吼えよ! 権六

林 本丸

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第五章 うらぎった利家

前田利家ものがたる その3

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                    3

 さて、ひと心地ついたところで、いよいよ親父さまのことを物語るかね。
 うむ。
 おそらく半介どのは清須での会議の一件ももう調べおわっておるとはおもうが、話には流れがござってな、まあ、そこらへんからはじめると、話のすわりが良いとおもう。
 まあ、話し合いの過程は省くが、親父さまは関白殿下から、長浜とお市さまをゆずられた。
 あとにしておもえば、親父さまは長浜を辞退されたほうがよかったやもしれぬ。
 なぜって?
 だってそうだろう。長浜を手に入れたばかりに、冬場は雪のため長浜城は北陸越前と隔絶してしまう。
 しかし、関白殿下に長浜を攻められれば、やはり長浜の救援のために兵を割かねばならぬ。冬場でも、おちおちしてはおられぬ。
 で、親父さまは、空約束になるかもしれぬとおもいつつも、関白殿下へ休戦の約束をとりつけるべく、三名の者を使いとして京へ送ることにした。そう、羽柴秀吉どのへ、である。
 その三名とは、不破ふわ光治みつはるの子の勝光かつみつ金森長近かなもりながちか、そしてこのわし、前田又左衛門またざえもん
 親父さまは、われら三名へ春までは兵を動かさないという誓紙を関白殿下から取ってきて欲しいとおっしゃった。 
 われら三名は、日ごろ恩義を受けている親父さまからのたっての願いを叶えるべく、越前の府中を出て京の宝寺の城に入った。
 はっきりとは申しにくいが、我らは関白殿下から利を喰らわされた。
 これは否定できない。
 関白殿下、にやにや笑われないでいただきたい。
 しかし、わしは至誠に誓って、親父さまを裏切るつもりは毛頭なかった。
 それは不破勝光も金森長近もそうだったと思う。
 だから、関白殿下から金砂や豆銀、刀、絹などなど、もろもろもろうたが、心のうちでは、これはこれ、それはそれと分別はあった。
 ゆえにわしは関白殿下にぴしゃりと申し上げた。
「誓紙をいただきたい」
 ──と。
 ところがじゃ、関白殿下は言を左右にされるのよ。
 いわく、
「腹がいたい」
 とか、
「今日は日柄がわるい」
 とか、
「側室の機嫌がわるい」
 とかとか。
 わしらもいい加減腹がたってきたところへ、関白殿下は急に真顔になられて、
「誓紙をかくことは造作もないが、誓詞が役立たねば致し方あるまい?」
 と急に正論を述べてこられた。
 殿下は、「わしだけではなく、丹羽にわ五郎左ごろうざ長秀ながひで)どのや池田紀伊きい恒興つねおき)どのも連署せねば、意味はないとはおもわぬか? わしがお二方から署名をもらい受けて、後日、柴田どのへお送りしよう」と請けおわれたので、われらもそれならばと納得して越前に戻ったのよ。
 そしたらば、それを聞いた親父さまは顔を赤黒くして怒られてな、「そんなものは秀吉の詐術である。誓詞など送っては来まい」と、さんざん我らを叱責された。
 わしらはそんなことはあるまい──と親父さまのことばを否定したかったのだが……。
 が、これは親父さまが正しかったな。
 これ、関白殿下、舌を出されてますな。
 ──おほん。
 まあ、その過程も話しておこう。
 もともと長浜は関白殿下が治められていた土地ゆえ、長浜城を落とす急所を知りすぎているといえば知りすぎておられる。
 ゆえに殿下は大兵を長浜に送られると、城の周囲に付城を構えて、糧道を封鎖された。
 一方で、城中には調略をめぐらして、自壊を図られた。
 このとき親父さまはとうぜんのこと、北国にあって、寒天に兵を動かすことはすこぶる難しい状況にあった。
 しかも近江と越前の国境の山々には、そのとき丹羽五郎左どのが関白殿下の意を受けて砦をかまえて親父さまの行動をさえぎるうごきに出ておった。
 そう、親父さまは関白殿下が築かれた、これら長浜城の付城群を落としていかねばならなかった。
 そうしたことをもろもろ考えたとき、そのとき長浜城主であった勝豊かつとよどのが絶望的な考えに沈思されたであろうことは想像にかたくないだろう。
 こうした状況下において、関白殿下は勝豊どのの配下の面々に強烈な調略をくわえられ、引き抜きを図られた。
 そうした結果、勝豊どのご自身が殿下に降ることとなり、長浜城は殿下の手に落ちた。
 このことで親父様は北国に居ても立ってもおられなくなり、近江に向けて人数(兵)を出すことを決められた。
 ゆえに天正十一年二月二十八日、親父さまは出兵された。
 先鋒にわしと息子の利長としなが、親父さまの甥の鬼玄蕃おにげんばこと佐久間さくま盛政もりまさ、現場の実弟で親父さまの養子となっておった三左衛門さんざえもん勝政かつまさ原彦次郎はらひこじろう、徳山秀現ひであき、金森長近、不破勝光などなど。
 深雪を分けて兵をすすめた北陸勢は三月十二日、ようやっと近江に入れた。
 わしもこの従軍に参加しておったので、その苦行のような行軍は、ほんに辛かった。
 親父さまはそれぞれの将に黒鍬衆くろくわしゅうを出すよう命ぜられ、黒鍬者に雪をかきわけさせながら行軍したものさ。
 あの寒さは本当に厳しかった。
 正直に申して、もう寒天の行軍はしたくないと思ったね。
 いっぽうそのころ伊勢の滝川一益どのを攻めておられた関白殿下は親父さまが人数を出されたことにあわてず、友軍の織田信雄どのを滝川攻めに当たらせ、ご自身は近江に引きかえされた。
 もちろん行軍の便べんは殿下のひきいる兵のほうがよいから、親父さまの兵が近江に入る一日前の三月十一日に近江の佐和山城に入られたと聞く。
 そして翌十二日には、殿下は長浜城に入城された。
 このとき、親父さまは伊勢におられた関白殿下のそなえを北近江に引きよせ、江越ごうえつ(おうみとえちぜん)の天嶮てんけんによってこれを防御し、伊勢の滝川一益どのを救援し、さらに自由になった滝川どのに積極的に伊勢地方で活動させるとともに、春をまって北国勢の行動の便が図られるようになれば、岐阜の三七織田信孝どのとも連携し、関白殿下の周囲をかこむように活動させ、関白殿下の疲れをまち、さらに高野山の寺院勢力や、根来、雑賀の紀伊衆と四国の長宗我部元親らをうごかし、もっと大きくには、公方様の足利義昭さまや、義昭さまを庇護していた毛利輝元の協力も得たいと考えておられた。
 ちょっと誤解ないようにお願いしたいのは、足利義昭公は右府様(織田信長)から京を追放されたが、朝廷から解官されたわけではないという事さ。だから、京を離れ、右府様がお亡くなりになってもなお依然、義昭公は将軍位にあったのだ。
 その将軍義昭公を動かすにしろ、もちろんこれだけの勢力が動き出すには時間がかかる。
 よって、親父さまは当時関白殿下がおいでだった天神山砦を攻める拙速を避け、単におどかすのみとどめられ、これを監視する兵をおいて、ご自身は陣地の高地に詰めて、持久戦を志向されたのだ。
 と同時に、殿下の将卒らに動揺が広がっているのを見抜いた親父さまは、調略の手をのばされた。
 殿下は調略の天才ともいうべき天賦の才をもっていらした。つぎつぎに敵を寝返らせ、自軍に組みこまれていかれたのだが、この戦いにおいては裏目に出た。
 柴田勝豊どのを寝返らせたのは、たしかに見事ではあったが、勝豊どのの重臣たちが、殿下に対して不穏な動きをみせるようになった。
 その具体をあげれば、山路やまじ将監しょうげんである。
 そのまえに殿下は山路ら勝豊どのの旧臣をまとめて前線に送ったりして、危険を分散させようとさせておいでだったが、わしが思うに、これは裏目であったとおもんぱかる。
 親父さまも殿下に一方的にやられていたわけではなかった。
 山路将監に利を喰らわせて、その内応を謀ったが、これが図にあたった。
 将監が裏切ったのは四月十三日だったと記憶している。
 山路将監というのは、実名を正国まさくにといって、北伊勢の神戸かんべ氏の家老の家に生まれた者である。
 惟任日向(明智光秀)による右府様への裏切りのときには、山路は三七さんしちどの(織田信孝)の配下であったが、その後、親父さまのところに転仕し、親父さまはこれを養子の勝豊どのに付属された。
 しかし、勝豊どのが殿下の調略によって親父さまへ返り忠(裏切り)されたので、将監は勝豊どのの家老の仲間であった木下一元かずもと大金藤八郎おおがねとうはちろうらとともに、殿下の命をうけて天神山の砦に配属されたのだが、親父さまの強烈な調略工作は、殿下の旧勝豊系重臣らへの疑心を呼び、その三名は殿下の命で、神明山砦、ついで堂木山砦にと、つぎつぎと前線へと移され、同時にそれら三名は、自分たちの向背を殿下に疑われていることに不満をおぼえ、それがさらに昂じて親父さまの誘いをうけたのが山路将監というわけだ。
 山路将監はおのれの裏切りが露顕すると、堂木山砦の自身の陣所を焼いて、白昼、行市山砦にあった佐久間盛政のもとへ走った。
 その佐久間は、殿下が旗本の兵をひきいて美濃の三七どのを討つべく動かれたこと偵知し、また山路将監から賤ヶ岳と大岩山の両砦の防備が充分でないことを教えられると、やにわに中入り(敵中進出)を志向するようになった。
 そこでその作戦の許しを得るべく、親父さまのいる内中尾山の本陣に向かった佐久間盛政は、その賛同を求めたが、親父さまははじめはその策の危うさからこれに賛同をあたえなかったが、佐久間の粘り強い説得により、最後は折れ、中入り策の許可をあたえた。
 その策では、佐久間に中川清秀の守る大岩山砦を攻めさせ、親父さまの隊は左禰山さねやまにあるほり久太郎きゅうたろう秀政ひでまさ)に備え、別所山に陣取っていたわしと利長を茂山に移し、神明山砦の木村常陸介きむらひたちのすけ、堂木山砦の木下一元に備えさせた。
 このとき、親父さまは、佐久間に対して作戦の成功後は、すぐさまその兵を退くよう戒められた。
 これは四月十九日の深夜だったが、親父さまがおのおのを部署して兵を動かすころには、翌二十日のうしの下刻(午前二時ごろ)になっておったと記憶しておる。
 詳細は省くが、佐久間玄蕃(盛正)は余呉湖を迂回するように大岩山砦の背後に回りこみ、みごと中川清秀を討ったのだ。玄蕃は余勢を駆って、大岩山の北に位置する岩崎山砦も陥落させた。
 このときの佐久間の得意たるや天を衝くものがあった。
 ために、親父さまは再三にわたり佐久間へ兵を退くよう命令を発したが、佐久間はこれを無視した。
 佐久間玄蕃(盛政)のこの態度については、いろいろいわれることが多い。
 玄蕃に思いをいたす者は、玄蕃はせっかく苦労しておさえた大岩山と岩崎山を放棄し、ふたたび敵手にゆだねて退却することは、まことに忍び得ないものであったろうと、玄蕃をかばう。
 また、さらに一歩進んだ考えとしては、この玄蕃のおさえた地域が、親父さまの兵が長浜の平野に進出するために、かならず押さえておかねばならぬ要地であったことを指摘できる。つまり余呉湖の東に位置するこの北国街道の隘路口あいろぐちから長浜へ進出するのに重要な地点であることをいう。
 この玄蕃の考えは、すこぶる道理であるといえるな。
 おそらく親父さまにしてみても、できることならば、そうしたいと考えておられたと思う。
 しかしながら北国街道の東には左禰山があり、ここに砦をかまえて堀久太郞どのが大兵をひそませていたし、田上山たなかみやまには殿下の弟君の秀長どのの大兵があった。
 仮に親父さまが北国街道を南下し、長浜の平野に出るべく兵を動かしたとすれば、左禰山を後ろに、田上山を左にして木之本の殿下の残していかれた大兵と戦うことは無謀といえただろう。
 親父さまにはそれがみえておられた。
 ゆえに、玄蕃に北に還るように命令したし、ご自身も動かなかった。
 ただ、玄蕃にしてみれば、親父さまに隘路進出の決心がつかないにしても、そのまま自分が引き揚げることは、戦果を棒に振るものだと考えておったのではないか。
 ともかく、殿下がこの変を聞きつけて兵を返すにしても、両三日はかかると玄蕃は踏んでいただろう。殿下が還ってこられるこの時間を利用して、さらに敵軍を荒らし回らせるし、それができないにしても、落とした大岩山や岩崎山の砦の修築をし、備をかたくして殿下の来襲を迎えられる──。
 そう考えておったのであろうよ。
 そしてみなが玄蕃を責めるのは、つまるところ、親父さまの旗本の人数(兵数)が、敵にあたる木之本の秀長どのの兵の数と、左禰山にある堀久太郞どのの兵数の合計よりも劣勢であったことを知っていたからであろう。
 大局から見ても、親父さまの北国街道突破は、ほぼ不可能であったとわしも思う。
 ただし、玄蕃自身は、親父さまが北国街道を進めば、周辺の敵は潰乱し、敗走すると見込みをつけていたのかも知れない。しかし、そんな博奕ばくちは親父さまはとれなかったし、また周囲もそういう玄蕃の甘い見通しを評価しなかったところがある。
 そして、もう一方の考えが、わしと関係がある……。
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