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第一章 長尾勘兵衛一勝となる

秀吉軍、局地戦で敗れる

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 双方、膠着こうりゃく状態のまま、過ぎた四月四日夜――。
 池田恒興いけだつねおきが、秀吉に「岡崎おかざき攻め」を進言する。
 恒興は、こうを焦っていた。犬山城いぬやまじょうは奪取できたものの、小牧山こまきやまを家康の手にさせたのはまったくの失策しっさくであった。この失敗を取りかえすべく、岡崎への中入なかいり(敵陣ふかく兵をすすめること)を進言しんげんしたのである。
 この案を聞いたとき、まっ先に秀吉の頭に浮かんだのは、さきの賤ヶ岳しずがたけにおける、佐久間さくま盛政もりまさの中入り策である。
 確かに中入りは見返りも大きい分、失敗すると、一軍が崩壊してしまうほどの打撃となる。事実、柴田軍しばたぐんはいくさに負け、佐久間盛政は言うにおよばず、その後方にあって総指揮官であった柴田勝家しばたかついえまでもが命を失う結果となっているのである。
 これはゆるがせにできない事実だ。
 そして勝家たちを滅亡に追いやったのは誰でもない秀吉なのである。
 しかし、秀吉には負い目がある。
 池田恒興は、秀吉自身の家臣ではなく、立場的には、かれと同輩の織田大名の一人であるということだ。つまり、恒興の言上ごんじょう退しりぞけるには、それ相応の理由が必要であったし、ただ「中入り策には疑念がある」というだけでは、相手も「はいそうですか」とはなるまい。
 結果的に、秀吉は大いに心配しつつも池田恒興の面目めんぼくをたてる方向で、岡崎への中入り策を認めてしまったのであった。
 四月六日、中入りに参加する隊は、
 第一隊 池田恒興いけだつねおき
 第二隊 森長可もりながよし
 第三隊 堀秀政ほりひでまさ
 第四隊 三好みよし羽柴はしば秀次ひでつぐ
であり、第一隊から順に行軍を開始した。

 一方、小牧山にいた徳川家康とくがわいえやすは七日の午後には岡崎への中入り隊が発したことを知った。そこで連合軍の兵力の一部を小牧山の守備に、一方いっぽうの大将である織田おだ信雄のぶかつへとたくし、小牧山の守備隊とした。くりかえすが、守備隊の大将はもちろん織田信雄である。
 そして、徳川家康は残りの主力の徳川本軍をひきいて、上方かみがた(秀吉を指す)の中入り軍の背後をくべく進軍した。
 家康が情報をつかんだ時期が早かったことと、そのあとの決断もこれまた早かったので、家康本軍はまさしく「神速しんそく」という言葉が似つかわしいぐらい早く、中入り軍に追いついた。
 四月九日早朝、中入り隊の最後尾に位置する三好秀次隊の背後を、徳川軍の榊原さかきばら康政やすまさの兵が襲った。秀次の兵数は榊原康政の二倍はあったようだが、不意をつかれて混乱し、混乱は兵の士気しき喪失そうしつとなって軍は潰乱かいらんし、長久手ながくて岩作いわさく方面に敗走した。
 つぎに第三隊の堀隊が戦いに巻き込まれた。
 堀隊は、背後で銃声がきこえたため敵襲を知り、軍を反転させて、午前七時すぎに長久手にいたり檜ヶ根ひがねに布陣。秀次隊を追って来た榊原隊は堀隊も一挙にもんでしまえとばかり襲いかかったのだが、堀隊は規律正しい銃撃作戦で一斉射撃を繰り返し、血気けっきにはやる榊原兵さかきばらへいをばたばたと撃ち倒した。
 戦場において三番隊の大将の堀秀政ほりひでまさは、
騎馬きば武者むしゃを一人倒した者には、百石、加増する!」
 と叫んで、兵の士気を奮い立たせた。恩賞に目がくらんで薄手うすでもの(浅い傷を負った兵)でも戦闘参加するほどの士気の高さを示し、榊原軍は四散しさんした。

 家康は一時兵を休ませていた小幡城おばたじょうを出て、午前八時頃、富士が根ふじがねに兵を展開した。
 榊原さかいばら康政やすまさの軍に尻をつつかれ潰乱かいらんした四番隊の三好秀次みよしひでつぐは、三番隊の堀秀政ほりひでまさのお蔭で命拾いし、先をゆく森・池田両隊に徳川軍がやってきていることを告げて戦場を脱出した。
 池田・森の両隊は、午前八時、長久手ながくてまで戻り、富士が根ふじがね付近で展開している徳川軍を確認して仏ヶ根ほとけがね付近に兵力を展開させ対峙たいじした。
 午前十時、上方かみがた軍(羽柴軍)と徳川軍のどちらともなく戦いは開始されたのだが徳川軍のつよさは尋常一様じんじょういちようではなく、正午までに森長可もりながよし池田恒興いけだつねおきの両将軍は命を落し、指揮官を失った上方軍は、陣形をとどめることができずに潰乱かいらんした。
 勝鬨かちどきをあげて、一時の勝利に酔った家康であったが、かれはほんとうに冷静な指揮官であった。
 家康はすぐさま兵をまとめて小牧山城こまきやまじょうにもどったのであった。その地にとどまれば秀吉の後詰軍ごづめぐん遭遇そうぐうするからである。事実、秀吉は兵を送ったのであるが、そのときには家康軍は小牧山に収容しゅうようされた後であった。
「もうええ、この土地には、お宝は落ちてはおらぬ」
 秀吉はとても機嫌が悪かった。
 池田恒興いけだつねおき森長可もりながよしと二将を失ってしまったことで、完全に負けいくさの烙印らくいんを押されてしまった上方軍かみがたぐんであった。
 上方軍はまだまだ兵力においても織田・徳川連合軍にまさっていたし、巻き返しの機会もあろうやにおもわれたが、秀吉自身がいくさ熱戦ホットウォー)での決着けっちゃく放棄ほうきしてしまったのだった。
 秀吉はもう次の作戦を考えている。つまり政略せいりゃく冷戦コールドウォー)で徳川・織田連合軍を負けの方向にもっていくことを思案しあんしている。
 その次段階じだんかいにうつるには、とりあえず「この悪い流れの土地から離れること――」と秀吉は思い至り、陣を引き払うことにした。

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