を吐き出した僕に、鹿沼が謝ってきた。鹿沼が悪いわけではない、と、伝えると複雑そうに笑う。恋人の友人である僕に迷惑を掛けることになった原因は、自分が茜と友人だったから。なんて、下らない事を考えているんだろうな。鹿沼は真面目な人間に思えるが、今までの行いを知らない状況では、安易に評価が出来ない。まぁ、未来が選んだんだ。多分大きな害はないだろう。しかし、面倒なオマケを連れてくるとは、腐れ縁も考えものだな。さっきのやり取りだと、檜山に兄弟が居るようだった。いつか未来を介して関わる事になるのだろうか。心底面倒だ。せめて鹿沼の様に機転が利くタイプだと良いんだが。喧嘩三昧の話を聞いた後ではそれも難しい。何事もなく世界の隅で生きていたいのに。周りがそれを許さないと言う様に、何かが起きている。腹部の痛みに、平穏が遠ざかっていく。鹿沼も檜山の変わりようには驚いているようで、上手く予測が立てられないと言う。予測が立たないのは面倒だ。人間を相手にする中で嫌いな部分だな。数学のように答えがあれば、今回の事だってやり過ごせたのに。けど、これからも鹿沼と未来が一緒に居る限り、喧嘩は絶えない気がする。これからも、か。鹿沼はいつまで未来と居るのだろう。いつまで、未来を想って、恋して、愛して。あぁ、嫌だ。未来はどうして平気なんだろうか。最後は裏切られるだけの恋や愛を、どうして受け入れられるんだ。その理由を聞いたところで、共感も興味も持てないのは解っている。だから聞くことはしない。未来はベッド横の丸椅子に腰掛けて僕の顔をジッと見てきた。
「試しに付き合ってみれば良いのに」
未来は恋愛推奨派らしく、檜山の味方らしい言葉を口にした。寝言にしても酷すぎる内容に息を吐く。
「試しで消費する人生は持ち合わせてない」
「それを言われると弱いんだけど」
肩を落とした未来を見て、伯父さんが軽く笑う。
「でも未来君の言葉も一理あるかもしれないぞ。失敗が怖いなら、早いうちに経験すれば、免疫も付くだろうし」
失敗前提で僕の人生を誘導するな。病原菌に対する免疫は有難いがそれ以外のものは欲しくない。そう言い返すと鹿沼が、失敗前提は俺も好きじゃない、と、賛同してきた。鹿沼と意見が合うのは意外だ。
「鹿沼、悪いが未来の事を頼む。ちょこまかする時があるから、なるべく目を放さないでくれ。明日は家に居ないと母さんに叱られると思うから、学校に来るのは難しいと思う」
女関係については納得してないが、他に頼める奴がいないから仕方ない。それに、鹿沼の様子を見る限りで判断すると、今までの女とは後腐れなく終わっているように思える。僕みたいに未来が水をかぶる心配はないだろう。
「言われなくても解ってる」
「俺そこまで子供じゃないよっ」
僕と鹿沼のやり取りに頬を膨らませて怒る姿は、誰がどう見ても子供だ。
「無理しないでね。学校終わったらノート届けに行くからね」
「歴史は明日もあるだろ。明後日は土曜だし、そんなに焦らなくて良い」
気遣ったつもりの言葉に未来は少し眉を下げる。
「……わかった。今日は会いに行かない方が良い?」
遠慮がちに聞いてくる姿に少し笑えた。
「今更遠慮する仲でもないだろ」
「えへへ」
だよね、と言う未来の頭を軽く撫でる。始業のチャイムが鳴るから教室へ戻りなさい、と、伯父さんに言われて、追い出されるように二人が保健室を出て行った後、入れ違いに檜山が戻ってきた。自分と僕の鞄を両腕にぶら下げ、両手でプリンカップの乗ったトレーを持つ姿を見て深く溜め息を吐く。
「なんで溜め息!?」
「別に」
奇跡的に誰かと付き合ってみたとしても、檜山が僕の周りからいなくなるとは思わないし、最悪相手を殺しかねない。ニュースでよく見る御近所さんの、そんな事するような人には見えなかった発言、の、良い見本かもしれない。保健室の冷蔵庫にプリンカップを移す姿に頭痛がする。鞄をぶら下げたまま側に来た檜山は、僕の機嫌を窺うように見て来たと思ったら、一緒にプリンを食べようと誘ってきた。
「いらない」
「でも、クソ共のせいで一個駄目になっちゃったし」
クソ共か。改めて口の悪さをこうして聞かないと、檜山が不良ということを忘れてしまう。それほどまでに幼稚感が強い。
「違うよ、檜山君。幸慈は自分で作ったものは食べないんだ」
「えっ!何で!?」
驚いた顔を近付けられたが、聞かれても大した理由があるわけでもない僕は重い頭を枕に沈めて布団を被った。大した理由、ではあるのか。でも、それを説明する義理はない。
「あ、ごめん。うるさかった?それとも、まだ眠い?どっか別のところが痛いとか?」
取り敢えず、腕にぶら下げてる鞄を置け。
「寝るなよなー。もうすぐ檜山くんの親御さんが来るから、家に着くまで我慢しなさーい」
「解ってるー」
返事をしながら、僕は湿布の張ってある腹を制服の上から擦った。僕が寝てる間に未来が怪我を見たって事は無さそうだけど、家庭科室での出来事は嫌でも知られてると思って間違いない。未来に調べられないものは無いし。それでも、知られないようにと思って隠しはするが、それが最後まで出来ないのは何でだろう。弱いから?子供だから?当てはまることが多すぎて、僕は目を閉じて息を吐く。もっと、もっと、強くならないといけないんだ。いつか独りになるその日までに。全てを失っても立っていられる自分にならないと。
「ウマっ!」
「幸慈が作ったものは美味いだろ。嫁さんもファンなんだよ」
「その気持ち解る!くそー、秋谷の分も食いてー」
僕の心情とは裏腹に、楽しそうに話す二人の話題はプリンに関する事だった。別に特別な作り方をしてるわけじゃないんだけどな。
「やっぱり、幸慈と食べたかったな」
寂しそうな声に疑問を感じながら、鹿沼にも覚えさせようと心に決めた。鹿沼が作れるようになれば、檜山にねだられることも無くなる。未来の分も作るだろうから、僕が作る必要は無くなるけど、最終的にはそれが良いのかも知れない。こんな考え、今までだったら絶対にしないんだけどな。絶対に無いし、鹿沼の事を受け入れつつある自分に少し驚いた。
恋人の付き合い始めは、互いしか見えていないのは当然だと解るが、鹿沼は未来だけでなく、僕を含めた周囲の人間の動きをよく見ているから、その時その時の対応が正確で迅速だ。僕は未来の事を心配するのに精一杯で、鹿沼ほど動ける人間じゃないと解っているから、自然と情けない方へと考えてしまうのも理解できる。ドアをノックする音が聞こえてきて、すぐに誰かが保健室に入ってきた。
「失礼します。檜山君の保護者様が来られました」
その言葉に目が覚める。
「オジィ!」
「元気そうで良かったよ。この度はすいません。孫が迷惑をかけてしまったようで」
「いえ、こちらこそ怪我をさせてしまって申し訳ありません」
檜山の保護者が来たのだと解った僕は、ゆっくりと体を起こす。それでも痛む怪我に眉を寄せると、檜山が側へやってきて背中に手を添えてきた。いつもなら触るなと言うところだが、今回だけは大人しくしておくことにしよう。怪我をさせた手前、保護者の前で失礼な態度は避けたい。
「大丈夫?」
「なんとかな」
側に来た檜山の保護者に軽く頭を下げる。レストランや服屋を経営してるだけあって、身なりはしっかりしていた。
「キミが多木崎君だね」
「はい」
皺を深くして笑いかけてくる姿に背中を伸ばした。さぁ、来い。責められる覚悟なら出来ている。
「楽にしてくれて構わないよ。今日は孫の為にありがとう」
予想してなかった言葉に、一瞬気が緩んだ。ありがとうなんて、言われたくない。
「お孫さんを傷付けてしまってすいません」
そう言って頭を下げると、檜山が慌て出した。
「頭を上げてくれないか」
「そうだよ!誰も幸慈を責めてないよ!」
言われて少し顔を上げると、そっと頭を撫でられた。
「この子の怪我は名誉の負傷だ。君が謝ることじゃない。それより、君の顔色が良くない方が心配だ」
名誉?何が名誉なんだ?僕の疑問を他所に、檜山の保護者は心配そうに顔を歪める。何で初対面の人にここまで心配されているんだ?
「いえ、これは体調管理が行き届かなかっただけです」
目眩を起こすのは珍しい事じゃない。今更過ぎて、体調不良に気付かない位だ。
「本人からの自白があって、馬鹿孫の招いた事だというのは解ってる。だから気を使う必要は無い」
馬鹿孫。自白という言葉に檜山を見ると申し訳無さそうに俯いた。保護者には頭が上がらないらしい。こんなにしっかり躾されてても、好き放題やらかす人間は育つんだな。
「しかし、本当にお願いしてよろしいんですか?」
「構いません。お詫びも兼ねて是非送らせて頂きたい。良いかな?」
この状況で嫌と言える人間はいないだろうな。
「ご迷惑おかけします」
僕がそう言うと、後ろから喜びの声が聞こえた。
「茜はもっと反省しなさい。喜ぶべき事ではないと電話で言ったのを忘れたのか?」
「うっ……ごめんなさい」
椅子の上で正座をして謝る姿はいつも以上に幼稚だ。しかし、何故僕は責められないのだろうか。いっそ、とことん責めてもらった方が楽なのに。
「途中まで送ります。車は何処に?」
「来客用のところが空いていたから使わせてもらいました」
「解りました。二人は靴に履き替えてから駐車場まで来るように」
「はい」
僕は返事をして二人を見送った後、上履きを履いてブレザーはどこかと探した。ハンガーラックに掛かっているのを見つけて立ち上がろうとしたら、痛みに気をとられ足がもつれてベッドの上に倒れこんだ。
「ゆ、幸慈!」
「痛ってー」
予想以上に痛みを訴えてくる腹部に、自然と眉間に皺がよった。これは久々に効いてるな。
「今だけでも俺を頼ってよ」
「断る」
これくらい一人でやれないと自分の為になら無い。ゆっくり体を起こす。何故か不機嫌になった檜山は、俺の右腕を掴んできた。
「頼って」
「断る」
何度同じことを言わせるつもりだ。
「頼って!」
「い・や・だ」
少しの間睨み合ってると、檜山は困ったような顔をした。困るような事があったとは思えない。
「俺、三回も聞いたからね」
何が三回なんだと思っていると、体を浮遊感が襲う。我が身に何が起きたのか、と、理解する頃には、周りの景色は動き始めていた。
「下ろせっ!」
「い・や・だ」
前にも同じことがあったのを何となく思い出す。横抱きにされながらも抵抗していると、来客用の受付が見えてきて、このまま保護者に届けるつもりだと解り、頭を抱えたくなった。当然、僕達の姿を見た伯父さん達は驚いた顔で僕達を見る。檜山は保護者の前で僕を下ろして、足首を掴んで無理やり上履きを奪う。バランスを崩した僕の体を、檜山の保護者が支えてくれたので、転ぶ心配はしなくてすんだ事に安堵する。檜山は謝罪もなく上履きを持って今来た道を戻っていった。
「こらっ!怪我が増えたらどうするんだっ!」
保護者の声が廊下に響く中、僕は嵐のように去っていった数分に言葉が出ずにその場に立ち竦んだ。運ばれてる間ずっと痛かった腹部に手を当てて息を吐く。何であんなに元気なんだよ。後で存分に叱られれば良い。
「申し訳無い。怪我が痛む事も考えずにあの子は」
「いえ、最初からあんな感じでしたから、気になさらないで下さい」
「そうか。あの子とはきちんと話をする事にするよ」
是非そうして下さい。頼らない、と、言っただけでこの扱いか。これからも担がれる事があるのだろうか、と、考えただけで頭痛がした。この頭痛は熱のせいじゃないと誰でも解るだろう。檜山の残したプリンカップは、伯父さんがどうにかしてくれるらしい。色々と中途半端にしてしまった気がする。思い出したら未来に連絡しておこう。檜山が鞄と靴を持って戻って来ると、その手にあるタッパーの存在に目眩がした。何を取りに行ってんだよ。早速保護者に叱られ始めた姿は、ふて腐れ気味で、途中まで色々と歯向かってはいたが、すぐに正論で言い負かされて、うつ向き出す。それを尻目に、届いた外靴を履いて、伯父さんからの注意を軽く聞き流す僕の方が問題かもしれない。一旦説教を止めた檜山の保護者は、伯父さんに挨拶をしてから来客口を出ていく。その後ろを追うように歩きだす。説教をされた孫は俺の後ろをトボトボと歩いている。端から見れば変な光景だろうな。目の前にリムジンが停まって居るのを見て、送迎を断れば良かったと、心から後悔した。運転手がドアを開けると、先に乗るように促され、逃げたい気持ちを抑えて、どうにか乗り込んだ。今日の事を、これから何度振り返っても、最悪な日として思い出すに違いない。
普通ならいつもより早いと感じるはずの帰り道も、今日だけはとても遅く感じた。
車の窓の外を流れる景色が、歩いたり走ったりするよりも早く過ぎていくのを見ると、家に近づいているのだと解る。解るが、それを長い時間と道のりに感じさせているのは、すぐ横で行われている光景のせいだ。
一般の車なら後部座席に座る者同士が向かい合うなんて有り得ない事だが、今乗っているのはリムジンという高級車で、金を持て余す人間が乗る車の内装がそれを可能にする。そして、それによって運転席に背中を向けて座る保護者に、僕の隣りに座る檜山は車に乗り込んですぐに叱られ始めた。向かい合う形で始まった説教の内容は、僕に風邪をひかせる原因になった今までのずさんな人間関係から始まり、今はピクニックの準備を全て僕に押し付けた事に対して怒られている。それに関しては僕が勝手に全部引き受けただけで、冷蔵庫を確保したりと役にたった部分はあるから、と、渋々フォローすると、ならどうして荷物を持つために家に迎えに行かなかったんだ、という方向性になってしまった。目の前の保護者は何が何でも不良の孫を叱らないと気が済まないらしい。だからって僕の居る場所で叱らなくても良いじゃないか。
家の近くの通りの信号で車が止まって、僕はチャンスと背筋を伸ばした。
「すいません。ここまでで大丈夫です」
「いやいや、ちゃんと家まで送っていくよ」
リムジンが家の前に止まるとか、絶対に避けたいに決まってるだろ。この感覚の違いは、やはり檜山の保護者らしいと思う。
「その、家の前は道が細いので、車が一台止まってしまうと周りの人に迷惑が……」
「確かに反対側から車が来ると厄介かもね」
バイクとかなら問題ないんだけどな、と暢気に言う姿からは反省の文字は感じられなくなっていた。さっきまでのオマエはどこに行ったんだ。
「そうか。なら私もここで下りよう」
えー。僕の気持ちとは裏腹に、運転手に指示を出した保護者は、近くの駐車場に車を止めさせる。運転手が車のドアを開けに来る動作は、慣れているだけあってかなり綺麗だ。保護者、不良、僕の順番で車を下りた後、近所の人からの視線に怯えながら家へと向かう。明らかに問題を起こしたのが一目で解る行進に自然と俯てしまった。
家に着いてドアを開けると仕事に行っているはずの母さんの靴があった事に驚く。ドアの開く音に駆け寄ってきた母さんは朝仕事に着ていった服のままだった。抜けて来たんだろう。大事な仕事だというのに、迷惑をかけてしまった。
「おかえりなさい。怪我したって聞いてすごく……あら、驚いた」
息子の早退より、後から玄関に入ってきた人達の存在に驚いたらしい。まぁ、当然の反応だろうな。
「この度は孫がご迷惑をおかけしました」
「すいませんでした」
昨日の今日で檜山は気まずそうな顔をして、保護者と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ御迷惑をおかけして申し訳ありません。怪我までさせてしまったようで。後が残らなければ良いんですが」
檜山の顔を見て、母さんは眉を下げる。そんな顔をさせてしまう僕は、本当に駄目な息子だ。
「孫のこれは名誉の負傷です。むしろ傷が残った方が良い教訓になるでしょう」
さらりと言う保護者の横で、当然のように深く頷く檜山に僕は頭を抱えた。何の名誉だ。頼むから跡形もなく消えてくれ。
「まぁ、そんな、なんてお返事をすれば良いのか……立ち話もあれなので、中へどうぞ」
二人揃って名誉と言い切る姿に母さんは慌てだし、言葉を探しながらも、どうにかリビングへと二人を促がす。荷物を置いてくるように言われた僕は、壁に手をつきながら階段を上って自分の部屋へ向かう。部屋に入りドアを閉めて鞄を机の上に置く。家に帰って来た事で気が緩み長い溜め息を吐き出した。ネクタイを緩めようとしたところで、昨日無くした事を思い出す。眼鏡を鞄の横に放り投げて、自分の醜さに右手で顔を覆う。
小学校低学年辺りから陰口が増えてきて、中学二年の秋頃には僕に関係する物がよく無くなるようになった。別に大して困ることは無かったし、未来に被害が及ぶ事も無かったから良かったけど、三年になってすぐ、未来の周りで良くない事が増え始め、あの日を境に僕に関係するもの全てに、死神といった噂が付きまとうことになる。一時は未来から離れることも考えたが、そんな僕の手を放そうとしなかった姿に甘えてしまった。その結果がこの有様だ。怪我をして、怪我をさせて、未来を悲しませた。本当は母さんに叱られても、明日は学校に行きたい。けど、そうしたら未来が余計に心配するし、朝には酷くなってるだろう痛みを誤魔化しながら、一日を過ごす気力は放課後まで持たないと解る。僕ってこんなに弱かったのか。そう認めるのを今まで避けてきたのに、何故か今はそれを素直に受け止められてしまう。
『言われなくても解ってる』
本当に解っているんだなって、そう思わせる目をしてた。
ずっと一緒にいた僕よりも知っているなんて有り得ないけど、もし本当にそうだったら、鹿沼が未来を手放す日が来ないのだとしたら、僕はどうすれば良いんだろう。今度は何の為に生きれば良いんだろうか。そして知ってしまった。僕は未来の事ばかりで自分の人生を生きていなかった事に。そうか。うん。さて、どうしたものか。
「幸慈、大丈夫?」
部屋に入ってきた母さんは、スイッチを押して電気を点けた後、僕の額に手を当てる。母さんの為に生きてみようかと思っても、それは家族として当たり前のこと過ぎて踏み切れなかった。
「熱は……少し高いわね。母さん、仕事に戻るから今日はゆっくりしてなさいね。薬の前に何か食べるのよ」
やっぱり、仕事を途中で抜けてきたんだ。僕は罪悪感から下を向く。
「下を向いたら駄目じゃない。幸せのきっかけを見落とすわよ」
母さんは両手で僕の頬に手を当てて上を向かせた。昔から、僕が下を向く度に母さんはいつも同じようにして笑顔で言う。何がきっかけかなんて、解らないのに。
「辛かったね」
「別に」
「痛かったね」
「別に」
「頑張ったね」
「……別に」
下にまだ二人がいるのだろうと思った僕は、母さんの背中を押して玄関へと急かした。
「階段下りるなら眼鏡しなさいよ」
「解ってる」
言い返しながら眼鏡を掛けた僕は部屋を出て、母さんの後を追うようにゆっくり玄関へ向かう。玄関には何故か保護者の姿しかなかった。
「こんな時まで迷惑をかけて申し訳ありません」
申し訳なさそうな顔をする保護者に首を傾げる。あの数分の間に何があったんだ?
「気にしないで下さい。仕事場まで送ってもらう方が申し訳ありませんわ」
リムジンだと教えておいた方が良いだろうか。檜山の靴が玄関にあるのを見る限り、先に帰ったって事は無さそうだ。不思議そうにする僕の疑問に答えるように、トイレから顔色を白くした檜山が姿を現した。何事?
「あ、お仕事ですか?いってらっしゃい」
気安すぎるだろ。
「暢気に見送ってる場合じゃないだろう」
呆れる保護者の姿に母さんはくすくすと笑っているが、僕には全く状況が解らない。トイレから出てくるということは、腹痛という事か?それとも胃痛?伯父さんから胃薬もらってくれば良かった。胃痛の原因の心当たりが一つくらいしか出てこない。
「僕の弁当のせいか?」
「だったら母さんも倒れてるわよ」
確かに。目の前の母さんは僕よりピンピンしている。だったら何だ?
「いけない、忘れ物するところだった」
「俺取ってきます。どこに置いてあります?」
「目の前にあるから大丈夫よ」
「?」
首を傾げる檜山の横で、その忘れ物の意味を知っている僕は肩をすくめて、母さんの顔の前に自分の顔を近付けた。
「幸慈が早く元気になりますように」
そう言って、母さんは僕にチークキスをした。子供の頃から僕が体調を壊すと、仕事へ行く前に必ずチークキスをする。それは今も変わらずに続いていて、何だか恒例行事感覚だ。病院勤務の為、どうしても仕事に行かなければならない時は、離れてる間僕が無事であるようにとの大切なおまじない、と、看病に来てくれていた未来のお母さんが教えてくれた事を思い出す。
「忘れても良いのに」
「忘れないわよ」
そう言って、母さんは強く笑った。
「良いなぁー!オジィ、俺も!」
檜山は保護者に顔を近付けチークキスをせがむ。苦笑しながらも、それに応える保護者は笑顔だった。
「二人とも、ちゃんと水分摂らないと駄目よ」
「はい」
「いってらっしゃい」
母さん達を見送ってすぐにトイレへと駆け込んだ檜山の為に、ぬるめの白湯を用意する事にした。冷たいものばかりだと体に良くないからと家では必ず少し暖めた水やお茶を飲む様になったのはいつからだったろうか。
腹を抱えてトイレに駆け込むという事は腹痛が治れば良いわけなんだろうけど、何で痛めたりしたんだ。まさか、冷蔵庫の扉が開いてる時間が長かったからプリンが駄目になったとか。いや、それにしても保健室の冷蔵庫にすぐに移してた様子だったし、弁当のおかずも料理の直前まで冷やしてたから問題ないはずだ。だったら、家で腹を下すほどの物を飲み食いしたってことか。けど、あの保護者の様子だとそれもなさそうだし。
「うぅ~、俺ここまでトイレにお世話になったの久々な気がする」
情けない姿に僕は溜め息を吐きながら、コップを渡して薬は飲んだのかと聞いた。
「温まる~。お母さんがくれたやつ飲んだよ」
それなら暫くすれば落ち着いてくるだろう。
「何を食べたんだよ」
「幸慈の愛情」
聞いた僕が馬鹿だった。空になったコップを受け取ろうとテーブルへと右手を伸ばすと、手首を檜山に捕まれた。何だと眉間に皺を寄せると、男は撫でるように親指をそっと動かす。その動きにゾッとした僕は慌てて手を引いた。
「嫌だった?」
「悪いけど、もうしないでくれ」
そう言って僕はコップを持ち台所へ向かった。
「また痛くなってきたぁぁ」
そう言ってトイレに駆け込む姿を鹿沼に見せてやりたい。そうだ、万が一の事を考えて未来に体調に変化はないか確認をしておこう。
壁に手をついて階段を上り、部屋へ入った僕は鞄から携帯を取り出して未来にメールを送る。メールを送った後、トイレにこもってる奴の迎えは来るのかと疑問に思った。しばらくはトイレから出ないだろうと思った僕は、鞄の中身を整理する。振り回されたから色々とごちゃ混ぜになっていた。その中から自分のではないノートを見つけて取り出す。未来のノートだった。明後日で良いと言ったのに。檜山とすれ違ったときに入れたんだろう。頑固だな。未来のノートに目を通して、どれ程進んだのかを確認する。新しい所に入ったかと思ったが、前回の復習と応用が中心だった。これなら問題無さそうだな。教科書と照らし合わせて、ページ数を確認する。時計を見ると二十分経っていた。檜山を放っておくわけにもいかない為、ゆっくりと階段を下りる。
「人間の体って凄いのね」
母さんにはゆっくりしているように言われたけど、自分以上にぐったりとしてる人間を放って寝るほど冷めてはいない……つもりだ。
「看病するつもりだったのにな~」
それは良かった。ソファーでぐったりしててくれるお陰で、僕は平和に過ごせそうだ。
「ミーちゃん、明日のお昼どうするのかな」
確かにそれはかなり心配だ。
「秋谷は丸いお握りしか作れないからねぇ」
僕は溜め息を吐きながら冷蔵庫を開けた。卵はきらさないようにしてるから当然ある。他のあるもので作れるのは、きんぴらとかぼちゃサラダ……後は鳥肉の照り焼きと人参のグラッセってところか。
「オマエ……じゃなくて、檜山は夜ご飯どうするんだ?」
「作ってくれんの!?」
「出来るなら帰ってほしい」
「酷すぎる!」
反応を見る限りだと、帰るのは母さんが帰ってきた後になりそうだ。まさか泊まっていくなんてならないよな。一抹の不安を抱えながらも冷蔵庫から材料を取り出し、夕飯の下準備を始めた。
「あー!」
突然叫び声を上げた檜山の方を振り向いたら、カメラがどうのこうのと言いながら苦悩していた。それからすぐに再びトイレへと駆け込んだ男に呆れた後、使う野菜を洗い始める。野菜の皮を剥いている途中にズボンのポケットに入れていた携帯が振動した事で手を止めた。送り主は未来で、内容を読んだ僕は安心したが、それは付け加えるように添えられた文によってすぐに消えた。どうしてこんな当たり前なことに気が付かなかったんだ。常識人なら絶対に避けることでも、檜山ならやりかねないじゃないか。どうして家庭科室での事を、あの後どうなったのかと聞かなかったんだ。聞いたところで上手く誤魔化されたかもしれないけど、違和感を抱くことは出来たのに。自分の不甲斐なさに反吐が出る。
「大分落ち着いてきたかもぉ」
檜山が戻ってきた事で、携帯をポケットにしまう。責める権利は、きっと無い。
「何かを隠したように見えたけど」
「オマエには関係ない」
「オマエじゃないでしょ」
またやってしまった。左手を額に当てて息を吐く。プール掃除をした日から気を付けてはいるが、少し苛立ったりすると檜山を必ずオマエと呼んでしまう。オマエと呼ぶと檜山は目に見えて不機嫌になる。そうなると色々と面倒面倒だから気をつけてはいるが、なかなか上手くいかない。
「悪かった。次から気を付ける」
まな板の上に置いた人参と包丁に手を伸ばす。
「何かあった?」
「何でもないって言っただろ」
「嘘」
檜山は皮を剥こうと動かした手を、後ろから掴んで持っていたものをまな板の上に戻した。
「何があったの?」
僕の様子を窺う様に聞いてくる声に溜め息を吐いた後、未来からのメールに書かれていた内容を知らなかった事、それを知ろうとしなかった自分に嫌気がした事を白状する。
「ミーちゃん言っちゃったのかぁ。まぁ、俺との約束より幸慈の気持ちを優先するのは当然だよね」
「どうして言わなかった」
知ろうともしなかった人間が、何を今更聞いているんだ。
「今みたいに自分を責めてほしくなかっただけ。幸慈は充分過ぎるくらいに傷付いたから」
どうして僕ばかりを特別扱いするんだ。檜山だって傷付いたじゃないか。僕に傷つけられたのに、どうしてそんな風に考えられるんだ。僕を責めない理由が解らない。責めてくれよ。とことん責めて、呆れて、みかぎってくれたらどんなに楽か。
「俺、凄く嬉しかったんだ。だからね、その分とても悲しかった。幸慈が前の日から用意してくれた物が、ゴミみたいに扱われたことが、凄く悲しくて。目の前で壊れていくのを見た幸慈は、もっと悲しかっただろうなって、思ったから」
「だからって食べる理由にはならない」
「なるよ。だって、初めて幸慈が俺にくれた物だから」
その言葉の意味が僕には解らなかった。
「余り物は全部俺が貰ったの忘れた?」
言われてみれば、そんなやり取りをした気がする。でも、それが理由ならあまりにも単純すぎだ。
「俺、こう見えて箱入り息子だからさ、自分の物を取られたり傷つけられるのって、我慢できないんだよね」
それは箱入り関係あるのか。子供なら自分のを取られて怒るのはよくありそうだけど、箱入りなら代えがすぐにききそうだから、怒る方があまりイメージない。
「だからさ……」
背中を向けていた僕の肩を掴んで正面を向かせた男は、右手を僕の左頬に添え、優しく頬を撫でてきた後、残酷に笑って口を開く。
「怒らせないでね」
優しい手の動きとは正反対の言葉と笑顔に、僕の右足の甲は疼き反射的に半歩下がった。何で檜山に反応するんだよ。
「先に言っとくけど、逃がす気なんてないからね」
どこまでも追い詰めると言う目が、僕には悪魔に見える。疼く場所が逃げろと訴えてくるように、体中が震えだした。
「幸慈?」
僕の頬を撫でていた手が止まってすぐに、様子を伺う様に親指だけを動かされた時、僕の中で恐怖が弾け、目の前の体を突き飛ばす。ガラスの壊れる音がした。
「俺に触るな!」
「っ!」
突き飛ばされた男は床に尻をつき、背中をカウンターの戸にぶつけた。その隙に逃げ出して、急いで玄関を出て近くの人に助けを呼ぼうと辺りを見回す。
「幸慈君じゃないか。そんなに慌ててどうしたんだ?」
知ってる人を見つけた事で安心感に襲われた後、助けを求めるために駆け寄った。脚がもつれて両膝をコンクリートの地面にぶつけながらも必死にしがみついて助けを求める。そんな僕を引き離す事をせず受け入れてくれた事に息を吐く。
「アイツが来たんだっ、アイツがっ」
僕の言葉に、目の前の人は周りを見回してから、優しく抱き締めてくれた。
「ここには私と幸慈君だけだ。アイツは諦めてとても遠くへ行ってしまったよ」
「ほ、本当に?」
「あぁ、本当だ」
「で、でも、母さんの所にっ」
ここに居なくても、母さんの所に言ったかもしれない。早く危険を知らせないと。
「俺のせいで」
「(俺?)」
「俺のせいで、また母さんが、母さんが」
息が上手く出来なくて何度も咳き込む。走り出したいのに足は震えて役に立たない。そんな俺を強く抱き締めて、安心しなさい、と、背中を撫でてくれる手の動きに、息の仕方を思い出す。
「お母さんは、私の友人が守っているから心配ない。もう大丈夫。よく頑張ったね」
それを聞いた途端に、恐怖から解放された体は力を失い、目の前の体にもたれ掛かる。大丈夫。そうか、大丈夫なんだ。この人は守ってくれる人の方。傷つけては来ない人。母さんの事も守ってくれた。でも、この人を巻き込もうとしたのは事実。俺のせいで怪我をしたかもしれない。俺のせいで、全部が壊れていく。ごめんなさい。ごめんなさい。全部を俺のせいにして良いから、母さんを見捨てないで。罰は全部、俺が背負うから。どうか。何度も繰り返し謝る俺を、大丈夫と宥める温もりにしがみつきながら、頬が濡れるのを感じる暇もなく、温かい腕の中へと意識を手放した。
「試しに付き合ってみれば良いのに」
未来は恋愛推奨派らしく、檜山の味方らしい言葉を口にした。寝言にしても酷すぎる内容に息を吐く。
「試しで消費する人生は持ち合わせてない」
「それを言われると弱いんだけど」
肩を落とした未来を見て、伯父さんが軽く笑う。
「でも未来君の言葉も一理あるかもしれないぞ。失敗が怖いなら、早いうちに経験すれば、免疫も付くだろうし」
失敗前提で僕の人生を誘導するな。病原菌に対する免疫は有難いがそれ以外のものは欲しくない。そう言い返すと鹿沼が、失敗前提は俺も好きじゃない、と、賛同してきた。鹿沼と意見が合うのは意外だ。
「鹿沼、悪いが未来の事を頼む。ちょこまかする時があるから、なるべく目を放さないでくれ。明日は家に居ないと母さんに叱られると思うから、学校に来るのは難しいと思う」
女関係については納得してないが、他に頼める奴がいないから仕方ない。それに、鹿沼の様子を見る限りで判断すると、今までの女とは後腐れなく終わっているように思える。僕みたいに未来が水をかぶる心配はないだろう。
「言われなくても解ってる」
「俺そこまで子供じゃないよっ」
僕と鹿沼のやり取りに頬を膨らませて怒る姿は、誰がどう見ても子供だ。
「無理しないでね。学校終わったらノート届けに行くからね」
「歴史は明日もあるだろ。明後日は土曜だし、そんなに焦らなくて良い」
気遣ったつもりの言葉に未来は少し眉を下げる。
「……わかった。今日は会いに行かない方が良い?」
遠慮がちに聞いてくる姿に少し笑えた。
「今更遠慮する仲でもないだろ」
「えへへ」
だよね、と言う未来の頭を軽く撫でる。始業のチャイムが鳴るから教室へ戻りなさい、と、伯父さんに言われて、追い出されるように二人が保健室を出て行った後、入れ違いに檜山が戻ってきた。自分と僕の鞄を両腕にぶら下げ、両手でプリンカップの乗ったトレーを持つ姿を見て深く溜め息を吐く。
「なんで溜め息!?」
「別に」
奇跡的に誰かと付き合ってみたとしても、檜山が僕の周りからいなくなるとは思わないし、最悪相手を殺しかねない。ニュースでよく見る御近所さんの、そんな事するような人には見えなかった発言、の、良い見本かもしれない。保健室の冷蔵庫にプリンカップを移す姿に頭痛がする。鞄をぶら下げたまま側に来た檜山は、僕の機嫌を窺うように見て来たと思ったら、一緒にプリンを食べようと誘ってきた。
「いらない」
「でも、クソ共のせいで一個駄目になっちゃったし」
クソ共か。改めて口の悪さをこうして聞かないと、檜山が不良ということを忘れてしまう。それほどまでに幼稚感が強い。
「違うよ、檜山君。幸慈は自分で作ったものは食べないんだ」
「えっ!何で!?」
驚いた顔を近付けられたが、聞かれても大した理由があるわけでもない僕は重い頭を枕に沈めて布団を被った。大した理由、ではあるのか。でも、それを説明する義理はない。
「あ、ごめん。うるさかった?それとも、まだ眠い?どっか別のところが痛いとか?」
取り敢えず、腕にぶら下げてる鞄を置け。
「寝るなよなー。もうすぐ檜山くんの親御さんが来るから、家に着くまで我慢しなさーい」
「解ってるー」
返事をしながら、僕は湿布の張ってある腹を制服の上から擦った。僕が寝てる間に未来が怪我を見たって事は無さそうだけど、家庭科室での出来事は嫌でも知られてると思って間違いない。未来に調べられないものは無いし。それでも、知られないようにと思って隠しはするが、それが最後まで出来ないのは何でだろう。弱いから?子供だから?当てはまることが多すぎて、僕は目を閉じて息を吐く。もっと、もっと、強くならないといけないんだ。いつか独りになるその日までに。全てを失っても立っていられる自分にならないと。
「ウマっ!」
「幸慈が作ったものは美味いだろ。嫁さんもファンなんだよ」
「その気持ち解る!くそー、秋谷の分も食いてー」
僕の心情とは裏腹に、楽しそうに話す二人の話題はプリンに関する事だった。別に特別な作り方をしてるわけじゃないんだけどな。
「やっぱり、幸慈と食べたかったな」
寂しそうな声に疑問を感じながら、鹿沼にも覚えさせようと心に決めた。鹿沼が作れるようになれば、檜山にねだられることも無くなる。未来の分も作るだろうから、僕が作る必要は無くなるけど、最終的にはそれが良いのかも知れない。こんな考え、今までだったら絶対にしないんだけどな。絶対に無いし、鹿沼の事を受け入れつつある自分に少し驚いた。
恋人の付き合い始めは、互いしか見えていないのは当然だと解るが、鹿沼は未来だけでなく、僕を含めた周囲の人間の動きをよく見ているから、その時その時の対応が正確で迅速だ。僕は未来の事を心配するのに精一杯で、鹿沼ほど動ける人間じゃないと解っているから、自然と情けない方へと考えてしまうのも理解できる。ドアをノックする音が聞こえてきて、すぐに誰かが保健室に入ってきた。
「失礼します。檜山君の保護者様が来られました」
その言葉に目が覚める。
「オジィ!」
「元気そうで良かったよ。この度はすいません。孫が迷惑をかけてしまったようで」
「いえ、こちらこそ怪我をさせてしまって申し訳ありません」
檜山の保護者が来たのだと解った僕は、ゆっくりと体を起こす。それでも痛む怪我に眉を寄せると、檜山が側へやってきて背中に手を添えてきた。いつもなら触るなと言うところだが、今回だけは大人しくしておくことにしよう。怪我をさせた手前、保護者の前で失礼な態度は避けたい。
「大丈夫?」
「なんとかな」
側に来た檜山の保護者に軽く頭を下げる。レストランや服屋を経営してるだけあって、身なりはしっかりしていた。
「キミが多木崎君だね」
「はい」
皺を深くして笑いかけてくる姿に背中を伸ばした。さぁ、来い。責められる覚悟なら出来ている。
「楽にしてくれて構わないよ。今日は孫の為にありがとう」
予想してなかった言葉に、一瞬気が緩んだ。ありがとうなんて、言われたくない。
「お孫さんを傷付けてしまってすいません」
そう言って頭を下げると、檜山が慌て出した。
「頭を上げてくれないか」
「そうだよ!誰も幸慈を責めてないよ!」
言われて少し顔を上げると、そっと頭を撫でられた。
「この子の怪我は名誉の負傷だ。君が謝ることじゃない。それより、君の顔色が良くない方が心配だ」
名誉?何が名誉なんだ?僕の疑問を他所に、檜山の保護者は心配そうに顔を歪める。何で初対面の人にここまで心配されているんだ?
「いえ、これは体調管理が行き届かなかっただけです」
目眩を起こすのは珍しい事じゃない。今更過ぎて、体調不良に気付かない位だ。
「本人からの自白があって、馬鹿孫の招いた事だというのは解ってる。だから気を使う必要は無い」
馬鹿孫。自白という言葉に檜山を見ると申し訳無さそうに俯いた。保護者には頭が上がらないらしい。こんなにしっかり躾されてても、好き放題やらかす人間は育つんだな。
「しかし、本当にお願いしてよろしいんですか?」
「構いません。お詫びも兼ねて是非送らせて頂きたい。良いかな?」
この状況で嫌と言える人間はいないだろうな。
「ご迷惑おかけします」
僕がそう言うと、後ろから喜びの声が聞こえた。
「茜はもっと反省しなさい。喜ぶべき事ではないと電話で言ったのを忘れたのか?」
「うっ……ごめんなさい」
椅子の上で正座をして謝る姿はいつも以上に幼稚だ。しかし、何故僕は責められないのだろうか。いっそ、とことん責めてもらった方が楽なのに。
「途中まで送ります。車は何処に?」
「来客用のところが空いていたから使わせてもらいました」
「解りました。二人は靴に履き替えてから駐車場まで来るように」
「はい」
僕は返事をして二人を見送った後、上履きを履いてブレザーはどこかと探した。ハンガーラックに掛かっているのを見つけて立ち上がろうとしたら、痛みに気をとられ足がもつれてベッドの上に倒れこんだ。
「ゆ、幸慈!」
「痛ってー」
予想以上に痛みを訴えてくる腹部に、自然と眉間に皺がよった。これは久々に効いてるな。
「今だけでも俺を頼ってよ」
「断る」
これくらい一人でやれないと自分の為になら無い。ゆっくり体を起こす。何故か不機嫌になった檜山は、俺の右腕を掴んできた。
「頼って」
「断る」
何度同じことを言わせるつもりだ。
「頼って!」
「い・や・だ」
少しの間睨み合ってると、檜山は困ったような顔をした。困るような事があったとは思えない。
「俺、三回も聞いたからね」
何が三回なんだと思っていると、体を浮遊感が襲う。我が身に何が起きたのか、と、理解する頃には、周りの景色は動き始めていた。
「下ろせっ!」
「い・や・だ」
前にも同じことがあったのを何となく思い出す。横抱きにされながらも抵抗していると、来客用の受付が見えてきて、このまま保護者に届けるつもりだと解り、頭を抱えたくなった。当然、僕達の姿を見た伯父さん達は驚いた顔で僕達を見る。檜山は保護者の前で僕を下ろして、足首を掴んで無理やり上履きを奪う。バランスを崩した僕の体を、檜山の保護者が支えてくれたので、転ぶ心配はしなくてすんだ事に安堵する。檜山は謝罪もなく上履きを持って今来た道を戻っていった。
「こらっ!怪我が増えたらどうするんだっ!」
保護者の声が廊下に響く中、僕は嵐のように去っていった数分に言葉が出ずにその場に立ち竦んだ。運ばれてる間ずっと痛かった腹部に手を当てて息を吐く。何であんなに元気なんだよ。後で存分に叱られれば良い。
「申し訳無い。怪我が痛む事も考えずにあの子は」
「いえ、最初からあんな感じでしたから、気になさらないで下さい」
「そうか。あの子とはきちんと話をする事にするよ」
是非そうして下さい。頼らない、と、言っただけでこの扱いか。これからも担がれる事があるのだろうか、と、考えただけで頭痛がした。この頭痛は熱のせいじゃないと誰でも解るだろう。檜山の残したプリンカップは、伯父さんがどうにかしてくれるらしい。色々と中途半端にしてしまった気がする。思い出したら未来に連絡しておこう。檜山が鞄と靴を持って戻って来ると、その手にあるタッパーの存在に目眩がした。何を取りに行ってんだよ。早速保護者に叱られ始めた姿は、ふて腐れ気味で、途中まで色々と歯向かってはいたが、すぐに正論で言い負かされて、うつ向き出す。それを尻目に、届いた外靴を履いて、伯父さんからの注意を軽く聞き流す僕の方が問題かもしれない。一旦説教を止めた檜山の保護者は、伯父さんに挨拶をしてから来客口を出ていく。その後ろを追うように歩きだす。説教をされた孫は俺の後ろをトボトボと歩いている。端から見れば変な光景だろうな。目の前にリムジンが停まって居るのを見て、送迎を断れば良かったと、心から後悔した。運転手がドアを開けると、先に乗るように促され、逃げたい気持ちを抑えて、どうにか乗り込んだ。今日の事を、これから何度振り返っても、最悪な日として思い出すに違いない。
普通ならいつもより早いと感じるはずの帰り道も、今日だけはとても遅く感じた。
車の窓の外を流れる景色が、歩いたり走ったりするよりも早く過ぎていくのを見ると、家に近づいているのだと解る。解るが、それを長い時間と道のりに感じさせているのは、すぐ横で行われている光景のせいだ。
一般の車なら後部座席に座る者同士が向かい合うなんて有り得ない事だが、今乗っているのはリムジンという高級車で、金を持て余す人間が乗る車の内装がそれを可能にする。そして、それによって運転席に背中を向けて座る保護者に、僕の隣りに座る檜山は車に乗り込んですぐに叱られ始めた。向かい合う形で始まった説教の内容は、僕に風邪をひかせる原因になった今までのずさんな人間関係から始まり、今はピクニックの準備を全て僕に押し付けた事に対して怒られている。それに関しては僕が勝手に全部引き受けただけで、冷蔵庫を確保したりと役にたった部分はあるから、と、渋々フォローすると、ならどうして荷物を持つために家に迎えに行かなかったんだ、という方向性になってしまった。目の前の保護者は何が何でも不良の孫を叱らないと気が済まないらしい。だからって僕の居る場所で叱らなくても良いじゃないか。
家の近くの通りの信号で車が止まって、僕はチャンスと背筋を伸ばした。
「すいません。ここまでで大丈夫です」
「いやいや、ちゃんと家まで送っていくよ」
リムジンが家の前に止まるとか、絶対に避けたいに決まってるだろ。この感覚の違いは、やはり檜山の保護者らしいと思う。
「その、家の前は道が細いので、車が一台止まってしまうと周りの人に迷惑が……」
「確かに反対側から車が来ると厄介かもね」
バイクとかなら問題ないんだけどな、と暢気に言う姿からは反省の文字は感じられなくなっていた。さっきまでのオマエはどこに行ったんだ。
「そうか。なら私もここで下りよう」
えー。僕の気持ちとは裏腹に、運転手に指示を出した保護者は、近くの駐車場に車を止めさせる。運転手が車のドアを開けに来る動作は、慣れているだけあってかなり綺麗だ。保護者、不良、僕の順番で車を下りた後、近所の人からの視線に怯えながら家へと向かう。明らかに問題を起こしたのが一目で解る行進に自然と俯てしまった。
家に着いてドアを開けると仕事に行っているはずの母さんの靴があった事に驚く。ドアの開く音に駆け寄ってきた母さんは朝仕事に着ていった服のままだった。抜けて来たんだろう。大事な仕事だというのに、迷惑をかけてしまった。
「おかえりなさい。怪我したって聞いてすごく……あら、驚いた」
息子の早退より、後から玄関に入ってきた人達の存在に驚いたらしい。まぁ、当然の反応だろうな。
「この度は孫がご迷惑をおかけしました」
「すいませんでした」
昨日の今日で檜山は気まずそうな顔をして、保護者と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ御迷惑をおかけして申し訳ありません。怪我までさせてしまったようで。後が残らなければ良いんですが」
檜山の顔を見て、母さんは眉を下げる。そんな顔をさせてしまう僕は、本当に駄目な息子だ。
「孫のこれは名誉の負傷です。むしろ傷が残った方が良い教訓になるでしょう」
さらりと言う保護者の横で、当然のように深く頷く檜山に僕は頭を抱えた。何の名誉だ。頼むから跡形もなく消えてくれ。
「まぁ、そんな、なんてお返事をすれば良いのか……立ち話もあれなので、中へどうぞ」
二人揃って名誉と言い切る姿に母さんは慌てだし、言葉を探しながらも、どうにかリビングへと二人を促がす。荷物を置いてくるように言われた僕は、壁に手をつきながら階段を上って自分の部屋へ向かう。部屋に入りドアを閉めて鞄を机の上に置く。家に帰って来た事で気が緩み長い溜め息を吐き出した。ネクタイを緩めようとしたところで、昨日無くした事を思い出す。眼鏡を鞄の横に放り投げて、自分の醜さに右手で顔を覆う。
小学校低学年辺りから陰口が増えてきて、中学二年の秋頃には僕に関係する物がよく無くなるようになった。別に大して困ることは無かったし、未来に被害が及ぶ事も無かったから良かったけど、三年になってすぐ、未来の周りで良くない事が増え始め、あの日を境に僕に関係するもの全てに、死神といった噂が付きまとうことになる。一時は未来から離れることも考えたが、そんな僕の手を放そうとしなかった姿に甘えてしまった。その結果がこの有様だ。怪我をして、怪我をさせて、未来を悲しませた。本当は母さんに叱られても、明日は学校に行きたい。けど、そうしたら未来が余計に心配するし、朝には酷くなってるだろう痛みを誤魔化しながら、一日を過ごす気力は放課後まで持たないと解る。僕ってこんなに弱かったのか。そう認めるのを今まで避けてきたのに、何故か今はそれを素直に受け止められてしまう。
『言われなくても解ってる』
本当に解っているんだなって、そう思わせる目をしてた。
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「辛かったね」
「別に」
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「別に」
「頑張ったね」
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「あ、お仕事ですか?いってらっしゃい」
気安すぎるだろ。
「暢気に見送ってる場合じゃないだろう」
呆れる保護者の姿に母さんはくすくすと笑っているが、僕には全く状況が解らない。トイレから出てくるということは、腹痛という事か?それとも胃痛?伯父さんから胃薬もらってくれば良かった。胃痛の原因の心当たりが一つくらいしか出てこない。
「僕の弁当のせいか?」
「だったら母さんも倒れてるわよ」
確かに。目の前の母さんは僕よりピンピンしている。だったら何だ?
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「俺取ってきます。どこに置いてあります?」
「目の前にあるから大丈夫よ」
「?」
首を傾げる檜山の横で、その忘れ物の意味を知っている僕は肩をすくめて、母さんの顔の前に自分の顔を近付けた。
「幸慈が早く元気になりますように」
そう言って、母さんは僕にチークキスをした。子供の頃から僕が体調を壊すと、仕事へ行く前に必ずチークキスをする。それは今も変わらずに続いていて、何だか恒例行事感覚だ。病院勤務の為、どうしても仕事に行かなければならない時は、離れてる間僕が無事であるようにとの大切なおまじない、と、看病に来てくれていた未来のお母さんが教えてくれた事を思い出す。
「忘れても良いのに」
「忘れないわよ」
そう言って、母さんは強く笑った。
「良いなぁー!オジィ、俺も!」
檜山は保護者に顔を近付けチークキスをせがむ。苦笑しながらも、それに応える保護者は笑顔だった。
「二人とも、ちゃんと水分摂らないと駄目よ」
「はい」
「いってらっしゃい」
母さん達を見送ってすぐにトイレへと駆け込んだ檜山の為に、ぬるめの白湯を用意する事にした。冷たいものばかりだと体に良くないからと家では必ず少し暖めた水やお茶を飲む様になったのはいつからだったろうか。
腹を抱えてトイレに駆け込むという事は腹痛が治れば良いわけなんだろうけど、何で痛めたりしたんだ。まさか、冷蔵庫の扉が開いてる時間が長かったからプリンが駄目になったとか。いや、それにしても保健室の冷蔵庫にすぐに移してた様子だったし、弁当のおかずも料理の直前まで冷やしてたから問題ないはずだ。だったら、家で腹を下すほどの物を飲み食いしたってことか。けど、あの保護者の様子だとそれもなさそうだし。
「うぅ~、俺ここまでトイレにお世話になったの久々な気がする」
情けない姿に僕は溜め息を吐きながら、コップを渡して薬は飲んだのかと聞いた。
「温まる~。お母さんがくれたやつ飲んだよ」
それなら暫くすれば落ち着いてくるだろう。
「何を食べたんだよ」
「幸慈の愛情」
聞いた僕が馬鹿だった。空になったコップを受け取ろうとテーブルへと右手を伸ばすと、手首を檜山に捕まれた。何だと眉間に皺を寄せると、男は撫でるように親指をそっと動かす。その動きにゾッとした僕は慌てて手を引いた。
「嫌だった?」
「悪いけど、もうしないでくれ」
そう言って僕はコップを持ち台所へ向かった。
「また痛くなってきたぁぁ」
そう言ってトイレに駆け込む姿を鹿沼に見せてやりたい。そうだ、万が一の事を考えて未来に体調に変化はないか確認をしておこう。
壁に手をついて階段を上り、部屋へ入った僕は鞄から携帯を取り出して未来にメールを送る。メールを送った後、トイレにこもってる奴の迎えは来るのかと疑問に思った。しばらくはトイレから出ないだろうと思った僕は、鞄の中身を整理する。振り回されたから色々とごちゃ混ぜになっていた。その中から自分のではないノートを見つけて取り出す。未来のノートだった。明後日で良いと言ったのに。檜山とすれ違ったときに入れたんだろう。頑固だな。未来のノートに目を通して、どれ程進んだのかを確認する。新しい所に入ったかと思ったが、前回の復習と応用が中心だった。これなら問題無さそうだな。教科書と照らし合わせて、ページ数を確認する。時計を見ると二十分経っていた。檜山を放っておくわけにもいかない為、ゆっくりと階段を下りる。
「人間の体って凄いのね」
母さんにはゆっくりしているように言われたけど、自分以上にぐったりとしてる人間を放って寝るほど冷めてはいない……つもりだ。
「看病するつもりだったのにな~」
それは良かった。ソファーでぐったりしててくれるお陰で、僕は平和に過ごせそうだ。
「ミーちゃん、明日のお昼どうするのかな」
確かにそれはかなり心配だ。
「秋谷は丸いお握りしか作れないからねぇ」
僕は溜め息を吐きながら冷蔵庫を開けた。卵はきらさないようにしてるから当然ある。他のあるもので作れるのは、きんぴらとかぼちゃサラダ……後は鳥肉の照り焼きと人参のグラッセってところか。
「オマエ……じゃなくて、檜山は夜ご飯どうするんだ?」
「作ってくれんの!?」
「出来るなら帰ってほしい」
「酷すぎる!」
反応を見る限りだと、帰るのは母さんが帰ってきた後になりそうだ。まさか泊まっていくなんてならないよな。一抹の不安を抱えながらも冷蔵庫から材料を取り出し、夕飯の下準備を始めた。
「あー!」
突然叫び声を上げた檜山の方を振り向いたら、カメラがどうのこうのと言いながら苦悩していた。それからすぐに再びトイレへと駆け込んだ男に呆れた後、使う野菜を洗い始める。野菜の皮を剥いている途中にズボンのポケットに入れていた携帯が振動した事で手を止めた。送り主は未来で、内容を読んだ僕は安心したが、それは付け加えるように添えられた文によってすぐに消えた。どうしてこんな当たり前なことに気が付かなかったんだ。常識人なら絶対に避けることでも、檜山ならやりかねないじゃないか。どうして家庭科室での事を、あの後どうなったのかと聞かなかったんだ。聞いたところで上手く誤魔化されたかもしれないけど、違和感を抱くことは出来たのに。自分の不甲斐なさに反吐が出る。
「大分落ち着いてきたかもぉ」
檜山が戻ってきた事で、携帯をポケットにしまう。責める権利は、きっと無い。
「何かを隠したように見えたけど」
「オマエには関係ない」
「オマエじゃないでしょ」
またやってしまった。左手を額に当てて息を吐く。プール掃除をした日から気を付けてはいるが、少し苛立ったりすると檜山を必ずオマエと呼んでしまう。オマエと呼ぶと檜山は目に見えて不機嫌になる。そうなると色々と面倒面倒だから気をつけてはいるが、なかなか上手くいかない。
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まな板の上に置いた人参と包丁に手を伸ばす。
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「嘘」
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僕の様子を窺う様に聞いてくる声に溜め息を吐いた後、未来からのメールに書かれていた内容を知らなかった事、それを知ろうとしなかった自分に嫌気がした事を白状する。
「ミーちゃん言っちゃったのかぁ。まぁ、俺との約束より幸慈の気持ちを優先するのは当然だよね」
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「(俺?)」
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「お母さんは、私の友人が守っているから心配ない。もう大丈夫。よく頑張ったね」
それを聞いた途端に、恐怖から解放された体は力を失い、目の前の体にもたれ掛かる。大丈夫。そうか、大丈夫なんだ。この人は守ってくれる人の方。傷つけては来ない人。母さんの事も守ってくれた。でも、この人を巻き込もうとしたのは事実。俺のせいで怪我をしたかもしれない。俺のせいで、全部が壊れていく。ごめんなさい。ごめんなさい。全部を俺のせいにして良いから、母さんを見捨てないで。罰は全部、俺が背負うから。どうか。何度も繰り返し謝る俺を、大丈夫と宥める温もりにしがみつきながら、頬が濡れるのを感じる暇もなく、温かい腕の中へと意識を手放した。
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隠岐 旅雨
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大手IT企業でシステムエンジニアとして働く榊(さかき)は、一時的に都内本社から埼玉県にある支社のプロジェクトへの応援増員として参加することになった。その最初の通勤の電車の中で、つり革につかまって半分眠った状態のままの男子高校生が倒れ込んでくるのを何とか支え抱きとめる。
よく見ると高校生は自分の出身高校の後輩であることがわかり、また翌日の同時刻にもたまたま同じ電車で遭遇したことから、日々の通勤通学をともにすることになる。
世間話をともにするくらいの仲ではあったが、徐々に互いの距離は縮まっていき、週末には映画を観に行く約束をする。が……
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