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終章 吼えよ! 権六
侠(おとこ)勝家
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利家は泣いていた。
目から涙を落とし、鼻水を垂らし、嗚咽を漏らした。
利家の苦衷をおもって、秀吉が利家のかたわらに座り、背をさすってやった。
又左殿はもう語れぬ。
儂がつづけよう
二十一日の朝になる。
この日の早朝、左禰山にあった久太郞殿(堀秀政)は、山を降りて東野に陣した。
木之本や田上山に残されていた秀長(羽柴秀長・秀吉実弟)の麾下は前進して久太郞殿の陣に加わろうと動いた。
これら、わが軍の活動は右翼方面にも波及し、その攻撃的姿勢は、全軍におよんだ。
秀長自身は田上山の備(陣立のこと)と動きを一にし、街道筋を修理どの(柴田勝家)の備にむかったのである。
修理殿と秀長、久太郞殿とは相対峙しただけで、交戦せず午の刻(正午)まで動きはなかったが、この間、双方、思いを致していたであろう。
修理殿は玄蕃(佐久間盛政)たちが無事に兵を退くことを願い、
秀長、久太郞殿は、わしの進撃がすみやかに成功することを祈っておってくれたものと思う。
そしてこの両軍は、対峙したまま、西の方の峰筋における戦闘をはるかに望見しておったのだ。
峰筋のいくさは次第にわが方の優勢に進展し、巳の下刻(午前十一時)ごろには文室山は、わが手の兵の蹂躙にまかせ、午の刻(正午)には、わが軍は兵を集福寺の麓にまとめ、まさに修理殿の側背を衝こうとする状況となるに、狐塚の修理殿陣地の前面の東野の兵──すなわち久太郞殿、秀長のおる地点に、各地から兵がぞくぞく集まって、わが方の勝利の情勢は、ゆるぎないものとなった。
反対に、このころ修理殿の陣中は、脱走する兵に悩まされておったと思う。残された兵は、おそらく三千もあればよいほうだったであろう。
修理殿の性格であれば、おそらくこの三千でわしと戦おうとされておったと思う。
しかし修理殿の備の前面には、秀長と久太郞殿の大軍があり、その右翼にはわが兵が、玄蕃の兵を破って勝ちに乗じておった。
とすれば──これも想像だが、修理殿の宿老たちは修理殿の主張する儂とのいくさを諫止し、ひとたび越前に戻って再起をうながしたものと思う。
そして修理殿も最後は折れて、越前に向かったものであろう。
修理殿は越前に落ちていった。
ひっくひっくと嗚咽を繰り返していた利家が、ようやく気を確かにし、懐紙で洟をかんだ。
「もうよいのか、又左どの」
秀吉が心配そうに利家をいたわる。
「殿下、申し訳ござらぬ。いささか気の迷いが大きかった」
うんうん、と秀吉は点頭させた。
「前田さま、語りたくなくば無理にとは申しませんよ」
茶々が利家に語りかけた。
「お茶々さま、かたじけない。だが、これだけは語っておかねばならぬことがある。是非、みなにも聴いてもらいたい」
あー、泣いたわ泣いたわ。
いささか気恥ずかしかったな。
すこし殿下の話されているところより、さかのぼるぞえ。
久太郎どの(堀秀政)の兵は午の刻(正午)に親父さまの陣が動揺していると認めた。
そこで機を見るに敏な久太郎どのは、この機に乗じて鉄炮を撃ちかけた。
そのとき殿下の兵は集福寺坂を下って兵をその麓に集中させ、まさに親父さまの備の右側に討ちかかろうとしており、堂木山と神明山の兵もすでにその砦を出て久太郎どのの兵と合流し、木之本と田上山のへいもまた陸続として後方に続くように動いた。
関白殿下の備の動きをうけて、親父さまは兵を退くことを決意しつつも、この集結した殿下たちの兵を振り切らなければならなかった。
退却というが、その置かれた状況によって、簡単にできるものではないのだ。
そして、まさに親父さまは乾坤一擲、殿下の備に討ちかかり、それを退け、柴田の馬標を毛受勝助に授けて、戦場を勝助に託して、ご自身は、近臣のうちの少数をともなって北国街道を越前に走った。
このあいだの親父さまの越前に向かうための戦いは、殿下もその回想をされるとき、親父さまは織田家の歴戦の強者ゆえ、たいへん苦労したと述べられておる。
ですな、殿下?
うむ、うむ。
このとき、親父さまは久太郎どのの備と、殿下の兵との合体を阻止されたが、これはまた逆も言えて、久太郎どのが親父さまの玄蕃(佐久間盛政)の軍への合流を阻止したともいえる。
一方、毛受勝助は狐塚からおよそ九町(約一キロメートル)退いて、林谷山の空砦にはいり、金の御幣の馬標──これは柴田家の馬標だが、これを中心として、ときには砦を出て反撃するなど、防戦に尽力したが、衆寡敵せず、討ち取られた。
ときに、未の下刻(午後二時)であった。
この日の戦いで、親父さまの陣営の戦死数は、五、六千であったよ、とのちに関白殿下よりきいたものさ。
さて、親父さまだが、毛受勝助が敵を防いで戦っているあいだに、柳ヶ瀬を逃れ、栃木峠をこえて越前に入られた。
越前に入った親父さまは虎杖から今ノ庄を進み、越前の府中にやってこられた。
わが城は府中にあり、わしも府中に帰っていた。
親父さまは府中の城においでになった。
その乗馬はしとどに汗を噴き、口から泡を吹いておった。休みなく馬を走らせ、乗り潰されたのだとわしは思った。
親父さまは城にやってこられたとき、柔らかい笑みを浮かべておられた。
怒るでもなく、嘆くでもなく、泰然と、颯爽としておられた。
対するわしはといえば、親父さまに会わせる顔とてなく、はじめは妻のまつに応対を頼み、身を隠しておった。
頼まれたまつは、本丸御殿の書院に親父さまを招いた。
わしははじめ隠れ通そうと思っておったが、恩ある親父さまとは、もうこれで二度とお会いできぬと気持ちを定め、おそるおそる書院に顔を出した。
親父さまはわしの顔をみると、開口一番、
「負け申した!」
と、快闊に話された。
いっぽうのわしはというと、その親父さまのおっしゃる「負け」の原因を作ったのはほかでもないおのれであると、心のうちで叫び回っておった。
つづいて親父さまは、そんなわしの気持ちを悟りつつも、次の句を告げられた。
「旧誼を感謝致す。わが運命、斯くのごとく儚くなって、又左へはなんら報いることができず恐縮である」
といわれると、わしの近くまでにじり寄られて、そして両の手をもち、
「おぬしは筑前(秀吉)とは懇意である。いままでのしがらみを忘れ、虚心坦懐、筑前につくされたい。お手前が至誠を通されるならば、筑前にも届こう。重ねて言う、筑前に降られよ」
親父さまのお気持ちに触れ、わしはまったく居場所がなかった。
本当に面目なく、穴があれば入りたい気持ちであった。
こののちに親父さまは、わしがあずけていた証人(人質)のまあを殺すことなく、かえって我が許へ返されたほどである。
それほどの度量の人物を裏切った自分。
まったくもって小人の極みでござる。
わしが親父さまへの応対にまごまごしておると、親父さまは、やにわに湯漬けを所望された。
奥に命じて湯漬けをさし出すと、親父さまはうまそうに湯漬けをご自分の胃袋におさめられ、腹がくちくなった(腹がふくれた)あと、馬を所望されたので、厩につないであるもっとも立派な馬を親父さまに差し上げた。
親父さまが府中を去られるとき、一陣の風が吹きぬけるがごとくであった。
親父さまが去られたあと、親父さまを追って殿下も翌二十二日に府中に入られた。
いちおう殿下との内諾のとおり、わしは殿下に内応したが、それでもおもてだって内応を約したわけではなし、殿下がわしに対してどう出られるか分からなかった。
すると妻のまつがわしに、
「わたくしが筑前様のお相手をいたしましょう。おなごのわたしならば、筑前様もお心をおゆるしくださいましょう」
といった。
そのとき殿下は、わが屋敷の厨(台所)にこられておって、ほんに気兼ねなくといった体で、まつとお会いになられた。
まつが殿下に頭をさげると、殿下は莞爾と笑みを浮かべられ、
「賤ヶ岳の戦いでは、ご亭主のおかげで勝ちをひろい申した」
殿下は正直にわが裏切りを評価され、まつは、
「こたびの御戦捷、おめでとう存じます」
と、殿下の戦勝を賀した。
殿下は句を継いで、
「わしはこれから北ノ庄へ鬼退治に向かうが、ご亭主は戦上手で有名なので、お力をお借りしたい。孫四郎殿(利家嫡男利長)はここで御袋様(まつ)をお守りいただきたい」
まつはここでピンと来た。
もしここで利長が兵を残して守るならば、のちに裏切りのきざしありと、殿下より誅されるかもしれぬ、と。
そこでまつは殿下に茶を出してもてなすあいだ、裏にまわって利長をさとし、
「わたくしのことは案じずともよい。そなたも義父上に従って征きなさい」
利長はまつの気持ちをぞんじてかどうか、親のいうことだからと殿下の軍についていった。
そんなまつの気働きもあって、わが家はいまだつづいておる。
ほんによきおなごを嫁にもらったとわしは妻に感謝しておるよ。
結果、殿下はこの府中城に久太郎どの(堀秀政)を押さえに置いて守らせ、翌二十三日に、殿下の兵はわが兵とともに足羽川を渡って北ノ庄に着いた。
利家が言葉を切ると、茶々が言った。
「前田さま、このときの北庄城の内情をご存じですか」
利家はかぶりを振り、
「いや、存ぜぬ。たしか親父さまは、わが府中の城を出られたのち、北ノ庄に帰り着かれたとは聞き及ぶが、城の内情までは存ぜぬが」
茶々はすこし背を伸ばして、
「ならば、わたくしが城の内情を語っておきかせしましょう。これは城内にいたわたくしだから、お話しできることです」
と、すこし誇ってはなしはじめた。
利家は泣いていた。
目から涙を落とし、鼻水を垂らし、嗚咽を漏らした。
利家の苦衷をおもって、秀吉が利家のかたわらに座り、背をさすってやった。
又左殿はもう語れぬ。
儂がつづけよう
二十一日の朝になる。
この日の早朝、左禰山にあった久太郞殿(堀秀政)は、山を降りて東野に陣した。
木之本や田上山に残されていた秀長(羽柴秀長・秀吉実弟)の麾下は前進して久太郞殿の陣に加わろうと動いた。
これら、わが軍の活動は右翼方面にも波及し、その攻撃的姿勢は、全軍におよんだ。
秀長自身は田上山の備(陣立のこと)と動きを一にし、街道筋を修理どの(柴田勝家)の備にむかったのである。
修理殿と秀長、久太郞殿とは相対峙しただけで、交戦せず午の刻(正午)まで動きはなかったが、この間、双方、思いを致していたであろう。
修理殿は玄蕃(佐久間盛政)たちが無事に兵を退くことを願い、
秀長、久太郞殿は、わしの進撃がすみやかに成功することを祈っておってくれたものと思う。
そしてこの両軍は、対峙したまま、西の方の峰筋における戦闘をはるかに望見しておったのだ。
峰筋のいくさは次第にわが方の優勢に進展し、巳の下刻(午前十一時)ごろには文室山は、わが手の兵の蹂躙にまかせ、午の刻(正午)には、わが軍は兵を集福寺の麓にまとめ、まさに修理殿の側背を衝こうとする状況となるに、狐塚の修理殿陣地の前面の東野の兵──すなわち久太郞殿、秀長のおる地点に、各地から兵がぞくぞく集まって、わが方の勝利の情勢は、ゆるぎないものとなった。
反対に、このころ修理殿の陣中は、脱走する兵に悩まされておったと思う。残された兵は、おそらく三千もあればよいほうだったであろう。
修理殿の性格であれば、おそらくこの三千でわしと戦おうとされておったと思う。
しかし修理殿の備の前面には、秀長と久太郞殿の大軍があり、その右翼にはわが兵が、玄蕃の兵を破って勝ちに乗じておった。
とすれば──これも想像だが、修理殿の宿老たちは修理殿の主張する儂とのいくさを諫止し、ひとたび越前に戻って再起をうながしたものと思う。
そして修理殿も最後は折れて、越前に向かったものであろう。
修理殿は越前に落ちていった。
ひっくひっくと嗚咽を繰り返していた利家が、ようやく気を確かにし、懐紙で洟をかんだ。
「もうよいのか、又左どの」
秀吉が心配そうに利家をいたわる。
「殿下、申し訳ござらぬ。いささか気の迷いが大きかった」
うんうん、と秀吉は点頭させた。
「前田さま、語りたくなくば無理にとは申しませんよ」
茶々が利家に語りかけた。
「お茶々さま、かたじけない。だが、これだけは語っておかねばならぬことがある。是非、みなにも聴いてもらいたい」
あー、泣いたわ泣いたわ。
いささか気恥ずかしかったな。
すこし殿下の話されているところより、さかのぼるぞえ。
久太郎どの(堀秀政)の兵は午の刻(正午)に親父さまの陣が動揺していると認めた。
そこで機を見るに敏な久太郎どのは、この機に乗じて鉄炮を撃ちかけた。
そのとき殿下の兵は集福寺坂を下って兵をその麓に集中させ、まさに親父さまの備の右側に討ちかかろうとしており、堂木山と神明山の兵もすでにその砦を出て久太郎どのの兵と合流し、木之本と田上山のへいもまた陸続として後方に続くように動いた。
関白殿下の備の動きをうけて、親父さまは兵を退くことを決意しつつも、この集結した殿下たちの兵を振り切らなければならなかった。
退却というが、その置かれた状況によって、簡単にできるものではないのだ。
そして、まさに親父さまは乾坤一擲、殿下の備に討ちかかり、それを退け、柴田の馬標を毛受勝助に授けて、戦場を勝助に託して、ご自身は、近臣のうちの少数をともなって北国街道を越前に走った。
このあいだの親父さまの越前に向かうための戦いは、殿下もその回想をされるとき、親父さまは織田家の歴戦の強者ゆえ、たいへん苦労したと述べられておる。
ですな、殿下?
うむ、うむ。
このとき、親父さまは久太郎どのの備と、殿下の兵との合体を阻止されたが、これはまた逆も言えて、久太郎どのが親父さまの玄蕃(佐久間盛政)の軍への合流を阻止したともいえる。
一方、毛受勝助は狐塚からおよそ九町(約一キロメートル)退いて、林谷山の空砦にはいり、金の御幣の馬標──これは柴田家の馬標だが、これを中心として、ときには砦を出て反撃するなど、防戦に尽力したが、衆寡敵せず、討ち取られた。
ときに、未の下刻(午後二時)であった。
この日の戦いで、親父さまの陣営の戦死数は、五、六千であったよ、とのちに関白殿下よりきいたものさ。
さて、親父さまだが、毛受勝助が敵を防いで戦っているあいだに、柳ヶ瀬を逃れ、栃木峠をこえて越前に入られた。
越前に入った親父さまは虎杖から今ノ庄を進み、越前の府中にやってこられた。
わが城は府中にあり、わしも府中に帰っていた。
親父さまは府中の城においでになった。
その乗馬はしとどに汗を噴き、口から泡を吹いておった。休みなく馬を走らせ、乗り潰されたのだとわしは思った。
親父さまは城にやってこられたとき、柔らかい笑みを浮かべておられた。
怒るでもなく、嘆くでもなく、泰然と、颯爽としておられた。
対するわしはといえば、親父さまに会わせる顔とてなく、はじめは妻のまつに応対を頼み、身を隠しておった。
頼まれたまつは、本丸御殿の書院に親父さまを招いた。
わしははじめ隠れ通そうと思っておったが、恩ある親父さまとは、もうこれで二度とお会いできぬと気持ちを定め、おそるおそる書院に顔を出した。
親父さまはわしの顔をみると、開口一番、
「負け申した!」
と、快闊に話された。
いっぽうのわしはというと、その親父さまのおっしゃる「負け」の原因を作ったのはほかでもないおのれであると、心のうちで叫び回っておった。
つづいて親父さまは、そんなわしの気持ちを悟りつつも、次の句を告げられた。
「旧誼を感謝致す。わが運命、斯くのごとく儚くなって、又左へはなんら報いることができず恐縮である」
といわれると、わしの近くまでにじり寄られて、そして両の手をもち、
「おぬしは筑前(秀吉)とは懇意である。いままでのしがらみを忘れ、虚心坦懐、筑前につくされたい。お手前が至誠を通されるならば、筑前にも届こう。重ねて言う、筑前に降られよ」
親父さまのお気持ちに触れ、わしはまったく居場所がなかった。
本当に面目なく、穴があれば入りたい気持ちであった。
こののちに親父さまは、わしがあずけていた証人(人質)のまあを殺すことなく、かえって我が許へ返されたほどである。
それほどの度量の人物を裏切った自分。
まったくもって小人の極みでござる。
わしが親父さまへの応対にまごまごしておると、親父さまは、やにわに湯漬けを所望された。
奥に命じて湯漬けをさし出すと、親父さまはうまそうに湯漬けをご自分の胃袋におさめられ、腹がくちくなった(腹がふくれた)あと、馬を所望されたので、厩につないであるもっとも立派な馬を親父さまに差し上げた。
親父さまが府中を去られるとき、一陣の風が吹きぬけるがごとくであった。
親父さまが去られたあと、親父さまを追って殿下も翌二十二日に府中に入られた。
いちおう殿下との内諾のとおり、わしは殿下に内応したが、それでもおもてだって内応を約したわけではなし、殿下がわしに対してどう出られるか分からなかった。
すると妻のまつがわしに、
「わたくしが筑前様のお相手をいたしましょう。おなごのわたしならば、筑前様もお心をおゆるしくださいましょう」
といった。
そのとき殿下は、わが屋敷の厨(台所)にこられておって、ほんに気兼ねなくといった体で、まつとお会いになられた。
まつが殿下に頭をさげると、殿下は莞爾と笑みを浮かべられ、
「賤ヶ岳の戦いでは、ご亭主のおかげで勝ちをひろい申した」
殿下は正直にわが裏切りを評価され、まつは、
「こたびの御戦捷、おめでとう存じます」
と、殿下の戦勝を賀した。
殿下は句を継いで、
「わしはこれから北ノ庄へ鬼退治に向かうが、ご亭主は戦上手で有名なので、お力をお借りしたい。孫四郎殿(利家嫡男利長)はここで御袋様(まつ)をお守りいただきたい」
まつはここでピンと来た。
もしここで利長が兵を残して守るならば、のちに裏切りのきざしありと、殿下より誅されるかもしれぬ、と。
そこでまつは殿下に茶を出してもてなすあいだ、裏にまわって利長をさとし、
「わたくしのことは案じずともよい。そなたも義父上に従って征きなさい」
利長はまつの気持ちをぞんじてかどうか、親のいうことだからと殿下の軍についていった。
そんなまつの気働きもあって、わが家はいまだつづいておる。
ほんによきおなごを嫁にもらったとわしは妻に感謝しておるよ。
結果、殿下はこの府中城に久太郎どの(堀秀政)を押さえに置いて守らせ、翌二十三日に、殿下の兵はわが兵とともに足羽川を渡って北ノ庄に着いた。
利家が言葉を切ると、茶々が言った。
「前田さま、このときの北庄城の内情をご存じですか」
利家はかぶりを振り、
「いや、存ぜぬ。たしか親父さまは、わが府中の城を出られたのち、北ノ庄に帰り着かれたとは聞き及ぶが、城の内情までは存ぜぬが」
茶々はすこし背を伸ばして、
「ならば、わたくしが城の内情を語っておきかせしましょう。これは城内にいたわたくしだから、お話しできることです」
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