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第一章 長尾勘兵衛一勝となる
小牧の陣
しおりを挟む小牧の陣における、各大名の地位からみる。
まず、羽柴秀吉は、おのれの領国からして、畿内と中国の一部を掌握していた。さらに、かれは中国地方の覇者毛利氏を味方陣営に引き入れることに成功した。さらに、北国でいえば、上杉景勝を味方にしている。
一方、織田信雄・徳川家康連合軍は、尾張、伊勢を信雄。三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の五ヵ国を家康。四国の長宗我部氏とも誼を通じ、家康と関東の北条氏直は、氏直へ家康の娘が嫁いでいるので、舅と婿の間柄である。また間接的ではあるが、奥州の伊達氏は北条氏と結んでいるので、連合軍派といっていいだろう。
一見すると信雄・家康連合の方が、勢力が大きいようにもみられるが、これにはからくりがある。
つまり人口である。
人が畿内に多く集中していることもあって、動員能力は秀吉陣営の方がおおきかった。つまり軍事力の規模の大きさでいえば、圧倒的に秀吉の方が強大なのである。
そうした巨大な秀吉方と、連合としてのまとまりで戦っていく信雄・家康の連合軍との戦いが小牧の陣である。
そして、いくさの前哨戦はかならず謀略や調略ではじまる。
いきなり兵と兵がぶつかるいくさにはならない。常にいくさにかかる前にその下準備がおこなわれるのである。
羽柴秀吉は、去就に迷っていた池田恒興、森長可を甘言をもって引き入れた。
秀吉派となった池田恒興は秀吉への手みやげとして尾張の最北端の犬山城を奪取した。
犬山城は、濃尾平野を形づくっている木曾川デルタの扇の要に位置する小山の上に建てられた城で、その眺望は、はるか六里(約二四キロメートル)先の名古屋の町を視界におさめられるほどである。
小牧山城は、そうしただだっ広い濃尾平野に一箇所だけこんもり高い山となっている、これも戦略上の要所で、かつて信長がこの山に目をつけて、自身の拠点としたことも大いに首肯できる戦略的要地である。
ちなみに犬山と小牧の間は三里(約一二キロメートル)である。
一方の森長可は、天正十二年(一五八四)三月十六日、犬山の羽黒(愛知県犬山市羽黒)という土地まで兵を進め、連合軍が押さえつつあった小牧山の奪取を計画した。
しかし、小牧山の軍事的重要性をたかく評価していた徳川家康は、十七日早朝、酒井忠次らに森らの急襲軍を襲撃させた。
その小牧山の取り合いで酒井忠次と森長可、森の支援にまわった池田恒興とのあいだで戦いが交わされたが、結果的に徳川方の酒井忠次が勝ち、ついに小牧山は完全に連合軍の指揮官徳川家康のものとなった。
小牧山を奪取した徳川家康は、紀伊の畠山氏と根来衆を使嗾(そそのかす)して、羽柴秀吉の背後をおびやかした。
この紀伊と根来の秀吉への攻撃は、大いに秀吉の怒りを買うことになって、小牧の陣ののちのことであるが、この二者は、秀吉に滅亡の一歩手前まで攻められることとなる。
いずれそれも語るが、現在は、心に留め置いて、詳細はのちにゆずる。
秀吉は紀伊の一揆に腹を立てたが、いくさの重要度からいえば小牧での戦いのほうに重点が置かれるため、紀伊の根来へは手当の兵を充て、主力は三月二十一日に大坂城を出た。
大坂城をでた秀吉は、三月二十七日、尾張の北端の犬山城に先乗りして入城し、二十九日には、秀吉のあとを追ってやってきた八万の兵が、濃尾平野の北部の犬山周辺に展開された。
この八万という数字は、秀吉の当時の動員能力十六万弱から推測されたものである。
一方の織田信雄・徳川家康連合軍は、信雄の尾張、伊勢、伊賀の三か国の二万六千強。家康は、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃五ヵ国の六万強。あわせれば、八万六、七千になるのだが、これは数字のからくりであって、実質的には、家康は、北条とは同盟しているとはいえ、まったく無防備でおられるはずもなく、北条との国境線に兵を割かねばならなかったし、また北陸の上杉は秀吉と昵懇(親しい間柄)であるから、こちらも手薄にはできない。
一方、信雄は信雄で、伊勢方面から秀吉の圧迫を受けていて、こちらにかなりの兵をとられていたということがある。つまり、動員能力があっても、それらをすべて実戦投入できるというわけではないということはご理解いただけるだろう。
それらを勘案すれば、秀吉の八万という実数の兵力に対し、家康と信雄の連合軍は、その半分以下の兵士しか動員できなかったと想像される。
ともあれ、家康は二十七日の午後に、秀吉の犬山到着を知り、二十八日に家康自身が小牧山に登り、諸隊を山麓に布陣させるとともに、空壕や土塁の構築など土木工事に忙しかった。
こうした、(犬山─秀吉軍)対(小牧山─信雄・家康連合軍)の対峙は、しばらく続いた。
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