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第五章 うらぎった利家
前田利家ものがたる その1
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城の大広間には、上座に秀吉、次席に前田利家と茶々と石田三成、下座に半介と力の姿があった。晴隆は、半介らのさらに後方に場所をとっていた。
次席に座っている前田利家が秀吉を見、秀吉も点頭して、
「又左殿、はじめられよ」
とうながした。
「いざ」
と前田利家も受けた。
さてさて、関白殿下のおゆるしも出たゆえ、物語りましょう。
まずはこの前田又左衛門という男について知っていただきたい。
わしは天文六年の生まれじゃ。
そう関白殿下と同い年よ。
わしはその天文六年の師走に、尾張の荒子村で生まれた。
父は前田利春。
父と母との間に八男二女が生まれたが、わしはそのなかで四男だった。
幼名は犬千代。
お犬殿とみなに親しみをこめて呼ばれておったよ。
今でこそ分別も多少はついたが、若かりしころのわしは、本当に短気で喧嘩っ早くてな、乳母も手を付けられない腕白者だった。
それが昂じて、その昔は傾き者としてならしたものさ。
さりとてそうした性格がまったく徒というわけではなかったよ。
いくさ場では、ちょっと激しやすいくらいの無手法が活躍したものさ。
ただ、そんなところが認められたわけではなく、体の良い人質として、天文二十年に右府様(信長)の小姓にあがって仕えることになった。
体の良い人質――と言ってやや奇異に感じるかね?
そうさね、たしかに後年の織田家はそれはそれは日の本を制する一家となったが、はじめは尾張の一部を領する弱小国でな、その織田家に奉公させるため、尾張の豪族国人の領主たちは、自身の子を小姓として寄親に託した。それはまさしく人質であって、寄子の豪族国人が寄親を裏切れば、託された子らの多くは処断された。
さいわい、前田家は織田家を裏切ることをしなかったし、また、右府様――、信長公は亡くなる前、右大臣に任じられておいでだったから、我らは信長公を右府様と呼んでおるが――、その右府様は、どんどん領土を広げられていかれたから、本当に付いて行くに足る寄親だったのだ。
さて、人質云々の話はこれでしまいじゃ。
はなしをつづけるぞ。
翌天文二十一年に尾張を実質支配していた大和守家(清須織田氏)の織田信友と戦った萱津の戦いは、わしは初陣で、武将首ひとつをあげる武功を立てたものさ。
その後すぐ元服して、前田又左衛門利家となった。
わしは右府様のゆくところ、西へ東へいくさ場を駆けめぐり、いつしか『鑓の又左』の異名を持つまでになったよ。
永禄の初めだったかな、右府様は、赤と黒の母衣衆を組織された。
母衣衆はいわゆる使番のことじゃな。
そのうち、赤と黒のちがいは、黒は年長者で組織されており、赤より一段上に見られておったよ。馬廻衆から選抜された。赤はその反対で年少者から選抜された。小姓衆がほとんどを占めておった。
わしは小姓だったから赤だ。しかし、赤母衣衆の筆頭だったぞ。
わしら赤母衣衆は右府様から多くの与力をあずけられたし、わし自身で申さば、百貫、加増された。
その当時のわしの得意たるや、絶頂だったな。
その後も私生活でも順風満帆だった。
そのなかでも大きなものは嫁取りだった。
従妹の預かり子であった「まつ」を嫁に迎えたのよ。
まつはほんによくできた女子でな、わしのいたらぬところをよく支えてくれたよ。
しかも、子沢山であった。
わしとまつは婚姻を結んで、すぐに長女の幸を授かったよ。
しかし、好事、魔多しと言おうか、わしは大きなしくじりをこのあと起こす。
それが、わしが柴田勝家さまを「親父さま」と親しみをこめて呼ぶのも、そのことと無縁ではない。
いやさ、このことからわしは、柴田勝家さまを無二の恩人として生きていくこととなる。
ちょっと大げさに聞こえるか?
いや、本当に、そのときのわしの境遇を聴いてもらえれば、そして、そのときにわしに手を差し伸べてくれた親父さまのありようを聴けば、みなも、なるほどと納得してくれるとおもう。
ちょっともったいぶって話したが、今からのことをよく聴いて欲しい。
あれは忘れもしない永禄二年のことじゃ。
右府様の同朋衆に拾阿弥という男がおった。
同朋衆はみなも存じておるとおもうが、城の雑用や主人の話し相手などをする者どもでな、身分は低かったが主人に近侍するということで城に勤める者どもは、みな、同朋衆を低くあつかったことはない。
主人に近侍できるということは、それだけ主人の覚えも良いということは改めていうまでもないだろう。
気に入らない者を近くに置いておくほど、主人も酔狂ではない。ましてや癇癖のつよかった右府様のお気に入りということは、いまにしておもえば拾阿弥もそれなりに苦労して城勤めをしていたやもしれぬ。
拾阿弥は何かとわしを目の仇にしておった。
当時は己れ自身では諒解していなかったが、いまにしておもえば、わしは豪族の四男で、金回りも良かった。しかも、わしは右府様にすこしでも顔と名を売りたいと、親にねだってきらびやかな衣裳も着たし、腰の大小も名のある刀匠の名物を帯びておったよ。
しかも若かったころのわしは傾き者じゃったから、喧嘩っ早かった。
え、それは前にも聴いた?
すまん、すまん。
まあ、前置きとして聴いておいてくれ。
拾阿弥はあるときわしの刀の笄を盗んだ。
笄は刀に付属しておる鉄で出来た棒じゃ。耳垢を取ったり、頭の地肌を掻くなどにつかうのは、侍ならばあらためて断ることもないだろう。
高価な刀に高価な笄。
刀は武人の魂であり、これを盗むことは「死」に直結することは拾阿弥も心得ていたとみえて、あやつはわしの「笄」を盗んだのじゃ。
もともとは出来心だったのやもしれぬ。
ともあれわしは怒り心頭に発し、拾阿弥を問いつめた。
こんなことするのは、あやつしかおらぬとわしは見抜いておった。
しかし拾阿弥は、知らぬ存ぜぬととおしたばかりか、わしのおらぬ所で、わしを笄を盗まれた「間抜け」と莫迦にしおった。
さすがのわしも「間抜け」呼ばわりされて、はいそうですか、と聞いておられるほど、人間が出来てはおらんかった。
わしは右府様に拾阿弥を斬らせて欲しいと懇願した。
しかし、裏でうまく立ち回っておった拾阿弥に籠絡されておった右府様はわしの言を聞いては下さらなかった。
わしは、何度も許しを求めたが、そのつど撥ねられた。
拾阿弥は右府様の御機嫌とりがうまく、とても気に入られておった。
右府様も拾阿弥を手放す気はなかったようじゃ。
つまり、わしと拾阿弥を天秤にかけて、拾阿弥に重きをおいておったのじゃ。
そうしたあつかいにわしは、大いに不満をつのらせた。
しかし、このわしのおもいを後押しした者がある。
佐々内蔵助――。
半介どのたちが会いにきた佐々成政のことじゃよ。そう、この城の囚われ人よ。
内蔵助は、わしに隠忍自重せよと何度も申してきたが、あやつがたしなめるたび、家中でわしはきかん坊と莫迦にされた。
いまでは年を経て、がさつなきかん坊のような内蔵助だが、若い頃は分別をもってひとに接する好青年だった。
え? とてもそうは思えない?
茶々さまもよう申される。
いやはや、ほんに今とは人物がわしと入れ替わったかのような男じゃな。内蔵助は。
まぁ、内蔵助のことはこの辺にして、話を続けるぞよ。
その時の忠告も、内蔵助が悪いわけではなかったが、わしはもう後戻りできぬまで気持ちを昂ぶらせてしまった。
その日、忘れもしない、二の丸櫓の下にいた拾阿弥を、わしは斬り殺した。
そのとき、右府様も近くにおられてその様子を見ておられ、わしは右府様の激怒を買った。
拾阿弥を斬り殺したときには、「やった」という気持ちが強かったが、右府様に叱られて、気はしずんだ。
だが、そのときに最初の声をかけてきたのは内蔵助だった。
内蔵助は右府様にわしの気を鎮めるよう、説得するよう言い含められておったのではないかと推量する。
しかしながら、当時のわしは内蔵助にするどい対抗心をもやしておった。
内蔵助は黒母衣衆で、赤母衣衆だったわしより、織田家中では上に位置づけられておった。
わしは、内蔵助への反骨心が昂じておったとおもう。
その人の立場は、もちろん、その人の役職などで上下するが、ほんとうにその人が他人からの尊敬を集めるのは、そうしたその人からにじみ出る人間性かもしれぬ。
若かりしころのわしは、人間関係の解決に剣という暴力をもちいた。
そんなやつは他人からの尊崇を集めることは出来ない。
そのときの内蔵助のように、他人を説得して穏便にことをおさめられる者が、周囲の尊崇を集めるのだと、齢をとった今、そのようにおもう。
それはもしかしたら、当時もそのように感じておったのかもしれぬな。
まあ、人間、いろいろ思う所があり、その時々の自身の巡り合わせと考えあわせて、本当に取るべき行動ができるかといえば、なかなかむずかしいところはあるな。
ともあれ、右府様の面前で拾阿弥を斬ったわしは、右府様から「出仕停止」とされた。
つまり「勘当」じゃよ。
禄を失い、よるべき家を失ったのよ。
ちょっと前置きが長くなったが、このときわしを助けてくださったのが「柴田の親父さま」だったのだ。
親父さまは右府様からの覚えがわるくなることも厭わず、わしの助命を嘆願してくださった。
それでわしは死一等を減じられ、出仕停止あつかいとなったのだ。
はじめわしは腹を斬らされるところだった。それを救ってくださったのが「親父さま」というわけ。
親父さまは、浪人となったわしに対して、右府様から煙たがられても、何くれとなくお声がけくださった。
禄を失ったわしは、身重の妻のまつを連れておったから、またたく間に衣食住に困った。
それを援助してくださったのが「親父さま」じゃ。
右府様から出仕停止処分を受けたわしは、そのすぐは酒ばかりあおってそこらの人々に喧嘩を売っておった。
それを見かねて親父さまは、熱田神宮の社家の松岡どのの家に寄宿するよう手配してくださった。
松岡どのはわしを引き取ると、「強いばかりが人間の道ではない」とおっしゃって、わしを書庫に押し込めてしまわれた。
この書庫での生活は、わしの人生を転換させる大きな契機となったよ。
多くの唐(中国)やわが国の古典に触れて、わしは喧嘩が人間関係を解決する手段としては、もっとも愚かなことを知ったのさ。わしの今のありようをこの書庫での生活は築いてくれた。
わしは一時は右府様が拾阿弥に傾き、わしの意見を受け入れてくださらぬことに腹を立てておった。しかし、様々な書物を読んで、そうした自分の狭量な視野が間違っておることを悟った。
人を変えることは難しいが、自分が変わるならばたやすい。
心の持ち様ひとつだからな。
そのなかでわしは、こたびのことでお骨折りくださった親父さまへ、大きな恩を感じるようにもなった。
右府様から勘気をこうむったことでわしの知己の者たちの多くは、わしのもとを去っていったが、親父さまは右府様から厭われることもかまわず、わしに赤心(まごころのこと)を示してくださった。わしはそんな親父さまに、実の父以上に父子の情をもった。
ほんに人間のできたお人だった。
ん?
どうやってわしが織田家に帰参できたのか――、じゃと?
うむ、知りたくばお答えしよう。
城の大広間には、上座に秀吉、次席に前田利家と茶々と石田三成、下座に半介と力の姿があった。晴隆は、半介らのさらに後方に場所をとっていた。
次席に座っている前田利家が秀吉を見、秀吉も点頭して、
「又左殿、はじめられよ」
とうながした。
「いざ」
と前田利家も受けた。
さてさて、関白殿下のおゆるしも出たゆえ、物語りましょう。
まずはこの前田又左衛門という男について知っていただきたい。
わしは天文六年の生まれじゃ。
そう関白殿下と同い年よ。
わしはその天文六年の師走に、尾張の荒子村で生まれた。
父は前田利春。
父と母との間に八男二女が生まれたが、わしはそのなかで四男だった。
幼名は犬千代。
お犬殿とみなに親しみをこめて呼ばれておったよ。
今でこそ分別も多少はついたが、若かりしころのわしは、本当に短気で喧嘩っ早くてな、乳母も手を付けられない腕白者だった。
それが昂じて、その昔は傾き者としてならしたものさ。
さりとてそうした性格がまったく徒というわけではなかったよ。
いくさ場では、ちょっと激しやすいくらいの無手法が活躍したものさ。
ただ、そんなところが認められたわけではなく、体の良い人質として、天文二十年に右府様(信長)の小姓にあがって仕えることになった。
体の良い人質――と言ってやや奇異に感じるかね?
そうさね、たしかに後年の織田家はそれはそれは日の本を制する一家となったが、はじめは尾張の一部を領する弱小国でな、その織田家に奉公させるため、尾張の豪族国人の領主たちは、自身の子を小姓として寄親に託した。それはまさしく人質であって、寄子の豪族国人が寄親を裏切れば、託された子らの多くは処断された。
さいわい、前田家は織田家を裏切ることをしなかったし、また、右府様――、信長公は亡くなる前、右大臣に任じられておいでだったから、我らは信長公を右府様と呼んでおるが――、その右府様は、どんどん領土を広げられていかれたから、本当に付いて行くに足る寄親だったのだ。
さて、人質云々の話はこれでしまいじゃ。
はなしをつづけるぞ。
翌天文二十一年に尾張を実質支配していた大和守家(清須織田氏)の織田信友と戦った萱津の戦いは、わしは初陣で、武将首ひとつをあげる武功を立てたものさ。
その後すぐ元服して、前田又左衛門利家となった。
わしは右府様のゆくところ、西へ東へいくさ場を駆けめぐり、いつしか『鑓の又左』の異名を持つまでになったよ。
永禄の初めだったかな、右府様は、赤と黒の母衣衆を組織された。
母衣衆はいわゆる使番のことじゃな。
そのうち、赤と黒のちがいは、黒は年長者で組織されており、赤より一段上に見られておったよ。馬廻衆から選抜された。赤はその反対で年少者から選抜された。小姓衆がほとんどを占めておった。
わしは小姓だったから赤だ。しかし、赤母衣衆の筆頭だったぞ。
わしら赤母衣衆は右府様から多くの与力をあずけられたし、わし自身で申さば、百貫、加増された。
その当時のわしの得意たるや、絶頂だったな。
その後も私生活でも順風満帆だった。
そのなかでも大きなものは嫁取りだった。
従妹の預かり子であった「まつ」を嫁に迎えたのよ。
まつはほんによくできた女子でな、わしのいたらぬところをよく支えてくれたよ。
しかも、子沢山であった。
わしとまつは婚姻を結んで、すぐに長女の幸を授かったよ。
しかし、好事、魔多しと言おうか、わしは大きなしくじりをこのあと起こす。
それが、わしが柴田勝家さまを「親父さま」と親しみをこめて呼ぶのも、そのことと無縁ではない。
いやさ、このことからわしは、柴田勝家さまを無二の恩人として生きていくこととなる。
ちょっと大げさに聞こえるか?
いや、本当に、そのときのわしの境遇を聴いてもらえれば、そして、そのときにわしに手を差し伸べてくれた親父さまのありようを聴けば、みなも、なるほどと納得してくれるとおもう。
ちょっともったいぶって話したが、今からのことをよく聴いて欲しい。
あれは忘れもしない永禄二年のことじゃ。
右府様の同朋衆に拾阿弥という男がおった。
同朋衆はみなも存じておるとおもうが、城の雑用や主人の話し相手などをする者どもでな、身分は低かったが主人に近侍するということで城に勤める者どもは、みな、同朋衆を低くあつかったことはない。
主人に近侍できるということは、それだけ主人の覚えも良いということは改めていうまでもないだろう。
気に入らない者を近くに置いておくほど、主人も酔狂ではない。ましてや癇癖のつよかった右府様のお気に入りということは、いまにしておもえば拾阿弥もそれなりに苦労して城勤めをしていたやもしれぬ。
拾阿弥は何かとわしを目の仇にしておった。
当時は己れ自身では諒解していなかったが、いまにしておもえば、わしは豪族の四男で、金回りも良かった。しかも、わしは右府様にすこしでも顔と名を売りたいと、親にねだってきらびやかな衣裳も着たし、腰の大小も名のある刀匠の名物を帯びておったよ。
しかも若かったころのわしは傾き者じゃったから、喧嘩っ早かった。
え、それは前にも聴いた?
すまん、すまん。
まあ、前置きとして聴いておいてくれ。
拾阿弥はあるときわしの刀の笄を盗んだ。
笄は刀に付属しておる鉄で出来た棒じゃ。耳垢を取ったり、頭の地肌を掻くなどにつかうのは、侍ならばあらためて断ることもないだろう。
高価な刀に高価な笄。
刀は武人の魂であり、これを盗むことは「死」に直結することは拾阿弥も心得ていたとみえて、あやつはわしの「笄」を盗んだのじゃ。
もともとは出来心だったのやもしれぬ。
ともあれわしは怒り心頭に発し、拾阿弥を問いつめた。
こんなことするのは、あやつしかおらぬとわしは見抜いておった。
しかし拾阿弥は、知らぬ存ぜぬととおしたばかりか、わしのおらぬ所で、わしを笄を盗まれた「間抜け」と莫迦にしおった。
さすがのわしも「間抜け」呼ばわりされて、はいそうですか、と聞いておられるほど、人間が出来てはおらんかった。
わしは右府様に拾阿弥を斬らせて欲しいと懇願した。
しかし、裏でうまく立ち回っておった拾阿弥に籠絡されておった右府様はわしの言を聞いては下さらなかった。
わしは、何度も許しを求めたが、そのつど撥ねられた。
拾阿弥は右府様の御機嫌とりがうまく、とても気に入られておった。
右府様も拾阿弥を手放す気はなかったようじゃ。
つまり、わしと拾阿弥を天秤にかけて、拾阿弥に重きをおいておったのじゃ。
そうしたあつかいにわしは、大いに不満をつのらせた。
しかし、このわしのおもいを後押しした者がある。
佐々内蔵助――。
半介どのたちが会いにきた佐々成政のことじゃよ。そう、この城の囚われ人よ。
内蔵助は、わしに隠忍自重せよと何度も申してきたが、あやつがたしなめるたび、家中でわしはきかん坊と莫迦にされた。
いまでは年を経て、がさつなきかん坊のような内蔵助だが、若い頃は分別をもってひとに接する好青年だった。
え? とてもそうは思えない?
茶々さまもよう申される。
いやはや、ほんに今とは人物がわしと入れ替わったかのような男じゃな。内蔵助は。
まぁ、内蔵助のことはこの辺にして、話を続けるぞよ。
その時の忠告も、内蔵助が悪いわけではなかったが、わしはもう後戻りできぬまで気持ちを昂ぶらせてしまった。
その日、忘れもしない、二の丸櫓の下にいた拾阿弥を、わしは斬り殺した。
そのとき、右府様も近くにおられてその様子を見ておられ、わしは右府様の激怒を買った。
拾阿弥を斬り殺したときには、「やった」という気持ちが強かったが、右府様に叱られて、気はしずんだ。
だが、そのときに最初の声をかけてきたのは内蔵助だった。
内蔵助は右府様にわしの気を鎮めるよう、説得するよう言い含められておったのではないかと推量する。
しかしながら、当時のわしは内蔵助にするどい対抗心をもやしておった。
内蔵助は黒母衣衆で、赤母衣衆だったわしより、織田家中では上に位置づけられておった。
わしは、内蔵助への反骨心が昂じておったとおもう。
その人の立場は、もちろん、その人の役職などで上下するが、ほんとうにその人が他人からの尊敬を集めるのは、そうしたその人からにじみ出る人間性かもしれぬ。
若かりしころのわしは、人間関係の解決に剣という暴力をもちいた。
そんなやつは他人からの尊崇を集めることは出来ない。
そのときの内蔵助のように、他人を説得して穏便にことをおさめられる者が、周囲の尊崇を集めるのだと、齢をとった今、そのようにおもう。
それはもしかしたら、当時もそのように感じておったのかもしれぬな。
まあ、人間、いろいろ思う所があり、その時々の自身の巡り合わせと考えあわせて、本当に取るべき行動ができるかといえば、なかなかむずかしいところはあるな。
ともあれ、右府様の面前で拾阿弥を斬ったわしは、右府様から「出仕停止」とされた。
つまり「勘当」じゃよ。
禄を失い、よるべき家を失ったのよ。
ちょっと前置きが長くなったが、このときわしを助けてくださったのが「柴田の親父さま」だったのだ。
親父さまは右府様からの覚えがわるくなることも厭わず、わしの助命を嘆願してくださった。
それでわしは死一等を減じられ、出仕停止あつかいとなったのだ。
はじめわしは腹を斬らされるところだった。それを救ってくださったのが「親父さま」というわけ。
親父さまは、浪人となったわしに対して、右府様から煙たがられても、何くれとなくお声がけくださった。
禄を失ったわしは、身重の妻のまつを連れておったから、またたく間に衣食住に困った。
それを援助してくださったのが「親父さま」じゃ。
右府様から出仕停止処分を受けたわしは、そのすぐは酒ばかりあおってそこらの人々に喧嘩を売っておった。
それを見かねて親父さまは、熱田神宮の社家の松岡どのの家に寄宿するよう手配してくださった。
松岡どのはわしを引き取ると、「強いばかりが人間の道ではない」とおっしゃって、わしを書庫に押し込めてしまわれた。
この書庫での生活は、わしの人生を転換させる大きな契機となったよ。
多くの唐(中国)やわが国の古典に触れて、わしは喧嘩が人間関係を解決する手段としては、もっとも愚かなことを知ったのさ。わしの今のありようをこの書庫での生活は築いてくれた。
わしは一時は右府様が拾阿弥に傾き、わしの意見を受け入れてくださらぬことに腹を立てておった。しかし、様々な書物を読んで、そうした自分の狭量な視野が間違っておることを悟った。
人を変えることは難しいが、自分が変わるならばたやすい。
心の持ち様ひとつだからな。
そのなかでわしは、こたびのことでお骨折りくださった親父さまへ、大きな恩を感じるようにもなった。
右府様から勘気をこうむったことでわしの知己の者たちの多くは、わしのもとを去っていったが、親父さまは右府様から厭われることもかまわず、わしに赤心(まごころのこと)を示してくださった。わしはそんな親父さまに、実の父以上に父子の情をもった。
ほんに人間のできたお人だった。
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どうやってわしが織田家に帰参できたのか――、じゃと?
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