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第五章 うらぎった利家
前田利家ものがたる その2
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実をいえば、わしは右府様(織田信長のこと)から出仕止めをされたとき、もう織田家にもどるまい、ぐらいに考えておった。
北には美濃の斎藤があり、東には三河の松平を飲み込んだ駿河の今川がある。甲斐には武田、越後には長尾景虎(のちの上杉謙信)。
世の中は広いと感じておったから、すぐ仕官がかなうと思ったが、当時の織田家は片田舎の尾張の弱小国と思われておったから、そこでの仕官がすぐ他家への仕官につながるということにはならなかった。
それよりなにより、織田には親父さまがおられたから、なにくれとなく「尾張に帰って来い」とお声かけをいただいておった。
また、妻のまつも「織田家に御恩がえしもできておらぬのに、他家に移るのは寝覚めがわるい」とわしの耳元でささやくから、わしもやがて、また仕官するさきは「織田家に」という考えになっていった。
そんなこんなで、時が過ぎ、わしは焦りも感じつつあったころ、いわゆる「桶狭間の戦い」が永禄三年に起きた。
駿河の今川義元が大軍をひきいて尾張に攻め込んできたいくさじゃ。
親父さまからの報せでいくさがあることを知ったわしは、鑓をひっさげ桶狭間山に向かったよ。
わしはこのとき、三つの首をあげ、赫々たる功を立てた。
右府様に見参に入れたが、右府様はまだお怒りであってな、帰参は許されなかったよ。
しかし、翌永禄四年にまた好機がまわってきた。
この年の五月に、美濃の斎藤義龍が病死してな、美濃攻略を目指しておられた右府様は、これを僥倖とばかり、西美濃へ兵を出したのだ。
斎藤はまだ十四の龍興を主と仰ぎ、墨俣砦の長井甲斐守と日比野下野守清実が兵を出して森部で戦った。
これはのちに「森部の戦い」と呼んでおる戦いでな、森部は清須城から北西に約五里に位置していて、まさに濃尾間でいえば指呼の距離というわけじゃ。
合戦の日は雨が降っておってな、のちに聞いた話だが、このとき右府様は雨を「天の与えた好機」と言って喜ばれたそうじゃ。
斎藤義龍が死んだと聞いたとき、わしは右府様ならすぐ兵を出されるだろうと思い至って、すぐさま身支度を整えて、この森部の戦いに参加したよ。
戦場に出ると、斎藤方は鶴翼(鶴が翼を広げるように、相手軍に対して横に長い軍陣のこと。相手軍を包みこむように攻められる)で織田方は兵を三つに分けて、それぞれ鑓の応酬をしておった。
わしは日比野下野の軍に突っ込んだ。
そこでわしは、「頸取足立」に出会ったのじゃ。
頸取足立は本名を足立六兵衛といって、膂力は三人力と号する豪傑でな、わしは鑓を駆使してこの頸取足立の首を獲ったのよ。
頸取足立をわしが討ち果たすと、日比野軍は急速に士気を失ってな、指揮官の日比野下野もまもなく討たれてしまった。
日比野下野が討たれると、今度は斎藤軍全軍が士気を失って、長井甲斐守、神戸将監ら、名だたる将が討たれて全軍撤退とあいなった。
わしは逃げる斎藤軍の兵のもう一人の首も獲って、首二つを右府様に見参に入れると、右府様のご機嫌はそれはそれは良くてな、とくに足立の首を獲ったことを激賞されて、わしは帰参を許された。しかも前の禄の百五十貫から三百貫の加増を受けて四百五十貫の禄で帰参できた。
このときに親父さまは本当にご自身のことのようによろこんでくださってな、わしも多少の恩返しができたと心底うれしかったよ。
しかし、この二年の浪人生活中に、実父利春が死去しておって、わしはほんに親不孝をしたと泣いたものさ。
まあ、その後は右府様の征くところ、近江、京畿、越前、若狭、三河などなど戦場を往来したよ。
右府様は征くところ全勝というわけではなかったが、負け戦であっても兵を立て直して再戦され、最終的に勝ちをおさめられておった。
いずれ勝つのだから、右府様に仕える将兵はみな恩賞にあずかれた。
とうぜん、織田家は大きくなっていったな。
その織田家にあったのが今の関白殿下、当時は木下藤吉郎と名乗っておった秀吉どのじゃ。
わしが右府様の勘気が解けて織田家に帰ったときに与えられた家の隣が、当時足軽頭をしておった関白殿下だった。
関白殿下はご自身も隠されておらぬが、もとは百姓の子でな。だがな、その才気煥発なこと余人よりも秀でておって、右府様に認められて織田家で頭角をあらわしつつあった。
関白殿下の風采はまあ、言わぬでおくが――、茶々姫、笑われまするなよ――、奥方の北政所さまはお若いころから快闊な美人であったな。あと、北政所さまのご実家も格式は高くなかったが武家の家だったから、北政所さまのご両親は、二人の結婚をそれはそれは反対されてな……。結局北政所さまはご実家から勘当されて親戚の家の子となって関白殿下とご結婚なさった。その結婚の媒酌人をこの不肖、又左利家が妻のまつとともにつとめさせてもらった縁があるのよ。
当時はほんに金がなくてな、蓆を敷いた上に、木箱を載せて、そこにどこからか手に入れた盃と徳利で媒酌したものさ。
当時の関白殿下は、本当に金はなくてその日食うのもやっとという生活だったが、夢だけは大きかったな。いずれは天下とは言わずとも、一国一城の主となって、妻や子に何不自由ない生活をさせてやりたい――と。夢の叶ったことも叶わなかったこともあるが、北政所さまとの口約束を現実のものとして体現されたのが、ここにおられる関白殿下なのだよ。
まあ公家ほどではないが、武家も家柄にこだわるところがあるから、出自が百姓だった関白殿下が、その出世の過程で、どれほどご苦労されたか、わしには想像の外じゃ。
あの親父さまでさえ、当時の関白殿下には良い印象を持たれておらんかったことからも、武家でなかった関白殿下がいかにご苦労されたか、おもいをいたせるとおもう。
ん?
わしか?
わしは家柄などに囚われはせぬ。
だから、豪や菊を子のなかった関白殿下におまかせした(秀吉が利家の娘たちを養女とした)し、関白殿下のありようを否定したこともなかった。
そうした自分の性格で良かったとは今は思っている。
だから虚心坦懐に関白殿下にお仕えできておる。
家柄など、その人を飾る装飾の一つでしかない。
のう、そうおもわぬか?
口はばったいが、わしと関白殿下は良き友人関係であれたとおもっておる。
あと、心にとどめておいてほしいのは、わしと親父さまは北陸戦線で寄親と寄子の関係であったということじゃ。つまり主従関係にあったと申していい。
まさしくわしにとって親父さまは親父さまであった。
しかし、関白殿下とはいくつかの戦でご一緒したことはあるが、主従関係を結んだことはない。完全に友人関係であった。
これは右府様のお考えもあっただろうし、関白殿下が出世するにつれて、毛利に注目し、その取次(方面軍総司令官)におなりになったことで、北陸を管轄していたわしとの関係が希薄となったこともある。
ともあれわしと関白殿下は純粋な友人関係を保てたのだ。
ふぅーっ。
一気に話したからちょいと疲れたわい。
ちょっと茶を所望して。
ずぅーっ。
胃に浸みるのう。
みなも一服あれ。
実をいえば、わしは右府様(織田信長のこと)から出仕止めをされたとき、もう織田家にもどるまい、ぐらいに考えておった。
北には美濃の斎藤があり、東には三河の松平を飲み込んだ駿河の今川がある。甲斐には武田、越後には長尾景虎(のちの上杉謙信)。
世の中は広いと感じておったから、すぐ仕官がかなうと思ったが、当時の織田家は片田舎の尾張の弱小国と思われておったから、そこでの仕官がすぐ他家への仕官につながるということにはならなかった。
それよりなにより、織田には親父さまがおられたから、なにくれとなく「尾張に帰って来い」とお声かけをいただいておった。
また、妻のまつも「織田家に御恩がえしもできておらぬのに、他家に移るのは寝覚めがわるい」とわしの耳元でささやくから、わしもやがて、また仕官するさきは「織田家に」という考えになっていった。
そんなこんなで、時が過ぎ、わしは焦りも感じつつあったころ、いわゆる「桶狭間の戦い」が永禄三年に起きた。
駿河の今川義元が大軍をひきいて尾張に攻め込んできたいくさじゃ。
親父さまからの報せでいくさがあることを知ったわしは、鑓をひっさげ桶狭間山に向かったよ。
わしはこのとき、三つの首をあげ、赫々たる功を立てた。
右府様に見参に入れたが、右府様はまだお怒りであってな、帰参は許されなかったよ。
しかし、翌永禄四年にまた好機がまわってきた。
この年の五月に、美濃の斎藤義龍が病死してな、美濃攻略を目指しておられた右府様は、これを僥倖とばかり、西美濃へ兵を出したのだ。
斎藤はまだ十四の龍興を主と仰ぎ、墨俣砦の長井甲斐守と日比野下野守清実が兵を出して森部で戦った。
これはのちに「森部の戦い」と呼んでおる戦いでな、森部は清須城から北西に約五里に位置していて、まさに濃尾間でいえば指呼の距離というわけじゃ。
合戦の日は雨が降っておってな、のちに聞いた話だが、このとき右府様は雨を「天の与えた好機」と言って喜ばれたそうじゃ。
斎藤義龍が死んだと聞いたとき、わしは右府様ならすぐ兵を出されるだろうと思い至って、すぐさま身支度を整えて、この森部の戦いに参加したよ。
戦場に出ると、斎藤方は鶴翼(鶴が翼を広げるように、相手軍に対して横に長い軍陣のこと。相手軍を包みこむように攻められる)で織田方は兵を三つに分けて、それぞれ鑓の応酬をしておった。
わしは日比野下野の軍に突っ込んだ。
そこでわしは、「頸取足立」に出会ったのじゃ。
頸取足立は本名を足立六兵衛といって、膂力は三人力と号する豪傑でな、わしは鑓を駆使してこの頸取足立の首を獲ったのよ。
頸取足立をわしが討ち果たすと、日比野軍は急速に士気を失ってな、指揮官の日比野下野もまもなく討たれてしまった。
日比野下野が討たれると、今度は斎藤軍全軍が士気を失って、長井甲斐守、神戸将監ら、名だたる将が討たれて全軍撤退とあいなった。
わしは逃げる斎藤軍の兵のもう一人の首も獲って、首二つを右府様に見参に入れると、右府様のご機嫌はそれはそれは良くてな、とくに足立の首を獲ったことを激賞されて、わしは帰参を許された。しかも前の禄の百五十貫から三百貫の加増を受けて四百五十貫の禄で帰参できた。
このときに親父さまは本当にご自身のことのようによろこんでくださってな、わしも多少の恩返しができたと心底うれしかったよ。
しかし、この二年の浪人生活中に、実父利春が死去しておって、わしはほんに親不孝をしたと泣いたものさ。
まあ、その後は右府様の征くところ、近江、京畿、越前、若狭、三河などなど戦場を往来したよ。
右府様は征くところ全勝というわけではなかったが、負け戦であっても兵を立て直して再戦され、最終的に勝ちをおさめられておった。
いずれ勝つのだから、右府様に仕える将兵はみな恩賞にあずかれた。
とうぜん、織田家は大きくなっていったな。
その織田家にあったのが今の関白殿下、当時は木下藤吉郎と名乗っておった秀吉どのじゃ。
わしが右府様の勘気が解けて織田家に帰ったときに与えられた家の隣が、当時足軽頭をしておった関白殿下だった。
関白殿下はご自身も隠されておらぬが、もとは百姓の子でな。だがな、その才気煥発なこと余人よりも秀でておって、右府様に認められて織田家で頭角をあらわしつつあった。
関白殿下の風采はまあ、言わぬでおくが――、茶々姫、笑われまするなよ――、奥方の北政所さまはお若いころから快闊な美人であったな。あと、北政所さまのご実家も格式は高くなかったが武家の家だったから、北政所さまのご両親は、二人の結婚をそれはそれは反対されてな……。結局北政所さまはご実家から勘当されて親戚の家の子となって関白殿下とご結婚なさった。その結婚の媒酌人をこの不肖、又左利家が妻のまつとともにつとめさせてもらった縁があるのよ。
当時はほんに金がなくてな、蓆を敷いた上に、木箱を載せて、そこにどこからか手に入れた盃と徳利で媒酌したものさ。
当時の関白殿下は、本当に金はなくてその日食うのもやっとという生活だったが、夢だけは大きかったな。いずれは天下とは言わずとも、一国一城の主となって、妻や子に何不自由ない生活をさせてやりたい――と。夢の叶ったことも叶わなかったこともあるが、北政所さまとの口約束を現実のものとして体現されたのが、ここにおられる関白殿下なのだよ。
まあ公家ほどではないが、武家も家柄にこだわるところがあるから、出自が百姓だった関白殿下が、その出世の過程で、どれほどご苦労されたか、わしには想像の外じゃ。
あの親父さまでさえ、当時の関白殿下には良い印象を持たれておらんかったことからも、武家でなかった関白殿下がいかにご苦労されたか、おもいをいたせるとおもう。
ん?
わしか?
わしは家柄などに囚われはせぬ。
だから、豪や菊を子のなかった関白殿下におまかせした(秀吉が利家の娘たちを養女とした)し、関白殿下のありようを否定したこともなかった。
そうした自分の性格で良かったとは今は思っている。
だから虚心坦懐に関白殿下にお仕えできておる。
家柄など、その人を飾る装飾の一つでしかない。
のう、そうおもわぬか?
口はばったいが、わしと関白殿下は良き友人関係であれたとおもっておる。
あと、心にとどめておいてほしいのは、わしと親父さまは北陸戦線で寄親と寄子の関係であったということじゃ。つまり主従関係にあったと申していい。
まさしくわしにとって親父さまは親父さまであった。
しかし、関白殿下とはいくつかの戦でご一緒したことはあるが、主従関係を結んだことはない。完全に友人関係であった。
これは右府様のお考えもあっただろうし、関白殿下が出世するにつれて、毛利に注目し、その取次(方面軍総司令官)におなりになったことで、北陸を管轄していたわしとの関係が希薄となったこともある。
ともあれわしと関白殿下は純粋な友人関係を保てたのだ。
ふぅーっ。
一気に話したからちょいと疲れたわい。
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